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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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鐘をつく功徳

2011-09-13 | 【仏陀の教育】


擊鐘聲功 / 鐘をつく功徳
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二三七集)2010/1/4

幫助眾生,這佛家常講,幫助有緣眾生。什麼是有緣?他相信,他能接受,他依教奉行,他就能得到這個受用,他就能了解事實真相。
衆生を助けること。これは仏様がよく説かれていることです。縁のある衆生を助けること。縁がある(有縁)とはどういうことでしょうか?その人が信じて受け入れ、その人が教義に沿って実行すれば、その人は利益を享受することができ、事実の真相を理解することができます。

明白這些道理,你才曉得這個擊鐘聲它功的由­來,它為什麼有功。這個地方在講經,在說教,在教學,我們在座的人聽懂了,我們肉眼看不見的眾生很多,在,我們明白了,這點點滴滴的物質,桌椅板凳、這個房子每一粒的微­塵,現在科學講每一個原子、每一個電子、每一個小光子,它都在聞法,這都是我們無法想像的,真正不可思議。
これらの道理が分かれば、あなたは鐘をつく功徳の由来や、なぜ功徳があるのかを理解することができます。ここで経典を説き、説教をし、学んで、私たちは理解しています。私たちの肉眼では見ることのできない衆生はたくさんいます。それらが存在することを私たちは知っています。このわずかな物質、テーブルや椅子、この部屋の一粒一粒の微塵(脚注1)、現代科学で言う一つ一つの原子、電子、光子、それらはみな法を聞いているのです。これは私たちが想像することのできない、本当に不可思議なことです。

效果呢?就像《還源觀》上所講的,起心動念、言語造作,「周遍法­界,出生無盡,含容空有」,真的一點都不錯。這樣子我們就想到,一切三惡道的眾生聽到鐘聲,他的苦,那個痛苦就暫停。所以寺廟早晚敲幽冥鐘一百零八,道理在此地。如果這個­道場真正是修道,天天在修學,那個功多大!縱然沒有這個鐘聲,也給這些鬼神帶來暫時的止苦,離苦得樂,擊鐘聲它功的由來。
(見えない衆生に聞かせる)効果はあるでしょうか?『還源観』で説かれているように、心の起こりや意念の動き、言語や動作は、「周遍法界、出生無尽、含容空有」(全宇宙に限りなく広がる)(脚注2)のであり、それは間違いではありません。このようなところから私たちは、すべての三悪道(脚注3)の衆生に鐘の音が聞こえれば、彼らの苦しみを一時でも止められる、ということに思い至ります。お寺で朝晩一〇八回鐘をつくのはこのような道理からなのです。もしこの道場が本当に修道に励み、毎日修学していれば、その功徳はどれだけ大きいことでしょう!(そのような功徳があれば)たとえ鐘の音がなくても、それらの鬼神の苦しみを少しだけ止めてあげられます。苦しみを離れて安楽を得ること。これが鐘をつく功徳の由来です。

<脚注>
1.微塵
(みじん)・・・・物質の最小単位である極微(ごくみ)を中心に、上下四方の六方から極微が結合してできた極めて小さい単位。

2.「周遍法界、出生無尽、含容空有」(法界に遍く周り、出生尽きること無く、空有を含容す)・・・・心の起こりや意念の動き、言語動作はすべて、全宇宙に波動として広がり、尽きることなく生じ、実体の有無までもすべて包含している。(解釈:筆者)

3.三悪道(さんあくどう)・・・・「地獄」、「餓鬼」、「畜生」という悪業の結果人が堕ちていく三つの道。


正信と迷信

2011-09-13 | 【仏陀の教育】


正信和迷信 / 正信と迷信
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二三四集)2010/12/27

所以智慧辯才是在佛法裡頭首先要取得的,它是以智慧為中心,為體,辯才為用,辯才就是教學方法。智慧是什麼?對於整個宇宙人生徹底明瞭,這是智慧,今天我們講的科學跟哲學­。我們很有幸,所以感激老師,我每天上課一定對老師行禮,沒有老師,永遠不認識。
智慧弁才こそが仏法の中で先ず獲得しなければならないものです。仏法は智慧を中心としています。弁才とは教学の方法のことです。智慧とは何でしょうか?すべての宇宙人生に対して完全に明瞭であること、これが智慧です。今日私たちの言うところの科学と哲学です。私たちは(仏法を知ることができて)幸せです。ですから先生には深く感謝しています。私は毎日説法の際には、必ず先生にお辞儀をします。先生がいなければ、永遠に(仏法を)知ることはありませんでした。

老師帶給我們一生,真的人生最高的享受,這個經題裡面「清淨平等覺」,我們的心(精神)沒­有被染污,永遠住在平等,覺而不迷,這就是最高的享受,最高的享受跟名聞利養不相干。
先生は私たちの一生に、本当に “人生最高の享受” を与えて下さいました。それは仏典の中の「清浄 平等 覚」です。私たちの心(精神)は汚染されず、永遠に平等であり、覚って迷うことがない。“最高の享受” は名聞利養(脚注1)などとは相容れないものです。

迷而不覺,這就講到迷信。什麼叫迷信?事實真相沒有搞清楚,你相信它是迷信,你不相信­它也是迷信,沒搞清楚,信與不信統是迷信,一個是迷的相信,一個是迷不相信,所以統統是迷信。什麼是正信?統統搞清楚、搞明白了,你相信它是正信,不相信它也是正信,我搞­清楚了,你了解了。所以都得要把事實真相搞清楚、搞明白才行。
「迷而不覚」(迷って覚らず)、これは迷信のことです。何を迷信というのでしょうか?事実の真相が明らかでないことです。あなたはそれが迷信であると信じながら、それを迷信であるとも信じない、はっきりしない。信じる信じないというのはすべて迷信で、一つは迷って信じており、一つは迷って信じられない。ですからすべて迷信です。正信とは何でしょうか?すべてはっきりと理解し、何が正信で何が正信ではないかを理解していることです。(筆者意訳)ですから事実の真相を明瞭に理解しなければなりません。

<脚注>
1.名聞利養
(みょうもんりよう)・・・・名声と利得。名誉欲と財欲に駆り立てるもの。


衆生は光を放っている

2011-08-22 | 【仏陀の教育】


一切眾生都有光 / 一切の衆生は光を放っている
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二三三集)2010/12/26 

「又光明者,自瑩(亮)謂之光」,自身放的,身光,頭部的是頂上光,是從自身放的。這個事情並不稀奇,所有一切眾生都有光,學氣功的人他說是氣,佛法稱之為光,顏色不一樣­、大小不一樣。有氣功的人能看得出來,看到光的顏色不同、大小不一樣,知道你的身體健康狀況。
「又光明者,自瑩(亮)謂之光」、自分で放つものを身光、頭部からのは頂上光といいます。この事は特に珍しい事ではありません。すべて一切の衆生には光があります。気功を学んでいる人は「気」と言いますが、仏法では「光」と言います。色も大きさもそれぞれ異なります。気功ができる人は見ることができます。光の色の違いや大きさの違いを見ることができます。体の健康状態も見ることができます。

以前我住在加州的時候,遇到大陸幾位高級的氣功師,他們來看我,聽我講經,他­沒跟我說,跟同學們說,他說法師氣功比他還高。我也沒學過氣功,我根本就不懂。他怎麼說呢?他說我身上放的光是金色的光,這光裡面最好的。他說我不相信,我是天天講經,不­過就是心地清淨一點,沒有什麼胡思亂想,想的都是經教,心比較清淨、比較單純。他們確實也有一點能力,特別看人體生病,尤其像癌症這些,他都能指出你什麼地方有問題,看得­都相當準確。
昔私がカリフォルニアに住んでいた頃、(中国)大陸の高名な気功師たちと会いました。彼らは私の説法を聴きに来たのですが、彼らは私ではなく同門の者に、「法師の気功は自分よりも上だ」と言ったようです。私は気功を学んだことはありませんし、まったく分かりません。彼らは何と言ったかというと、私の体が放っている光は金色の光で、光の中で最も良いものだと言ったそうです。私には分かりません。私は毎日説法をしていますが、心は少しばかり清浄で、何かをあれこれ妄想することもありません。考えるのは経典のことで、心はわりと清浄で単純です。 彼らには確かに能力があるようです。特に人体の病気、それも癌などを見ることができます。彼らはどこに問題があるかを、かなり正確に指摘することができます。

  這些佛經裡面講的光,確確實實不但一切人都有光,一切動物也有光,一切植物也有光,動物的光比植物強,植物比較上微弱,統統有。我們現在主要是心浮氣躁,妄念太多,心定下­來就看出來了,就能夠現前。佛放光,其實我們人也放光,心地清淨、慈悲,他有清淨慈悲光,有智慧光,這佛經上講得很多,都是真的,都不是假的。
これらの仏典の中で説かれている「光」ですが、人だけではなく、すべての動物、すべての植物にも光があります。動物の光は植物よりも強く、植物の光は比較的微弱なものですが、あらゆるものに光があります。私たちは今落ち着きがなく妄念が多いのですが、心が静まり定まったときに(光を)見ることができます。仏様は光を放っていますが、実は私たち人間も光を放っています。心が清らかで、慈悲があれば、清浄慈悲の光があり、智慧の光があります。これは仏典にたくさん説かれています。すべて真実で、偽りではありません。

一般鬼神都能看見,人身心清­淨、慈悲、智慧,所以鬼神看到了對你尊敬;心行不正,他也有光,顏色不一樣的,灰色的、色的,這一類,鬼神就瞧不起你,鬼神戲弄你、欺負你。正人君子鬼神尊敬,這有道理­在,人本來比他們能力強。古人的能力比我們現在強,為什麼?
普通の鬼神はみな(光を)見ることができます。ですから人の身心が清らかで、慈悲があり、智慧があれば、それを見た鬼神はあなたを尊敬します。心や行いに不正があっても、人は光を放ちますが、色が異なります。灰色や黒といった類のもので、鬼神はあなたを軽蔑し、からかい、馬鹿にします。正人君子を鬼神が尊敬するのには、ここに道理があります。人間は本来彼らより能力が高いのです。 しかし古人の能力は現代の私たちよりも高い。なぜでしょう?

古人心是定的,現在心是亂的,古人心平氣和,現在心浮氣躁,不能比。所以古時候社會安定,天地鬼神都能夠配合,­風調雨順,五穀豐登。現在呢?現在主要是人心不善,人心不善,鬼神也亂了,整個地球也亂了,什麼災難以前沒聽說過的現在都發生了。這些現象很難理解,大乘教上都有,「從心­想生」,我們的心行不善,所以不善的境界就現前了,就這麼回事情,端正心念,這些災變自然就沒有了。
古人の心は静かで定まっていましたが、現代人の心は乱れているからです。古人の心は平静でしたが、現代人は落ち着かないので比較になりません。ですから古代の社会は安定していました。天地鬼神も呼応して、気候も穏やかで、五穀豊穣でした。現代はどうでしょう?現代では特に人の心が不善なので、鬼神の心も乱れ、地球全体が乱れています。これまで無かったような災害が今では発生しています。これらの現象は理解しがたいものですが、大乗仏教ではすべて「心に従って生じる」と説いています。私たちの心や行いが不善だから、善くない現象が起こるということです。心を正すことができれば、これらの災害は自然になくなります。


戒 定 慧

2011-07-12 | 【仏陀の教育】

戒定慧 / 戒定慧
(1995-05-09早餐)

佛法修學總離不開「戒定慧」。「戒」就是守法、守規矩、守世尊在一切經典裡面的教訓,我們遵守著去做。
仏法の修学は常に「戒 定 慧」から離れることはありません。「戒」とは法を守り、規則を守り、世尊が経典の中で説かれている教えを守り、私たちはそれを遵守しつつ実行することです。

修行最重要的樞紐就是「定」,「定」就是清淨心。能在一切順逆境界中修自己的清淨心,不為人事環境所干擾、所污染,那你的道業就成功了。
修行で最も重要な鍵は、「定」です。「定」とは清浄心(清らかな心)です。一切の順境と逆境とにおいて、自分の清浄心を修めることができ、世間の環境においても煩わされず、汚染されないなら、あなたの仏道修行は成功です。

有定就有慧,「慧」就是能辨別是非善惡,雖能夠辨別,但絕對不會起心動念。因為一起心動念就又落到意識裡去,那就沒有戒定慧了。
「定」があれば「慧」が生まれます。「慧」とは是非や善悪を見極める能力のことで、見極めながらも、絶対に心を動かしません。なぜなら、心を動かせばまた意識の中に落ちてしまい、それでは戒・定・慧はなくなってしまいます。

所以諸佛菩薩對任何人都沒有怨恨,縱然有惡人、惡事來障道,諸佛菩薩也視之自然,不會起怨恨心。為什麼呢?希望惡人能夠早日覺悟、能回頭。因為惡人也有佛性,所以佛菩薩對他也很尊敬。
ですから諸仏菩薩は如何なる人に対しても恨みを持たず、悪人の悪事によって障碍を受けても、諸仏菩薩はそれさえも自然と見なして、恨みの心を起こしません。なぜでしょうか?悪人が早く悟り、改心することを望んでいるからです。なぜなら悪人にも仏性(脚注1)があり、仏・菩薩は悪人に対しても尊重するからです。

<解釈>
1.仏性
(ぶっしょう)・・・すべての生き物が生まれながらにもっている、仏となることができる性質。仏心。仏の本当の姿や心。仏の本性。

 「戒」・・・戒律。
 「定」・・・清浄心。不動心。禅定。
 「慧」・・・智慧。

 「戒」を守る結果として「定」が得られ、「定」を得た結果として「慧」(智慧)を得る。それを身につける基礎的な資質は「忍耐」であり、「忍耐」がなければ戒律を守ることができず、清浄心得ることも、智慧を開くこともできないという。


道理を理解する

2011-07-12 | 【仏陀の教育】

明理 / 道理を理解する
(1995-01-29早餐)

人生在世最難得的,是有一個正確的生活目標和方向,即是有良好的生活教育。中國古聖先賢教導我們做好人、存好心,這是一世的教育。修得很好的,來世可以生天,欲界六層天都是好人的去處。
人生で最も得難いものは、一つの正しい生活目標と方向、すなわち良質な生活教育です。中国古代の聖賢は、善人になり、良い心を持つように私たちを導いていますが、これは一生涯の教育です。よく修めていれば、来世は天に生まれます。欲界六層天はすべて善人が行くところです。

佛陀給我們的方向、目標,確實是究竟圓滿的-永離三界、永脫輪迴。可是一定要明理,明理就是要明瞭事實真相。三界輪迴的起因是妄想、執著,特別是我執,有「我」、「我所」,這是造成六道輪迴根本的原因。
仏陀が私たちに与えた方向・目標は、究極的に円満な、永遠に三界(脚注1)を離れ、輪廻を脱するためのものです。しかし必ず道理を理解しなければなりません。道理を理解するとは、事実の真相を明瞭にすることです。三界輪廻の原因は、妄想、執着ですが、特に我執(脚注2)です。「我」(エゴ)、「我所」(所有する心)は、六道輪廻を造り出すの根本的な原因です。

想出三界,要破我執、我所。「我所」就是我所有的,人起心動念都是我所有的,只要有「我所有的」這個觀念,三界六道輪迴就出不去。大小乘佛法都是破「我」,修學小乘的人,我執斷掉,能證得阿羅漢果,他就出三界了。
三界を抜け出したいと思うなら、「我執」「我所」を打ち破らなければなりません。「我所」とは私が所有すると考えることです。人の心がすべて私が所有しているというように、ただ「私が所有する」という概念があるだけで、三界六道輪廻から抜け出すことはできません。大乗、小乗仏教はすべて「我」を打ち破ります。小乗を学ぶ人は、「我執」を断って阿羅漢果に証せられたなら、彼は三界を出ています。

「我」尚且沒有,哪裡有「我所有的」?「我所有的」名聞利養,這些東西害慘了我們。無量劫來,我們不是沒有遇過佛法,也不是沒有認真的去修學,為什麼還是落到今天這個地步?就是被「我」、「我所有的」害了。
「我」が無くなれば、どこに「私が所有する」ものがあるのでしょうか?「私が所有する」名聞利養(名誉や財欲)、これらのものは私たちを苦しめます。計り知れないほど長い(生まれ変わりの)年月の中で、私たちは仏法に出会わなかったのでも、真面目に修行をしなかった訳でもありません。ではなぜ、今日このような状況にあるのでしょうか?それは「我」(エゴ)、「我所」(所有する心)に妨げられているからです。

大乘經典的高明,特別是大乘的般若,就是叫你起心動念為佛法,為一切眾生。可是世間人總是害怕、恐懼,怕的是自己衣食沒有著落,生活會有困難,這就是我執-對「我」與「我所有的」執著。有這樣的念頭,就不是個學佛人,也得不到佛法的真實利益。
大乗経典の優れているところは、特に大乗の般若(脚注3)です。それはつまり、仏法と一切衆生の為に心を使うことです。しかし世間の人はいつも怖がり、自分の衣食の当てが無くなり、生活が困難になることを恐れています。これが「我執」です。「我」(エゴ)と「私が所有するという心」に対する執着です。このような考えがあるなら、仏法を学ぶ人とはいえず、仏法の真実のご利益(りやく)を得ることもできません。

《金剛經》說得很好:「若菩薩有我相、人相、眾生相、壽者相,即非菩薩。」想想這句話是什麼意思?它真正的意思是:如果我們念念之中還有「我」、「我所有的」,這根本就不是佛的學生,根本就不是學佛的人。還有「我」跟「我所有」,就是留戀這個世間,是不能往生的。
≪金剛経≫に説かれています。「もし菩薩に我相、人相、衆生相、壽者相あらば、即ち菩薩に非ず。」この言葉の意味を考えてみましょう。この言葉の真の意味は、もし私たちの心の中にまだ「我」、「私が所有するという心」があるなら、それは根本的に仏の学生ではなく、仏法を学ぶ人ではないということです。まだ「我」(エゴ)と「私が所有するという心」があるなら、この世界に未練を持っているということで、往生することはできません。

基督教徒為什麼能升天?是他的念頭能把一切榮耀歸於主的緣故,如果他把一切榮耀歸於他自己,他就不能升天了,因為他的「我」沒有破掉。所以大家仔細想想這個道理。
キリスト教徒はなぜ昇天できるのでしょうか?それはすべての栄誉を主に帰しているからです。もしすべての栄誉を自分自身に置いているのであれば、「我」(エゴ)を捨てていないので、昇天することはできません。皆さん、この道理についてよく考えてみて下さい。

<解釈>
1.三界
(さんがい)・・・一切衆生が生まれ、また死んで往来する世界。欲界、色界、無色界の三つの世界。
2.我執(がしゅう)・・・自分中心の考えに囚われて、そこから離れられないこと。人には常住不変の実体があるとする誤った考え。
3.般若(はんにゃ)・・・悟りを得、真理を把握する智慧のこと。


仏教の本質

2011-07-12 | 【仏陀の教育】

佛教本質 / 仏教の本質
(1995-02-10早餐)

佛教在現代社會也在革命,但若不能夠守住佛教真正的精神之所在,它就會變質。一變質,真正佛教就滅掉了,所以要守住這個本質。本質就是《無量壽經》經題上講的:「清淨、平等、覺。」這是根本,不但是淨宗的根本,而且所有一切大乘佛法,都建立在這個根本上。所有一切法門,都是要達到這個目標,離開這個目標,就不是佛法了。
仏教もまた現代社会において改革されています。しかし、もし仏教の本当の精神を守ることができなければ、質が変わってしまいます。一たび質が変われば、真の仏教は滅んでしまいます。ですから本質を守らなければなりません。本質とは 『無量寿経』 に説かれている、「清浄、平等、覚」です。
これが根本です。浄土宗の根本というだけでなく、大乗仏教はすべてこの根本の上に立っています。すべての法門は、この目標に到達しなければならず、この目標から離れているなら、それは仏法ではありません。

佛法經典裡頭有無盡的寶藏,你自己要會去探求、發現。任何一部經論裡面都有無盡的寶藏,而且一切經論都是互通的,所以一部經通達了,一切經就都通達。為什麼會通達?就是每一部經,他的目標都是清淨、平等、覺。你只要得到了清淨、平等、覺,那一切經就都通達而沒有障礙了。
仏法の経典の中には無尽の宝蔵があり、あなたは自分で探求し、発見しなければなりません。如何なる経典の中にも無尽の宝蔵があり、その上すべての経典は互いに通じています。ですから一つの経典に通じていれば、すべての経典に通じることができます。どうして通じるのかといえば、すべての経典の目標は、清浄、平等、覚 だからです。あなたは清浄、平等覚に達したなら、すべての経典に通じて、障碍がなくなります。

一部經沒有通,部部經都不通,這是什麼原因?因為清淨心、平等心沒有得到,還是迷惑顛倒,所以不通。大家明白這個事實真相,就能體會佛法要重在真正修行,才能通得了。不是真正修行,若只在文字上下功夫,那是絕對不會通的。
一つの経典に通じていなければ、その他の経典にも通じていません。その原因は、清浄心、平等心が得られておらず、まだ迷いがあるからです。皆さんはこの事実の真相を理解すれば、仏法は本当の修行を重んじることを身をもって理解することができ、はじめて(経典にも)通じることができます。本当の修行をすることなく、ただ文字の上だけで努力をしていても、絶対に通じることはできません。


仏法修学の目的

2011-05-22 | 【仏陀の教育】

佛法修學目的 / 仏法修学の目的
(1999-04-07)

在四十卷《華嚴經》中,世尊為我們說明,十方世界一切眾生「種種心量」,這是很複雜的現象。種種不同的心量,從何產生?不外乎妄想、分別、執著。心量原本是相同的,佛法講:「心包太虛,量周沙界」,這是我們本來的心量,諸佛如是,十方法界一切眾生無不如是。而原本這麼大的心量,現在變成這麼小;原本單純的心量變成這麼複雜,這是我們要深深去省思的。
四十巻の『華厳経』の中で、世尊は私たちに、十方世界すべての衆生は「種種心量」だと説いています。これはとても複雑な現象です。それぞれ心の容量は異なりますが、違いはどこから生じているのでしょうか?それは妄想、分別、執着【注1-3】に他なりません。心の容量の根源は同じです。仏法は説いています。「心包太虚、量周沙界」(心は大宇宙を包み、大宇宙に行き渡る)【注4】、これが私たちの本来の心の容量です。諸仏はこのようですが、十方法界のあらゆる衆生はこうではありません。もともとそれほど大きな心の容量だったのが、今はこんなに小さくなってしまった。もともとの単純な心は、これほど複雑になってしまった。これは私たちが深く反省すべきことです。
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 【注1】 妄想(もうそう)・・・真実ではないものを真実であると誤って考えること。妄念。邪念。
 【注2】 分別(ふんべつ)・・・もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。
 【注3】 執着(しゅうちゃく)・・・一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。
 【注4】 「心包太虛,量周沙界」・・・心太虚を包み、量沙界を周る。心は大宇宙を包み、大宇宙に行き渡る、の意。(筆者調べ)
 参考:http://zhidao.baidu.com/question/118017847.html?fr=qrl&cid=208&index=1
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原本的心量顯示出來的境界,即「一真法界」。一真法界的作用,《華嚴經》稱作「佛華嚴」,淨土經稱作「極樂世界」。這些都是我們本有的,正如馬鳴菩薩所說的「本覺本有」。一真本有,極樂本有,包太虛、周沙界本有,諸佛菩薩對一切眾生的教學,就是教人恢復自性本有的而已。所以佛不度眾生,是指佛沒有能力幫助眾生多添加一點,完全是恢復自性而已。要知道,恢復本性才是大圓滿、大自在。佛的圓滿、自在、快樂,是我們永遠無法想像得到,而這些都是我們自性本來具足的。
もともとの心の容量によって現れる境地とは、即ち「一真法界」(真の宇宙の実相)【注5】です。一真法界の作用は、『華厳経』で「佛華厳」と言い、浄土経では「極楽世界」と言います。これらはすべて私たちがもともと備えているものです。馬鳴菩薩の説いている「本覚本有【注6】のことです。一真、極楽、太虚(宇宙の根源)【注7】、沙界(無量無数にある世界)【注8】はもともと私たちに備わっているものであり、諸仏菩薩のすべての衆生への教育は、人の本性にもともと備わっている能力を回復させるように教えているにすぎません。ですから「佛不度衆生」(仏は衆生を済度しない)の意味は、仏は衆生に何かを与える能力はなく、完全に自性(自己の本性・本質)を回復させる、ということを指しています。本性を回復してこそ大円満、大自在となるのです。仏の円満、自在、快楽、それは私たちには遠く想像も及ばない。しかもこれらはすべて私たちの自性がもともと備えているものなのです。
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 【注5】 一真法界(いっしんほっかい)・・・・華厳経の極理を示す宇宙観。唯一で真実な絶対無差別の宇宙の実相。唯一絶対の永遠不変の真理。
 【注6】 本覚本有・・・本性としてもともと備えている悟り。本覚(ほんがく)は、人間に本来等しく備わっている仏の悟り。
 【注7】 太虚(たいきょ)・・・虚空。宇宙の本体である根源的形態。
 【注8】 沙界(しゃかい)・・・無量無数にある世界。
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「阿彌陀」翻成中文的意思,就是「無量」。心量是無量的,智慧是無量的,能是無量的,才藝是無量的,壽命是無量的,享樂是無量的,無一不是無量的。而且這些無量是我們自性本來具足的,不是向外求得的,所以佛法稱為內學,向自己真心裡面去求。若能恢復自性的無量,就稱作佛菩薩,稱作法身大士;迷失了自性的無量,就是凡夫、眾生。由此可知,整個佛法歸納起來,只不過是迷悟的問題而已。
「阿弥陀」は中国語に翻訳すると、「無量」(計ることができないほど多い)です。心の容量は無量、智慧も無量、人徳も無量、才能や技芸も無量、寿命も無量、享楽も無量、無量でないものはありません。しかもこのような無量は私たちの自性にもともと備わっているものです。外に求めて得られるものではありません。ですから仏法では内学と言い、自分の真心の内に求めます。もし自性の無量が回復したなら、それは仏・菩薩と言い、法身大士と言います。自性の無量を見失っているのが凡夫、衆生です。このことから分かるのは、すべての仏法を要約すれば、ただ迷いと悟りの問題ということにすぎません。

佛法教學的目的有三:一、「斷惡修善」,這是最初方便,是學佛入門的手段。希望你做個純善之人,清淨的善心善行能幫助你覺悟;惡心惡行決定是迷惑,不可能開悟。二、「破迷開悟」,就是對於宇宙人生的大道理、事實真相,逐漸明白了,就有可能脫離六道輪迴,也可能脫離十法界。
仏法の教えには三つの目的があります。一つは、「断悪修善」(悪を断って善を修める)。これは最初の方法で、仏法入門の手段です。純善の人になってほしい、清らかな善の心による善行はあなたの悟りを助けます。悪心による悪行は心の迷いです。二つ目は、「破迷開悟」(迷いを破り悟りを開く)。これは宇宙人生の道理、事実の真相に対して、少しずつ明瞭になれば、六道輪廻を離れ、十法界を離れることができるかもしれません。

現在我們就在這個邊緣上,有時醒過來,但是醒過來的時間不長,名聞利養、五欲六塵的境界一現前,立刻又迷惑。這個現象雖然不算成就,但是也相當可貴。世間有幾個人在一生當中能夠覺悟一次、兩次?像暗當中放出閃電的光明,雖然極其短暫,但非常可貴。我們希望這種閃光能多閃幾次,密度愈來愈多,光度愈來愈強,這是好現象、好徵兆。
今私たちはこの瀬戸際にいて、時々目覚めることがありますが、目覚めている時間が短く、五欲六塵の境界がひとたび現れれば、すぐに心に迷いが生じます。このような現象は成功とは言えませんが、相当に貴重なものです。世間のどれだけの人が一生のうちに一、二度たりとも悟ることがあるでしょうか?暗闇の中で放たれる稲妻の光のように、ごく短くても、非常に貴重なものです。ですから私たちは、このような閃光が多くなり、密度もだんだん濃くなり、光度もだんだん強くなるように願うのです。これは良い現象、良い兆候です。

三、「轉凡成聖」,唯有真正覺悟、真正明白,才真想學佛菩薩;真想學,就能真成就。佛說,一個人在一生當中決定能成就,問題在於肯不肯認真。夏蓮居老居士在《淨語》裡講「真幹」,只要肯真幹,一生就能成就。《華嚴經》中,善財童子一生成就;《法華經》上,龍女八歲成佛;世尊舉出這些例子就是說明,我們也能做到。舉童男、童女是表示,用赤子之心才能成就。小孩的心還沒有受過污染,不受污染的心就能成就。
三つ目は、「転凡成聖」(凡人を転じて聖人と成す)です。ただ真に悟り、真に(事実の真相が)明白になって、初めて真に仏・菩薩に学びたくなるものです。本当に学びたければ、本当に成就することができます。仏は説いています。人が一生で成就するかどうかを決めるのは、本気であるかどうかの問題です。夏蓮居・居士は『浄語』の中で「本当に実行する」ことを説いています。ただ本当に実行することで、この一生で成就することができます。『華厳経』の中の、善財童子はその一生で成就し、『法華経』の龍女は八歳で成就しました。世尊がこれらの例を挙げているのは、つまり私たちにもできるということです。童男、童女を例に挙げているのは、赤子の心があって成就できるということです。子供の心はまだ汚染されていませんが、汚染されない心であれば成就することができます。

能放下一切妄想、分別、執著,就不污染;於一切法還有好惡,心就污染了。世出世間一切諸法是清淨平等的,若在境界裡,起好惡、愛憎、控制、佔有的念頭,這是嚴重的污染。我們要學習諸佛菩薩,諸佛菩薩的境界是華藏世界、極樂世界,依正莊嚴,美不勝收。雖然他們有種種享受,但是沒有控制、佔有一切人事物的念頭,念頭都沒有,何況是行為?那才是真樂。
一切の妄想、分別、執着を手放すことができれば、汚染されません。すべてにおいてまだ好き嫌いがあるなら、心は汚染されます。世間のすべての諸法は清浄・平等ですが、もし境地の中に、好き嫌い、愛憎、支配、占有の心があるなら、この汚染は重大なものです。私たちは諸仏菩薩に学び、諸仏菩薩の境界は華厳世界、極楽世界、依正荘厳、素晴らしさは言い尽くせません。彼らにはさまざまな享受があるけれども、制御することや人や事物を占有しようという意識がありません。意識がまったくないのだから、行為があるでしょうか?それが真の喜びというものです。

我們現在無論是樂也好、苦也好,都有控制、佔有的念頭與行為,那是造業。由此可知,起心動念想佔有、想控制,就是造業。造業決定是惡業多,善業少。何謂善業?偶爾短暫的把控制、佔有放鬆一點,就是善業;抓緊一點,又造惡業了,善惡無非如是而已。所以佛才講,三惡道是六道眾生的老家,三善道是六道眾生出來觀光旅遊。我們冷靜仔細去觀察,佛所講的確實是事實真相。
私たちは今喜びでも良いし、苦しみでも良いですが、すべて制御したり占有しようとする意識と行為があります。それは業を造ることです。ですから心の動きが占有しようとしたり、制御しようとするなら、それが業を造ることになります。業を造るのは間違いなく悪業が多く、善業は少ないものです。善業とは何でしょうか?時々短い間であっても、制御、占有の心を緩めること、それが善業です。強くすれば、また悪業を造ってしまいます。善悪というのはただこのようなものに過ぎません。仏は、三悪道【注9】は六道衆生の故郷で、三善道は六道衆生が観光旅行に出てくるところ、と説いています。私たちは冷静によく観察してみると、仏の説いているところは確かに事実の真相なのです。
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 【注9】 三悪道(さんあくどう)・・・地獄道、餓鬼道、畜生道の三つ。悪業の結果、人が堕ちていく世界。
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我希望同修們要覺悟,覺悟一定要學佛,釋迦牟尼佛是我們最佳的榜樣。我們以釋迦牟尼佛的教導做為基礎,這是我們根本的模式,然後才有定力。定力就是不會被外面境界所誘惑、動搖,逆緣、逆境不生煩惱,善緣、善境不起貪愛。有定力,自然就有智慧,智慧就是一切通達明瞭,這樣就可以學菩薩行、修菩薩道。
私は皆さんに悟って欲しい。悟るには必ず仏に学ばなければなりません。釈迦牟尼佛は私たちの最も良い模範です。私たちは釈迦牟尼佛の教えを基礎として、これを根本の模式としてこそ、定【注10】の力を得ることができます。定の力とは外界に誘惑・動揺されず、逆縁・逆境に煩悩を起こさず、善い縁や順境にも愛情を貪る心を起こしません。定の力があれば、自然と智慧が生まれ、智慧はすべてを明瞭にし、こうして菩薩行、菩薩道を学ぶことができるのです。
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 【注10】 定(じょう)・・・何事にも心を動かされない境地。禅定。
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所謂道,就是存大菩提心,以大慈大悲心,無條件的愛護一切眾生,幫助一切眾生。有這個心,若沒有行為,心是空的,必須以行為去落實,就是菩薩行。菩薩行在一般大乘經裡講六度:布施、持戒、忍辱、精進、禪定、般若;而《華嚴經》講十度:布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧、方便度、願度、力度、智度,說得詳細、圓滿。其實,六與十的內容是一樣,十度歸納起來就是六度,六度展開就是十度。十度,是把「般若」展開,般若是根本智,根本智起作用是後得智,所以有方便、願、力、智。後得智是智慧的作用,用在布施、持戒、忍辱、精進、禪定。所以說十度,只不過是把般若智慧詳細說明而已。
いわゆる道とは、大菩提心【注11】を心に留め、大慈悲心をもって、無条件に一切の衆生をいたわり、一切の衆生を助けることです。この心があるのに、もし行為が伴わないなら、その心は空(実体がない)です。必ず行為によって実行しなければなりません。それが菩薩行です。菩薩行については一般には大乗経の中で「六度」【注12】が説かれています。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若。『華厳経』には「十度」【注13】が説かれています。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、方便度、願度、力度、智度ですが、詳しく円満に説かれています。しかし実は、「六」と「十」の内容は同じものです。「十度」を帰納すればそれが「六度」であり、「六度」を展開すればそれが「十度」となります。「十度」は、「般若」の展開で、般若とは根本智です。根本智が働くことを後得智です。ですから方便、願、力、智があるのです。後得智は智慧の作用で、布施、持戒、忍辱、精進、禅定の中で作用します。ですから「十度」というのは、ただ般若の智慧を詳細に説明したものに過ぎません。
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 【注11】 菩提心(ぼだいしん)・・・悟りを求めようとする心。大乗では利他を強調し、悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心をいう。
 【注12】 六度(ろくど)・・・布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、般若(はんにゃ=智慧)。(=六波羅蜜)
 【注13】 十度(じゅうど)・・・布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、方便度、願度、力度、智度。
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我們在日常生活,處事待人接物之中,要真正做到六波羅蜜。波羅蜜是梵語,翻成中文的意思是到彼岸、圓滿,六種圓滿。布施要無條件,不著相,就是圓滿。《般若經》上講的「三輪體空」,就是不要執著我做了多少好事,也不要執著別人得了多少好處;圓滿一定是三輪體空。無我相、無人相、無眾生相、無壽者相,布施離四相,持戒也離四相,忍辱也離四相,精進也離四相,禪定也離四相,般若就是離相,這才稱作波羅蜜,這才是圓滿。希望同修們要細心去體會,放下自私自利,念念為社會、為一切眾生無條件的服務,盡心盡力幫助法界一切眾生。這一生修學,向諸佛菩薩學習,決定得到殊勝的結果。
私たちは日常生活において、真に六波羅蜜(=「六度」)【注14】を実行しなければなりません。波羅蜜は梵語(サンスクリット語)ですが、中国語に翻訳された意味は、「彼岸に至る」、「円満」、「六種円満」【注15-17】ということです。お布施は無条件で執着がなければ、それで円満です。『般若経』では「三輪体空【注18】を説いています。それは自分がどれだけ良いことをしたかに執着せず、他人がどれだけ良いものを得たかにも執着しないことです。円満は必ず「三輪体空」です。無我相(自我への固執がない)、無衆生相(衆生への固執がない)、無寿者相(長寿への固執がない)、布施は四相(生・老・病・死)を離れ、持戒も四相を離れ、忍辱も四相を離れ、精進も四相を離れ、禅定も四相を離れ、般若とはまさに相を離れることで、このようであれば波羅蜜と言えます。このようであって円満となります。道を同じくする皆さんはどうかよく注意して体得してください。私利私欲を手放し、社会の為に念仏し、一切衆生の為に無条件に奉仕し、できる限り法界の一切衆生を助けてください。この一生での修学は、諸仏菩薩に学べば、必ず殊勝な結果を得ることができます。
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 【注14】 六波羅蜜(ろくはらみつ)・・・大乗仏教における六種の修行。菩薩が涅槃に至る為の六つの徳目。(=六度)
 【注15】 彼岸(ひがん)・・・生死の迷いを河・海にたとえた、その向こう岸。悟りの境地をいう。
 【注16】 円満(えんまん)・・・功徳などが十分に満ち足りること。完全に満ち足りていること。
 【注17】 六種(ろくしゅ)・・・仏が説法する時に現れる六つの瑞相や、法会のとき仏前に供える六つの供物をいう。
 【注18】 三輪体空・・・布施する際に「布施する自分」、「布施する相手」、「布施する物品」の三つ(三輪)の価値に執着しないこと。「三輪空寂の布施」、「三輪清浄の布施」と同義と思われる。(筆者)
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第一回更新 2011-05-22
第一回訂正


共存共栄の多元文化をどう築いていくか

2011-05-16 | 【仏陀の教育】

如何建立共存共榮的多元文化 / 共存共栄の多元文化をどう築いていくか
(1999-01-17 淨空法師在世界宗教和平組織會議致辭/WCRP 世界宗教者平和会議(脚注1)でのあいさつ。)

一九九六年,我在澳洲結識了昆士蘭少數民族事務局的局長-尤里先生。他告訴我澳洲政府近年來採取開放政策,歡迎各個地區的人民移民澳洲。但是這些來自不同的國家,不同的地區,不同的種族,不同的文化,不同的思想,不同的宗教信仰,乃至於不同生活習慣的人民。現在大家居住在一起,如何能做到互相尊重,互相敬愛,互助合作,共存共榮,創造澳洲美好的生活環境和安定繁榮的社會。尤里先生的想法非常合理、非常難得,佛法裡所說的真實智慧,無過於此。
一九九六年、私はオーストラリアでクイーンズランド少数民族事務局の局長、ユーリイ先生と知り合いました。彼は、オーストラリア政府は近年開放政策を採っていて、各地の人々がオーストラリアに移民することを歓迎していると言いました。しかしこれらの移民してくる人々は、異なる国、異なる地区、異なる民族、異なる文化、異なる思想、異なる宗教信仰、そして異なる生活習慣をもつ人々です。今皆が一緒に暮らしていますが、どうすればお互いに尊重し、お互いに敬愛し、お互いに協力し、共存共栄でき、オーストラリアの美しい生活環境と安定的に繁栄する社会を実現できるでしょうか。ユーリイ先生の考え方はとても合理的で得がたいものですが、やはり仏法において説かれている真実の智慧、これ以上のものはありません。

去年年初,我訪問黃金海岸的邦大學,人文社會科學院保羅院長接待我們,他說這個學校有兩千多名學生,卻來自三十多個不同的國家地區,就像是一個小型的聯合國。他們也在尋找,用什麼方法融合一切多元文化,使全校師生能夠融洽的在一起生活,在一起學習,將來把這個融合多元文化的精神帶向全世界。
去年の年初、私はゴールド・コースト(Gold Coast) のボンド大学(Bond University)を訪問したとき、人文社会科学院のパウロ院長が私たちを迎えてくれました。彼は、この大学には二千人以上の学生がいて、三十以上の異なる国から来ていて、まるで小さな国連のようだと話していました。彼らもまたどのような方法で多元文化を融合させ、すべての教師と学生が一緒にうちとけて生活し、一緒に学習していくのかを探っていて、将来この多元文化融合の精神を全世界に広めたいとのことでした。

保羅院長的談話,使我即刻就想到《大方廣佛華嚴經》。此經開端,我們看到參與佛陀說法的聽眾,就有一百七十五個不同的族群,不同的社團,此是一會,若通說十方,則有無數無盡之族群。這正是我們現在所講的多元文化的大匯集。佛經上所說的宇宙人生的真相,就是指這些無量無數的族群,不同的文化思想集合在一起,大家皆享有各種和合圓融的真善美慧生活。
パウロ院長の話を聴いて、私は『大方廣佛華厳経』を思い出しました。この経典の初めに、見ることができます。かつて仏陀の説法に参加した聴衆が、ちょうど百七十五もの異なる民族、異なる組織であり、そこに集まって、通説十方の如く、要するに無数無尽の民族がいました。これはまさに私たちが今日言うところの多元文化の坩堝(るつぼ)です。仏典に説かれている宇宙人生の真相、それはつまり、計り知れないほど多くの民族、異なる文化や思想が一緒に集まって、皆で仲良くすばらしい真・善・美・慧の生活を享受することを指しています。

世尊和諸佛菩薩為了要達到這個目的,採取了教學的方法,就是要讓一切眾生認清宇宙人生的根源、真相。所以佛跟大家講真話,真話是什麼?盡虛空、遍法界原本就是一個妙好完美的整體。這種思想、見解,在中國古聖先賢也曾說過。周易說:「太極生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦生萬物。」老子說得更清楚,「天地與我同根,萬物與我一體。」此皆與佛說相近。
世尊と諸仏菩薩はこの目的を達成する為に、教育という方法を採りました。それはすべての衆生に宇宙人生の根源と真相をはっきりと認識させることです。ですから仏は皆さんに真実を語ります。真実とは何でしょうか?虚空、法界(全宇宙)はもともと一つの絶妙な全体であるということです。このような思想・見解は、中国古代の聖賢も説いています。周易は説いています。「太極は天地を生み、天地は四象(金・木・水・火)を生み、四象は八卦を生み、八卦は万物を生む。」 老子は更に明解に説いています。「天地は我と同根、万物は我と一体なり。」 これは皆、仏の説くところに近いものです。

我們要達到多元文化的和合,多元文化的圓融,首先必須要有這個認知,問題就解決了。凡人沒有這個認知,起心動念所作所為,總祇是顧到小小的身家,生起了自私自利的觀念。自私自利心行的發展,必定做出損人利己之事,這樣與別人就產生衝突、矛盾,互相侵犯、加害對方,這就造成天災人禍的根本原因。我們冷靜觀察世間,許許多多的災難從哪裡來的?就從自私心行中來的。所以佛講得非常正確,一切災難、一切不好的果報都是從痴迷而生的。
私たちは多元文化の和合、多元文化の円融(えんゆう)(脚注2)に到達する為には、まずこの認識がなければならず、認識できれば問題は解決します。凡人にはこの認識がなく、心の動きややること為すこと、いつも小さな自分や家庭のことだけを考えて、私利私欲の観念を起こしています。私利私欲の心や行為が発展すると、必ず人を損なってまで自分の利益を求めるようになり、そうして他人と衝突し、矛盾し、相互に侵害し、相手に危害を加えるようになる。このように天災人禍の根本的な原因が形成されるのです。私たちは冷静に世間を観察してみるに、多くの災難はいったいどこから来るのでしょうか?それは利己主義の心と行いから来るものです。ですから仏が説いているのは非常に正しく、一切の災難、一切の悪い果報はすべて私利私欲に溺れることから生じるのです。

譬如一顆大樹,這顆大樹是一個整體,我們把這個大樹比作宇宙,比作法界,自己比作樹上的一片樹葉。葉葉相看就產生對立、對抗,彼此猜疑。如果深入觀察,原來好幾片樹葉是從同一個枝條生出來的,是屬於同一族群,這就不會和其他的葉產生衝突了。如果再往下尋找,條條同生一枝,枝枝同生一幹,幹幹同生一本,本本同生於一根,找到根本,才曉得整個大樹是一個整體,一個大我,一個真實的自己,這才真正把自己的生命根源找到了。於是一切對立、矛盾、衝突煙消雲散,大慈大悲的心油然而生,愛護一切眾生跟愛護自己一樣,真正契入自他不二。
例えば一本の大樹。この大樹は全体であって、この大樹を宇宙・法界に例えてみれば、自己は大樹の上の一枚の葉っぱです。葉っぱがお互いに見合って対立し、対抗し、お互いに疑っている。しかしもし深く観察するなら、もともとこれらの葉っぱは同じ一つの枝から生えていて、同じ民族に属しているのであって、他の葉っぱと衝突することはありえません。さらにその下から探っていけば、それらの枝は同じ一本の枝から生えていて、その枝は同じ一本の幹から生えていて、幹は同じ一本であり、同じ一つの根っ子から生えています。根本を見つけて、はじめてすべての大樹が一つの全体、一つの大我、一つの真実の自己であることが分かり、自己の生命の根源を見つけることができます。そうして一切の対立、矛盾、衝突が消えてなくなり、大きな慈悲心が湧き上がり、一切の衆生を自分と同じように愛し、真に自他の区別のない境地に入っていきます。

真正體認到整個大宇世界是一家,整個地球是一家,人與人的紛爭就沒有了,所以任何族群團體統是多元文化融合的個體,這是我們必須認知的。悟虛空法界裡所有的星球是一個整體,一切問題才能圓滿解決。此一事實真相,《華嚴經》講得最詳細、最明白,所以多元文化最理想的教材就是《大方廣佛華嚴經》。「華」即是表虛空法界無量不同的族群,「嚴」即彼此無礙,共存共榮,和睦相得的莊嚴美好圓滿的境界。凡是具有如此認知的人,佛法中稱為「佛知佛見」,此人即稱為菩薩、佛陀。
全宇宙世界が一つの家族、全地球が家族だと本当に理解できれば、人と人との争いはなくなります。ですから如何なる民族団体もすべて多元文化に融合される個体であるということ、これを私たちは認識する必要があります。虚空法界(全宇宙)のすべての惑星は一つの全体だということを本当に悟れば、あらゆる問題は円満に解決します。この事実の真相は、『華厳経』に最も詳しく明確に説かれています。ですから多元文化の最も理想的な教材は、『大方廣佛華厳経』ということです。「華」とは虚空法界(全宇宙)の計ることのできない異なる民族、「厳」とはお互いに障害がなく、共存共栄して仲睦まじい、厳かで円満な境地のことです。およそこのような認識を備えている人のことを、仏法では「佛知佛見」と言い、この人は即ち菩薩、仏陀と言われます。

今年我訪問昆士蘭州立格里菲斯大學,尤里先生發起在這個學校裡建立一所「多元文化活動中心」。我看了非常歡喜,全力贊助。並且向校長建議,希望學校能開辦一所「多元文化研習所」,專門培養從事促進社會安定繁榮、世界和平工作的專業人才。最理想的是國家有一所「多元文化大學」,或者每所大學裡,都有「多元文化學院」、「多元文化學系」,共同努力落實社會安定、世界和平,多元文化的理念,才不至於變成一個口號。這是澳洲政府、澳洲學術界人士值得我們尊敬,值得我們佩服的地方,我們會全心全力贊助他們,完成這一偉大至善理想的實現。
今年私はクイーンズランド・グリフィス大学を訪問したとき、ユーリイ先生が「多元文化活動センター」をこの学校に新たに設立することを提起されました。私はそれを非常に嬉しく思い、全力で協力していきます。そして校長に提案したいのは、学校に「多元文化研究所」をつくり、社会の安定と繁栄に従事し、世界平和事業の専門の人材を専門的に育てるようにして欲しいということです。最も理想的なのは国が「多元文化大学」を持つ、或いは各大学の中に「多元文化学院」、「多元文化学科」をつくり、社会の安定、世界平和、多元文化の理念を協力して実行することです。そのようすれば(多元文化の共存が)単なるスローガンに変わることのないようにできるのです。これはオーストラリア政府、オーストラリア学術界の方々に対して尊敬しているところであり、私たちはこの偉大な理想の実現に向けて全力で協力していきます。

佛法有理論、有方法,決定可以落實,我們應當要學習,佛教的經典是人類各種不同文化的共同寶藏。它沒有分別,沒有執著,它的看法、想法、作法完全是與大宇宙完美的整體相應,與整體相應就是佛經常說的與自性相應,這才能真正把宇宙人生一切問題圓圓滿滿的解決。我今天有緣參加如此勝會,非常感謝主辦單位的志士仁人,謹在此表示熱忱的擁護支持讚歎,做出自己本分微薄的貢獻,敬請指教,謝謝大家!
仏法には理論があり、方法があり、必ず実現することができます。仏教の経典は人類の各種異文化の共通の宝であり、私たちはよく学ばなければなりません。それは分別(差別)がなく、執着がなく、ものの見方、考え方、作法は、完全に大宇宙の完全無欠な全体と相応したものです。全体と相応するとは、仏がよく説いている自性との相応であり、こうなれば本当に宇宙人生の一切の問題が円満に解決されます。私は今日ご縁があってこのような会に参加させていただき、主催会社の志ある方々に感謝いたしております。ここに衷心より尊敬の念を表すと同時に、微力ながら協力させていただきますので、どうかご指導頂きたく存じます。ありがとうございました。

<脚注>
1.WCRP(World Conference of Religions for Peace)世界宗教者平和会議
・・・・諸宗教間の対話と相互理解を通じ、平和のための宗教協力を推進することを目的とする。1970年インドのマハトマ・ガンジーの平和主義を基礎に発足した。

2.円融(えんゆう)・・・・それぞれの事物が立場を保ちながら一体であり、互いにとけ合っていて障害がないこと。円融無碍(えんゆうむげ)。