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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

布施は福を修めること、忍辱は徳を積むこと

2016-02-14 | 【修行の方法】


布施是修福,忍辱是積! / 布施は福を修めること、忍辱は徳を積むこと
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第三十五集)2012/11/26 檔名:02-040-0035

中國古人有所謂,「子不教,人心壞了;家不齊,社會亂了」。今天就是這個樣子,小孩沒人教。家呢?家沒有了。但是今天我們解釋中國的家,可以用社團,它是個社會團體。從前的家庭是大家庭,家裡人口少的,也差不多有三百人,普通家庭四、五百人,人丁興旺有七、八百人。
中国の古人の言うところの、「子に教えなければ、人心は壊れる。家を整えなければ、社会は乱れる」です。今は正にこのようです。子どもに教える人がいません。家はどうでしょうか?家はなくなりました。今日私たちが中国の家を解釈するなら、社会団体です。それは社会団体でした。昔の家庭は大家族でした。家の人口は少なくとも三百人はいました。普通の家庭は四、五百人です。人口が増えると七、八百人です。

我們在歷史上還看到有一家有一千多人,好像是明朝,明太祖那個時代。什麼人我記不得,明太祖送他們家一個匾額,「天下第一家」,超過一千人,這麼大的家庭。皇帝佩服,問他,你這個家你怎麼治的?治得能夠一家和和睦睦的,怎麼治好的?這老先生給他寫了一張字,一百個忍字,人人都學會忍,就和睦相處了,寫了一百個忍。很有道理!那都是家親骨肉,一定要忍。
歴史上には一千人以上の家庭も見られます。おそらく明朝、明の太祖の時代です。誰かは覚えていませんが、明の太祖は彼らの家に「天下第一家」という額を送りました。一千人を超える、それほど大きな家庭です。皇帝は敬服して、その人に「あなたはどのように家を治めているのか?」と尋ねました。一家を仲睦まじく治めるには、どう治めたら良いのでしょうか?そのお年寄りは字を書きました。百個の「忍」の字です。誰もが「忍」を身につけていれば、仲睦まじくなります。忍の字を百個書いたのです。とても道理があります!それは血のつながった肉親です。必ず忍ばなければなりません。

忍辱波羅蜜,佛法重視這個忍。六度裡頭,布施跟忍辱這兩個是關鍵,布施是修福,忍辱是積,你光修福不能忍都漏掉了。所以忍能成就,成就後面精進、禪定、般若,都要靠這個忍字。世出世間法,有多大的成就?也看這個忍,你忍的功夫有多少,你有多大的成就,所以小不忍則亂大謀。
忍辱波羅密、仏法ではこの「忍」を重視します。六度の中では、布施と忍辱の二つが鍵です。布施は福を修めることであり、忍辱は徳を積むことです。あなたは福を修めるだけで、耐え忍べなければ、すべて漏れてしまいます。ですから「忍」は成就させます。あとの精進・禅定・般若を成就させるのは、すべてこの「忍」の字が頼りです。世間・出世間の法において、どれほど大きく成就するのか。それもこの「忍」によります。どれほど耐え忍べるかによって、あなたがどれほど成就するかが決まります。ですから、「小(しょう)忍ばざれば、則ち大謀を乱る」(小不忍、則乱大謀)【注1】ということです。
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 【注1】 小不忍、則乱大謀・・・・『論語』衛霊公の一節。
  小不忍、則乱大謀。
  小(しょう)忍ばざれば、則ち大謀を乱る。
  小さなことを我慢できなければ、大きな仕事の妨げになる。
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中國古人對這個字非常重視,平常在日常生活當中就要練。做事、待人接物,樣樣清楚、樣樣明白,這是智慧,你不糊塗。看到一些小小過失,不放在心上,這是忍。不是很重要的過失,不批評。管教,父母管教兒女,小孩犯過失,告訴他母親、告訴他父親,讓他父母在適當的時候教他,這就對了。
中国の古人はこの字を非常に重視しました。普段の日常生活の中で訓練しなければなりません。事を処理すること、人と接すること、すべてが明らかで、すべてが明瞭であること。これが智慧です。愚かではありません。小さな過失を見ても、心には留めません。これが「忍」です。重大な過失を咎めないということではありません。しつけは、父母が子どもをしつけます。子どもが間違った事をしたのを見たら、母親に言います。父親に言います。適切な時に父母に教えさせます。これで良いのです。

古時候教人的,能說過失的三個人,父母、老師。你的祖父母都不會說你過失,你有過失他看到笑笑,不是重大的過失,無關重要的話,根本就不理;要是很大的過失的話,會告訴你父母,告訴你老師。
昔、人を教える人、(子どもに)過失を指摘できるのは、父母と先生の三人です。祖父母は(孫の)過失を指摘しません。間違った事をしても笑っています。重大な間違いではありません。重要でない事には、根本的に関知しません。もし大きな過失であれば、それを父母、先生に言います。

而在老師、父母,也要觀機,在適當的機會裡頭說他,他能接受,他能懺悔改過。人要善教,那個教是要有善巧方便才能把人教出來,真正有成效,而且他還很歡喜,他很願意接受。所以做老師沒有很高忍辱波羅蜜,那教不好學生的,有智慧、有善巧、有方便才能把學生教好。
先生、父母は、タイミングを見定めなければなりません。適切なタイミングで子どもに言うと、子どもは受け入れます。子どもは反省して悔い改めます。人には善なる教えが必要です。教えは善巧方便(ぜんぎょうほうべん)【注2】であってこそ、人を教えることができます。本当に効果があり、しかも子どもが喜んで、進んで受け入れようとします。ですから先生は高い忍辱波羅密がなければ、学生を教えることはできません。智慧があり、善巧(ぜんぎょう)があり、方便があれば、しっかりと学生を教えることができます。
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 【注2】 善巧方便(ぜんぎょうほうべん)・・・・臨機応変に、巧みに手だてを講じて人を導くこと。(デジタル大辞泉)
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古時候有環境,環境好,人人都懂禮,人人都遵守仁義禮智信,榜樣太多,好教。現在榜樣沒有了,標準沒有了,價值觀歪扭了,這個麻煩大了,怎麼個教法?自己做出端莊的樣子,他看了不順眼,說你作怪,裝模作樣,你虛偽,你還有什麼法子?所以現在的父母難做,現在的老師難當。真正的好老師不教書了,隱居到山林裡面去了。為什麼?學生不接受教誨,學校商業化,老師也變成經商,販賣知識,全都變成商業,一切都向商看齊。
昔は良い環境がありました。誰もが礼を理解して、仁義礼智信を遵守していました。手本となる人がたくさんいたので、教えやすかったのです。今は手本となる人がいません。基準がありません。価値観が歪んでしまいました。これは面倒なことです。どう教えれば良いのでしょうか?自分が正しい姿を見せても、子どもは目障りだと思い、おかしな事をしている、もったいぶっている、見せかけだと言われれば、あなたは他にどうすれば良いのでしょうか?ですから今の父母はやり難く、今の先生はやり難いのです。本当に良い先生は勉強を教えずに、山林の中で隠居しています。なぜでしょうか?学生が教えを受け入れないからです。学校は商業化して、先生も商売に変わりました。知識を売っています。すべてが商業に変わっています。すべて商業に見習っています。

所以現前這個世間的文化,商文化。商就是要錢,錢是第一,只認識錢,除這個之外都不知道,人都變成自私自利。人沒有情、沒有義,怎麼結合的?利害,於我有利,我得要好好利用他;沒有利就走了,再也不顧你。
ですから今のこの世間の文化は、商業文化です。商業にはお金が要ります。お金が第一です。お金のことばかりでその他の事を何も知らなければ、人は私利私欲の人に変わります。人に情がなく、義がなければ、どのように結びつくのでしょうか?利害です。自分に利があればしっかりと人を利用して、利がなくなれば立ち去り、二度と顧みることはありません。

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