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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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逆境は修行を助ける

2012-04-28 | 【仏陀の教育】


逆境帮助修行 / 逆境は修行を助ける
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三五一集)2011//3/30

所以學佛的人常常處逆境有好處,常常遇到惡人,都幫助他修行。逆境、惡人你都能夠忍受,你都能夠隨順,臨命終時往生有把握。養成這個習慣,什麼樣的羞辱我都能忍受,一笑了之,心上想到,凡所有相皆是虛妄,一切有為法,如夢幻泡影,不要計較。他無論用什麼心態對我,我對他恭敬,我看他是一尊佛。他本來是佛,他現在迷惑顛倒,做錯這個事情,他要是清醒的話,他不會做出這個事情出來。
ですから仏法を学ぶ人は、常に逆境に対処していると得るところがあります。いつも悪人に会うことは、その人の修行の助けとなります。逆境や悪人をすべて耐え忍び、あなたがすべてに対して従順であれば、臨終する際に往生を確かなものにできるでしょう。この習慣を養っておけば、どのような恥辱にも耐え忍び、一笑に付すことができます。心の中で、「凡所有相、皆是虚妄」(姿・形あるものは、すべて虚妄である)、「一切有為法,如夢幻泡影」(すべての現象は、夢、幻、泡、影のようものである)(脚注1)を思い出して、あれこれ細かく詮索することはありません。人がどのような態度で自分に接しても、自分は相手を敬い、自分は相手を仏様と見なします。その人は本来仏様ですが、今は迷いの中にあるから間違いを犯すのであって、もし目覚めたならそのような事はしないでしょう。

要能體諒他,沒有一絲毫懷恨,還有感恩,我們自己是大幅度向上提升。如果他對待我這個態度,我心裡難過不高興,我就下降了。是升是降、是善是惡,都在自己一念之間,與外面境界不相干,這個道理你要懂,這個道理很深。人家修行成就怎麼成就的?就在這一念之間他是善念,他能夠恆順眾生,他能夠放下自己的成見,聽從別人的,不跟人相爭,境界就升上去了。如果不服氣,一定要跟他爭個理,你下降了,這口氣是出了,但是自己到三途六道去,錯了!古人有句話說得好,「天下本無事,庸人自擾之」,何必跟自己找自己的麻煩?天下確實是無事。
その人の身になって同情し、少しも恨みを抱くことはありません。また、私たちを大きく高めてくれることに感謝します。もしも人から悪い態度をとられて、それを辛く不愉快に思うなら、私(の境地)は下がります。上がるか下がるか、善か悪か、それはすべて自分の一念の間にあり、外界の環境とは関係がありません。この道理を理解しなければなりません。この道理は深いものです。ある人は修行を成就させますが、どのように成就するのでしょう?それはこの一念の間にあり、その人は善い念をもち、常に衆生に従い、自分の偏見を放下し、人の言うことを聴き入れ、人と争わなければ境地は高まります。もし受け入れられず、人と道理を言い争わずにいられないなら、あなた(の境地)は下がります。それを口に出してしまえば、自分が三途六道に行くことになります。それは誤りです!古人は良い事を言っています。「天下本無事,庸人自擾之」(天下はもともと太平無事なのに、凡人が自ら面倒を引き起こしている)(脚注2)。自分で面倒を引き起こす必要があるでしょうか?天下は確かに太平無事なのです。

<脚注>
1.「凡所有相,皆是虚妄」(『金剛経』より)
  凡そ相有る所、皆是虚妄なり。
  およそ姿・形あるものは、すべて偽りである。

  「一切有為法,如夢幻泡影」
  一切の有為(うい)の法、夢幻泡影(むげんほうよう)の如し。
  すべての現象は、夢、幻、泡、影のようものである。

2.「天下本無事,庸人自擾之」
  天下本(もと)無事、庸人(ようじん)自ら之を擾(みだ)す。
  天下はもともと太平無事なのに、凡人が自ら面倒を引き起こしている。(事もないのに空騒ぎをしている)


仏は心中にあり、心外に仏なし

2012-04-21 | 【仏陀の教育】


佛在心中,心外無佛 / 仏は心中にあり、心外に仏なし
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三三二集)2011//3/19 

外道修行。這個外道不是批評別人的,不是一句壞話。外道在佛法裡面講,心外求道。佛門裡面的也不少在心外求法,那叫什麼?門裡外,佛門裡面的外道,很多!佛法是心法,所以它叫內學,向內求的,不是去往外求的,往外面求不到,外面是假的,凡所有相皆是虛妄。連佛都說,你向心外去求佛,是假的,心外沒有佛,佛在哪裡?佛在你心中。你向你自心裡面去求,就是真的。修淨土的人要記住,我心就是阿彌陀佛,阿彌陀佛就是我心,你的真心就是阿彌陀佛。
外道の修行。この外道とは他人を批判する事ではなく、悪口でもありません。仏法における外道とは、心の外に道を求めることです。仏門においても心の外に法を求める人が少なくありません。それを何と言うでしょうか?「門裡外」(門内の外)と言い、仏門の中の外道のことです。たくさんいます!仏法は心法です。ですからこれを内学と言い、内面に求めます。外に向かって求めるのではありません。外に求めても得ることはできません。外界には実体はなく、およそ姿・形あるものはすべて虚妄です(凡所有相,皆是虚妄)。仏陀も、心の外に仏を求めるのは誤りであると説いています。心の外に仏はいません。仏はどこにいるのでしょうか?仏はあなたの心の中にいます。あなたが自分の心の中に求めること、それが真実です。浄土宗を修行する人は覚えておいて下さい。我が心が阿弥陀仏であり、阿弥陀仏が我が心であり、あなたの真心(真実の心)こそが阿弥陀仏なのです。

這個地方有一樁事情不能不知道,那就是我們都不知道真心,我們現在講到心都是妄心。什麼是我的心?我能夠思想,這是我的心。你能夠思想的是第六意識。我能夠執著,我想佔有,那是第七識。我能夠記憶,我的印象很深刻,那是阿耶識。凡夫全用的是心意識,就是三心二意,三心二意是假的,不是真的。我們有個真心,真心是佛,真心在哪裡?不用妄心,真心就現前。
このことは知っておかなければなりません。私たちは真心を理解していません。私たちが心と言っているのは、すべて妄心(迷いの心)のことです。自分の心とは何でしょうか?思考することができる、それが自分の心です。あなたが思考することができるのは、第六意識です。執着する事、占有しようとする事、それは第七意識です。記憶することができ、深く印象に留める事、それは阿頼耶識です。凡夫はすべて心意識を使っています。それであれこれ心を迷わせているのですが、心の迷いは偽りであり、真実ではありません。私たちには真心があり、真心が仏です。真心はどこにあるのでしょうか?妄心を使わなければ、真心が現れます。

用妄心,真心就不見了,真心就受到障礙,妄心障礙了真心。所以佛家修學裡頭講到最高原則,離心意識,真的就現前。心是什麼?我們今天講落印象,記憶,落印象這是心,阿耶。意是什麼?意是末那,第七識,執著,我執。識是分別,第六意識。離心意識就是什麼?不執著、不分別、不落印象,那你用的是真心。
妄心を使っていれば、真心は障碍を受けて現れなくなります。妄心は真心の障碍になります。ですから仏法の修学では最高の原則が説かれています。それは、心意識を離れれば、真実の心が現れるという事です。心とは何でしょうか?私たちは印象に残る、記憶すると言いますが、記憶に残るのは心であり、阿頼耶識です。「意」とは何でしょうか?「意」とは末那(まな)注1であり、第七識、執着、我執のことです。「識」とは分別であり、第六意識です。心意識を離れるとは、どういうことでしょうか?執着せず、分別せず、印象に留めなければ、あなたが用いているのは真心です。
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 【注1】 末那(まな)・・・・末那識(まなしき)のこと。大乗仏教の唯識説の説く八識のうち第七識であり、第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
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會用真心的人,恭喜你,你真的離心意識,那要恭喜你。為什麼?你是法身菩薩,大乘教裡面講,明心見性,見性成佛。釋迦牟尼佛在菩提樹下大徹大悟,就是這個境界,不用心意識了。六祖惠能大師在五祖方丈室聽《金剛經》,聽到「應無所住,而生其心」,他把心意識放下了,不要它了,明心見性。
真心を使える人は、本当に心意識を離れています。それは喜ばしいことです。なぜでしょう?その人は法身菩薩であり、大乗教で言う明心見性、見性成仏に達しているからです。釈迦牟尼仏は菩提樹の下で悟りを開きましたが、それが正にこの境地です。心意識を使わなくなります。六祖・慧能大師は五祖の方丈室で『金剛経』を聴いていて、「応無所住,而生其心」(おうむしょじゅう、にしょうごしん)注2まで聴いた時、心意識を放下しました。心意識は要らなくなり、明心見性に達したのです。
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 【注2】 「応無所住,而生其心」(おうむしょじゅう、にしょうごしん)
  応(まさ)に住する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし
  心は一つ所に留まることなく、しかも自然に生ずるのがよい。(筆者訳)
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換句話,我們在日常生活當中,起心動念還是執著,你用的意;還是分別,你用的第六意識,用的是識;你還會落印象,這個我喜歡,那個我討厭,阿耶的業習種子起現行,幹這些事情。阿耶是輪迴心,用阿耶,你就幹的是輪迴事,你怎麼能出得了六道輪迴!誰有本事能把心意識放下?可以說六道裡頭人找不到。那真的什麼?真正大修行人,他才能辦到。能辦到,給諸位說,生死自在了。生從哪裡來,死到哪裡去,清清楚楚,一點都不迷惑,真自在,想來就來,想去就去,來去自由。
言い換えれば、私たちは日常生活において起心動念(心の起こり、念の動き)に執着があるなら、使っている「意」にはまだ分別があり、第六識を使い、「識」を使っていると言うことです。それならあなたはまだ印象に留めて、これは好き、あれは嫌いといった、阿頼耶識の果報を生じる種子を働かせているということです。阿頼耶識は輪廻の心です。阿頼耶識を使っているなら、あなたは輪廻の事をしているのであり、それでどうして六道輪廻を離脱できるでしょうか!誰が心意識を放下する能力があるでしょうか?六道の中では見つからないと言って良いでしょう。それでは本当にそれができるのは誰でしょう?真の大修行の人であれば、実践することができます。実践することができるなら、皆さんに生死が自在になったと言うでしょう。どこから生まれて来たのか、死んだらどこにいくのかが明確になり、一点の迷いもなく、真に自在であり、(この世に)来たければ来て、(あの世に)往きたければ往き、往き来が自由なのです。

實在講就是因為這樁事情太難了,凡夫做不到,凡夫又真可憐,感動阿彌陀佛,阿彌陀佛發了一個慈悲心,建立這麼一個道場,來接引大家、幫助大家,這個道場就是極樂世界。用什麼方法叫你離心意識?他就用一句名號,你只要一心念,老實念,什麼都不要想了,就念這一句佛號。念久了,心意識自然自然就沒有了,這個法子高明。念得不成功,只要把煩惱伏住,輕輕伏住了,不起作用,你就能往生。這一招害,八萬四千法門裡頭沒有。
実際にはこの事は非常に難しいことで、凡夫には成し難いものです。凡夫はまた本当に哀れであり、阿弥陀仏を感動させ、阿弥陀仏は慈悲心を発して道場を建てて、人々を導き助けています。その道場こそが極楽世界です。どんな方法を使ってあなたに心意識から離れさせるのでしょうか?一句の名号を使います。あなたはただ一心に念じ、真摯に念じ、何も考えずにただこの仏号を唱えるだけです。久しく念じれば、心意識は自然になくなります。これはとても優れた方法です。念じることに成功しなくても、ただ煩悩を抑えて作用しなくなれば、あなたは往生することができます。この方法は素晴らしいもので、八万四千の法門の中で他にはありません。

這一招,所有的人都能去,真的叫萬修萬人去,你只要肯相信。任何法門都不能跟它比,因為它太容易,真正是方便、究竟、圓滿、可靠,而且快速。也正因為如此,所以很多人不相信,哪有這麼容易?哪有這麼簡單?不相信,所以把這個機會錯過,就耽誤了。你真的相信、真的明白,真肯幹,一生沒有一個不成就的,萬修萬人去。
この方法は、すべての人が往生する事ができます。ただ信じることさえできれば、万人が修めれば万人が往くことができます。如何なる法門とも比較する事はできません。なぜなら(念仏は)非常に簡単で、真に方便であり、究極であり、円満であり、信頼でき、その上(成果が現れるのが)早いからです。また正にこのような事から、多くの人は信じません。どこにこのように容易な事があるでしょうか?どこにこのように簡単な事があるでしょうか?信じられなければ、この機会を逸してしまい、(輪廻における修行は)遅れてしまいます。あなたが本当に信じ、本当に理解し、本当に実行すれば、一生で成就しないことはありません。万人が修めて万人が往くことができます。

真正的障礙不在外頭,在自己。第一個大障礙是什麼?捨不掉這個肉身,總認為這是我,這不是我。不是我,以為是我,這大錯特錯,我放不下。阿彌陀佛,你看他怎麼教我們把我放下,他就教念佛。一天到晚念念不離阿彌陀佛,把我忘掉了,阿彌陀佛出現了,阿彌陀佛就是你的真心,阿彌陀佛就是你的真身。你到極樂世界去作阿彌陀佛去!阿彌陀佛是遍法界虛空界一切諸佛如來的總名號。像我們地球上這些人類,用一個「人」做總名號,說人,我們都是人,總名號。阿彌陀佛是一切諸佛的總名號。
真の障碍は外にはなく、自分の中にあります。第一の大きな障碍は何でしょうか?この肉体を捨てられず、肉体が自分だと思い込んでいることです。肉体は自分ではありません。自分ではないものを、自分だと思っていること、それは大きな誤りです。「我」を放下できないのです。阿弥陀仏はどのように私たちに「我」を放下させるのかと言えば、念仏を教えて下さいます。一日中阿弥陀仏を念じて離れず、「我」を忘れれば、阿弥陀仏が現れます。阿弥陀仏があなたの真心になり、阿弥陀仏があなたの真身になります。あなたは極楽世界に阿弥陀仏になりに行くのです!阿弥陀仏は、法界虚空界一切に遍く行き渡る諸仏如来すべての名号です。ちょうど地球上にいる人類を、「人」という言葉を使って全体の名称にするようなものです。人と言えば私たちは皆人ですから、全体の名称です。阿弥陀仏は一切諸仏すべての名号なのです。

我們不能不相信,不相信,這個機會失掉太可惜了。學了佛,還在心外求法,你說你冤不冤枉?心外求法人很多,為什麼?他沒有深入經藏。所以釋迦牟尼佛四十九年講經說法,對我們的幫助大了。經稱之為寶,寶都不要,你還要什麼?這是法寶。佛在世,佛寶是第一,佛不在世,法寶是第一。從法裡面,認識了真佛,離開法,你不認識佛。
私たちは信じない訳にはいきません。信じることなくこの機会を逸してしまうのは、あまりにも惜しい事です。仏陀に学んでいながら、まだ心の外に法を求めているのは、勿体ない事だと思いませんか?心の外に法を求めている人はたくさんいます。それはなぜでしょう?経典を深く掘り下げていないからです。釈迦牟尼仏四十九年の説法は、私たちにとって大きな助けとなります。経典を宝とするところを、その宝さえ要らないなら、あなたは何を求めるのでしょうか?経典は法宝(ほうぼう:仏の説いた真実の教え)です。仏陀が在世の頃は、仏宝(ぶっぽう:仏、仏陀)が第一であり、仏陀が亡くなられてからは、法宝が第一です。法の中から真の仏を理解するのであり、法を離れて仏を理解することはできません。

<参考>
「応無所住,而生其心」(おうむしょじゅう、にしょうごしん)
応(まさ)に住する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし。
心は一つ所に留まることなく、しかも自然に生ずるのがよい。(筆者訳)

「応無所住,而生其心」・・・・出典は『金剛経』(『金剛般若波羅蜜経』)。無住心非心とも称する。般若心経の“空即是色”と同義である。その意味は、「如何なる境遇にあろうと、心はまったく執着せず、自然に生じる」ということである。心にもし執着があれば、(草木が)根を下ろすことができないように、一切を把握することはできない。(「百度百科」より引用・翻訳)
<原文>
「佛教术语,出自《金刚经》全称《金刚般若波罗蜜经》。又称无住心、非心。与般若心经中“空即是色”义同。意即不论处于何境,此心皆能无所执著,而自然生起。心若有所执著,犹如生根不动,则无法有效掌握一切。」 http://baike.baidu.com/view/6027733.htm

第一回更新 2012-04-21
第一回訂正 2014-09-21


震動は宇宙のエネルギーである

2012-04-21 | 【仏陀の教育】


震動是宇宙之間的能量 / 震動は宇宙のエネルギーである
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二七一集)2011/2/8

《智度論》這個問答也很好,你看問的是「佛何以故震動三千大千世界」。我們今天從科學的理論上了解,所有物質現象、精神現象都是震動的,它不動,現象就沒有了。所以動是能量,宇宙之間的能量。下面我們看《大智度論》裡面的解答,「欲令眾生知一切皆空無常故」。佛八相成道裡頭有六種震動,為什麼?示現,提醒大家,這個宇宙是無常的,不是真的,假的,凡所有相皆是虛妄。
『智度論』の問答はとても良いものです。質問は「佛何以故震動三千大千世界」(仏はなぜ三千大千世界を震動させるのか)というものです。私たちは今日科学的な理論から、あらゆる物質の現象、精神の現象はすべて震動であることを理解しています。動かなければ現象もなくなってしまいます。動くのは宇宙にあるエネルギーです。次に『大智度論』の解答を見てみましょう。「欲令眾生知一切皆空無常故」(衆生に一切は空であり無常であることを知らせる為である)。仏の八相成道(はっそうじょうどう)(脚注1)には六種類の震動があります。なぜでしょうか?この世に現れて、この宇宙は無常であり、真実ではなく、偽りであり、相あるものはすべて虚妄であるということを皆に喚起する為です。

世尊二十二年講《般若經》,《般若經》講什麼?「一切法無所有、畢竟空、不可得」。現在從最先進的天文望遠鏡裡面觀察宇宙,常常看到新的星出現,原來在這塊空間當中沒有星,現在突然有個星出現;以前這個空間有一顆星,現在看它爆炸,沒有了,爆炸之後就不見了。這給我們的信息是什麼?星球有生滅,無常。星球有生滅,那住在星球上這些眾生、這些生物有沒有生滅?當然有生滅。這是物理學家觀察到的、看到的宇宙現象,我們稱它為自然現象。
世尊は二十二年『般若経』を説きました。『般若経』は何を説いているのでしょうか?「一切法無所有、畢竟空、不可得」(あらゆるものに実体はなく、つまるところ空であり、得ることはできない)ということです。今日最先端の天体望遠鏡で宇宙を観察すると、新しく現れた星がよく見つかります。もともとその空間に星はなかったのに、突如として星が出現するのです。また以前この空間にあった星が、今では爆発して見えなくなってしまいます。これは私たちに何を伝えているのでしょうか?星には生滅があり、無常だということです。星に生滅があるなら、その星に住む衆生、生物たちに生滅はあるでしょうか?もちろんあります。これは物理学者が観察したことで、目に見える宇宙の現象を、私たちは自然現象と呼んでいます。

<脚注>
1.八相成道(はっそうじょうどう)・・・・仏が衆生救済のためにこの世に現れ、その一生涯に示す八種の相。
①降兜率(ごうとそつ)、②入胎(托胎)、③出胎、④出家、⑤降魔(ごうま)、⑥成道、⑦転法輪、⑧入滅。


全宇宙は一体である

2012-03-24 | 【仏陀の教育】


整個宇宙是一體 / 全宇宙は一体である
文摘恭錄—修華嚴奧旨妄盡還源觀 (第一0四集) 2009/9/15

  什麼人認識、知道整個宇宙是一體?明心見性的人就知道了。為什麼?性是一切萬法的自體。我們說自體親切,說本體就學術化了,自體是自己,不是別人。如果肯定,真的清楚整個宇宙是一體,法身就現前了。法身是什麼?整個宇宙是自己叫法身。法身有沒有生滅?沒有生滅。法身的生滅是什麼現象?像大海裡面的水泡。大海,風一吹的時候起了浪花,起了水泡,水泡很多,水泡跟大海是不是一體?水泡就像我們每一個人,水泡從哪裡來的?大海,海水生的。
全宇宙は一体だという事を、どのような人が認識しているのでしょうか?「明心見性(脚注1)に達した人は認識しています。なぜでしょう?「性」とは一切万法の「自体」(本来の性質 ・根本)だからです。私たちは「自体親切」と言います。「本体」と言うのは学術的です。「自体」とは自分のことであり、他人のことではありません。もしそれを肯定して、全宇宙が一体だということを悟れば、法身(脚注2)が現れます。法身とは何でしょうか?宇宙全体が自分であること、それを法身と言います。法身に生滅(生起と滅尽)はあるでしょうか?生滅はありません。法身の生滅はどのような現象なのでしょうか?それはちょうど海の水泡のようなものです。海は風が吹けば波が起こり、泡ができます。たくさんの泡は海と一体ですね?泡は私たち個人です。泡はどこから来たのかと言えば、海から生まれたものです。

水泡破了,就好像我們這個身體,身已經滅了,身滅是水泡滅,海水有沒有生滅?沒有。所以從你自體上講不生不滅,沒有生滅。生滅是水泡,我們每一個人身是水泡,樹木花草是水泡,山河大地是水泡,芸芸眾生、森羅萬相全是水泡。這個水泡有生有滅,所以它是假的,它不是真的。水沒有生滅這是真的,真性沒有生滅,真身沒有生滅,應身有生有滅,應身跟真身一體,本無二體,就是一體。
泡が消えるのは、ちょうど私たちの身体が消滅するようなものです。身体が消滅するのは、泡が消えて無くなるようなものです。海に生滅はあるでしょうか?ありません。ですからあなたは「自体」(本来の性質 ・根本)から言えば不生不滅の存在であり、生滅はありません。生滅があるのは泡であり、私たちの身体、樹木や草木、山河や大地、あらゆる衆生、森羅万象すべては泡のようなものです。泡には生滅があるので、それは偽り(実体がない)であり、真実ではありません。水は生滅がないので真実であり、真性(脚注3)、真身(脚注4)にも生滅はありません。応身(脚注5)には生滅がありますが、応身は真身と一体であり、本来分離したものではなく、一体なのです。

<脚注>
1.明心見性・・・・自己の自性・心性(本来備えている不変な心の本性)を見極めること。
 【参考】百度百科:http://baike.baidu.com/view/5012.htm (中国語)

2.法身・・・・仏の三身の一つ。永遠不滅の真理そのもの。理法としての仏。法性身。

3.真性(しんしょう)・・・・いっさいの現象にそなわる真実不変の本性。法性。真如

4.真身(しんじん)・・・・仏の報身または法身、あるいはこの二身の総称。

5.応身(おうじん)・・・・仏陀の三身の一つ。衆生を救うために、それぞれの素質に応じてこの世に姿を現した仏。
<三身>
 ・応身(おうじん)・・・・衆生の救済の為に、それぞれに応じてこの世に姿を現した身体。
 ・法身(ほっしん)・・・・真理のそのものの身体。永久不滅であるが人格性を持たない。
 ・報身(ほうじん)・・・・菩薩であった時に願を立て、修行を積んだ報いとして得た仏身。


孫悟空の七十二変化は少なすぎる

2012-03-17 | 【仏陀の教育】


孫悟空七十二變太少了 / 孫悟空の七十二変化は少なすぎる
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二O九八)2010/2/3

在《華嚴經》裡面說叫大小不二,沒有大小。這裡廣就是大,廣大,狹就是小,自在了。大中現小,容易,我們容易理解。小中現大,我們就不容易理解了。可是我們在《華嚴經》上­看到,微塵裡面有世界,有什麼世界?跟我們現前這個世界一樣大,在微塵裡頭,好像它縮小的縮影在微塵裡頭,微塵沒有放大,世界沒有縮小,微塵裡頭有世界,那個世界裡頭還有­微塵,那微塵裡頭又有世界。有沒有盡頭?沒有盡頭。
『華厳経』の中には「大小不二(脚注1)と説かれています。大小はありません。この中の「広」とは大きい事、広大なことです。「狭」とは小さい事、自在であることです。「大」の中に「小」が現れるのは、容易に理解することができます。「小」の中に「大」が現れるというのは、理解し難いものです。しかし私たちはそれを『華厳経』の中に見ることができます。微塵(みじん)(脚注2)の中に世界があると説かれています。どんな世界でしょう?私たちの目の前にある世界と同じ大きさの世界が、微塵の中にあります。それは縮小された縮図が微塵の中にあるようなものですが、微塵は拡大せず、世界は縮小することなく、微塵の中にそのまま世界があります。その世界の中に更に微塵があり、その微塵の中に更に世界があります。その果て(極点)はあるのでしょうか?果てはありません。

佛給我們講這個境界,叫不思議境界,你沒有法子去想像,你決定想像不到,這是真的不是假的,這是諸法實相。這個境界有誰­進去?多!多得很!普賢菩薩常常入微塵世界。而且還不可思議,一入一切入,普賢菩薩入這一粒微塵的時候,每一粒微塵境界裡都看到普賢菩薩,就像《華嚴經》末後所講的彌勒樓­閣一樣,真的是無比的殊勝莊嚴!
仏陀は私たちにこの境界を説き、不思議の境界と言いました。あなたは想像しようがありませんし、想像することはできません。これは真実であり、偽りではありません。これが諸法実相です。この境界には誰が入れるのでしょう?たくさんいます!普賢菩薩はいつも微塵の世界に入っています。しかも更に不可思議なことに、この境界に入れば一切ありとあらゆるところに入ります。普賢菩薩が一粒の微塵の中に入ると、すべての微塵の中に普賢菩薩が見られます。『華厳経』の最後に説かれている弥勒楼閣と同じように、これは真に類のないほど殊勝で荘厳なことです!

  所以我們每天拜佛,現在加上,後頭加上一句,要拜什麼?要拜十方剎土微塵法界,微塵裡頭有法界,是一不是二。你說入這個境界,絕對不是四聖法界裡面的三乘,聲聞、緣覺、菩­薩所能夠理解的。這一段跟你講廣狹,你入這個境界之後,你現身,絕對不止孫悟空七十二變,那個是太小了,你能夠現無量無邊無數的身相。而且怎麼樣?應以什麼身相,你就現什­麼身相,不是自己的意思,自己沒有起心動念,每一粒微塵都有!這是什麼?自性法爾如是,不思議的境界,這在佛法裡頭真正可以稱得上叫得大自在。
ですから私たちは毎日仏様を拝みますが、今は最後に一言加えています。何を拝むのでしょう?十方刹土微塵法界を拝みます。微塵の中に法界があります。これらは一つであって二つではありません。この境地に入ることは、絶対に四聖法界(脚注3)の中の三乗(脚注4)、声聞、縁覚、菩薩が理解できるものではありません。(『華厳経』の)この一段は「」「」について説かれていますが、あなたがこの境地に入れば、あなたの現身(現世に現れる身)は、孫悟空の七十二変化どころではありません。それは非常に小さいもので、あなたは果てしなく無数の身相(しんそう/仏のこの世に現じたときの姿)を現すことができます。そのうえ、どの身相で(救済に)応じるかによって身相を現します。それは自分の意思ではなく、起心動念(心の起こり、念の動き)はありません。一粒一粒の微塵にすべて現れるのです!これは何でしょう?自性法爾如是、不思議な境地です。(この境地に達したら)仏法の中では、真に大自在(脚注5)を得たと言うことがでます。

<脚注>
1.「大小不二」・・・・大小の区別がなく、実際は一つであること。(筆者)
2.微塵(みじん)・・・・物質の最小単位である極微(ごくみ)を中心に、上下四方の六方から極微が結合してできた極めて小さい単位。
3.四聖法界
(ししょうほっかい)・・・・四つの悟りの世界。さらに迷いの世界(六道)を合わせて、十界という。
十界(じっかい)・・・・悟りの世界を四つ(四聖法界)、迷いの世界を六つ(六道)に分けた世界観。
  【悟界】(四聖法界)
   ・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
  【迷界】(六道輪廻)
   ・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。

4.三乗(さんじょう)・・・・声聞乗、縁覚乗、菩薩乗。「乗」とは乗り物のことで、衆生を悟りに導く三種の教法を乗り物にたとえたもの。
5.大自在(だいじざい)・・・・思いのままに自利他利の行を行うことができる、一切の障害を受けない自在の境地。

<参考>
孫悟空・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%82%9F%E7%A9%BA
ちなみに中国で孫悟空といえば、役者の六小齢童(リュウシャオリントン)さんです。ご参考まで。
<六小齢童の『西遊記』人生>:
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-09/23/content_218501.htm
<六齢童公式サイト>:http://xiyouji.gozaru.jp/


仏教を知る 2011.3.4

2012-03-03 | 【仏陀の教育】


認識佛教-2 / 仏教を知る-2
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三一六集)2011/3/4

我們這個世界三千年前,釋迦牟尼佛出現在印度,這表示我們地球上這個地方人有感,地球是釋迦佛凡聖同居土裡面的一部分,也就是所說的六道。六道是凡聖同居土,同居土裡面的眾生有感,他就在同居土裡面現應身、化身,是應化身。佛無處不現身,現身一定現同類身。實報土裡面所住的是四十一位法身大士,報身佛在實報土裡面,我們就知道他現四十一種身分,跟初住在一起現初住身,跟十住在一起現十住身,一定現同類身。
この世界の三千年前、釈迦牟尼仏はインドに現れました。それは地球上のこの地方の人々に「感」(働きかけ)があったということです。地球は釈迦仏、凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)【注1】の一部分であり、いわゆる六道でもあります。六道は凡聖同居土にあり、同居土の中の衆生に「感」(働きかけ)があれば、仏は同居土の中で応身(おうじん)【注2】・化身(けしん)として現れます。応化身です。佛は無處不現身【注3】です。現身は必ず同類身で現れます。実報土(報身仏が住む浄土)の中に住んでいるのは、四十一位の法身大士です。報身仏は実報土の中にいて、四十一種の身分として現れ、初住【注4】と共にいるなら初住身として現れ、十住【注4'と共にいるなら十住身として現れます。必ず同類身で現れます。
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 【注1】 凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)・・・・四土(しど)の一つ。凡夫と聖者が共に住む浄土。ここには不浄が充満する「穢土」(えど)と、清浄なる世界である「浄土」がある。迷いの世界。(=同居土)
 【注2】 仏陀の三身の一つ。三身
 ・応身(おうじん)・・・・衆生の救済の為に、それぞれに応じてこの世に姿を現した身体。
 ・法身(ほっしん)・・・・真理のそのものの身体。永久不滅であるが人格性を持たない。
 ・報身(ほうじん)・・・・菩薩であった時に願を立て、修行を積んだ報いとして得た仏身。
 【注3】 無處不現身・・・・現れざる処の無い身、つまり、どこにでも現れる身という意味であろう。
 【注4-4'】 初住、十住・・・・下記、参考1参照。
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同類的身很多,世尊為我們介紹西方極樂世界這些菩薩無量無邊,沒有法子計算。佛在那邊現身幫助他們,提升他們的境界,我們一般講加持他們,在方便土、在同居土亦復如是。特別是同居土,同居土裡面有六道,六道裡面佛都現身。人道裡頭有,應以什麼身得度就現什麼身,應以佛身得度現佛身,應以菩薩身得度現菩薩身,應以比丘身得度他現比丘身,應以居士身得度他就現居士身,男女老少、各行各業沒有地方不現身的,這是事實。
同類の身はたくさんあります。世尊は私たちに、西方極楽世界にはこのような菩薩が無量無辺にいて、数えることはできないと紹介しています。仏はそこに現身して、彼らの境地を高めるように助けます。私たちは一般的に加持(ご加護)と言います。方便土同居土(共に四土の一つ。参考2参照)もまた同じようなものです。特に同居土(凡夫と聖者が雑居する世界)です。同居土の中には六道があり、六道の中では仏も現身します。人間道の中にもあり、どの身体で救済に応じるのかによって現身します。仏身で救済に応じるなら仏身で現身し、菩薩身で救済に応じるなら菩薩身で現身し、比丘身で救済に応じるなら比丘身で現身し、居士身で救済に応じるなら居士身で現身します。老若男女、様々な業種、どこにでも現身しない所はありません。これは事実です。

現身,他不顯示身分就沒有人知道,釋迦如來現的是佛身大家知道,如果他現的是一般人的身分,現居士身、現長者身就沒有人知道他了。有一個居士,釋迦牟尼佛特別給我們介紹,他是佛的應身,跟佛陀同時住世的維摩詰居士,是佛來現的身,法身佛所現的。由此可知,大乘是平等法。
現身は身分を明かさないので誰も知る人はいません。釈迦如来が現れたのは仏身であり、誰でも知っています。もし現れるのが一般人の身分で、居士(こじ:在家信徒)として現れたり、長者として現れれば、誰も知る人はいません。ある居士について、釈迦牟尼仏は特に私たちに紹介しました。その人は仏の応身であり、仏陀と同時にこの世に住んでいた維摩詰居士(ゆいまきつこじ)【注5】です。仏が来て現れた身であり、法身仏が現れたものです。このことから分かるのは、大乗は平等の法だということです。
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 【注5】 維摩詰居士(ゆいまきつこじ)・・・・(=浄名。ヴィマラ・キールティー)『維摩経』の主人公。垢(く)を離れた誉れある者の意で、無垢称(むくしょう)、浄名(じょうみょう)などと訳される。
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佛法是師道,師道老師第一大,只要是具有老師的身分,學生就應當尊敬。所以我們看到經典裡面記載,維摩居士講經教學跟釋迦佛一樣,世尊的弟子舍利弗、目犍連,去聽經、去接受維摩居士教誨,禮節跟見佛沒有兩樣。你看見維摩居士,這出家人頂禮三拜右繞三匝,這個我們要記住。民國初年歐陽竟無大師辦中國內學院,講演集裡面講得很多,多次的宣說,說明佛法是師道。師道裡面老師第一大,沒有上台的時候,在家居士,佛弟子大家尊重,座位在上首。如果升座講經,居士升座講經,在家人要把他當作佛來看待,恭敬、禮拜、供養,這是如法的。
仏法は師道(師に仕えて学ぶ道)です。師道では老師が最も尊重され、老師の身分であれば、学生は尊敬しなければなりません。ですから私たちは経典の中の記載を見ると、維摩詰居士はお経の講義を釈迦牟尼仏と同じように行い、世尊の弟子である舍利弗(しゃりほつ)・目犍連(もくけんれん)たちは維摩詰居士の教えを受けています。礼節は世尊に会うのとまったく同じようにしています。維摩詰居士に会うのに、これらの出家僧たちは頂禮三拜右繞三匝【注6】しているのです。これは覚えておかなければなりません。民国初年、欧陽竟無大師【注7】は中国内学院を開きましたが、講演集の中で仏法は師道であることが何度も説かれています。師道の中では老師が最も尊重され、演壇に上がらない時には、在家の居士、仏弟子たちは皆尊重して、席は上座に置きます。もし席についてお経を説くなら、経を説くのが居士だとしても、在家の人はその人を仏として待遇し、恭敬し、礼拝し、供養します。これは法に適っていることです。
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 【注6】 頂禮三拜(ちょうらいさんぱい)・・・・尊者の前にひれ伏し、頭を地につけ、足元を拝する最敬礼。これを三遍行うこと。
     右繞三匝(うにょうさんぞう)・・・・尊者・仏像などのまわりを、右回りに歩く作法。これを三遍行うこと。
 【注7】 欧陽竟無大師(おうようきょうむ)(1871-1943)・・・・欧陽漸。字は竟無。近代の著名な仏教学者。『蔵要』の編纂に携わった他、著書に『唯識抉択談』、『佛法非宗教非哲学而為今時所必需』(仏法は宗教にあらず、哲学にあらず、今必要なものである)、『竟無内外学』等がある。http://fodian.goodweb.cn/dict_read4.asp?ID=235
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所以佛教,諸位細心去觀察世尊一生的行誼,你就知道它不是宗教,它是教育。釋迦牟尼佛三十歲開悟,開悟之後就開始教學,在鹿野苑教五比丘。這五個人出家了,都是釋迦牟尼佛的親戚,當年他的父王派這幾個人陪同釋迦牟尼佛一起到外面參學。釋迦牟尼佛大徹大悟、明心見性,觀察緣分,這五個人的緣分成熟了,首先把他們五個人找來,這五個人出家,於是僧團就正式建立了。有佛、有法,佛的教學就是法,有僧,這五個人是僧團,三寶具足。
ですから世尊一生の行いをよく観察して見れば、仏教は宗教ではない事が分かります。仏教は教育です。釈迦牟尼仏は三十歳で悟りを開き【注8】、その後教学を始めました。鹿野苑(ろくやおん)【注9】において五人の比丘(びく:修行僧)を教えました。この五人は出家しましたが、すべて釈迦牟尼仏の親戚です。当時釈迦牟尼仏の父親は、この数人を派遣して釈迦牟尼仏のお供をさせ、一緒に参学させました。釈迦牟尼仏は大徹大悟、明心見性した後、縁を観察してみると、この五人の縁が熟したので、まずこの五人を呼び、五人は出家しました。そうして僧団が正式に成立しました。「仏」があり、「法」があり、仏の教学がつまり法です、そして「僧」があり、五人の僧団になりました。三宝具足です。
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 【注8】 釈迦が出家した年・悟りを開いた年・入滅の年については諸説あるようですが、浄空法師は中国の典籍を基に、釈尊は30歳で開悟したとされています。
 【注9】 鹿野苑(ろくやおん)・・・・中インドの波羅奈国にあった林園。釈迦が悟りを開いてのち初めて説法し、五人の比丘(びく)を導いた所。現在のバラナシ北郊のサールナートにあたる。
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以後出家眾逐漸加,在家居士也愈來愈多,這裡面包括當時印度十六個大國的國王都皈依釋迦牟尼佛,依釋迦牟尼佛為老師,世出世間法都向老師請教。佛教裡面尊敬天神,所以佛門有供天,尊重天神。但是聽佛菩薩的教誨,連天神也聽佛菩薩的教誨,他們是三寶弟子。三寶弟子當中位尊福大,地位崇高,他是國王、天王的身分,福報大,於是他們就肩負起護法的責任,護持佛法,推動佛法的教學;一方面自己修行,一方面把佛法介紹給大眾。所以佛法能夠興極一時,有這麼多人護持,歷代的帝王有護持的,也有不護持的。
それ以降出家する人は少しずつ増え、在家の居士も益々多くなりました。その中には当時のインド十六大国の国王も含まれ、すべて釈迦牟尼仏に帰依していました。釈迦牟尼仏を師として、この世界のすべての法について教えを請いました。仏教の中では天神を敬います。ですから仏門は供天があり、天神を敬います。しかし天神さえも仏や菩薩の教誨を聴きます。彼らは三宝弟子です。三宝弟子の中の位尊は福が大きく、地位が崇高で、彼は国王、天王の身分でした。福報が大きいのです。ですから彼らは法を護る責任を負い、仏法を保護しました。仏法の教学を推進しました。一方で自分の修行を行い、もう一方で仏法を人々に紹介しました。ですから仏法は一時非常に盛んになり、多くの人が保護し、歴代の帝王(君主)も保護していました。もちろん保護しない人もいました。

佛滅度之後,弟子們向四面八方去傳播佛陀的教誨,全都是教學,教學怎麼學來的?創始是阿難尊者,阿難尊者結集經藏。經藏怎麼結集?阿難是記憶力特好,我們今天講天才,記憶力太好了,聽一遍永遠不會忘記。世尊當年講經教學沒有文字、沒有記錄,佛滅度之後大家覺得世尊的教誨必須要流傳下去,這是弟子們的責任,所以就有結集經藏的法會,我們現在講活動,有這麼一個活動。
仏が入滅した後、弟子たちは各地に仏陀の教えを伝えました。すべて教学です。教学はどのように学んだのでしょう?創始したのは阿難尊者【注10】です。阿難尊者は経蔵を集めました。どのように集めたのでしょう?阿難は記憶力が特に優れていて、今で言えば天才です。一度聴けば二度と忘れる事はありませんでした。世尊当時の説法教学には文字がなく、記録がありませんでした。仏が入滅した後、人々は世尊の教えを広めなければならないと考えました。これは弟子たちの責任です。ですから経蔵を集める法會を作りました。(法會とは)今で言う活動のことです。
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 【注10】 阿難尊者(あなんそんじゃ)・・・・阿難(あなん)。記憶力に優れ、経典の結集(けつじゅう)の際に多くの教説を復唱した。釈迦の十大弟子の一人。
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大迦葉尊者帶頭,這是弟子當中高望重的,他來主持;阿難擔任複講,把釋迦牟尼佛所講的重新講一遍;五百阿羅漢作證,大家來聽阿難有沒有講錯。如果五百阿羅漢當中有一個人說,阿難,你這一句好像佛沒有說過,這一句就得刪掉,不能流傳。所以結集經藏這樣的嚴格,為了是取信於後人,阿難所說的確實就是佛說的,五百同學給他做證明,他沒有說錯,沒有在佛講經上加自己的意思,也沒有把佛所說的意思漏掉。真不容易,在這個世界上,古往今來無比殊勝的大事。
大迦葉尊者【注11】が先頭に立ちました。これは弟子の中でも人格高潔で名声が高く、彼が取りまとめました。阿難は釈迦牟尼仏が説かれたことをもう一度説くことを担当しました。五百羅漢が証人になりました。皆が阿難の説いたことに間違いがないかを聴きました。もし五百羅漢の中で一人でも「仏陀はこのように説かなかった」と言えば、その言葉は削除されます。伝えることはできません。ですから経蔵を集めるのは非常に厳格でした。後世の信頼を得る為です。阿難が説いたことは間違いなく世尊が説いた事です。五百人の羅漢たちが、言い間違いがないこと、自分の解釈を加えていないこと、世尊が説いた内容に漏れがないことを証明したのです。簡単な事ではありません。この世界で古今に類を見ないほど殊勝な大事業です。
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 【注11】 大迦葉尊者(だいかしょうそんじゃ)・・・・迦葉(かしょう)。釈迦の入滅後、教団を指導し、第一回の経典結集(けつじゅう)を行った。釈迦の十大弟子の一人。
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結集之後這些經藏,就由弟子四面八方去傳播,有些地方傳了一、二百年就沒有了,也有三、四百年,五、六百年,七、八百年的消失了,完全是眾生的福報、眾生的緣分,唯獨傳到中國這一支在中國生根,到現在將近兩千年了。經典翻譯成中文,這翻譯可靠嗎?有沒有錯誤?
集めたれた経蔵は、弟子たちによって各地に伝えられました。ある地方では一、二百年して失われ、或いは三、四百年、五、六百年、七、八百年して失われました。これは完全に衆生の福報と、衆生の縁によるもので、中国に伝わったものは中国で根を張り、現在に到るまで二千年になろうとしています。経典は中国語に翻訳されました。この翻訳は信頼できるでしょうか?間違いはないでしょうか?

玄奘大師當年在世為這個問題親自到印度,在印度住了十七年肯定了,古大所翻譯的沒錯誤。他確實是為證明這一樁事情到印度去的,回到中國來從事於大規模的翻譯。翻譯的這些法師,譯的分量最多的是玄奘大師,玄奘大師之前稱為舊譯,玄奘大師從他開始以後這稱為新譯,所以中國佛教史裡面譯經稱為有新譯、有舊譯。我們了解這些歷史,對佛教有正確的認識,也知道佛教是教育、是教學。
玄奘大師【注12】は当時この問題を明らかにする為に自らインドに赴き、インドに十七年滞在し、昔の大徳の翻訳に間違いはないことを肯定しました。玄奘大師は間違いなくこの事を証明する為にインドに行ったのです。中国に戻ってからは大規模な翻訳に従事しました。翻訳する法師たちの中で、訳の分量が最も多かったのは玄奘大師です。玄奘大師の前のものは旧訳、玄奘大師から始めたもの以降のものを新訳と言います。ですから中国仏教史の中で、訳経(やっきょう)は新訳と旧訳があるのです。私たちはこれらの歴史を理解すれば、仏教に対する正しい認識をもつことができます。また仏教は教育であり、教学だという事を理解することができます。
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 【注12】 玄奘大師(げんじょうだいし)[602-664]・・・・中国、唐代の僧。三蔵法師。法相宗の開祖。『西遊記』の唐僧のモデルとなった人物。中国では唐僧というのが一般的。
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<参考>
1.菩薩五十二位
菩薩が仏果に至るまでの五十二の修行の段階。
十信から十回向までは凡夫で、十地の初地以上から聖者の位に入り、等覚で仏と等しい境地となる。
 妙覚(52段目の悟り)  仏、仏陀、正覚
 等覚(51段目の悟り)  仏の悟りの位に等しい事から等覚と言われる
 十地(41段目~50段目の悟り)41段目「初地」以上の悟りに達すれば、境地が退転することはない。
 十廻向(31段目~40段目の悟り)
 十行(21段目~30段目の悟り)
 十住(11段目~20段目の悟り)
 十信(1段目~10段目の悟り)
 *ウィキペデリアより引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80#.E8.8F.A9.E8.96.A9.E3.81.AE.E4.BA.94.E5.8D.81.E4.BA.8C.E4.BD.8D

2.四土(しど)
凡聖同居土(ぼんしょうどうこど)・・・・凡夫と聖者が共に住む浄土。ここには不浄が充満する「穢土」(えど)と、清浄なる世界である「浄土」がある。迷いの世界。(=同居土)
方便有余土(ほうべんうよど)・・・・見惑、思惑の煩悩を断った菩薩が住む浄土。根本煩悩である無明の煩悩を残しているので「方便有余」と言われる。迷いの世界。(=方便土)
実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)・・・・無明の煩悩を断ち、真如、中道を悟った聖者が住む国土。(=実報土)
常寂光土(じょうじゃっこうど)・・・・報身仏の住む浄土。真理そのものの世界。一切の浄土の根源的な絶対界。(=寂光浄土)
(岩波『仏教辞典』第二版を参照した)

第一回訂正 2015-04-26


仏教を知る 2010.12.27

2012-03-03 | 【仏陀の教育】


認識佛教 / 仏教を知る
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二三四集)2010/12/27 

因為佛法是教育,佛法是教學,這個諸位要知道,我們常常提醒。因為今天在全世界都把佛教稱為宗教,很多人誤會說佛法是迷信,我們不能不多說幾句,不能不常常提起。我在年輕的時候跟大家一樣,也以為佛教是宗教、是迷信,所以從來不碰過它,連寺廟都不去,偶爾去觀光旅遊,看看這些古代的藝術建築,看看這個東西而已。再看到出家人做法會,超度的佛事,這給我們一個很錯誤的觀念,好像佛教專門是為死人服務的,這個誤會太大了。
仏法は教育であり、教学です。私たちはよく注意を喚起していますが、このことを知っておかなければなりません。今日では全世界で仏教は宗教だと言われていて、多くの人が誤解して仏法は迷信だと言っているので、私たちは頻繁に説明しない訳にはいきません。私も若い頃は皆さんと同じでした。やはり仏教は宗教であり、迷信だと思っていました。ですからまったく接触することなく、お寺にさえ行きませんでした。たまに旅行をして、古代の芸術建築を見るという程度でした。また出家僧が行う、死者を済度する法事を見ると、まるで仏教の専門は死者に対して奉仕することのように思われ、これは私たちに誤った観念を持たせました。この誤解は大きなものでした。

我學佛的因緣,是年輕的時候愛好哲學,在台灣跟方東美先生學哲學。方老師很慈悲,跟我講了一部《哲學概論》,最後一個單元「佛經哲學」。當時我非常訝異,佛是宗教、是迷信,宗教裡面它是低級宗教,怎麼會有哲學?宗教裡高級宗教只有一個神,低級宗教叫泛神教,很多很多神,什麼都拜,這屬於低級宗教。所以我們把它認為低級宗教,哪來的哲學?
私が仏法を学んだ因縁は、若い頃に哲学が好きで、台湾で方東美先生に哲学を学んだ事です。方先生はとても慈悲深い方で、私に『哲学概論』の講義をして下さいました。最後の単元は「仏経哲学」でした。当時の私は訝しくこう考えていました。仏教は宗教であり、迷信であり、宗教の中でも低級な宗教なのに、どこに哲学があるのだろう?宗教の中で高級な宗教は一神教で、低級な宗教は多神教。たくさん神がいて何でも拝む、これが低級な宗教。ですから私たちは仏教は低級な宗教だと思っていました。いったいどこが哲学なのでしょう?

老師告訴我,他說:你年輕,你不知道,「釋迦牟尼是全世界最偉大的哲學家,佛經哲學是全世界哲學最高峰,學佛是人生最高的享受」。我是上他這種課才把觀念轉過來,重新認識它,很不容易!如果沒有這個緣,我們一輩子都不會跟它接觸,那真是古人所謂如獲至寶當面錯過。
方老師は私に言いました。あなたはまだ若く、知らないだけです。「釈迦牟尼仏は全世界で最も偉大な哲学者であり、仏経哲学は全世界の哲学の最高峰であり、仏法を学ぶことは人生最高の享受である。」 私は先生のこの様な講義によって観念を変えることができ、(仏法を)新たに認識しました。簡単なことではありません。もしもこのような縁が無ければ、私たちは一生涯仏法に触れることはなかったでしょう。それは正に古人の言うところの、「如獲至宝当面錯過­」(至宝を目の前にして取り逃がすようなもの)です。


仏は縁ある人を済度する (2)

2012-02-25 | 【仏陀の教育】


佛度有緣人 / 仏は縁ある人を済度する 2
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三O八集)2011/2/28

這下面都是《法華經》上說的,「諸佛世尊欲令眾生開佛知見,使得清淨故,出現於世」。眾生有感,佛就有應,這是感應裡頭最殊勝的,是什麼人?想作佛的人,你不想作佛就沒法子了。他有這麼大的願望,想作佛這個念頭就叫做無上菩提心。所以發無上菩提心的人,佛加持他;不是無上菩提心的人,佛來了沒用處。佛也來,但是不給他講這個法,講這個法沒用,他不懂。真正發這個心的人他聽懂,為什麼?
これはすべて『法華経』に説かれています。「諸佛世尊欲令衆生開佛知見,使得清淨故,出現於世」(諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄を得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。)(脚注1)衆生が「」ずれば、仏は「」えます。この感応の中で最も殊勝なのは、どんな人でしょう?仏になりたい人です。あなたが仏になりたくないなら、どうしようもありません。これほど大きな願いがあること、仏になりたいという願いのことを無上菩提心と言います。ですから無上菩提心を発心すれば、仏様の加持(ご加護)があります。無上菩提心でなければ、仏様が来ても役に立ちません。仏様が来て法を説いたとしても役に立ちません。その人は理解できません。真に発心した人は聴いて理解できます。なぜでしょう?

是他心目當中所希求的。開佛知見,開是開示、打開,佛把這個門打開,讓你看到如來所證得的境界。這境界是什麼?《法華經》是的,是這個境界,《華嚴經》是的,《無量壽經》也是的,這個裡頭字字句句都是佛知佛見。我們常常聽到「佛度有緣人」,這是第一個有緣人,這真正發菩提心的,這種人叫根熟眾生,他熟透了,一聽佛的開示他就悟入了。佛對於其次根性的人不說這個法,說什麼?
その人が心の中で希求しているからです。「開佛知見」の「」とは開示し、開く事です。仏様がこの門を開き、あなたに如来の証得(悟りを得る)の境地を見せるのです。この境地とは何でしょう?『法華経』がその境地です。『華厳経』がそうです。『無量寿経』もそうです。この中の一字一句すべてが仏様の知見(正しい認識)です。私たちはよく「佛度有緣人」(仏は縁ある人を済度する)と聞きますが、これが第一に縁のある人です。これは真に菩提心を発した人で、このような人を「根熟衆生」(根が熟した衆生)と言います。その人は(仏道を修める)根が熟しているので、一度仏様の開示を聴いただけで悟りを開きます。仏様はその次の根性(修行する能力)の人にはこの法を説きません。では何を説くのでしょう?

說他能接受的法,他妄想分別執著完全沒有放下,給他講什麼?給他講六道輪迴裡面的善法、惡法,給講這些。這些是什麼?《阿含經》的境界,《阿含經》裡面許許多多,講倫理、講道、講因果,幫助你、教導你怎樣不墮三惡道。因為你的志願就在此地,你不想離開六道輪迴,想來生在人道生活過得更好一點,做大官享大福報,他想這些,享受五欲七情的這些樂趣,佛也能滿足你,也能幫助你。
その人が受け入れられる法を説きます。その人は妄想・分別・執着をまったく放下していませんが、何を説くのでしょう?六道輪廻の中の善法、悪法等を説きます。これらは何でしょう?これは『阿含経』の境地です。『阿含経』の中には様々な倫理、道徳、因果が説かれていて、あなたにどうすれば三悪道(脚注2)に堕ちないかを教え導きます。あなたの願いがこの世にあり、六道輪廻を離れたいと思わず、来世では人間道でもっと良い生活を送りたいと思い、高位高官になって福を享受したいと思っている。このような五欲・七情(脚注3)の楽しみを享受したいのであれば、仏様もあなたを満足させ、あなたを助けます。

譬如世間人正是絕大多數,不管是哪一國的人,哪一種族群、哪一種宗教咱都不管,他想不想發財?都想。想不想聰明智慧?真想。想不想健康長壽?個個都想,沒有一個不想的。佛說這三種是果報,果一定有因,修因你就能得到果報,因是什麼?布施。所以佛教人修財布施,目的是什麼?得財富,好事情。但是好事會變壞事,「禍福相倚」,這中國古人講的,福裡頭有禍,享福如何能避開這個禍?
例えば世間の大多数の人は、どの国の人、どの民族、どの宗教でも構いませんが、お金を儲けたいと思うでしょうか?みな思います。聡明な智慧が欲しいでしょうか?本当に欲しい。健康長寿が欲しいでしょうか?誰でもみな欲しい。欲しくない人はいません。仏様はこの三つは果報だと説かれています。「」(果報)には必ず「」(原因)があります。「因」を修めればあなたは果報を得ることができます。「因」とは何でしょう?それは布施(脚注4)です。ですから仏教者は財施(ざいせ)を修めます。目的は何でしょう?財産を得ることです。これは良い事です。しかし良い事は悪い事に変わることがあります。「禍福相倚」(禍と福は相互に寄り添っている)(脚注5)。中国の古人は、福の中に禍があると言っています。では福を享受するのに、どうすれば禍を避けることができるでしょう?

就教你愈有愈施、愈施愈多、愈多愈施,只要肯往外施就沒有禍。就像水一樣,從那邊進來這邊出去,它是活水,是流動的,不會泛水災。如果它堵住了,只進不出,好了,它就滿了、盈了,那水災就來了。所以教我們布施愈施愈多,愈多愈施,千萬不要留。你想得聰明智慧修法布施,也是愈施愈多;不要吝法,吝法馬上就出毛病,吝財、吝法果報三惡道去了。你現在享福,福享完到哪裡去?
あればあるだけ施し、施せば施すほど多くなり、多ければ多いほど更に施すことを教えて、ただ外に施す事を肯定していれば、禍はありません。ちょうど水と同じようなものです。そちらから入りこちらから出る。湧き出る水は流動しているので、溢れて水害になる事はありません。もし詰め込んでしまい、水を出さないでいれば、水は満ちてきますが、溢れてしまえば水害になります。ですから布施は施せば施すほど多くなり、多ければ多いほど更に施して、決して留めてはなりません。あなたが聡明な智慧を得たければ、法施(ほうせ)を修めます。やはり施せば施すほど(聡明な智慧は)多くなります。法を出し惜しみしてはなりません。法を出し惜しみすれば問題が生じます。財産や法を出し惜しみする果報は三悪道です。あなたが今福を享受するなら、福を享受し終わったらどこに行くのでしょう?

三惡道去。如果你沒有吝嗇,愈多愈施,你將來遇不到淨宗,大概都到天道去了;遇到淨土宗,你到極樂世界去了,你成佛去了。這是佛教我們一般人,我們一般人只有這麼大的一個心量,只有這麼個願望,佛滿你的願。無畏布施得健康長壽,健康長壽也不能吝嗇,吝嗇折福,你有個健康長壽的身體,你要記住永遠為苦難眾生服務,你就愈健康、愈長壽。為什麼?你這時候有用,你能幫助那麼多人。如果說長壽了,老的時候享福,福享完了又要去搞六道輪迴去了。
三悪道に行きます。もしあなたが出し惜しみせず、より多く施しをしたなら、将来浄土宗に巡り合わなければ、おおかた天道に行きます。浄土宗に巡り合えば、あなたは極楽世界に行って、成仏します。これは仏様が私たち一般人に教えていることです。私たち一般人は、ただこれだけの大きな度量があり、ただこのような願望があれば、仏様は願いを満たしてくださいます。無畏施(むいせ)は健康長寿を得ることができます。健康長寿も出し惜しみしてはなりません。福を減らす事を惜しんではなりません。あなたに健康長寿の体があるなら、苦難にある衆生の為に奉仕することを忘れてはなりません。そうすればあなたはより健康になり、より長寿になります。なぜでしょう?あなたはこの時役に立っていて、多くの人を助けることができるからです。もし長寿であれば、年を取った時に福を享受します。福を享受し終われば、また六道輪廻に行かなければなりません。

<脚注>
1.「諸佛世尊欲令衆生開佛知見,使得清淨故,出現於世」・・・・『法華経』の一節。
 諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄を得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
 諸仏世尊は、衆生に仏の知見(正しい認識)を開かせ、心の清らかさを得させようとして、この世に出現された。(筆者訳)

2.三悪道(さんあくどう)・・・・地獄道、餓鬼道、畜生道の三つ。悪業の結果、人が堕ちていく世界。(=三悪趣)

3.五欲(ごよく)・・・・・・・・目、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官(五根)が、それぞれ色、声、香、味、触の感覚対象に対して起こす欲望のこと。または、財欲、色欲、飲食(おんじき)欲、名欲、睡眠欲のこと。
  七情(しちじょう)・・・・喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の七つの感情。

4.布施(ふせ)・・施しのこと。布施には以下の三施がある。
 財施(ざいせ)・・・・僧や貧しい人などに金品を施すこと。
 法施(ほうせ)・・・・衆生に仏法を説いて聞かせ、法の施しをすること。
 無畏施(むいせ)・・衆生の恐怖を取り除くこと。
 (中国では「布」の字を省略せず、財布施法布施無畏布施と言っている。)

因果の法則により、財を施せば財を得ることができ、法を施せば聡明な智慧が得られ、衆生の恐れを取り除けば健康長寿が得られるという。中国では無畏施には、動物の肉を食べない菜食も含まれる。また鳥や魚など、衆生を自然に帰す「放生」を行って健康を祈願することがよく行われている。

5.「禍福相倚」(かふくそうい)・・・・禍と福は相互に寄り合って、常に因となり果ともなるものである。

<参考>
「禍福無門、唯人自招」・・・・禍福はもともと定まったものではない、その人自身が招くものだ。(『春秋左氏伝』襄公二十三年より)
「禍福倚伏」(かふくいふく)・・・・禍と福は常に因となり果ともなるものである。
「禍福由己」禍福はみなおのれ自ら招くもの。

「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏」 禍は福の倚(よ)る所、福は禍の伏(ふ)す所。(老子『道徳経』五十八章)


仏は縁ある人を済度する (1)

2012-02-25 | 【仏陀の教育】


佛度有緣之人 / 仏は縁ある人を済度する
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經  (第二0五二卷)  2009/11/4  檔名:12-17-2052

教化眾生,要跟眾生有緣,所以佛門也常說,「佛不度無緣之人」。什麼叫無緣?他不願意接受,他不想學,你怎麼熱心教他,也沒用處。或者說,他這一生,他所想的,他所求的,­不在這一方面。像現在的人,他心目當中是什麼?頭一個是財富,第二個是享受,他就搞這個去了,吃喝玩樂去了,他沒有想到來生後世,他沒有想到。
衆生を教化するには、衆生と縁がなければなりません。ですから仏門ではよく「佛不度無縁之人」(仏は無縁の人を済度せず)と言います。無縁とは何でしょう?その人が受け入れる事を望まず、学びたくないのであれば、どのように熱心に教えても役に立ちません。或いは、この一生で考える事、求める事が、この方向にはないということです。今の人は心の中で何を考えているでしょう?第一に財産、第二に楽しみを享受することです。そのように食べて、飲んで、遊び、楽しんでいるなら、その人は来世や後生(ごしょう)の事など考えた事もないでしょう。

縱然有人給他提到了,他也漠­不關心,所謂他重視現實,他認為來生後世那是人的妄想,那個不是真的,現實是真的。佛沒法子度他。佛度眾生,這個眾生必須要具備三個條件,《彌陀經》上都講的有,第一個是­善根,第二個是福,第三個因緣。可是,真有善根福,因緣佛會加持,我們念的這一段是加持,佛會加持,就是「佛氏門中,不捨一人」,那就是無等方便,顯示出佛菩薩的大慈­大悲,一個都不會捨棄,只要你有善根有福。
誰かが注意を喚起したとしても、その人は関心を示さず、いわゆる現実を重視して、来世や後生などは妄想であり、真実ではないと考えて、現実こそが真実だと考えています。仏様はその人を済度しようがありません。仏様が衆生を済度するのに、衆生は必ず三つの条件を満たしていなければなりません。『阿弥陀経』に説かれています。一つ目は善根。二つ目は福徳。三つ目は因縁です。しかし、本当に善根・福徳、因縁があれば、仏様の加持(ご加護)があります。私たちが読んでいる(『無量寿経』の)この一段は「加持」です。仏様の加持(ご加護)とは、「佛氏門中,不捨一人」(仏門において、仏は一人も見捨てない)のことです。それは「無等方便」(この上なく適切な導き)であり、ただ善根と福徳がありさえすれば、仏や菩薩の大きな慈悲が現れて、一人も放棄することはありません。

  善根是什麼?我們從最淺顯地方來說大家好懂,能信能解,這善根。我相信,佛所說的我相信,不懷疑,佛所說的我能聽得懂,這善根。福是什麼?福是你真幹,聽懂了之後真幹­,把佛陀的教誨變成自己的思想行為,這人有福。佛一定幫助他,幫助他到最後一個階段,證果。
善根とは何でしょう?私たちは最も身近な所から理解する事ができます。(仏法を)信じる事ができ、理解する事ができる、これが善根です。仏様が説かれる事すべてを信じ、疑わず、聴いて理解する事ができる、これが善根です。福徳とは何でしょう?福徳はあなたが聴いて理解した後、本当に実行して、仏陀の教誨を自分の思想・行為に変える事です。この人には福があります。仏様は必ずその人を助け、(修行の)最後の段階である“証果”(修行により悟りの果を得ること/脚注1)に至るまで助けます。

諸位要知道,念佛往生西方極樂世界,縱然是凡聖同居土下下品往生,都是證果,證­什麼果?證無上菩提之果。這個話不是假的,往生到西方極樂世界,即使是凡聖同居土下下品往生,為什麼說果報這麼殊勝?他到極樂世界,一生決定證得無上菩提,他不需要第二生­,他一生就能成就。
皆さんは知っておかなければなりません。念仏によって西方極楽世界に往生するとは、凡聖同居土(凡人と聖人が同居する世界/脚注2)の下下品(悟る能力が最も劣っている者/脚注3)であっても往生でき、すべて証果を得られるということです。何の果報を得るのでしょう?無上菩提(最上の悟り/脚注4)という果報です。この話は偽りではなく、西方極楽世界に往生すれば、 凡聖同居土の下下品の衆生さえも往生できます。なぜ果報がこれほど殊勝なのでしょう?人は極楽世界に到すれば、一生で必ず無上菩提を体得でき、また次の生を受ける必要がなくなり、一生で成就することができます。

  壽命長,佛無量壽,生到西方極樂世界的人,個個都是無量壽,天天跟善友在一起,你說這個緣多殊勝。跟哪些人?十方諸佛,你們在經上看到。我們想見一尊佛都見不到。極樂世界­的人,十方一切諸佛如來他想見哪個,就都見到。他不是一個一個的見,他同時一切都見到,什麼原因?他有本事分身;佛無量無邊,他能夠分身無量無邊,每一個佛的面前都有他的­身,有這種神通,有這種能,這個在六通裡面講「神足通」,神是神變,足就是圓滿,他沒有欠缺的,你就想他的成就多快。
寿命は長く、仏様は無量寿(計り知れない寿命)ですから、西方極楽世界に生まれた人は、すべての人が無量寿で、毎日善友と一緒に過ごします。ご縁はこれほど殊勝なものです。どのような人と一緒なのでしょう?経典に見る事ができる、あらゆる諸々の仏です。私たちは仏様を見たくても見る事はできませんが、極楽世界の人は、見たければすぐに一切の諸仏如来を見る事ができます。その人は一人一人見るのではなく、同時に一切を見る事ができます。どうしてでしょう?その人には分身の能力があるからです。仏様は無量無辺なので、その人の分身もまた無量無辺であり、どの仏様の前にもその人の分身が現れるのです。このような神通力があり、このような徳能があります。これは「六通」(脚注5)の中の「神足通」です。「神」とは神変(人知で計り知れない不可思議な変異)、「足」とは円満のことです。その人には何の不足もないので、成就するのが早いのです。

  在極樂世界,除了親近阿彌陀佛之外,諸大菩薩,我們很熟悉,觀音勢至文殊普賢彌勒地藏,這都我們很熟悉的菩薩,都在極樂世界,你到極樂世界都見到了。它雖然有四土三輩九品­,但是它是平等的法界,跟我們這兒不一樣,我們這兒不平等。六凡法界裡面,我們就見不到聖人,菩薩羅漢我們見不到。可是在西方極樂世界不一樣,阿彌陀佛每一天講經說法,大­家都在一起聽,都見到。古聖先賢所謂「近朱者赤,近墨者」,天天親近諸佛如來,天天都跟這一些等覺菩薩在一起,你就能想像到,你那個進步是多麼快速。
極楽世界では、阿弥陀仏と親しむことができる他に、諸々の大菩薩、私たちがよく知っている観音菩薩、勢至菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、地藏菩薩などが、すべて極楽世界にいます。あなたが極楽世界に行けば会うことができます。そこには四土・三輩九品(脚注6-7)がありますが、そこは平等の法界で、私たちの世界とは異なります。私たちの世界は不平等の世界です。六凡(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)法界の中では、私たちは聖人や、菩薩や羅漢に会う事はできません。しかし西方極楽世界では違います。阿弥陀仏が毎日お経の説法をして、皆が一緒に聴き、皆会うことができます。昔の聖人賢人は「朱に近づく者は赤くなり、墨に近づく者は黒くなる」(脚注8)と言いました。毎日諸仏如来と親しみ、毎日これらの最高位の菩薩に親しみ、一緒に過ごしていれば、想像できる通り、あなたの進歩は非常に速いのです。

  如果對這個世間眾生沒有特殊的緣分,人家這個條件具足了,壽命不要了,他就走了。等到極樂世界,他成就之後,他就再來。這邊緣成熟了,倒駕慈航,他來教化眾生,眾生有感,­他就有應。這是為什麼人家功夫成就的就走。有不走的。那個不走的人,我們看不到,看不出來,走的人我們立刻就知道。不走的人,依舊在這個世間,跟這個世間大眾和光同塵。他­為什麼不走?有緣,還有一些人相信他,聽他的話,他的教學人家能理解;換句話說,他可以帶一批人到極樂世界去,他不著急走。什麼時候走?緣盡就走了。跟他有緣的人,他統統­度盡了,他就走。
もしこの世間の衆生に対して特殊な縁がなければ、彼ら菩薩は条件を満たし、寿命は要らなくなり、去っていきます。極楽世界に行って(修行を)成就させた後、再びやって来ます。こちらの縁が熟したら、「倒駕慈航(脚注9)、彼は衆生を教化しにやってきます。衆生が「感」ずれば、菩薩は「応」えます。彼らは修行が成就すれば(極楽世界に)去って行きますが、どういう訳か去らない人もいます。去らない人を私たちは見る事ができません。見分けがつきません。去る人はすぐに分かります。去らない人は、依然としてこの世間に留まり、(菩薩の威光を和らげて)この世間の大衆と共にいます(和光同塵 脚注10)。その人はなぜ去らないのでしょう?縁があるからです。まだ一部の人々がその人を信じ、話を聴き、教えたことを理解できるからです。言い換えれば、その人は一部の人々を極楽世界に導く事ができます。去る事を急ぎません。いつ去るのでしょう?縁が尽きれば去っていきます。その人と縁のある人を、すべて済度してから去るのです。

<脚注>
1.証果(しょうか)・・・・修行により悟りの果を得ること。

2.凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)・・・・凡人と聖人が同居する世界。

3.下下品(げげぼん)・・・・悟る能力が最も劣っている者。九品の最も下の位。
  九品:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81

4.無上菩提
(むじょうぼだい)・・・・最上の完全な悟り。(=無上正覚。=阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい))

5.六通
(ろくつう)・・・・(=六神通)仏・菩薩に備わる六種の超人的な能力。神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通。

6.四土
(しど)・・・・凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、常寂光土の総称。

7.三輩九品
(さんぺいくほん)・・・・無量寿経で極楽浄土に往生する人を三段階に分けた三輩と、観無量寿経で上・中・下三品におのおの上・中・下の三生を分けた九品との併称。

8.「近朱者赤,近墨者」・・・・朱に近づく者は赤くなり、墨に近づく者は黒くなる。日本の「朱に交われば赤くなる」と同義。(晋・傅玄『太子少傳箴』より)

9.「倒駕慈航」
・・・本来すでに成仏している人が、菩薩の化身となって現れること。
 「倒」は後ろに下がること、「駕」は駕籠(かご)・乗り物、「慈」は慈悲心、「航」は舟で渡ること。
 解釈は下記を参照した:
 「倒駕慈航」:就是隱大示小,他本來已經成佛了,現在又示現菩薩身,化身來做觀世音菩薩。
 http://www.longbeachmonastery.org/DaBeiGwanShiYinPuSa-c.htm

10.和光同塵
(わこうどうじん)・・・・①仏・菩薩が本来の威光をやわらげて、ちりに汚れたこの世に仮の身を現し、衆生を救うこと。 ②老子『道徳経』4章「和其光、同其塵」(其の光を和げ、其の塵に同ず)より。自分の学徳・才能を包み隠して俗世間に交わること。


一体だからこそ全宇宙に広がる

2011-09-29 | 【仏陀の教育】


一體才能周遍法界 / 一体だからこそ法界(全宇宙)に広がる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二四九集)2011/1/23

《往生論註》裡面說:「八地以上菩薩常在三昧,以三昧力,身不動本處,而能遍至十方,供養諸佛,教化眾生」。八地的名號叫不動地,七地叫遠行地,八地叫不動地,不動能遠行。你看本身不動能遍至十方,什麼地方有緣什麼地方現身,確實完全像《楞嚴經》上所說的隨眾生心,應眾生所知之量。
『往生論註』の中に、「八地以上の菩薩は常に三昧(脚注1)にあり、三昧の力を以って、身は本処を動かず、而して能く遍く十方に至り、諸仏を供養し、衆生を教化す。」とあります。「八地」の名号は「不動地」と言い、「七地」は「遠行地」と言い、動かず遠くに行くことができます。自分自身は動かずに広く全世界(十方)に行き渡り、どこかに縁があればそこに現れて、完全に『楞嚴経』で説かれている「随衆生心」(衆生に従って心が生じる)のように、衆生の知るところに応じています。

佛菩薩的身相沒有一定,佛菩薩所證得的法身,法身也就是我們前面常講的,法身沒有形相,法身能現一切形相,眾生心裡念的是什麼形相,他就現什麼形相,隨著眾生的念頭變。法身無處不在、無時不在。講虛空,虛空也是法身變現的一個自然現象,因為它不是屬於精神也不是屬於物質,它是個自然現象。
仏や菩薩の身相は一定ではありません。仏や菩薩の法身(脚注2)もこれまで述べたように形相がありません。法身は一切の形相を現すことができ、衆生が心の中で念じた形相を現すことができ、衆生の心に従って変化します。法身は存在しない所はなく、存在しない時はありません。虚空(脚注3)について言えば、虚空は法身が変化して現れる自然現象です。それは精神や物質に属するものではありません。それは自然現象です。

所以虛空也不是真的,空間跟時間都不是真的,我們稱它為自然現象,但是它跟精神跟物質永遠分不開。如果要是分開的話,不是一體,我們動一個念頭,如何能夠遍法界虛空界?大經上講的,念頭才動,周遍法界,我們才曉得它是一體;因為是一體,所以它才能周遍法界,這是事實真相。
ですから虚空もまた真実ではありません。空間も時間も真実ではありません。私たちはそれを自然現象と言いますが、精神と物質とは永遠に分けられないものです。もし分離しているなら一体ではないということになり、心を動かして(その意思のエネルギーが)全宇宙に広がることがあるでしょうか?大経(無量寿経)には、「念頭才動,周遍法界」(意念が動いて、法界のすみずみまで広がる)と説かれているので、私たちはそれが一体であることが分かります。一体だからこそ、(意思のエネルギーは)全宇宙に広がるということです。これは事実の真相です。

<脚注>
1.三昧(ざんまい)
・・・・心を一つの対象に集中して動揺しない状態。

2.法身(ほっしん)・・・・永遠不滅の真理そのもの。理法としての仏。

3.虚空(こくう)・・・・何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所としての空間。


利他は本当の自利、自利は本当の自滅

2011-09-29 | 【仏陀の教育】


利他是真正的自利,自利是真正的自害 / 利他は本当の自利、自利は本当の自滅
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二五O集)2011/1/23 

佛的智慧圓滿,為什麼?完全是利益一切眾生,幫助眾生破迷開悟,佛的福報幫助眾生離苦得樂,你看看,這還得了!智慧幫助人破迷開悟,福報幫助人離苦得樂,他的福報是圓滿的。我們有福報是自利,有智慧也是自利,不肯利他,這不行,這是與自性相違背。你要問為什麼一定要利他?因為自他是一不是二。
仏様の智慧は円満です。なぜでしょうか?完全に一切の衆生の利益(りやく)となり、衆生が迷いを去って悟りを開くことを助けます。仏様の福報は、衆生が苦しみを離れて安楽を得るように助けます。見てください、それで分かるでしょう!「智慧」は人の迷いを去って悟りを開くのを助け、「福報」は人が苦しみを離れて安楽を得ることを助けます。仏様の福報は円満です。私たちは福報や智慧があっても自分の利益を考え(自利)、他人の利益(利他)(脚注1)を考えません。これでは駄目です。これは自性(脚注2)に背くことです。どうして必ず「利他」でなければならないのでしょうか?それは自他とは「一」であり、「二」ではないからです。

整個宇宙遍法界虛空界就好像我們一個人的身體,我們這一個人,一個人就好像我們身體裡面的一個細胞,我們身體的一個細胞,跟整個身體無數的細胞,是一還是二?這個細胞說,我都自利,我不肯幫助別人,你這個身體細胞不錯、很好,其他都敗壞,你能活得了嗎?只有佛與法身菩薩才真正肯定,為什麼?他們證得遍法界虛空界跟自己是一體。所以利他是真正的自利,自利是真正的自害。
全宇宙、法界虚空界は私たちの体のようなものです。私たち個人は、体の中の一つの細胞のようなものです。私たちの体の一つの細胞と、体全体の無数の細胞とは「一」でしょうか、それとも分けられるものでしょうか?この細胞が「自利」を主張して他人を助けず、自分の細胞だけが素晴らしく、その他の細胞が壊れていれば、あなたは生きていられるでしょうか?ただ仏様と法身菩薩だけが本当にこのことを肯定できます。なぜでしょう?彼らは法界虚空界(全宇宙)と自分が一体であることを体得しているからです。ですから「利他」は本当の意味での「自利」であり、「自利」は本当の意味で自分を害するものです。

這個道理,這個事實真相,只有佛大乘經裡面講得透徹。我們學習過賢首大師的《妄盡還源觀》,《還源觀》上講得多清楚,跟現在最先進的物理學家所發現的愈來愈接近,科學家把釋迦牟尼佛所說的都證明了,可見得佛講的不是假的。如果我們也能夠肯定,也能夠體悟,體會感悟,我們一定是自動自發捨己為人。
この道理は事実の真相です。仏様の大乗経の中でのみ、明確に説かれています。私たちは賢首大師の『妄盡還源観』を学んだことがあります。『還源観』の中に明確に説かれています。今の最先端の物理学者が発見したことは(仏法に)益々近づいています。科学者が釈迦牟尼仏が説いたことをすべて証明すれば、仏様が説いたことが偽りではないと分かるはずです。もし私たちもそれを肯定し、体得し、感得することができれば、私たちは必ず自主的に「捨己為人」(己を捨てて人に尽くす)となるはずです。

今天這個世界災難很多!哪個地方災難最重,我們到那裡去。為什麼?如果你是一心為眾生,你的心態好,你的磁場好,你到那個地方去,會把那個地方不善的那些磁場、惡劣的磁場,把它減輕一部分。好比那個地方是大浪,波濤大浪,你這個地方是平靜的水,你這個水沖進大浪的時候,大浪降低了,你雖然也隨波逐流,但是你把大浪降低了。這就說明真正修行人到造作罪惡的那個地方,會把他的惡報減輕。要有決心,縱然在災難當中死去也在所不惜。為什麼?死去,曉得身體在這個災難當中死去,靈性更提升、更高了。
今日この世界では災難が多発しています!しかしどこかで最も重大な災難があれば、私たちはそこへ行きます。なぜでしょう?もしあなたに衆生を助ける心があるなら、あなたの精神状態は素晴らしく、あなたの磁場は良くなり、その場所に行けばその場所の不善で劣悪な磁場を一部軽減することができるからです。例えばその場所に大波がきても、あなたのいる場所は静かな水流となり、波は低くなります。仮にあなたが波に流されたとしても、あなたは波を低くすることができます。これは本当に修行した人が、罪業の多い磁場の悪い場所に行けば、その悪報を軽減することができるということです。
災難の中で死んでも惜しいと思わない、そのように覚悟しなければなりません。なぜでしょう?体は災難の中で死んでも、霊性は更に高まり、更に向上するからです。

<脚注>
1.自利
・・・・自分の利益。自力の修行によって功徳・利益を自分一人で受け取ること。
  利他・・・・他人に利益となるように図ること。人々に功徳・利益を施して救済すること。

  「自利利他」・・・・自らの悟りの為に修行し努力することと、他の人の救済の為に尽くすこと。  

2.自性(じしょう)
・・・・そのものが本来備えている真の性質。


仏法は科学である

2011-09-19 | 【仏陀の教育】


佛法也是科學 / 仏法は科学である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二三三集)2010/12/26 

方老師當年,因為我學哲學,從哲學的角度來看,它是世間上最高的哲學。我們學了六十年了,現在再看這些經教、大乘經教,不但是高等哲學,同樣也是高等科學。我們看到現前這­世界上尖端的科學家他們的研究報告,我們一看就懂,跟大乘經教裡面講得沒有兩樣。我們要問,佛怎麼證得的?
方先生は、当時私が哲学を学んでいたので、哲学から見て仏法は最高の哲学だと言いました。私は仏法を学んで六十年になりますが、今もう一度これらの大乗経典を見てみると、高等哲学というだけでなく、高等科学であるとも言えます。今現在世界の最先端の科学者たちによる研究報告を見ると、私たちは見てすぐに理解することができます。大乗経典の中で説かれていることと同じだからです。それでは仏様はどのように知ることができたのでしょうか?

諸佛菩薩之所以證得宇宙之間的奧祕就用寂滅。寂是寂靜,滅是斷滅­,對煩惱習氣來說的,見思煩惱、塵沙煩惱、無明煩惱都斷了,習氣也沒有了,自性的清淨寂滅相現前,這個現象是什麼現象?沒法子說,我們今天講自然現象、講精神現象、講物質­現象,好像都能夠看得見、能想得到,也就是我們六根可以緣得到的這三種現象。
諸仏菩薩は宇宙の奥義を知るために、寂滅(という方法)を用います。寂とは寂静、滅とは断滅のことです。煩悩で言えば、見思煩悩、塵沙煩悩、無明煩悩のすべてを断てば、悪い癖もなくなります。自性が清らかになれば、寂滅(の境地)が現れます。この現象は何の現象でしょうか?説明はできません。私たちが今日言う自然現象、精神現象、物質現象は、どれも見ることができ、想像することができ、私たちの六根で得ることができるものです。

自性裡頭沒有這三種現象,它都不是,它不是物質現象,也不是精神現象、也不是自然現象,六根緣­不到,為什麼?六根是虛妄的,不是真的。妄能緣到妄,緣不到真,那要怎樣你才能緣到真?你把妄得放下,真的就現前,就這麼一個道理。
(しかし)自性の中にはこの三つの現象はありません。それらは物質現象でも、精神現象でも、自然現象でもありません。(自性は)六根(脚注1)が至らないものです。なぜでしょう?六根は虚妄だからです。真実ではありません。妄念は妄念に至りますが、真実には至りません。それではどうすれば真実に至ることができるのでしょうか? あなたが妄念を放下すれば、本当に目の前に現れます。このような道理なのです。

<脚注>
1.六根
(ろっこん)・・・・感覚や意識を生じ、またそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官。眼、耳、鼻、舌、身、意をいう。


諸仏を敬う(一)

2011-09-13 | 【仏陀の教育】


禮敬諸佛(一) / 諸仏を敬う(一)
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二四O集)2010/1/18 

所以普賢行裡面第一個「禮敬諸佛」,誰是諸佛,諸佛指誰?記住,佛在《華嚴經》上,這都是《華嚴經》上的話,「一切眾生本來是佛」,這個諸佛就是一切眾生本來是佛。你對一­切眾生要跟對佛同樣的恭敬,少一分你就錯了,你禮敬裡頭就缺了,缺了這一分,少兩分的就缺兩分,這性,你還能成就嗎?我學會了對人恭敬,對物呢?對這些動物呢?蚊蟲螞­蟻恭不恭敬?
普賢行の中の第一は、「礼敬諸仏」(諸仏を敬う)ことです。諸仏とは誰を指すのでしょうか?これはすべて『華厳経』の話ですが、仏様は『華厳経』で「一切衆生本来是仏」(すべての衆生はもともと仏である)といい、この諸仏とは即ち「すべての衆生はもともと仏である」ということです。あなたはすべての衆生に対して仏様と同じように敬わなければならず、一分でも欠ければ誤りで、礼敬(脚注1)の中の徳を一分欠いています。二分足りなければ二分欠けています。このような性徳(脚注2)で成就することができるでしょうか?私は人に対する敬いを学びましたが、物に対してはどうでしょう?動物に対してはどうでしょう?蚊や蟻に対しても敬うでしょうか?

要恭敬。為什麼?牠也是諸佛。樹木花草呢?樹木花草也是諸佛。山河大地它都有體性,體性就是佛性。所以你的禮敬遍法界虛空界,清淨平等沒有絲毫差別,那就恭喜­你,你縱然不能夠達到當位普賢,你也肯定是諸佛報土裡面的普賢菩薩,在《華嚴經》上是初住以上,你不但超越六道,你超越十法界了。
敬わなければなりません。なぜでしょう?彼らも諸仏だからです。樹木や草花はどうでしょう?樹木や草花も諸仏です。山河や大地はすべて体性があり、体性とは仏性(脚注3)のことです。あなたの礼敬が法界虚空界(全宇宙)に広がり、(すべてに対して)清らかで平等で少しの差別もなければ、それは素晴らしいことです。普賢に達することはできなくとも、あなたも諸仏報土の中の普賢菩薩であり、『華厳経』の中の「初住」以上の境地です。六道輪廻だけでなく、十法界も超越しています。

你看就修禮敬,就修這一門,能夠明心見性­,能夠見性成佛,以這個功迴向求生淨土,生實報莊嚴土,不是在同居、方便,他在實報土。你看就修這一門,把這個放在第一,你說有沒有道理?修普賢行,學普賢菩薩,求生淨­土,對人沒禮貌那怎麼行?修得再好,對人沒禮貌不能往生,這個不能不知道。
あなたが礼敬を修めることは、この法門を修めるということであり、明心見性(心を明らかにして本質を見極める)ことができ、見性(脚注4)して成仏することができるでしょう。この功徳を以って浄土に生まれることを(第一に)求めていながら、周辺の人に親切にしない。この法門を修めるのに、これを一番に疎かにしている、これは妥当でしょうか?普賢行を修め、普賢菩薩に学び、浄土に生まれることを求めるのに、人に対する礼節がなくて良いでしょうか?どれだけよく修行をしても、人に対する礼節がなければ往生はできません。このことは知っておかなければなりません。

<脚注>
1.礼敬
(れいけい)・・・・礼し敬うこと。礼をもって敬うこと。らいきょう。
2.性徳(しょうとく)・・・・衆生が本性として具えている生まれつきの能力。
3.仏性(ぶっしょう)・・・・すべての生き物が生まれながらにもっている、仏となることのできる性質。
4.見性(けんしょう)・・・・自己に本来備わっている本性を見極めること。


諸仏を敬う(二)

2011-09-13 | 【仏陀の教育】


禮敬諸佛(二) / 諸仏を敬う(二)
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二四O集)2010/1/18 

真正念佛往生的人,他一生不懂得,對人沒禮貌、沒恭敬心,他在懺悔業障、發心念佛那一剎那,用的是真心,用的是禮敬,所以阿彌陀佛把他接到極樂世界去了。凡聖差別就在一念­,一念覺,凡夫成佛了;一念迷,你就入了六道。這一念,諸位要記住,是彌勒菩薩所講的一念。一念覺,念念覺而不迷,他就成就;第一念覺,第二念迷了,那就入六道去了。
本当に念仏して往生する人は、一生涯人に対する礼節や敬いを忘れることはありません。業障(脚注1)を懺悔し、発心して念仏するとき、用いるのは真心であり、敬いの心です。ですから阿弥陀仏はその人を極楽世界に導くのです。凡夫と聖人の違いは一念にあります。一念が覚っていれば凡夫は聖人になり、一念に迷いがあれば六道に入ります。皆さんは弥勒菩薩が説いた一念のことをよく覚えておいてください。覚りの念があり、念がことごとく覚っていて迷いがなければ、その人は成就します。最初に覚りの念があっても、次の念に迷いがあれば、六道に入ってしまいます。

所以­我們如何能保持念念覺?在我們這個世界,凡是到我們世界來生活的這些眾生,這個範圍很大,一切動物、植物,連礦物,它沒有在別的星球,在這個地球,跟這個地球上所有的眾生­有共業,沒有共業它不會來。
私たちはどうすれば覚りの念を保つことができるでしょうか?私たちのこの世界、およそこの世界に来て生活している衆生というのは範囲がとても広く、すべての動物、植物、鉱物でさえも、別の星ではなくこの地球にあります。地球上のすべての衆生には共業(脚注2)があり、共業がなければ来ることはありません。

就是一粒沙塵,別的星球的沙塵,跟我們沒有緣分也不會落在地球上,落在地球上統是有緣的眾生,這是我們禮敬的對象。夠不夠?不夠,還要擴大,擴­大到遍法界虛空界無量無邊的星系,這裡面的動物、植物、礦物,我們這個禮敬都要到位,清淨平等、究竟圓滿的禮敬。你要是不明白這個道理,不知道這個境界,這禮敬你沒法子修­。
つまり一粒の砂塵、別の星の砂塵は、私たちと縁が無ければ地球に落ちてくることはありません。地球に落ちてくるものはすべて縁のある衆生です。これは私たちが敬う対象となるものです。(敬いの心は)足りているでしょうか?足りません。さらに拡大しなければなりません。法界虚空界(全宇宙)の無量無辺(限りない彼方)の恒星系まで拡大し、その中の動物、植物、鉱物にまで私たちの礼敬(敬いの心)が至らなければなりません。清らかで平等、究極円満の礼敬です。あなたがもしこの道理を知らず、この境地を知らないのであれば、あなたは礼敬を修めることはできません。

<脚注>
1.業障
(ごっしょう)・・・・自らの悪業によって生じた障害。
2.共業(ぐうごう)・・・・相互に共通するような状態にありうるような果報をひきおこす力を共業(ぐうごう)といい、自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業とよぶ。(「ウィキペデリア」より)


諸佛を敬う(三)

2011-09-13 | 【仏陀の教育】


禮敬諸佛(三) / 諸仏を敬う(三)
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二四O集)2010/1/18

可是我們這個法門裡頭,在第二品經文第一句「咸共遵修普賢大士之」,你就明白了,淨宗法門的殊勝,沒有任何法門能跟它相比,它是直接修普賢大士之。這不修,行嗎?不敬­,行嗎?《菩薩戒經》裡面,佛告訴我們,「一切男子是我父,一切女人是我母」,這是教我們什麼?教我們怎樣看待眾生。中國古人,不是現代人,現代人已經不行了,對父母都不­尊重。
私たちの法門には、第二品経文の第一句に「咸共遵修普賢大士之」(脚注1)とあるので、浄土法門の殊勝なことが分かります。どの法門とも比較できませんが、(浄土宗は)直接普賢大士の徳を修めるものです。これを修めなくて良いでしょうか?敬わないでよいでしょうか?『菩薩戒経』の中で、仏様は説いています。「一切男子是我父,一切女人是我母」(すべての男性は自分の父親であり、すべての女性は自分の母親である)、これは私たちに何を教えているのでしょう?どのように衆生に接すれば良いかを教えています。中国の古人はこうでした。現代人はもう父母を尊重しません。

古人對父母尊重,最尊重的是父母,所以孝順、孝敬,要把孝敬父母這個心,孝順天下一切眾生。讀了《華嚴經》明白了,要把孝順父母的心孝順遍法界虛空界一切眾生,這華­嚴境界,這是西方極樂世界的境界。《禮記》「曲禮曰:毋不敬」,沒有細說,佛在《華嚴經》上講得詳細,祖師大的講解更清楚、更明瞭,我們自己要細心去體會、要怎樣落實,­落實我們就受用到,真學會了。
古人は父母を尊重しました。父母を最も尊重していました。孝順、孝敬と言いますが、父母に仕える心で、天下のすべての衆生に仕えなければなりません。『華厳経』を読めば分かります。父母に仕える心で、法界虚空界(全宇宙)のすべての衆生に仕えること、これが華厳の境地です。これは西方極楽浄土の境地です。『礼記』には「曲禮曰:毋不敬」(曲礼曰く、敬せざることなかれ)とありますが、詳細は書かれていません。仏様は『華厳経』で詳細に説かれています。祖師大徳の解説はさらに明解、明瞭です。私たちは注意深く体験し、何とかして実行しなければなりません。実行してご利益を受けたなら、本当に習得したということです。

你能把它落實你就是普賢菩薩,從初信位,縱然沒有證得初信,你方向、目標一點都沒錯,完全正確,放下就契入,只要放下執著,你就入門了。禮敬­重要,記住它在第一位,我們今天因為第一位沒修好,所以第二位得不到。十願就像十層大樓一樣,禮敬是第一層,第一層沒有修到,你怎麼能上去第二層?真搞清楚、搞明白,就曉­得我應該在哪裡學習。
あなたがそれを実行すれば、あなたは普賢菩薩になります。初信の位を得られなくても、あなたの方向性や目標は間違っていないので、(あとは執着を)放下すれば良いのです。ただ執着を放下すれば、入門することができます。礼敬は重要です。それが第一であることを覚えておいてください。私たちは第一のことを修めていないため、第二の位を得られないのです。「十願」とは十階建てのビルのようなもので、一階を修めていないのに、どうして二階にあがれるでしょう?本当に(道理を)理解すれば、どこから学ぶべきかが分かります。

<脚注>
1.「咸共遵修普賢大士之」
・・・・咸(みな)共に普賢大士のに遵(したが)い修める。