(950509早餐)
佛法修學總離不開「戒定慧」。「戒」就是守法、守規矩、守世尊在一切經典裡面的教訓,我們遵守著去做。
仏法の修学は「戒・定・慧」(注1)を離れません。「戒」とは法を守り、規則を守り、世尊一切の経典における教訓を守ることです。私たちは遵守して、実行しなければなりません。
修行最重要的樞紐就是「定」,「定」就是清淨心。能在一切順逆境界中修自己的清淨心,不為人事環境所干擾、所污染,那你的道業就成功了。
修行で最も重要なのは「定」(じょう=禅定)です。「定」とは、清浄心(注2)です。一切の順境・逆境において自分の清浄心を修めて、人や環境に乱されず、汚染されなければ、あなたの仏道修行は成功です。
有定就有慧,「慧」就是能辨別是非善惡,雖能夠辨別,但絕對不會起心動念。因為一起心動念就又落到意識裡去,那就沒有戒定慧了。所以諸佛菩薩對任何人都沒有怨恨,縱然有惡人、惡事來障道,諸佛菩薩也視之自然,不會起怨恨心。為什麼呢?希望惡人能夠早日覺悟、能回頭。因為惡人也有佛性,所以佛菩薩對他也很尊敬。
「定」があれば「慧」が具わります。「慧」は是非・善悪を区別することができますが、区別できるにも関わらず、絶対に起心動念(注3)を起こしません。ひとたび起心動念を起こせば、また意識の中に落ちてしまい、それでは戒・慧・定はなくなってしまいます。ですから諸仏菩薩は、如何なる人に対しても恨んだりはしません。悪人が悪事を働いて修行を妨げたとしても、諸仏菩薩はそれを自然と見なして、恨み辛みの心を起こしません。なぜでしょう?悪人が早く悟りを開き、改心することを願っているからです。悪人にもまた仏性があるのであり、仏・菩薩は彼らにも敬意を払うのです。
<脚注>
1.戒・定・慧・・・・「戒」は戒律、「定」は禅定(三昧)、「慧」は智慧のこと。
2.清浄心(しょうじょうしん)・・・・妄念を払い去った清らかな心。
3.起心動念・・・・心の起こり、念の動き。意念を起こし、動かすというニュアンス。(筆者)
*日本語で「きしんどうねん」と読むのかどうかは未確認。
念佛是善中之善,一切功的核心 / 念仏は善の中の善であり、一切の功徳の核心である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四七八集)2011/7/4 檔名:02-039-0478
我在美國州住了不少年,沒有遇到過龍捲風,聽說過。最近有同學在網路上下載這個信息給我看,好像州一個月當中有兩百多次龍捲風,從來沒聽說過的,這反常!所以現在這個災難太多了。同學們知道我不願意看報紙,所以他們只把新聞標題給我看,內容都不要,就列新聞標題,這一個月我一看三月、四月、五月,好像一百七十多件,全世界嚴重災難。六月份這一個月就一百五十多件,我們只看這三、四、五、六,一個月比一個月多,頻率在上升,一次比一次嚴重,這真的是麻煩事。怎麼樣去應對?
私はアメリカのテキサス州に何年も住んでいましたが、ハリケーンには遭ったことがありません。聞いたことがあるだけです。最近ある学生がインターネットの情報を見せてくれたのですが、テキサス州は一箇月で二百回以上のハリケーンが起こったようです。これまで聞いたことがありません。これは異常です!今は災害が多過ぎます。学生たちは私が新聞を見ないことを知っています。ですから彼らは新聞の見出しを私に見せてくれます。内容は要りません。新聞の見出しを並べてみると、三月、四月、五月は、全世界の重大な災害はおよそ百七十回以上ありました。六月は一箇月で百五十回以上です。私たちは三、四、五、六月だけを見ても、一箇月ごとに増えていて、頻度が高くなり、また重大になっています。これは本当に問題です。どのように向き合ったらよいのでしょうか?
最好的方法念佛。為什麼?念佛的功不可思議,我們前面講了太多,你要真正了解它。念佛是善中之善,一切功的核心,這個能量太大,什麼樣災難都能化解。你要用真誠心去念,不能有一絲毫懷疑,真誠恭敬心去念,清淨慈悲心去念,確實能產生不可思議的能量,這個能量幫助你解決問題,化解災難。
一番良い方法は念仏することです。なぜでしょう?念仏の功徳は不思議です。私は前に何度も話してきましたが、あなたは本当に理解しなければなりません。念仏は善の中の善であり、一切の功徳の核心です。そのエネルギーはとてつもなく大きく、どのような災難もすべて解消することができます。あなたが誠の心で念じて、僅かな疑いもなく、清らかな慈悲の心で念じれば、間違いなく不思議なエネルギーを生み出すことができます。そのエネルギーはあなたが問題を解決し、災難を解消するのを助けてくれます。
現在人不了解,所以講這部經有好處,教你什麼?認識阿彌陀佛,認識極樂世界,認識念佛功不可思議。你只要把這三樁事情搞清楚,你心就定了,再大的災難降臨在面前,你可以如如不動,你不會受它的干擾,你不會驚慌,你不會恐怖。在這個狀態之下,災難自然降臨到我們身上,就往生極樂世界去,真有把握,好事不是壞事,對災難還感恩。為什麼?它送我到極樂世界,怎麼會不感激!一絲毫怨恨都沒有。
今の人は理解していません。ですからこの経(無量寿経)を解説するのは良い所があります。あなたに何を教えてくれるのでしょうか?阿弥陀仏を知り、極楽世界を知り、念仏の功徳の不思議さを知ることができます。この三つの事が理解できれば、あなたは心が定まり、どれほど大きな災害が目の前に降りかかっても、心を動揺させることなく、邪魔されることなく、驚くことも恐れることもなくなります。このような状態であれば、災害が自然に自分に降りかかっても、極楽世界に往生することができるでしょう。これは良い事です。悪い事ではありません。災害に感謝しなければなりません。なぜでしょう?災害が自分を極楽世界まで運んでくれるからです。どうして感謝しないでいられるでしょうか!恨むことなど少しもありません。
智慧來自清淨心 / 智慧は清浄心から生じる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四五六集)2011/6/17 檔名:02-039-0456
真正的智慧從哪裡來的?從清淨心來的,與記問之學不相干。我們從《六祖壇經》裡面看,忍和尚的大弟子神秀,神秀親近五祖多少年,天天聽五祖的教誨,跟五祖學習學得不錯,能夠成為五祖的助教。所以五祖傳法,大眾心裡都有數,肯定是傳給神秀。沒想到傳給惠能,沒有一個人服氣,這才發起全寺廟裡面大眾統統去追,要把衣缽奪回來。神秀在五祖身邊,真東西沒有學到,假東西學了不少。真東西是什麼?心,清淨心沒有得到;換句話說,我執沒有破。你看他作了個偈子,「身是菩提樹,心如明鏡臺,時時勤拂拭,勿使惹塵埃」,身心沒有放下。
本当の智慧はどこから来るのでしょうか?清浄心(清らかな心)から来るものです。“記問の学”(注1)とは関係がありません。私たちは『六祖壇経』から見るなら、忍和尚の高弟・神秀は何年も五祖に親しんで、毎日五祖の講義を聴き、五祖によく学んで、五祖の助手を務めるほどでした。ですから五祖が法を伝授するのは、神秀に決まっていると誰もが心の中で思っていました。思いがけず慧能に伝授したので、誰も納得しませんでした。それで寺院の中の全員が追いかけて、(継承の証である)衣鉢(注2)を奪おうとしました。神秀は五祖の身近にいましたが、大切なことを学んでおらず、偽りを少なからず学んでいました。大切なこととは何でしょう?心です。清浄心を得ていませんでした。言い換えれば、我執(がしゅう)を破ることができませんでした。彼が作った偈(げ)(注3)を見てみましょう。「身是菩提樹,心如明鏡臺,時時勤拂拭,勿使惹塵埃」(身は是れ菩提樹。心は是れ明鏡台の如し。時時に勤めて払拭せよ。塵埃を惹かしむること勿れ)(注4)。身心(に対する執着)を放下していません。
六祖惠能把他偈子改了,他沒有念過書,不認識字,他怎麼會作偈子?他那個偈子有問題,把它改掉。「菩提本無樹,明鏡亦非臺,本來無一物,何處惹塵埃。」是高明,不認識字,一天經都沒有聽過。五祖寺院裡面的講堂他沒有去過,禪堂也沒有去過,他的工作在碓房,為廚房服務的,破柴、舂米,他在那裡做苦工做了八個月。衣缽傳給他了。我們從這個地方就明顯看到,祖師傳衣缽,找接班人,找智慧,身心柔軟,真正之慧,這種人可以接班。跟他多年,沒開悟,他就不是接班人。所以,什麼重要?從知識上來講,神秀超過惠能;從智慧上講,神秀不如惠能。
六祖の慧能は彼の偈を改めました。彼は書を学んだことがなく、文字の読み書きができません。彼はどのように偈を作ったのでしょう?神秀の偈には問題があるので、それを改めました。「菩提本無樹,明鏡亦非臺,本來無一物,何處惹塵埃。」(菩提本樹無し。明鏡も亦台に非ず。本来無一物。何れの処にか塵埃を惹かん。)(注5)。これは卓越しています。(慧能は)文字の読み書きができず、一日もお経を聴いたことがないのです。寺の中の五祖の講堂にも行ったことがなく、禅堂にも行ったことがありません。彼の仕事は米つき場で、厨房の為に奉仕することです。柴を割り、米をつき、彼はそこで苦役に服して八箇月でした。(継承の証である)衣鉢は彼に伝えられました。私たちはここから明らかに見て取ることができます。祖師が衣鉢を伝え、継承者を探すのは、智慧(を開いた者)を探すのです。心身ともに柔軟で、真に智慧のある、そのような人であれば伝授することができます。彼に何年もついて悟りを開けないなら、その人は継承者ではありません。ですから、重要なことは何でしょう?知識から言えば、神秀は慧能を越えていました。しかし智慧から言えば、神秀は慧能には及ばなかったということです。
<脚注>
1.記問の学・・・・記問(きもん)とは、古書を読んで暗記しているだけで、その知識を活用しないこと。「記問の学」はそのような学問のこと。ただ知識のみを学ぶ学問のこと。
2.衣鉢(いはつ)・・・・僧侶が身にまとう三種類の袈裟と一つの鉢。鉢は托鉢(たくはつ)に用いるもの。
3.偈(げ)・・・・(=偈頌/げじゅ)僧侶のとなえる頌徳(しょうとく/徳を讃える)の語のこと。
4.神秀の偈
「身是菩提樹,心如明鏡臺,時時勤拂拭,勿使惹塵埃。」
身は是れ菩提樹。心は是れ明鏡台の如し。時時に勤めて払拭(ふっしき)して、塵埃(じんあい)を惹かしむること勿れ。
この身は菩提樹、心は曇りのない鏡の台の如きもの。常に努めて振り払い、煩悩の塵に穢されてはならない。(筆者訳)
5.慧能の偈
「菩提本無樹,明鏡亦非臺,本來無一物,何處惹塵埃。」
菩提本(もと)樹(じゅ)無し。明鏡も亦台に非ず。本来無一物。何れの処にか塵埃を惹かん。
菩提には本来樹などは無く、曇りのない鏡の台もまた無いのである。本来無一物(すべては“空”であり執着すべきものは何一つない)。どうして塵に穢されることがあるだろうか。(筆者訳)
【参考】中国禅の継承
初祖 達磨(だるま/生没年不詳)
二祖 慧可(えか/487-593)
三祖 僧璨(そうさん/?-606)
四祖 道信(どうしん/580-651)
五祖 弘忍(ぐにん/602-675) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%BF%8D
六祖 慧能(えのう/638-713) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD
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如何建立共存共榮的多元文化 / 共存共栄の多元文化をどう築いていくか
(1999-01-17 淨空法師在世界宗教和平組織會議致辭/WCRP 世界宗教者平和会議(注1)でのあいさつ。)
一九九六年,我在澳洲結識了昆士蘭少數民族事務局的局長-尤里先生。他告訴我澳洲政府近年來採取開放政策,歡迎各個地區的人民移民澳洲。但是這些來自不同的國家,不同的地區,不同的種族,不同的文化,不同的思想,不同的宗教信仰,乃至於不同生活習慣的人民。現在大家居住在一起,如何能做到互相尊重,互相敬愛,互助合作,共存共榮,創造澳洲美好的生活環境和安定繁榮的社會。尤里先生的想法非常合理、非常難得,佛法裡所說的真實智慧,無過於此。
一九九六年、私はオーストラリアでクイーンズランド少数民族事務局の局長、ユーリイ先生と知り合いました。彼は、オーストラリア政府は近年開放政策を採っていて、各地の人々がオーストラリアに移民することを歓迎していると言いました。しかしこれらの移民してくる人々は、異なる国、異なる地区、異なる民族、異なる文化、異なる思想、異なる宗教信仰、そして異なる生活習慣をもつ人々です。今皆が一緒に暮らしていますが、どうすればお互いに尊重し、お互いに敬愛し、お互いに協力し、共存共栄でき、オーストラリアの美しい生活環境と安定的に繁栄する社会を実現できるでしょうか。ユーリイ先生の考え方はとても合理的で得がたいものですが、やはり仏法において説かれている真実の智慧、これ以上のものはありません。
去年年初,我訪問黃金海岸的邦大學,人文社會科學院保羅院長接待我們,他說這個學校有兩千多名學生,卻來自三十多個不同的國家地區,就像是一個小型的聯合國。他們也在尋找,用什麼方法融合一切多元文化,使全校師生能夠融洽的在一起生活,在一起學習,將來把這個融合多元文化的精神帶向全世界。
去年の年初、私はゴールド・コースト(Gold Coast) のボンド大学(Bond University)を訪問したとき、人文社会科学院のパウロ院長が私たちを迎えてくれました。彼は、この大学には二千人以上の学生がいて、三十以上の異なる国から来ていて、まるで小さな国連のようだと話していました。彼らもまたどのような方法で多元文化を融合させ、すべての教師と学生が一緒にうちとけて生活し、一緒に学習していくのかを探っていて、将来この多元文化融合の精神を全世界に広めたいとのことでした。
保羅院長的談話,使我即刻就想到《大方廣佛華嚴經》。此經開端,我們看到參與佛陀說法的聽眾,就有一百七十五個不同的族群,不同的社團,此是一會,若通說十方,則有無數無盡之族群。這正是我們現在所講的多元文化的大匯集。佛經上所說的宇宙人生的真相,就是指這些無量無數的族群,不同的文化思想集合在一起,大家皆享有各種和合圓融的真善美慧生活。
パウロ院長の話を聴いて、私は『大方廣佛華厳経』を思い出しました。この経典の初めに、見ることができます。かつて仏陀の説法に参加した聴衆が、ちょうど百七十五もの異なる民族、異なる組織であり、そこに集まって、通説十方の如く、要するに無数無尽の民族がいました。これはまさに私たちが今日言うところの多元文化の坩堝(るつぼ)です。仏典に説かれている宇宙人生の真相、それはつまり、計り知れないほど多くの民族、異なる文化や思想が一緒に集まって、皆で仲良くすばらしい真・善・美・慧の生活を享受することを指しています。
世尊和諸佛菩薩為了要達到這個目的,採取了教學的方法,就是要讓一切眾生認清宇宙人生的根源、真相。所以佛跟大家講真話,真話是什麼?盡虛空、遍法界原本就是一個妙好完美的整體。這種思想、見解,在中國古聖先賢也曾說過。周易說:「太極生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦生萬物。」老子說得更清楚,「天地與我同根,萬物與我一體。」此皆與佛說相近。
世尊と諸仏菩薩はこの目的を達成する為に、教育という方法を採りました。それはすべての衆生に宇宙人生の根源と真相をはっきりと認識させることです。ですから仏は皆さんに真実を語ります。真実とは何でしょうか?虚空、法界(全宇宙)はもともと一つの絶妙な全体であるということです。このような思想・見解は、中国古代の聖賢も説いています。周易は説いています。「太極は天地を生み、天地は四象(金・木・水・火)を生み、四象は八卦を生み、八卦は万物を生む。」 老子は更に明解に説いています。「天地は我と同根、万物は我と一体なり。」 これは皆、仏の説くところに近いものです。
我們要達到多元文化的和合,多元文化的圓融,首先必須要有這個認知,問題就解決了。凡人沒有這個認知,起心動念所作所為,總祇是顧到小小的身家,生起了自私自利的觀念。自私自利心行的發展,必定做出損人利己之事,這樣與別人就產生衝突、矛盾,互相侵犯、加害對方,這就造成天災人禍的根本原因。我們冷靜觀察世間,許許多多的災難從哪裡來的?就從自私心行中來的。所以佛講得非常正確,一切災難、一切不好的果報都是從痴迷而生的。
私たちは多元文化の和合、多元文化の円融(えんゆう)(注2)に到達する為には、まずこの認識がなければならず、認識できれば問題は解決します。凡人にはこの認識がなく、心の動きややること為すこと、いつも小さな自分や家庭のことだけを考えて、私利私欲の観念を起こしています。私利私欲の心や行為が発展すると、必ず人を損なってまで自分の利益を求めるようになり、そうして他人と衝突し、矛盾し、相互に侵害し、相手に危害を加えるようになる。このように天災人禍の根本的な原因が形成されるのです。私たちは冷静に世間を観察してみるに、多くの災難はいったいどこから来るのでしょうか?それは利己主義の心と行いから来るものです。ですから仏が説いているのは非常に正しく、一切の災難、一切の悪い果報はすべて私利私欲に溺れることから生じるのです。
譬如一顆大樹,這顆大樹是一個整體,我們把這個大樹比作宇宙,比作法界,自己比作樹上的一片樹葉。葉葉相看就產生對立、對抗,彼此猜疑。如果深入觀察,原來好幾片樹葉是從同一個枝條生出來的,是屬於同一族群,這就不會和其他的葉產生衝突了。如果再往下尋找,條條同生一枝,枝枝同生一幹,幹幹同生一本,本本同生於一根,找到根本,才曉得整個大樹是一個整體,一個大我,一個真實的自己,這才真正把自己的生命根源找到了。於是一切對立、矛盾、衝突煙消雲散,大慈大悲的心油然而生,愛護一切眾生跟愛護自己一樣,真正契入自他不二。
例えば一本の大樹。この大樹は全体であって、この大樹を宇宙・法界に例えてみれば、自己は大樹の上の一枚の葉っぱです。葉っぱがお互いに見合って対立し、対抗し、お互いに疑っている。しかしもし深く観察するなら、もともとこれらの葉っぱは同じ一つの枝から生えていて、同じ民族に属しているのであって、他の葉っぱと衝突することはありえません。さらにその下から探っていけば、それらの枝は同じ一本の枝から生えていて、その枝は同じ一本の幹から生えていて、幹は同じ一本であり、同じ一つの根っ子から生えています。根本を見つけて、はじめてすべての大樹が一つの全体、一つの大我、一つの真実の自己であることが分かり、自己の生命の根源を見つけることができます。そうして一切の対立、矛盾、衝突が消えてなくなり、大きな慈悲心が湧き上がり、一切の衆生を自分と同じように愛し、真に自他の区別のない境地に入っていきます。
真正體認到整個大宇世界是一家,整個地球是一家,人與人的紛爭就沒有了,所以任何族群團體統是多元文化融合的個體,這是我們必須認知的。悟虛空法界裡所有的星球是一個整體,一切問題才能圓滿解決。此一事實真相,《華嚴經》講得最詳細、最明白,所以多元文化最理想的教材就是《大方廣佛華嚴經》。「華」即是表虛空法界無量不同的族群,「嚴」即彼此無礙,共存共榮,和睦相得的莊嚴美好圓滿的境界。凡是具有如此認知的人,佛法中稱為「佛知佛見」,此人即稱為菩薩、佛陀。
全宇宙世界が一つの家族、全地球が家族だと本当に理解できれば、人と人との争いはなくなります。ですから如何なる民族団体もすべて多元文化に融合される個体であるということ、これを私たちは認識する必要があります。虚空法界(全宇宙)のすべての惑星は一つの全体だということを本当に悟れば、あらゆる問題は円満に解決します。この事実の真相は、『華厳経』に最も詳しく明確に説かれています。ですから多元文化の最も理想的な教材は、『大方廣佛華厳経』ということです。「華」とは虚空法界(全宇宙)の計ることのできない異なる民族、「厳」とはお互いに障害がなく、共存共栄して仲睦まじい、厳かで円満な境地のことです。およそこのような認識を備えている人のことを、仏法では「佛知佛見」と言い、この人は即ち菩薩、仏陀と言われます。
今年我訪問昆士蘭州立格里菲斯大學,尤里先生發起在這個學校裡建立一所「多元文化活動中心」。我看了非常歡喜,全力贊助。並且向校長建議,希望學校能開辦一所「多元文化研習所」,專門培養從事促進社會安定繁榮、世界和平工作的專業人才。最理想的是國家有一所「多元文化大學」,或者每所大學裡,都有「多元文化學院」、「多元文化學系」,共同努力落實社會安定、世界和平,多元文化的理念,才不至於變成一個口號。這是澳洲政府、澳洲學術界人士值得我們尊敬,值得我們佩服的地方,我們會全心全力贊助他們,完成這一偉大至善理想的實現。
今年私はクイーンズランド・グリフィス大学を訪問したとき、ユーリイ先生が「多元文化活動センター」をこの学校に新たに設立することを提起されました。私はそれを非常に嬉しく思い、全力で協力していきます。そして校長に提案したいのは、学校に「多元文化研究所」をつくり、社会の安定と繁栄に従事し、世界平和事業の専門の人材を専門的に育てるようにして欲しいということです。最も理想的なのは国が「多元文化大学」を持つ、或いは各大学の中に「多元文化学院」、「多元文化学科」をつくり、社会の安定、世界平和、多元文化の理念を協力して実行することです。そのようすれば(多元文化の共存が)単なるスローガンに変わることのないようにできるのです。これはオーストラリア政府、オーストラリア学術界の方々に対して尊敬しているところであり、私たちはこの偉大な理想の実現に向けて全力で協力していきます。
佛法有理論、有方法,決定可以落實,我們應當要學習,佛教的經典是人類各種不同文化的共同寶藏。它沒有分別,沒有執著,它的看法、想法、作法完全是與大宇宙完美的整體相應,與整體相應就是佛經常說的與自性相應,這才能真正把宇宙人生一切問題圓圓滿滿的解決。我今天有緣參加如此勝會,非常感謝主辦單位的志士仁人,謹在此表示熱忱的擁護支持讚歎,做出自己本分微薄的貢獻,敬請指教,謝謝大家!
仏法には理論があり、方法があり、必ず実現することができます。仏教の経典は人類の各種異文化の共通の宝であり、私たちはよく学ばなければなりません。それは分別(差別)がなく、執着がなく、ものの見方、考え方、作法は、完全に大宇宙の完全無欠な全体と相応したものです。全体と相応するとは、仏がよく説いている自性との相応であり、こうなれば本当に宇宙人生の一切の問題が円満に解決されます。私は今日ご縁があってこのような会に参加させていただき、主催会社の志ある方々に感謝いたしております。ここに衷心より尊敬の念を表すと同時に、微力ながら協力させていただきますので、どうかご指導頂きたく存じます。ありがとうございました。
<脚注>
1.WCRP(World Conference of Religions for Peace)世界宗教者平和会議・・・・諸宗教間の対話と相互理解を通じ、平和のための宗教協力を推進することを目的とする。1970年インドのマハトマ・ガンジーの平和主義を基礎に発足した。
2.円融(えんゆう)・・・・それぞれの事物が立場を保ちながら一体であり、互いにとけ合っていて障害がないこと。円融無碍(えんゆうむげ)。
*本文、2011-05-16掲載
自性的比喻 / 自性の比喩
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四三四集)2011/6/3 檔名:02-039-0434
我們在學習,現在用的是網路、衛星電視,這個東西是個很好的比喻,什麼是真的?電視屏幕是真的,它什麼都沒有,但是什麼頻道它都能現,它能現的時候就有,不現的時候就沒有。不現的時候也不能說它沒有,它能現;有的時候也不能說它真有,假的,幻有。我把這個頻道關閉,什麼都沒有了。用屏幕來代表自性,來代表常寂光;用裡面的色相代表十法界,十法界有沒有離常寂光?沒有,永遠在一起,沒有屏幕你怎麼能現出來?
私たちは今インターネットや衛星テレビを使って学習しています。これはとても良い比喩になります。本当にあるのは何でしょう。テレビのスクリーンは本当にあります。それ自体には何もありませんが、どのチャンネルも映すことができます。映っている時はありますが、映さなければ何もなくなります。映さなくても、それが存在しないとは言えません。それが本当にあるとも言えません。実体のない、幻に過ぎません。私がチャンネルを消せば、何もなくなってしまいます。スクリーンは自性(注1)や常寂光(注2)の比喩に用いることができます。中の色相(注3)は十法界(注4)に例えることができます。十法界は常寂光と離れているでしょうか?離れません。永遠に一緒です。スクリーンがなければ、どうして映すことができるでしょうか?
但是真妄一定要辨別,真就是真,妄就是妄,真妄雖然融合在一起,它不一樣。到真正圓融起來,才知道真妄不二,是一不是二。可是你得清楚,不能有一絲毫含糊,含糊那錯誤,你要真正契入這個境界,契入這個境界是清淨平等覺圓滿的得到了。在這個境界裡確實做到一念不生,一念不生的習氣都沒有,這是妙覺位;一念不生還有一念不生的習氣,這就是四十一個法身菩薩,他們帶著有習氣。妙覺不帶習氣了,這才真正證得究竟圓滿。
しかし真実と虚妄は必ず見分けなければなりません。真実は真実であり、虚妄は虚妄です。真実と虚妄が一緒に融合しているといっても、同じではないのです。真に円融(注5)に達すれば、真実と虚妄は分けることができないことが分かります。一つであって、二つに分けることはできません。しかし、はっきりさせなければならず、僅かでも曖昧にすることはできません。曖昧であればそれは誤りです。あなたが本当にこの境地に達することができれば、「清浄・平等・覚」はすべて得ることができます。この境地において本当に一つの「念」さえ起こさなくなり、「念」を起こさない習癖さえもなくなれば、それが妙覚の位です。一つの念さえ起こさなくなっても、まだその習癖が残っています。それが四十一位の法身菩薩です。彼らにはまだ習癖が残っています。妙覚には習癖がありません。それが真の究極円満の悟りです。
<脚注>
1.自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。
2.常寂光(じょうじゃっこう)・・・・報身仏の住む浄土。真理そのものの世界。一切の浄土の根源的な絶対界。(=寂光浄土、常寂光土) (岩波『仏教辞典』第二版を参照した)
3.色相(しきそう)・・・・肉眼で見ることのできる姿・形。
4.十法界(じっぽっかい=十界)・・・・地獄から仏界までの十種の世界。全世界。全宇宙。
5.円融(えんゆう)・・・・それぞれの物事が、その立場を保ちながら互いにとけ合って障りのないこと。
円融無碍(えんゆうむげ)・・・・すべての物事が完全にとけ合って、障りのないこと。(大辞泉)
殺生罪業深重 / 殺生の罪業は重大である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三O九集)2011/3/1 檔名:02-039-0309
許多宗教經典裡面給我們講因果,殺人罪過第一重,每個宗教都把它擺在第一條。佛家五戒第一條是不殺生,十善業道第一條也是不殺生,菩薩戒、比丘戒都把這個擺在第一條,由此可知這個業重,阿鼻地獄的罪業。現在這個世間殺業太重,不僅是殺畜生,殺人,自己知道,不是不知道。你們注意去調查一下,去問一問,這個世界每天墮胎的人有多少,那是殺人,你就知道這個社會每天殺多少人!這些人不是普通人,兒女跟父母四種緣分,報恩、報怨,討債、還債,不是這四種緣不會到你家裡來。他來了,你把他殺了,報恩的,恩就變成仇,報怨的,仇上再上仇恨,你怎麼受得了?
多くの宗教の経典には因果が説かれていて、殺人の罪を最も重いものとしています。どの宗教でもそれを第一の罪としています。仏教の五戒の第一条は不殺生であり、十善業道の第一条も不殺生、菩薩戒・比丘戒もすべてこれを第一条に置いています。このことからもこの業の重さを理解することができます。阿鼻地獄(あびじごく/地獄の中でも最も 苦しい地獄)の罪業です。今この世間の殺生の業は非常に重いものです。動物を殺すだけでなく、人を殺しています。自分で分かってやっているのです。この世界では毎日堕胎する人はどれだけいるのか、調べてみれば分かるでしょう。それは殺人です!あなたはこの社会が毎日どれほどの人を殺しているかが分かるでしょう。(注1)これらの人は普通の(縁のない)人ではありません。子どもと両親には「報恩」(恩返し)、「報怨」(仕返し)、「討債」(取立て)、「還債」(返済)の四種類の縁があり、この四種類の縁がなければ、あなたの家には生まれてきません。子どもが生まれて来て、あなたがその子を殺せば、その子がもし恩返しに来たのであれば恨みに変わり、仕返しに来たのであれば、恨みの上に更に恨みが重なります。あなたは耐えられるでしょうか?
討債還債,不但有債務沒了,還要加上冤仇,這個業怎麼辦?比什麼都可怕!學佛的同學明白、覺悟了,認真修行,將自己功迴向給這些嬰靈,求佛菩薩幫助調解。不相信佛法的那就難了,果報在三途,生生世世冤冤相報,沒完沒了。這六道的日子能過嗎?一世比一世苦,自作自受,不能怪人。佛經上有說,「救人一命勝造七級浮屠」,害人一命呢?你反過來想。救人一命,功之大沒有能相比的;害人一命,那個惡報之苦也沒法子比。佛菩薩愈是看到這種現象,我們有理由相信,他一定應化在這個世間。決定不止一尊佛菩薩,無量佛菩薩在世間,幫助人回頭是岸,幫助人省悟過來,不能再造惡業,不能再殺生。殺害眾生,眾生是什麼樣的感受?這種感受他永遠不會忘記,沒覺悟的人一定懷著瞋恨心,等待機會報復。
取り立てや返済に来たのであれば、債務だけでなく、更に恨みが加わります。この業はどうすれば良いでしょう?何よりも恐ろしいものです!仏法を学んでいる皆さんは、理解し、悟り、真摯に修行して、自己の功徳をそれらの嬰児の御霊に廻向して、仏・菩薩に和解を求めます。仏法を信じていなければ難しいでしょう。果報は三途(注2)で、生まれ変わるたびに互いに恨みあって、きりがありません。この六道の日々を過ごせるでしょうか?生まれ変わるたびに苦しくなります。それは自業自得であり、人を責めることはできません。仏典には、「救人一命勝造七級浮屠」(人命を救う功徳は計り知れない)(注3)と説かれています。では人命を害すればどうなるでしょう?その反対を考えれば分かります。一人の命を救えば、その功徳は計り知れないのですから、一人でも人を害すればその悪報は例えようもない苦しみです。仏・菩薩がこのような現象を見ているなら、彼らは必ずこの世間に応化していることでしょう。絶対に一人の仏・菩薩ではなく、数えきれないほどの仏・菩薩が世間に来て、人が改心するのを助け、人が反省して目覚めるのを助けることでしょう。二度と悪業を造ってはなりません。二度と殺生してはなりません。衆生を殺せば、その衆生はどのように感じるでしょう?それは永遠に忘れることのできないものです。悟っていない人は、必ず怒りと恨みの心を懐き、復讐する機会を待ち続けるものです。
<脚注>
1.下記、UNFPA(国連人口基金)東京事務所のHPより引用
http://www.unfpa.or.jp/publications/index.php?eid=00022
「妊娠の結果、中絶を選ぶ女性は、毎年少なくとも全妊娠女性の38%にあたる5,000万人に上り、
毎年7万4,000人は安全でない中絶が原因で死亡しています。」
現在年間5000万人が堕胎しているという統計について、浄空法師も以前説法の中で引用されていました。二年で一億人もの人が人為的に命を絶たれているという統計です。
これは過去の世界大戦の戦没者数を圧倒的に上回る数字です。(筆者)
2.三途(さんず)・・・・地獄道・畜生道・餓鬼道のこと。三悪道。
3.「救人一命,勝造七級浮屠」
人の一命を救ふは、七級の浮屠(ふと)を造るに勝る。
人の命を救うことは、七階建ての仏塔を建てるよりも殊勝なことである。
人命を救う功徳は計り知れない。(意訳)
佛教是智慧的教育 / 仏教は智慧の教育である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四二七集)2011/5/28 檔名:02-039-0427
佛教是不是宗教?你說它是宗教可以,你說它不是宗教也可以。你看看釋迦牟尼佛一生他的所作所為,用現代人的話來說,釋迦牟尼佛是教育家,是一位多元文化社會教育家。你們看他一生是不是幹這個事情?他的身分呢?是多元文化社會教育的義務工作者,他教學不收學費。他不分國家、不分種族、不分信仰,男女老少只要想跟他學,他全都教,所以它是多元文化,沒有分別、沒有執著。
仏教は宗教なのでしょうか?あなたは宗教と言っても良いですし、宗教ではないと言っても良いのです。釈迦牟尼仏が一生で行ったことを見てみれば、現代人の言葉で言うなら、釈迦牟尼仏は教育家です。多元文化の社会教育家です。彼の一生はこのことをしたのではないでしょうか?彼の身分はどうでしょう?彼は多元文化の社会教育の奉仕活動家です。彼は学費を取りませんでした。彼は国家や民族、信仰、老若男女の区別なく、学びたい人には誰にでも教えていました。ですから多元文化であり、分別する心や執着はありません。
你跟他,他肯定幫助你破迷開悟,讓你離苦得樂,叫「恆順眾生,隨喜功」。這是我們要學的,無論在家、出家一定要懂得,人家問我們佛教是什麼?總得說清楚、講明白。真搞清楚,人能不學佛嗎?人生頭一樁大事就是要學佛。佛是什麼?佛是智慧、是覺悟。你要不要智慧?你要不要覺悟?沒有智慧你愚痴,沒有覺悟你糊塗,你願意做個糊塗人嗎?你願意做個愚痴的人嗎?不願意,我要智慧,我要覺悟。智慧、覺悟,印度人叫它做佛陀。
あなたが彼に学ぶなら、彼はあなたが煩悩の迷いを見極めて悟りを開く(破迷開悟)のを助け、苦しみを離れ、安らぎを得る(離苦得楽)ようあなたを導きます。これを「恆順衆生,隨喜功」(常に衆生に随い、喜んで功徳を積む)と言います。これは私たちが学ぶべきことです。在家であろうと出家であろうと、必ず理解しておかなければなりません。人から仏教とは何かと質問されたら、わかりやすく答えなければなりません。本当にそれを理解したなら、人は仏法を学ばないでいられるでしょうか?人生において最も大事なことは仏法を学ぶことです。仏とは何でしょう?仏とは智慧であり、悟り(覚悟)です。あなたは智慧を得たいでしょうか?悟り(覚悟)を得たいでしょうか?智慧がなければ愚かなままであり、悟り(覚悟)がなければ道理が分からないままです。あなたは道理が分からない人になりたいでしょうか?愚かな人になりたいでしょうか?なりたくありませんね。智慧を得て、悟りを開きたいはずです。智慧、悟り(覚悟)のことを、インド人は佛陀と言いました。
所以佛教是智慧的教育,是覺悟的教育,這哪來的迷信!對佛法認識不清楚,說它是迷信,冤枉了釋迦牟尼佛。冤枉他有沒有過失?這得要背因果責任,我們這裡不談因果,肯定有因果責任。因果責任果報是什麼?不相信智慧、不相信覺悟,他生生世世愚痴,業因果報絲毫不爽。所以自己造作一切功和修積的善根,統統都要迴向給一切眾生,願一切眾生離苦得樂。迴向菩提,迴向菩提是自己,我一切的功我不求別的,我只求智慧,智慧能幫助我們提升境界。在菩薩道上,從十信提升到十住、十行、十迴向、十地、等覺、妙覺,我就為這個,其他的全放下,為什麼?其他都是假的,不是真的。佛法給你講的這個東西是真的,真的生生世世帶得去的。假的帶不去的,帶不去的我們統統不要,全放下,帶得去的要認真、要努力。
ですから仏教は智慧の教育であり、悟り(覚悟)の教育です。どこに迷信があるでしょうか!仏法についてよく理解せずにそれを迷信というのは、釈迦牟尼仏に無実の罪を着せることになります。彼に無実の罪を着せれば、その人は因果の責任を負わなければなりません。ここでは因果の話はしませんが、必ず因果の責任を負わなければなりません。その因果の果報は何でしょう?智慧と悟り(覚悟)を信じられず、何度生まれ変わっても愚かなままです。業因・果報は少しも違うことはありません。ですから自分の修めた功徳と善根は、一切の衆生が苦しみを離れて安らぎを得ることを願って、すべて衆生の為に還元(注1)しなければなりません。廻向菩提とは、自己の一切の功徳をもって、他に何も求めることなく、ただ智慧だけを求めることです。智慧は私たちの境界(境地)を高める助けとなります。菩薩道において、十信から十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚(注2)と境界を高める為に修行して、それ以外のことはすべて放下することです。なぜでしょう?それ以外のことには実体がないからです。真実ではありません。仏法が説いているのは真実であり、生まれ変わっても持っていくことができるものです。実体のないものは持っていけません。持っていけないものは必要ありませんから、すべて放下します。持っていけるものには真摯に向き合い、努力しなければなりません。
<脚注>
1.廻向(えこう)の意訳。
廻向・・・・自分の修めた功徳を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすること。(大辞泉)
2.菩薩道・・・・「菩薩五十二位」参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9#.E8.8F.A9.E8.96.A9.E4.BA.94.E5.8D.81.E4.BA.8C.E4.BD.8D
「世界宗教是一家」開示 / 世界の宗教は家族である
世界宗教是一家 (共一集) 2012/1/10 香港佛陀教育協會 檔名:21-657-0001
諸位長老大家好。最近有一些同學告訴我,去年這一年有很多的災難,頻率跟災害都超過往年的紀錄,而據估計今年會比去年更多。大家都在想著如何化解災難,這是個好事情,這真正是愛心、慈悲心的展現。如果真的能夠起作用,那我們就相信近代科學家發現的念力有不可思議的能量。這個事情佛經上有,說得很多,佛常說「一切法從心想生」,《華嚴》說這個宇宙「唯心所現,唯識所變」。這是真理,如果這個真理是真的,那麼念力起的作用應該可以化解災難。要有好的念頭、正面的念頭。
皆様こんにちは。最近何人かの学生が私に言いました。去年は一年で多くの災難が起こりましたが、その頻度と災害の程度はすべて過去の記録を越えています。また今年は去年よりも更に多くなる見込みです。誰もが皆、どうすれば災難を解消できるのかを考えています。これは良い事です。これは真の愛であり、慈悲心の現れです。もし本当にそれが作用するなら、私たちは近代の科学者が発見した、意念の力の不思議なエネルギーを信じることができるでしょう。この事は仏典にありますし、たくさん説かれています。仏陀は「一切法従心想生」(すべては心から生じる)と説かれ、『華厳経』には、この宇宙は「唯心所現、唯識所変」(すべては心によって現れ、意識によって変化する)と説かれています。これは真理です。もしこの真理が本当であれば、意念の力の作用によって災難を解消することができるはずです。良い思考がなければなりません。肯定的な思考です。
所以我們看到許許多多宗教裡面的論述,都說愛心能化解災難,要發揚我們的愛心。我們就希望宗教真正能夠肩負起這個使命。宗教不但要團結、要互相合作,希望更能夠互相學習,把神聖的愛心由我們信仰宗教的人表現出來。真正的做出來,把佛的慈悲心,我們佛門弟子都能夠落實在生活當中,落實在工作、落實在處事待人接物。再更進一步,把倫理教育、道教育、因果教育、神聖的教育,由我們宗教拓開心量,我愛自己的宗教,我也愛所有一切宗教;我要學習我的經典,我也應該學習所有宗教經典。接觸之後我發現了,宗教真的是一家,宗教的核心確確實實就是仁慈、博愛,沒有一個宗教不是把這句話當作核心。只有仁慈博愛的這種心腸,再加上神聖的加持,這個災難可以化解,只要我們自己肯努力。
私たちは多くの宗教の論述を目にしますが、すべて「愛」が災難を解消すると説かれています。私たちの愛する心を発揚しなければなりません。私たちは宗教が真にこの使命を担うことを願っています。宗教は団結しなければならないだけでなく、相互に協力しなければなりません。また更に相互に学び合い、神聖な愛を私たちの信仰する宗教によって表現しなければなりません。真にそれを実行しなければなりません。私たち仏門の弟子は、生活や仕事において仏の慈悲心を実行し、人に接する際に実行しなければなりません。更に一歩進めるなら、倫理教育、道徳教育、因果教育、神聖な教育を行って、宗教を信仰する者が心を開き、自分の宗教を愛し、またすべての宗教を愛さなければなりません。自分の宗教の経典を学び、またあらゆる宗教の経典も学ばなければなりません。それらに接してみれば、宗教は本当に家族であるということが分かります。宗教の核心は間違いなく仁慈、博愛であり、どの宗教もこの言葉を核心としていないものはありません。仁慈、博愛の心をもち、それに神聖なご加護が加われば、この災難は解消することができるでしょう。私たち自身が進んで努力するのであれば。
如果有機會,像我們上一次在巴黎聯合國教科文組織做的這次活動,那個影響就更大。今年既然災難這麼多,那這樁事情值得做、應該做,有必要認真的去做,這是好事。宗教裡面都教人做好事,能夠幫助全世界化解災難,縱然不能化解,我們相信一定能夠減輕災難,這是決定可以做得到的。全世界人都受益,好事!好事無過於這一樁大好事。所以我也鼓勵同學們,你們這麼樣的仁慈,有這麼好的愛心,應該去做。我們年齡雖然大了,心有餘而力不足,但是我們歡喜、我們讚歎,我們也盡一點綿薄的力量來幫助大家。
もし機会があるなら、私たちのようにパリのユネスコ(UNESCO 国連教育科学文化機関)で活動を行えば、その影響は更に大きくなるでしょう。今年は災難がこれほど多いからには、そのような活動には価値があり、行うべきでしょう。真剣に行う必要があります。これは良い事です。宗教では良い事をするように教えます。全世界の災難を解消する手助けができます。たとえ解消できなくても、必ず災難を軽減することができると信じています。これは必ず実行できることです。全世界の人がご利益を受ける、素晴らしい事です!これ以上の良い事はありません。ですから私も学生たちを励ましています。そのような仁慈、博愛をもって実行すべきです。私たちは年を取り、「心はやれど力及ばず」ではありますが、心から喜んで、褒め称えつつ、微力ながら人々を助けるべく力を尽くします。
社會要真正落實到和諧、安定、興旺,要從教育下手。祈禱是治標,不是治本,根本是人心如何能夠轉變。像美國布萊登博士所說的,人人都能夠棄惡揚善、改邪歸正、端正心念,這是治本。標本兼治,最好的方法。那我們就要認真努力的把宗教教育做出來,把宗教教育發揚光大,每一個宗教長年不斷的講經教學。我們的心量拓開,不但愛自己的宗教,也愛一切宗教,也愛不信宗教的人,凡是人,皆須愛。我們學習自己的宗教,同時學習一切宗教。
社会が本当に調和、安定、隆盛を実現するには、教育から着手しなければなりません。祈祷は応急処置であり、根本の治療ではありません。根本は人の心を如何にして転じるかです。アメリカのグレッグ・ブレーデン博士【注1】が言うように、人々が皆、悪を棄てて善を発揚し、邪を改めて正に立ち帰り、心念を正すこと、これが根本の治療です。応急処置と根本治療を合わせて行うのが、最も良い方法です。そうであるなら私たちは真剣に努力して宗教教育を発揚し、どの宗教でも長期的に経典の講義や教学を行わなければなりません。私たちは心を開いて、自分の宗教を愛するだけでなく、すべての宗教を愛し、また宗教を信じない人々も愛さなければなりません。「凡是人,皆須愛」(人は皆愛し合わなければならない)【注2】。私たちは自分の宗教を学び、同時に一切の宗教を学ばなければなりません。
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【注1】 グレッグ・ブレーデン(Gregg Braden)・・・・科学とスピリチュアリティを融合させ先駆者。その著書『祈りの法則』では、「思考は現実化する。そのために必要なのは祈りの力である。」と説いている。
【注2】 「凡是人、皆須愛」・・・・『弟子規』「泛愛衆」の冒頭の一節。
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我們本著求同存異這個概念,我們相信神聖的教誨決定沒有差異,所謂的差異應該都是這些神明、聖賢,他們的一種善巧方便。因為古時候交通不發達,沒有資訊,所以絕大多數人一生活動的範圍很小,大概方圓一百里的樣子,所謂老死不相往來。現在科學發達,交通便捷,媒體資訊,世界上有一點小事情立刻我們就知道了,所謂是地球變成地球村了。既然變成地球村,這個村莊裡頭任何一樁事情,我們都有義務、都有責任來協助,幫助解決。宗教會有很大的力量。
私たちは「求同存異」(共通点を見い出し、異なる点は保留する)【注3】という概念に基づくなら、神聖な教義には決して差異はなく、いわゆる差異というものは、それらの神明・聖賢たちの善巧方便【注4】であるはずです。昔は交通が不便で、通信技術もなかったので、大多数の人の一生の活動範囲はとても狭く、おそらく100里(約392㎞)四方といったところでしょう。いわゆる「老いて死ぬまで往来しない」という状況です。現在は科学が発達し、交通も発達して、メディアの情報は、世界で些細な出来事が起こってもすぐに知ることができます。地球はいわゆる地球村に変わりました。地球村に変わったからには、この村の如何なる事に対しても、私たちには責任があり、協力して解決する責任があるのです。宗教にはその大きな力があります。
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【注3】 「求同存異」=求大同存小異・・・・大同を求めて小異を存す。大きく見解の一致している部分で協力し、細々とした見解の不一致は各自保留するということ。
【注4】 善巧方便(ぜんこうほうべん)・・・・仏菩薩が衆生を救うにあたって、相手の素質や性格に応じた方法を巧みに用いて教化すること。衆生を教え導くための便宜的な方法。
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我記得二00五年,我跟馬來西亞前首相馬哈迪長老第一次見面,長老第一句話問我,他說你看這個世界還會有和平嗎?長老的態度非常嚴肅,對世界安定和平非常關心。那是一個慈悲的人,是真正反對戰爭的人,反對殺害眾生。當時我回答他,我說如果我們能把四樁事情做好,和平就回來了。他說哪四樁?我說第一個,國家與國家平等對待、和睦相處,第二個政黨與政黨,第三個族群與族群,第四個宗教與宗教,這四個都能做到平等對待、和睦相處,世界就和平了。
私は2005年、マレーシアの前首相マハティール長老【注4】と初めてお会いしました。長老はまず私に、「あなたはこの世界が平和になると思いますか?」と質問しました。長老の態度は非常に厳粛なもので、世界の安定的な平和にとても関心を持たれていました。あの方は慈悲深い人であり、本当に戦争に反対し、衆生を殺害することに反対されています。当時私は、「もし四つの事ができれば、平和を取り戻すことができます。」と彼に答えました。四つとは何でしょう?「一つ目は、国と国とが平等に接し、打ち解けて交流すること。二つ目は、政党と政党。三つ目は、民族と民族。四つ目は、宗教と宗教。この四つが平等に接し、仲良く打ち解ければ、世界は平和になります」。私はそう答えました。
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【注4】 マハティール長老・・・・マハティール・ビン・モハマド(Mahathir bin Mohamad)1925年生まれ。マレーシア元首相。
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他聽了,很久沒有說話。我接著說,這四樁事情是難,非常困難,非常棘手,但是從宗教下手可以做到。我這句話長老聽懂了。這個世界上居民信仰宗教的人數比不信仰的還多一點,所以信仰宗教的人帶頭,我們恢復倫理、道、因果、聖賢的教育,從我們本身做起,我們來落實,必定可以感動那些不信仰宗教的人。所以會帶動政治、政黨跟族群回歸到和睦相處、平等對待,世界和平就恢復了。
彼はそれを聴いて、しばらく話をしませんでした。私は続けて言いました。「この四つの事は、困難で処理し難いものです。しかし宗教から着手すれば実現できるでしょう」 長老はこの言葉を理解しました。この世界の住民は、宗教を信仰する人の方が信仰しない人よりもまだ多いので、宗教を信仰する人が先頭に立って、倫理、道徳、因果、聖賢の教育を復興し、私たち自身が実行するなら、必ずや宗教を信仰しない人々を感動させることができるでしょう。それが政治を動かし、政党や民族が仲良く打ち解けて、平等に接する関係に立ち返り、世界の平和は取り戻されます。
今天,因為災難頻繁,我們每個人都有警覺性。我們住在這個地球上,地球在太空像一條船一樣,我們共同在一個船上,我們有義務,我們有責任,一定維護這艘船在太空旅行要安全、要安穩。我們希望地球的居民都能過到幸福美滿的生活,每個國家政治清明、社會祥和,大家都能夠互相尊重、互相敬愛、互相關懷、互相照顧、互助合作,這個世間多麼美好。
今日では災難が頻繁に起こるので、私たちは誰もが警戒心を持っています。私たちはこの地球に住んでいます。地球は宇宙における宇宙船と同じで、私たちは宇宙船で共同生活をしています。私たちには、この宇宙船が平穏無事に旅行できるように保護する義務と責任があります。私たちは地球の住民が幸せに満ちた生活を過ごせるように切に願っています。どの国の政治も公明正大で、社会が穏やかになり、皆がお互いに尊重し合い、愛し合い、敬愛し合い、相互に助け合うなら、この世間は素晴らしいものになります。
能做得到嗎?答案是肯定的,問題就是我們自己肯不肯幹。從哪裡幹起?從我本身做起,就能做成功。如果我們把這個期望期望在別人,那會失敗。一定從我做起,從我家做起,從我的單位做起,從我這個小村做起,從我這個小鎮做起。有一個做出來了,就會產生很大的影響,為什麼?讓全世界的人看到了光明,長了信心。這是宗教教學、宗教團結對於今天社會做出最大的貢獻。
それができるでしょうか?それができるのは確かです。問題は私たち自身が実行できるかどうかです。どこから始めればよいでしょう?自分から始めるのであれば、それは成功します。もし私たちがそれを他人に期待するようなら、それは失敗するでしょう。必ず自分から始め、自分の家から始め、自分の職場から始め、自分の町から始めなければなりません。一ヶ所で実現できれば、大きな影響を生むことでしょう。なぜでしょう?全世界の人々に光明を見せて、自信を深めることができるからです。これが宗教の教学であり、宗教の団結は今日の社会における最大の貢献となるでしょう。
我相信這是神聖的事業,決定可以得到一切宗教神聖的加持,得到一切神聖的保佑。我祝福這樁事情能夠順利做成功。謝謝大家。
私はこれを神聖な事業だと考えており、必ず一切の宗教の神聖なご加護を得ることができ、一切の神聖なご利益を得ることができると信じています。私はこの事が順調に成し遂げられるよう、心より祝福致します。皆様ありがとうございました。
第一回更新 2012-08-11
第一回訂正 2014-07-23
現在佛教有六種不同形式 / 今の仏教には六つの異なる形式がある
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一集)2010/4/5 檔名:02-039-0001
*原文は「五種」となっていますが、説法の内容は「六種」となっています。
「五種」は誤記と思われますので、「六種」と書き改めて記載します。(筆者)
所以現在在全世界佛教,我概略的想了一下,至少有六種不同的形式,我們要知道。
今の全世界の仏教には、私が思うには少なくとも六つの異なる形式があります。私たちは知っておかなければなりません。
第一種,釋迦牟尼佛的教育,他老人家一生是職業老師,用我們現在的話來說,他是一位多元文化社會教育家,他本身的身分是多元文化社會教育義務工作者。他不收學費,他的生活很簡單,「日中一食,樹下一宿」,一生沒有建學校,在什麼地方教學上課呢?山林、樹下。人數不少,我們現在想一想不簡單。常隨眾一千二百五十五人,這是不離開他的,臨時來的我想至少也有這個數字,換句話說,常隨聽眾應該有兩、三千人。那個時候沒有這些擴音設備,在曠野,人家聽不清楚還能有興趣跟他嗎?晚上在樹底下,風吹日曬雨打他都不怕,這金剛不壞身。
一つ目は、釈迦牟尼仏の教育です。彼の一生は職業としての教師でした。今の言葉でいえば、彼は多元文化の社会教育家であり、彼の身分は多元文化の社会教育をする奉仕活動家でした。彼は学費を取りませんでした。生活は簡単で、一日一食、樹の下に宿をとり、一生学校を建てることはありませんでした。どこで授業をしたのでしょう?山林、或いは樹の下です。人数は少なくありません。私たちは今考えてみると、簡単な事ではありません。常に付き従っていたのが1,255人です。これらの人々は彼から離れません。臨時に来る人も、私が思うに少なくともこのくらいの人数はいたでしょう。言い換えれば、常に付き従っていたのは2、3千人はいたでしょう。その当時はこのような音響設備はなく、野外でした。もし声が聞こえないようなら人々は彼に関心を持ったでしょうか?夜は樹の下で休み、風が吹いても、日が照りつけても、雨に打たれても、彼は大丈夫でした。これは金剛不壊身(こんごうふえしん/脚注1)です。
「日中一食」,人家給什麼吃什麼,沒有一點分別,那什麼樣的人?什麼樣的身體?我們想一想,無法跟人相比。我們到野外住上一個晚上,第二天到加護病房,怎麼能跟人比?這不是一天兩天,四十九年過這種生活,能叫人不佩服嗎?這真有功夫,身心健康,所以這是釋迦牟尼佛原原本本的佛教。老人家一生沒有建道場有他道理,因為建道場就有人起歪念頭,怎麼樣來得到這個道場。他沒有,他知道後人會有這些副作用。什麼都沒有,這是我們應當學的。所以佛教傳到中國來,道場國家建的,大富長者他們建立的,都叫十方道場,不是私人的。
一日一食、人から頂いたものを食べていました。まったく(好き嫌いの)分別はありません。それはどんな人なのでしょう?どのような身体だったのでしょう?私たちはどう考えてみても、彼と比較することはできません。私たちが野外で一晩過ごしたら、翌日には病室にいることでしょう。どうして比べる事ができるでしょうか?これは一日二日の事ではありません。四十九年もこのような生活をされていたのです。人に尊敬されないことがあるでしょうか?本当に技量があり、心身ともに健康でした。これが釈迦牟尼仏の一部始終の仏教です。釈迦牟尼仏が一生道場を建てなかったのは、それなりの道理があります。なぜなら道場を建てれば、誰かが不純な考えをもって、どうにかして道場を得ようとするからです。彼は道場を持ちませんでしたが、後世の人がこのような副作用を起こすことを知っていました。何も持たなかったということ、これは私たちが学ぶべきことです。ですから仏教が中国に伝来してからは、道場は国が建て、大富豪たちが建てていました。すべて十方道場と言い、個人のものではありませんでした。
道場裡面的管理是自己管理沒錯,一些執事人員是選舉的,所以這個選舉制度最早是在佛門。住持、當家都是選舉的,任期一年,因為什麼?你是服務,服務不能老叫他服務,每一個人都要有這種義務,完全是義務,所以每一個人至少都要有一年,寺院裡面臘月三十總辭選舉,選上來第二天,新選的人正月初一就職,三十總辭。所以它是這麼好的一個制度,不會有人爭,真的叫選賢與能。那住持道場,所以它是一個教學的機構。在中國這就有了制度,正式上軌道了,就正式辦學了。
道場の管理は確かに自分達で管理しましたが、管理する人員は選挙で選びました。ですから選挙制度は仏門が最も早かったのです。住持、当家師(寺の管理者)は選挙で選び、任期は一年でした。なぜでしょう?ずっとその人に奉仕させる訳にはいかないからです。どの人にも担当があり、完全に(無報酬の)奉仕でした。ですからどの人も少なくとも一年間は従事して、寺院の中で旧暦の大晦日に総辞職選挙を行います。新しく選ばれた人は正月の元旦に役職に就き、大晦日に総辞職します。この制度は素晴らしいもので、誰も争うことなく、本当に賢人を登用するものでした。そのように道場を運営していて、道場は教学の機構でした。中国でこの制度が作られ、正式に軌道にのりました。つまり正式な学校の運営です。
釋迦牟尼佛那是私人教學,像孔老夫子一樣私人教學,傳到中國之後就有了制度,這個制度叫叢林制度。這是方先生過去跟我講過多次,至少有十幾次,印象很深刻,佛教要興旺起來一定要恢復叢林制度,叢林制度就是學校,正式辦學校,叢林的主席就是校長,首座就是教務長,維那是訓導長,監院是總務長,跟大學職工分配完全相同,名稱雖然不一樣職責是一樣的,它確確實實是一個學校,這在過去。
釈迦牟尼仏は個人の教学でした。孔夫子と同じように個人の教学でした。中国に伝わってから制度ができました。この制度を叢林制度と言います。このことについて方東美先生は昔私たちに何度も、少なくとも十数回は話して下さいました。深く印象に残っています。仏教を盛んにするには、必ず叢林制度に立ち返らなければなりません。叢林制度とは学校であり、正式な学校の運営です。叢林の主席は校長であり、首座は教務長、維那は指導長、監院は総務長というように、大学の役職配分と完全に同じです。名称は異なりますが、職責は同じですから、それは間違いなく学校だったのです。これは過去の事です。
所以現在都沒有了,現在佛教變成宗教應該是嘉慶以後,我們在乾隆、嘉慶年間中國寺院叢林還是教學,高僧大代代都有人。現在變成宗教,我們也不能不承認它。
今ではすべてなくなりました。今の仏教は宗教に変わりました。おそらく嘉慶(かけい/脚注2)以降でしょう。乾隆、嘉慶年間(1735~1820年)の中国の寺院・叢林はまだ教学でした。高僧大徳が代々いたのです。今では宗教に変わってしまいました。私たちもそのことを認めざるを得ません。
所以第二種是宗教的佛教,你看以經懺、佛事、法會,以這為主了。講經教學沒有了,這變質了。第三種變成學術了,大學裡頭、哲學系裡面有用佛經教開課。我也教過幾年,變成學術,這變質了。第四種在國內,觀光旅遊,觀光旅遊的佛教。還有一種很新的很時髦的,企業的佛教。還聽說有上市的,企業的佛教。最後一種,邪教的佛教。那是打著佛教的招牌,其實跟佛教風馬牛不相干,像所謂法輪功一類的,這完全是錯誤的。所以至少有六種不同的形式,我們學學哪一種,這得搞清楚。
ですから二つ目は、宗教の仏教です。経懺(脚注3)、法事、法会などが中心です。経典の説法や教学はなくなりました。これは変質したものです。三つ目は、学術に変ったものです。大学では哲学科の中に仏典を用いた講義があります。私も数年教えたことがありますが、これは学術であり、変質したものです。四つ目は、国内の観光・旅行の仏教です。そしてもう一つは新しく流行している、企業における仏教です。聴いた話によると、上場した企業もあるそうです。最後の一つは、邪教の仏教です。それは仏教の看板を立てて、その実仏教とはまったく関係のない、法輪功のような類のものです。これは完全に間違っています。ですから少なくとも六つの異なる形式があります。私たちはどれを学んでいるのか、それをはっきりさせなければなりません。
<脚注>
1.金剛不壊身(こんごうふえしん)・・・・「金剛不壊」とは非常に堅固で壊れないこと。「金剛不壊身」とは、それほど丈夫な身体ということであろう。(筆者)
2.嘉慶(かけい)[1760-1820年]・・・・清朝第7代皇帝・嘉慶帝のこと。在位:1796年2月9日~1820年9月2日。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%85%B6%E5%B8%9D
*乾隆、嘉慶年間・・・・乾隆帝と嘉慶帝の在位期間、1735~1820年。
3.経懺・・・・僧侶が経文を読みながら他人に代わって仏に懺悔する儀式。
認識釋迦牟尼佛 / 釈迦牟尼仏を知る
文摘恭錄—修華嚴奧旨妄盡還源觀 (第一0一集) 2009/9/12 檔名:12-47-101
我當年學佛跟章嘉大師時,他第一本叫我看的書是《釋迦譜》、《釋迦方誌》,那個時候市面上買不到,我在台北善導寺太虛大師圖書館中,那裡藏著有日本《大正藏》,我借出來抄,好在份量不算太多。章嘉大師告訴我,你要學佛,先要認識釋迦牟尼佛這個人,你對他都不認識,你怎麼跟他學?這是對的。
私が章嘉大師に学んでいた当時、大師が最初に私に読ませたのは『釈迦譜』、『釈迦方誌』でした。あの当時町で買うことはできず、私は台北の善導寺・太虚大師図書館で、そこに収められている日本の『大正蔵』を借りて、書き写しました。量がそれほど多くないので助かりました。章嘉大師は私に、「仏法を学ぶには、まず釈迦牟尼仏という人を知らなければならない。」と仰いました。釈迦牟尼仏を知らずに、どうやって彼に学ぶのでしょう?これは正しい事です。
這兩本書是唐朝人寫的,就是釋迦牟尼佛的傳記,是從經典裡節錄出來,我們看了之後,才深受感動。他是王子,榮華富貴,他能捨棄,一輩子過苦行僧的生活,三衣一缽,日中一食,樹下一宿,過這種生活,一生沒有改變,沒有建一個道場,就是遊化在人間,哪裡有緣就到哪裡去,普度眾生。開口所說的,把它記錄下來就是經典。不開口,你看他的言行舉止,那是身教。我們今天講的學為人師、行為世範。
この二冊は唐王朝の人が書いたもので、釈迦牟尼仏の伝記であり、経典から要点を抜粋したものです。私たちはそれを読んで、深く感動しました。彼は王子でした。とても裕福でしたが、彼はそれを捨てて、一生苦行僧の生活をして過ごし、三種の袈裟と托鉢に使う鉢を持ち(脚注1)、食事は一日一食、樹の下に宿をとる生活を送り、一生変わることはありませんでした。一つも道場を建てることなく、人間界で人々を教化して、縁があるところに行って衆生を済度していました。言葉で語ったことを記録したものが経典です。語らない彼の言動や振る舞いは、身をもって示された手本です。私たちが今日言うところの、「学為人師、行為世範」(学びて人の師と為り、行ひて世の範と為る)です。
釋迦牟尼佛是百分之百做到,這才值得人尊敬。起心動念,言語造作,一生為別人,沒有為自己,這個不能不知道。念念為眾生,這是對的;念念為自己錯了,錯在哪裡?長我執。你長我執,就出不了六道輪迴。我講經的時候,曾經講過不只一次,看別人做壞事,也是好事;我做好事,也是壞事。什麼原因?我做了好事,你看看我做,有我執,只要有我,就得不到須陀洹。《華嚴經》裡面初信位沒你的份,你在門外。「我」沒有了,《金剛經》講「無我相,無人相,無眾生相,無壽者相」,你才入門,有我怎麼行?這個道理要懂,做再多的好事都沒有我。
釈迦牟尼仏は100%実行できました。それでこそ人が尊敬するに値するというものです。心の起こり・念の動き、言葉や動作を一生涯人の為に行い、自分の為ではなかったということ。そのことを知っておかなければなりません。どの意念も衆生の為であれば正しく、どの念も自分の為であれば間違っています。どこが間違いなのでしょう?我執(自分中心の考えに対する執着)が増長するからです。あなたの我執が増長すれば、六道輪廻を離脱することはできません。私は説経する時、何度も話してきましたが、人の悪い行いを見たなら、それもまた良い事であり、私が良い事をするなら、それもまた悪い事なのです。なぜでしょう?私が良い事をすれば、自分がやったと思って我執が生まれます。ただ「我」があるだけで、須陀洹(しゅだおん/脚注2)に達することはできません。『華厳経』の初信の位にも達せず、あなたは門の外にいます。「我」がなくなれば、『金剛経』に「無我相(自我への執着がない)、無人相(個我への執着がない)、無衆生相(衆生への執着がない)、無寿者相(長寿への執着がない)」と説かれているように、ようやく入門することができます。「我」があっては駄目なのです。この道理を理解していれば、たくさん良い事をしても「我」はなくなります。
我們出家沒有從事於營生的事業,哪有錢?錢是十方供養。供養是什麼意思?種福田,你得替他種福。你要是把這些錢,自己拿來享受,那可麻煩,就是古大所講的「施主一粒米,大如須彌山,今生不了道,披毛戴角還」。現在供養很多,你用得很舒服,這個壽命沒了,你的果報現前,什麼時候才能還清?這是麻煩事情,真的不是假的,所以我不幹。章嘉大師教我一生學釋迦牟尼佛,釋迦牟尼佛一生沒有建廟,我也沒有廟。寺廟不是不能建,因為現在真正發心學道的人不多。
私たちは出家をして、生活を営む事業には従事していません。お金はどうするのでしょう?お金は十方供養です。供養とはどういう意味でしょう?福田(ふくでん/脚注3)に種を蒔くことです。あなたは人に代わって福の種を蒔かなければなりません。あなたがもしお金を使って享受するなら、面倒なことになります。昔の大徳は言っています。「施主一粒米,大如須彌山,今生不了道,披毛戴角還」(出家僧にとって一粒の米の施しは、須弥山のように大きく貴いものである。今生もし悟りを得られなければ、来世では家畜となってそのご恩に報いなければならない /脚注4)。今は供養する人が多く、それを用いれば快適です。しかし寿命がなくなれば、あなたの果報は目の前に現れます。いつになったら清算できるのでしょうか?これは面倒な事であり、真実であって偽りではありません。だから私はそのようにしないのです。章嘉大師は、一生釈迦牟尼仏に学びなさいと私に教えて下さいました。釈迦牟尼仏は一生寺を建てませんでした。私にも寺はありません。寺を建てられないのではなく、今は本当に発心して道を学ぶ人が少ないからです。
從前李老師告訴我,看人家建道場時,個個都是菩薩,在家、出家這個小團體的信徒到處去化緣,為了建道場真賣力,都是菩薩。可是這個道場建好之後,全都變成羅剎,為什麼?爭名奪利,我化的緣比你多,我要做當家師;我化的不比你少,我要做知客師,爭名奪利,道行全沒有了。所以看到寺廟的一些狀況,想想自己也沒有這個福報,不敢動這個念頭。
昔李老師は私に言いました。人が道場を建てる時、誰もが菩薩になって、在家も出家も組織の信徒は布施を求めて各地を回ります。道場を建てる為に力を尽くすので、誰もが菩薩です。しかし道場を建てた後、すべて羅刹(らせつ/人を食う悪鬼)に変ってしまいます。なぜでしょう?名利を争うからです。私が集めた布施はあなたより多かったから、私が当家師(寺の管理者)になるべきだ。私の布施はあなたより少なくないので、私が知客師(寺で客を接待する役僧)になるべきだ。そのように名利を争って、仏道の修行はなくなってしまいます。そのような寺院の状況を見ると、私には福報がないので、敢えて寺を建てようとは思いません。
十方供養,要做什麼?我學印光法師,印祖一生,十方供養就做一樁事情-印經,所以他自己有一個印刷廠在蘇州報國寺,叫弘化社。弘化社印的這個本子,確實在現在來講是善本書,他校對得好,負責任,錯字很少,版面好,字也很大,看得很舒服。社會上偶然有災難的時候,印祖也拿錢去賑災,這個錢從哪裡來?從印經款項裡面撥一部分,都是臨時,所以他一生以印經為主。真是替人修福,這是做法布施,三種布施都在裡頭,印經要錢,是財布施;印出來的經典是法布施;人家讀到經典,真的是破迷開悟,消災免難,無畏布施,一舉三得,真有智慧。
十方供養は、どうすれば良いでしょう?私は印光大師に学びます。印光大師(印祖)の一生で、供養と言えば一つの事だけをしていました。それは経典の印刷です。ですから彼は蘇州の報国寺に自分の印刷工場を持っていました。弘化社と言います。弘化社で印刷した本は、確かに今でいう善本(校訂・注釈が行き届いている良書)です。その校訂は素晴らしく、責任を負い、誤字が少なく、印刷が良く、字も大きく、とても読みやすいものです。社会に災害が起こった時には、印光大師もお金を出して災害の救助をしていました。そのお金はどこから来るのでしょう?経典印刷の費用の一部を使うのです。すべて臨時でした。彼は一生経典の印刷を第一としていました。本当に人に代わって福を修めていました。これは法施(ほうせ)ですが、三種のお布施(脚注5)がすべて含まれています。経典を印刷するにはお金が要るので、財施(ざいせ)です。印刷した経典は法施(ほうせ)です。人々が経典を読んで、迷いから覚めて悟りを開けば、災難厄除けになり、これは無畏施(むいせ)です。一挙三得、本当に智慧があります。
<脚注>
1.「三種の袈裟と托鉢に使う鉢」→「三衣一鉢」
三衣一鉢(さんえいっぱつ)・・・・「三衣」は僧が着る三種の袈裟(僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会)。「鉢」は托鉢に用いる食器の鉢。
2.須陀洹(しゅだおん)・・・・煩悩を脱して聖者の境地に入った位。四果の第一。
→「四果」とは、小乗仏教で修行によって分けられる悟りの位を四段階に分けたもの。
須陀洹(しゅだおん)果、斯陀含(しだごん)果、阿那含(あなごん)果、阿羅漢(あらかん)果。
3.福田(ふくでん)・・・・田が実りを生じるように、供養することで福徳を生じるもの。仏・僧・父母・師・貧者・病者などのこと。
4.「施主一粒米,大如須弥山,今生不了道,披毛戴角還」
施主一粒の米、大なること須弥山(しゅみせん)の如し。今生道了(あき)らかならざれば、披毛戴角(ひもうたいかく)して還す。
出家僧にとって一粒の米の施しは、須弥山のように大きく貴いものである。今生もし悟りを得られなければ、来世では家畜となってそのご恩に報いなければならない。(筆者の意訳)
5.三種の布施(三施)・・・・金品を施す財施(ざいせ)、仏法を説く法施(ほうせ)、恐怖を取り除く無畏施(むいせ)の三種。
・財施(ざいせ)・・・・僧や貧しい人に金品を施すこと。
・法施(ほうせ)・・・・仏法を人に説いて聞かせること。
・無畏施(むいせ)・・・・衆生の恐怖心をとり除くこと。
因果の法則により、財施をすれば財を得られ、法施をすれば聡明な智慧が得られ、無畏施をすれば健康長寿が得られるという。(中国では)無畏施には、動物の肉を食べない菜食も含まれる。また中国語では、三施をそれぞれ、財布施、法布施、無畏布施という。
佛教重實質不重形式 / 仏教は実質を重んじ、形式を重んじない
文摘恭錄—修華嚴奧旨妄盡還源觀 (第一00集) 2009/9/11 檔名:12-47-100
在現前這個社會學佛的人多,真學佛的人不多,迷信的人多,覺悟的人少。為什麼?佛法我初接觸的時候,我跟章嘉大師三年,我佛法的基礎是他老人家給我奠定的,我非常感恩。那個時候我還在政府機關服務,小職員,所以我親近章嘉大師的時候連居士都談不上,我沒有受過三皈五戒。我跟章嘉大師將近一年,還是別人勸我,你應該要皈依,別人想親近章嘉大師都沒有這個緣分,你常常跟他親近,你為什麼不拜老師?所以我才正式請他傳授我三皈五戒,老師也很歡喜。
今の社会では仏教を学ぶ人は多くても、本当に仏に学んでいる人は少なく、盲信している人が多く、悟っている人は少ないようです。なぜでしょう?私が仏法を初めて学んだ頃、章嘉大師(脚注1)について三年、私の仏法の基礎は章嘉大師が築いて下さったものです。私はとても感謝しています。その当時私はまだ公務員として勤めていたので、私が章嘉大師と親交を結んでいた頃は、在家の居士どころか、私は三帰五戒(脚注2)さえ受けていませんでした。私が章嘉大師について一年経った頃、やはりある人が私に帰依することを勧めました。「他の人は章嘉大師の側で学びたいと思っても縁がありません。あなたはよく大師と親交を結んでいるのに、なぜ拝師しないのですか?」 それで私は正式に三帰五戒を授けて頂くよう、老師にお願いしたのです。老師もとても喜びました。
他告訴我,「佛教重實質不重形式」,這個話是特別對我受五戒的時候說的。不重形式,要重實質,這個意思講傳授三皈五戒是形式,傳了之後你能不能做到?你做不到不是假的嗎?老師告訴我,五戒你做到一條,這一條戒你真正受持,你得到了,所以得戒;你做到兩條,你就得到兩條。初學,講五戒,受了做不到是假的。跟我講重實質不重形式,這個話說得很重,千萬不要把形式上,我去受五戒,受了菩薩戒是菩薩。
老師は私に、「仏教は実質を重んじ、形式を重んじない」と仰いました。この言葉は、特に私が五戒を授かった時に仰ったものです。形式を重んじることなく、実質を重んじること。この意味するところは、三帰五戒を授かったのは形式であり、授けられた後で実行できるかどうか。あなたが実行できないなら偽物ということですね?老師は私に、「五戒のうち一条を実行できたら、その一条の戒を本当に授かったということだ。あなたが実行すれば、戒を得られるのであり、二条実行できたなら、二条の戒を授かったという事だ。」と仰いました。初心の頃、五戒を重んじますが、戒を授かりながら実行できないなら偽物です。(章嘉大師は)実質を重んじて、形式を重んじない事を私に話されました。この言葉はとても重いものです。決して形式的に五戒を授かり、菩薩戒を授かったら菩薩になれるということではありません。
你連個菩提心都沒有,是什麼菩薩?受了三皈五戒,我是佛弟子了。你要做不到,把佛的人都丟透了,你看你做不到,做不到就是你把佛教的形象都破壞了,這個罪很重,一般人不講這個,講了會得罪人。我尊敬老師就是他跟我講實話,他不會騙我,教導我的都是踏踏實實的。
あなたに菩提心(脚注3)さえないのなら、何が菩薩なのでしょう?三帰五戒を授かれば、私は仏弟子になれます。(しかし)あなたが実行できないなら、仏門の人をすべて損なうことになり、仏教のイメージを損ねてしまいます。この罪は非常に重いものです。通常このような話はしません。話せば人の感情を害するからです。私が老師を尊敬するのは、私に真実を話して下さったからです。老師は私を騙したりはしません。私を着実に導いて下さいました。
<脚注>
1.章嘉大師(1890~1957)・・・・第十九世、章嘉呼図克図。本名は羅森班殿・丹畢蓉梅といい、一般には章嘉大師、章嘉活佛と称される。呼図克図(ホトクト)はモンゴル語であり、漢訳すると「明心見性,生死自主」(悟りを開いた生死自在の聖者)の意味である。チベット仏教中国内モンゴル地区の最高活仏(生き仏)。達頼喇嘛(ダライラマ)、班禅額爾徳尼(パンチェン・オルドニ)、哲布尊丹巴呼図克図(ジェプツンダンバ・ホトクト)と同じくチベット仏教四大指導者の一人。(「維基百科」より抜粋して翻訳)
2.三帰五戒(さんきごかい)・・・・三宝に帰依することと、殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)・妄語(もうご)・飲酒(おんじゅ)の五つを禁ずるいましめ。
3.菩提心(ぼだいしん)・・・・悟りを求めようとする心。大乗では利他を強調し、悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心をいう。
物質與精神是一體 / 物質と精神は一体である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三六七集)2011/4/8 檔名:02-039-0367
我們在彌勒菩薩跟世尊對話裡面真正明白了,所謂有情跟無情決定是一不是二,它沒有辦法分開。彌勒菩薩說「一彈指三十二億百千念,念念成形」,形是物質現象,「形皆有識」,只要是物質現象,它就有受想行識。所以《心經》上講,「觀自在菩薩,照見五蘊皆空」,五蘊是什麼?我們前面學過,一毛一塵的微點。量子力學家告訴我們,最小的物質現象是什麼?電子我們肉眼看不見,原子我們也看不見,電子比原子更小。
私たちは弥勒菩薩の世尊との対話の中で、本当に理解することができます。いわゆる「有情」と「無情」は一つであり、分ける事はできません。弥勒菩薩は、「一彈指三十二億百千念,念念成形」(指を弾く一瞬の間に三十二億百千もの念が起こり、すべての念は形を形成する。)(注1)と説いています。「形」とは物質的現象のことです。「形皆有識」(形には皆識あり)、物質的現象には受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(知識)(注2)があります。ですから『般若心経』には「觀自在菩薩,照見五蘊皆空」(注3)と説かれています。五蘊(ごうん)とは何でしょう?私たちは前に学習しましたが、一毛一塵の非常に微細な粒子です。量子力学者が言う最小の物質的現象とは何でしょう?電子は肉眼では見えません。原子も見えませんが、電子は原子よりも更に小さいものです。
科學家今天能夠看到的,電子一百億分之一的叫量子,也叫小光子。一百億個小光子組成一個電子,這麼小的一個東西,它是物質現象。佛經上告訴我們,這麼小的一個物質它有受想行識,物質是色,也就是它有圓滿的色受想行識,具足五蘊。觀世音菩薩他的法眼能看到這個小的現象當體皆空,叫五蘊皆空,不是真的。所以說「凡所有相,皆是虛妄」。
科学者が今日見る事ができるのは、電子の百億分の一の量子と呼ばれるものです。また光子(フォトン/光量子)とも呼ばれています。百億個の光子は一つの電子を構成しています。これほど小さなものですが、それは物質的な現象です。仏典には、これほど小さな物質にも受・想・行・識(感覚・表象・意志・知識)があると説かれています。物質とは「色」のことで、それは円満な受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(知識)でもあり、五蘊を備えています。観世音菩薩の法眼(ほうげん)(注4)はその小さな現象を「当体皆空」(あるがままの本性は空である)と見極めて、「五蘊皆空」と言いました。実体がないのです。ですから「凡所有相,皆是虛妄」(およそ姿・形あるものは、すべて偽りである/『金剛経』)と言うのです。
這裡面的信息,重要的就是精神裡頭有物質,物質裡頭有精神,精神跟物質不能獨立、不能分開,它是一體。而且物質是精神變現出來的,沒有受想行識就不會有物質現象。這是國的科學家普朗克他發現的,普朗克是愛因斯坦的老師,他說宇宙之間根本就沒有物質這樣的東西,物質的本質是意念。
この情報において重要な事は、精神の中に物質があり、物質の中に精神があり、精神は物質から独立することはできず、分けられず、一体だということです。しかも物質は精神の変化によって現れるものであり、受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(知識)がなければ物質的現象はあり得ないということです。これはドイツの科学者マックス・プランクが発見したことです。マックス・プランク(注5)はアインシュタインの先生です。彼は、宇宙にはまったく物質は存在せず、物質の本質は意念だと言っています。
這個學說是現代科學家都承認的,他們都真正看到了。所以,水演妙法是真的不是假的,阿彌陀佛能令七寶池裡面八功水,幫助他演法利生,幫助他教學,這些都變成阿彌陀佛教學的工具。目的是「成熟極樂眾生之善根」,教學的目的。這是阿彌陀佛真實智慧的妙用,是阿彌陀佛大願的成就。
この学説は現代の科学者が皆認めているところであり、彼らは本当に見たのです。ですから、「水演妙法」は真実であり、偽りではありません。阿弥陀仏は七宝の池の八つの功徳を得られるという水(脚注6,7)を、法を実践する姿を演じて衆生にご利益を与える助けとし、教学の助けとしています。これらはすべて阿弥陀仏の教学の道具に変わります。教学の目的は、「極楽衆生の善根を成熟させる」ことです。これが阿弥陀仏の真実の智慧の不思議な作用であり、阿弥陀仏の大願の成就です。
<脚注>
1.「一彈指三十二億百千念,念念成形」・・・・「弾指」とは指を弾くわずかな時間のこと。
指を弾く一瞬の間に三十二億百千もの念が起こり、すべての念は形を形成する。(筆者訳)
2.受・想・行・識・・・・感覚・表象・意志・知識。
*中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』の訳を参照した。
3.「觀自在菩薩,照見五蘊皆空」
観音菩薩は、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
*『般若心経』の冒頭の言葉。この訳も同書を参照した。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめて、一切の苦悩や災厄をとり除かれた。
<五蘊(ごうん)=五つの構成要素>
・色蘊・・・・物質的、身体的な要素。
・受蘊・・・・感覚作用。
・想蘊・・・・表象作用。
・行蘊・・・・意志・欲求などの心作用。
・識蘊・・・・対象を識別する作用。
4.法眼(ほうげん)・・・・諸法を見る智慧の眼。菩薩のもつ、衆生を救済するための諸事象の真相を知るという眼。(大辞泉)
5.マックス・プランク・・・・マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck/1858年 - 1947年)・・・・ドイツの物理学者で量子論創始者の一人。1918年ノーベル物理学賞を受賞。
6.七宝(しちほう)・・・・金・銀・ 瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲 (しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。(無量寿経)
7.八功徳水(はっくどくすい)・・・・極楽浄土の、甘く、冷たく、清浄で、心身を養う八つの功徳を持つといわれる水。八徳の水。
治國平天下只要三樣東西 / 国を治め天下を平らかにするには、ただ三つありさえすればよい
文摘恭錄—修華嚴奧旨妄盡還源觀 (第八十七集) 2009/8/29 檔名:12-47-87
像賢首國師這篇論文,這篇論文給我們講什麼?開頭,宇宙的起源這件事情,全世界到今天,哲學沒搞清楚,科學也沒搞清楚,都在摸索。佛講得很透徹,方老師講這是最高的哲學,是真的不是假的。我們現在也肯定,不但是最高的哲學,也是最高的科學。如果就一般今天講的治國平天下,不用那麼高深的東西,只要把基礎的東西普及就成功了。
賢首国師の論文は私たちに何を説いているのでしょう?冒頭は宇宙の起源についてです。全世界は今日に至るまで、哲学も科学も解明しておらず、模索を続けています。しかし仏陀は透徹しています。方老師は仏教は最高の哲学だと仰いました。これは真実であり、偽りではありません。私たちは今、最高の哲学というだけではなく、最高の科学であることを肯定しています。もし今日一般に言われる治国・平天下(国を治め、天下を平らかにすること/脚注1)であれば、そこまで高尚で深いものを用いることなく、基礎的なものを普及させるだけで達成できるでしょう。
基礎是什麼?「倫理、道、因果」。這三樣東西,因果最重要,因果是根,深信因果,倫理、道是從內心裡面做出來的。如果不相信因果,倫理、道多是表面的,不是真的,境界一現前,他就又迷了,所以因果重要,決定不是迷信。因果從哪裡來的?跟宇宙同時發生的,這個我們在講席中講了很多遍。
基礎とは何でしょうか?「倫理、道徳、因果」。この三つのうち、因果の教えは最も重要です。因果は根幹であり、因果を深く信じていれば、倫理・道徳は心の中に出来てくるものです。もし因果を信じていなければ、倫理・道徳はすべて表面的なものになり、確かなものではなく、ある状況に遭遇すれば迷いが生じるでしょう。ですから因果は重要です。絶対に迷信ではありません。因果はどこから来るのでしょう?因果は宇宙と同時に発生しました。このことは講義の中で何度も話してきました。
<脚注>
1.治国・平天下・・・・『礼記』大学の言葉。
修身・斉家・治国・平天下。(しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか)
身を修め、家を斉(ととの)え、国を治め、天下を平らかにす。
天下を治めるには、まず第一に自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。
智慧從禪定來 / 智慧は禅定から生じる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三五八集)2011/4/3 明佛陀教育no.933
「無明」,我們有,很不容易破,無明要用什麼破?要用智慧。智慧從哪裡來?智慧從禪定來,所以你心不定,你沒有智慧。就跟水一樣,一定要靜,一定要不動、乾淨,它就起照的作用,那個照就是智慧,叫照見。心動哪來的智慧?心裡有染污哪來的智慧?所以在現前社會災難很多,社會的動亂、地球的災變,許多人擔心,我們學佛的人遇到了怎麼辦?
「無明」、私たちには無明があり、容易に打ち破ることはできません。無明は何を用いて打ち破るのでしょう?智慧を用います。智慧はどこから来るのでしょう?智慧は禅定から生じます。ですからあなたの心が定まらないなら、あなたには智慧がないという事です。水と同じように、必ず静まらなければならず、動かず、清らかでなければなりません。そうすれば映し出す作用が働き、その映し出すことが智慧であり、照見(脚注1)と言います。心が動いてどうして智慧が生じるでしょう?心が汚れていてどうして智慧が生じるでしょうか? 今の社会は災難が多く、社会は乱れ、地球は異変が起きて、多くの人が心配しています。私たち仏法を学ぶ者は、災害に遭ったらどうすればよいでしょう?
要知道心要定,絕不能夠被外面境界擾亂,擾亂那你就得吃苦頭了。如如不動,定生慧,慧照見你才有能力解決這個問題。所以心不能夠慌張、不能夠動搖,這是應對一切危機最好的方法。世出世間大聖大賢都這樣教導我們,災變現前你能沉得住氣,你不被它所動搖,這叫人定勝天。為什麼?定開智慧,智慧解決問題,這是人定勝天的本意,本來的意思。
心を定めて落ち着かせ、絶対に外の環境に乱されてはなりません。乱されれば苦しみを味わいます。動かざるが如し。「定」(禅定)は「慧」(智慧)を生み、「慧」が照見して(智慧が物事の本質を映し出して)こそ、あなたはこの問題を解決する能力を得ることができます。ですから心を慌てさせてはならず、動揺させてはなりません。これは一切の危機に対応する最良の方法です。世間・出世間の大聖賢はすべて、私たちをこのように導かれていておられます。異変が目の前にやってきても、あなたは気をしずめて動揺することがない、これを「人定勝天」(人定まりて天に勝つ/脚注2)と言います。なぜでしょう?「定」は智慧を開き、智慧こそが問題を解決するからです。これが「人定勝天」の本意、本来の意味です。
所以這個根本煩惱,你看頭一個,這個事情很麻煩。八萬四千法門門門皆成無上道,所以《金剛經》上說「法門平等,無有高下」,絕對正確。法門雖然平等,人的根性不平等,根性不平等,就說每個法門不一定能夠契你的機,法門不契機你得不到受用;你必須選擇適合你根性的法門,你能得受用。就像生病服藥一樣,藥,每種藥都是好藥,都是治病的,都能把病治好。可是每個人害的病不一樣,用的藥就不相同,用錯了,不但病好不了,還加重,那就錯了,這是不能不知道的。
ですからこの根本煩悩(無明)は、初めにあります。この事は非常に面倒です。八万四千の法門はすべて無上の道とされ、ですから『金剛経』には「法門平等、無有高下」(法門は平等であり、優劣があるということはない)と説かれています。それは絶対に間違いありません。しかし法門は平等であっても、人の根性(仏法を学ぶ衆生の資質)は平等ではなく、根性は平等でないので、どの法門もあたなを導く契機になるとは限らず、その法門が契機とならなければあなたはご利益を得る事はできません。自分の根性に合った法門を選べば、あなたは利益を得る事ができます。ちょうど病気になったら薬を飲むようなものです。薬はどれも良い薬で、病を治すことができます。しかし人それぞれ病気は異なるので、用いる薬も同じではありません。間違って使えば病気が治らないだけでなく、更に重くなってしまいます。それは間違いです。このことは知っておかなければなりません。
<脚注>
1.照見(しょうけん)・・・・物事の本質や実相を正しく明らかに見きわめること。
2.「人定勝天」・・・・辞書には「人間の力は自然に打ち勝つ」と意訳されている。
人定まりて天に勝つ。
人が心身ともに定まって動揺しなければ、天にも打ち勝つことができる。(筆者意訳)
名號功的不可思議 / 名号の功徳の不可思議
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三五一集)2011//3/30
「但持名號,不假禪觀諸方便」。換句話說,不必用任何法門來幫助,就是一句佛號。諸多法門修行都有正助雙修,淨宗也不例外。蕅益大師教給我們,正修執持名號,助修還是執持名號,一句彌陀念到底,正助統統在其中。但持名號,名號功不可思議,無需要任何幫助。淨業三福是淨宗學人最高的指導原則,那我們專持名號,一門深入,跟淨業三福有沒有違背?
「但持名號,不假禪觀諸方便」。言い換えれば、どの法門の助けも必要なく、この仏号(南無阿弥陀仏)を用いればよいということです。多くの法門の修行にはすべて「正助双修」(脚注1)があり、浄土宗も例外ではありません。蕅益大師(脚注2)は、正修(主として修めるもの)を「執持名号」(しゅうじみょうごう/阿弥陀仏の名号をしっかり心に留めること)とし、助修(補助として修めるもの)もまた「執持名号」とするよう私たちに教えています。阿弥陀仏を徹底して唱えれば、正修も助修もすべてその中にあるのです。しかし名号を唱えること、名号の功徳は不可思議なもので、どのような助けも必要ありません。浄業三福(脚注3)は浄土宗を修行する人の最高の指導原則です。それでは私たちが名号だけを唱え、それだけを深く修めることは、浄業三福に背くことになるのでしょうか?
實在說,淨業三福字字句句都在名號之中,持名號統統具足了。你的父母希望你成就,希望你好,老師跟父母一樣,也是希望你成就。一切成就當中,無上的成就、無上的圓滿是作佛。你今天念阿彌陀佛成佛了,不但成佛,還成阿彌陀佛,這對父母是不是盡了孝?圓滿的大孝;對老師是究竟的大敬,尊敬老師。所以,你把淨業三福十一句去念念,跟這個執持名號去對一對,去對號,句句都對上了。跟六和對上了,跟三學、六度、十大願王全對上了,跟阿彌陀佛四十八願願願都對上了,你才知道名號功不可思議。
実際には、浄業三福は一字一句すべて名号の中に含まれています。名号を唱えればすべて備わっています。あなたの両親はあなたが成就し、良くなることを願っています。老師もまた両親と同じように、あなたの成就を願っています。一切の成就の中で、無上の成就、無上の円満とは、仏になるということです。あなたが今日阿弥陀仏を唱えて仏になり、成仏するだけでなく阿弥陀仏になれば、両親に対して孝を尽くすことになりますね?円満な大孝です。老師に対する最大の敬いであり、老師を尊敬することになります。ですから浄業三福の十一句を唱えて、「執持名号」と照らし合わせてみると、一字一句すべて適合しています。「六和」と適合し、三学、六度、十大願王ともすべて適合します。阿弥陀仏四十八願ともすべて適合します。(そのことを知れば)あなたはようやく名号の功徳の不可思議さを理解するでしょう。
<脚注>
1.「正助双修」・・・・正修(主として修めるもの)と助修(正修の補助として修めるもの)とを兼修すること。
2.蕅益大師(蕅=藕)・・・・藕益智旭(1599年-1655年)、俗姓を鍾、字は智旭、号を藕益、又は西有と号した。別号は八不道人。江蘇省木瀆人。明朝末期の四大高僧の一人で、淨土宗九祖として尊ばれた。晩年は浙江省杭県の霊峰に住んだ。このことから、霊峰藕益大師とも尊称されている。藕益大師の著作には、『阿彌陀經要解』 『梵網經玄義』 『菩薩戒本箋要』 『法華經玄義節要』 『法華經會義』 『楞嚴經玄義』 『楞嚴經文句』 『閱藏知津』 『法海觀瀾』 『周易禪解』 等数十種がある。今日全21冊の『藕益大師全集』が伝わっている。
(下記サイトを参照した)
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%97%95%E7%9B%8A%E6%99%BA%E6%97%AD
3.浄業(じょうごう)・・・・清浄な正業。善業。浄土往生のための正業、すなわち念仏。
三福(さんぷく)・・・・福徳をもたらす3種の善行。観無量寿経に説く、世間の道徳を守る世福、戒律を守る戒福、大乗の自利利他の善根を行う行福。
<参考website>
蕅益大師全集:http://www.ouyi.mymailer.com.tw/yellowpage/index.html