佛門交際的方法-四攝法 / 仏門の交際方法-四摂法(ししょうぼう)【注1】
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二九一集)2011/2/19 檔名:02-039-0291
愛語,和顏愛語,「愛語者,四攝法之一」,攝是攝受,四種攝受眾生的方法,這是佛教我們的。在現在一般人名稱叫公共關係法,這個四攝法就是佛門的關係法,公共關係,交際的方法,與大眾接觸。菩薩行這個道,六波羅蜜用什麼方法展開?就是四攝法。布施要用四攝,持戒也要用四攝,忍辱還是要用四攝,六波羅蜜把它落實在生活,一定要守住這個原則。「四攝法者,布施、愛語、利行、同事」,這就是四個方法。一九九九年我在新加坡,我們團結九個宗教,做得很成功。新加坡有一位部長曾士生,好像現在退下來了,老部長。我們很熟,他問我,他說淨空法師,你用什麼方法把九個宗教團結起來?我說我沒有方法,我用的是佛陀教給我的方法。他耳朵就豎起來,佛陀教你的方法,什麼法子?四攝法。
愛語とは、和顔愛語(わがんあいご=和やかな表情で優しい言葉遣いをすること)です。「愛語者,四摂法之一」(愛語は、四摂法の一なり)。「摂」は摂受(しょうじゅ=衆生を寛容に受け入れながら導くこと)です。衆生を摂受する四種類の方法です。これは仏が私たちに教えていることです。今一般の人が言うところの、公共の交際法です。この四摂法は仏門の交際法です。大衆と接触する際の、公共の関係、交際の方法です。菩薩はこの道を行じます。六波羅蜜【注2】はどのような方法で展開するのでしょう?それが四摂法(ししょうぼう)です。布施は四摂を用います。持戒も四摂を用います。忍辱もまた四摂を用います。六波羅蜜はそれを生活において実行することであり、必ずこの原則を守らなければなりません。
「四摂法者,布施、愛語、利行、同事」(四摂法は、布施、愛語、利行、同事なり)。これが四つの方法です。一九九九年、私たちはシンガポールで九つの宗教を団結させることに成功しました。シンガポールの曾士生部長は、現在は退かれたようです。私たちは親しい仲なので、彼は私に、「浄空法師、あなたはどのような方法で九つの宗教を団結させたのですか?」と質問しました。私は、「私には方法はありません。私が使ったのは仏陀が私に教えて下さった方法です」と言いました。彼は耳をそばだてました。仏陀が教えた方法とは、どのような法でしょうか? それが四摂法です。
什麼是四攝法?第一個「布施」,布施就是送禮,禮多人不怪。人還沒有到,禮要先到,人家生歡喜心,這是四攝法頭一個。我們在日常生活當中人情世故要懂得這一套,釋迦牟尼佛懂得,時時刻刻用這個方法。九個宗教,我們每一個宗教都會送一份禮,禮物裡頭最主要的,我們送十萬塊錢。每一個宗教裡面都有慈善事業,有的人辦養老院、辦孤兒院、辦醫院、辦學校,伊斯蘭教還辦一個職業訓練班,一個培訓班,幫助人學一技之長,他有謀生的能力,好事情!都需要用錢,我們幫助他們做慈善事業,所以你得會做。禮物送過去之後,我們接著就拜訪他們,向他請教,向他學習。
四摂法とは何でしょう?一つ目は「布施」です。布施とは贈り物をすることです。贈り物は丁寧過ぎても人は咎めません。人がまだ到着しないうちに贈り物が先に到着すれば、人は歓喜心を起こします。これは四摂法の一つ目です。私たちは日常生活の義理人情において、これを理解しなければなりません。釈迦牟尼仏は理解して、いつもこの方法を用いていました。私たちは、九つのどの宗教にも贈り物をしました。贈り物の中で最も主要なものとして、私たちは十万元を贈りました。どの宗教の中にも慈善事業があり、ある人は老人ホーム、孤児院、病院、学校を運営しています。イスラム教では職業訓練班、養成班を運営していて、人々が専門の技術を学ぶのを助けています。人が生計を立てる能力を得るなら、それは良い事です!いずれもお金が要ります。私たちは彼らが慈善事業をするのを助けています。贈り物を送った後、私たちは彼らを訪問して、彼らに教えを請い、彼らに学びます。
拜訪他就愛語,他喜歡聽的話。「愛語」不是諂媚巴結,真正有利於他。這時候你要跟他談些什麼?這個要懂得。現在這個社會,已經沒有人在日常生活當中有安全感,沒有了,這是很大的問題。所以我們談話的焦點,是神聖的教誨,經典的教誨,宗教教學,互相學習,幫助這個社會化解衝突,希望我們能盡一分力量恢復安定和平,這是幫助政府。更遠一點的,得化解災難。談話淺深長短,分寸都要把握得好,歡喜!
彼らを訪問する際は愛語です。彼らが喜ぶ話をします。「愛語(あいご)」は媚びへつらうことではなく、本当に人に益をもたらすことです。その時あなたは何を話せば良いのでしょうか?これは理解しなければなりません。今のこの社会では、すでに日常生活の安心感がありません。なくなりました。これは大きな問題です。ですから私たちの話の焦点は、神聖な教誨、経典の教誨、宗教の教学を相互に学習して、社会の衝突の解消を助けることです。私たちは安定と平和を取り戻すのに一翼を担うことを願っています。これは政府を助けることです。更に大きな所では、災難を解消します。話の深浅長短を、適切によくわきまえていれば、人は喜びます!
接著是「利行」,利是利益,我們所作所為對他有利,對他有好處,他就很容易接受。我們說的話說得再好聽,我們幹的事情不利於他,人家不會跟你往來的。我們的行動,決定是對他有利,對社會有利,對國家有利,對世界有利,應該要做。這是常懷慈忍、勸諭策進的落實,要真正用行動去做。
次は「利行(りぎょう)」です。「利」は利益(りやく)です。私たちのすることがその人の利益になり、その人にとって良い所があれば、その人は容易に受け入れます。私たちの話がどれほど立派でも、私たちのする事がその人の利益にならなければ、人はあなたと交流しないものです。私たちの行動が、必ず人の利益となり、社会の利益となり、世界の利益となるのであれば、それを行わなければなりません。これは「常懐慈忍、勧諭策進」の実行です。本当に行動をもって行わなければなりません。
「同事」,這是最難得的,我跟你做同樣的事情,你歡喜,我也歡喜。這個同事的範圍非常之大,我們初學的人,這個裡頭要加註解,同事是什麼?同聖賢之事,同神聖之事,那就沒問題。如果這個人喜歡賭博,你跟他同事,天天陪他一起去賭博,行不行?不行,這個太危險,他不是幹好事。可是真正的菩薩他幹,他要度這個眾生,度這個人,喜歡賭博,常常陪他去賭博。他去賭博都贏錢,人家一定向他請教,你有什麼高明的方法,你怎麼每一次賭都贏錢?他會告訴你,我念佛,我修禪定,我有神通,那大家都跟你來學了,是用這個方法,把人引入正道。
「同事(どうじ)」、これは最も得難いものです。私があなたと同じようにすれば、あなたは喜び、私も喜びます。この同事の範囲は非常に広いので、私たち初学者は、この中に註解を加えなければなりません。同事とは何でしょう? 聖賢と同じ事、神聖と同じ事、それなら問題はありません。ある人が賭博が好きで、あなたが同事をして、毎日一緒に賭博をするのは良いでしょうか?良くありません。これは危険すぎます。良い事ではありません。しかし真の菩薩は行います。彼は衆生を済度する為、その人を救う為に、賭博が好きならその人に付き添って賭博に行きます。彼は賭博をすれば必ず勝つので、その人は必ず彼に教えを請います。あなたには何か賢い方法があるのですか?どうして毎回賭けに勝つのですか?そこで彼は教えます。私は念仏しています。私は禅定を修めています。私には神通があります。そうして人々はあなたに学ぶようになります。このような方法で人を正道に引き入れます。
沒有這個能力,我們一去,我們自己都保不住,讓自己陷在這個邪惡裡面,那就錯了。所以這個是一定要衡量自己的智慧跟定功,沒有那麼大的智慧,沒有那麼大的定功,這個不可以。我們只能夠同事同善事,不同惡事。真正佛菩薩他跟你一同惡事,邪惡他都跟你同。目的幫助你改邪歸正,幫助你斷惡修善。所以佛菩薩沒有不現身到三惡道,現身到三惡道是與惡道眾生同事。現身在天道,是與善業眾生同事。我們今天只偏重在善的這邊,不敢向邪惡,怕自己禁不起考驗,這是必須要知道的。
このような能力がないなら、私たちは一緒に行っても自分を保つことさえできません。自分を邪悪の中に陥れるのですから、それは間違いです。ですからこれは、必ず自分の智慧と禅定の技量(定功)を見定めなければなりません。それほど大きな智慧、大きな禅定の技量がないなら、そのような事をしてはなりません。私たちは善事を共にして、悪事を共にしてはなりません。真の仏菩薩はあなたと悪事を共にします。邪悪なことをあなたと共にします。目的はあなたを邪道から正道に帰すこと、悪を断って善を修めるのを助けることです。ですから仏菩薩は三悪道に現身(げんしん。姿を現すこと)します。三悪道に現身するのは、悪道の衆生との同事です。天道に現身するのは、善業の衆生との同事です。私たちは今日善の方を偏重して、邪悪なものと向き合おうとしません。自分が試練に耐えられないことを恐れます。これは必ず知っておかなければならない事です。
四攝法裡面的布施,跟六波羅蜜的布施,意思完全不相同,這要懂得。六度裡面的布施,目的是放下我們自己的貪心,用這個手段,來把我們對一切事物的貪婪放下。所以貪戀的心斷掉,六度裡的布施波羅蜜就圓滿。四攝法裡面的布施,目的不在此地,是讓對方生歡喜心。但是也要顧忌到,不能讓對方生起貪愛的煩惱,所以這個布施要適可而止,不能太過分,也不能太小氣。這要智慧!所以四攝法是菩薩的智慧行,就是行般若波羅蜜多。
四摂法の中の布施と六波羅蜜の布施とは、意味は完全に異なります。これは理解しなければなりません。六度(ろくど=六波羅蜜)の中の布施の目的は、私たちの貪りの心を放下することです。この手段を用いて、一切の物事に対する貪婪(どんらん)を放下します。ですから執着する心を断ち切れば、六度の中の布施波羅蜜は円満になります。四摂法の中の布施の目的はそこではありません。相手に歓喜心を起こさせることです。しかしまた、相手に貪愛の煩悩を起こさせないように配慮しなければなりません。ですからこの布施は適当なところでやめて、度を越してはなりません。またケチケチし過ぎてもいけません。これには智慧が要ります!ですから四摂法は菩薩の智慧行です。つまり般若波羅蜜多を行じることなのです。
<脚注>
1.四摂法(ししょうぼう)・・・・人々を引きつけ救うための四つの徳(布施、愛語、利行、同事)。四摂事(ししょうじ)ともいう。
布施(ふせ)・・・施し与えること。
愛語(あいご)・・・慈愛の言葉。
利行(りぎょう)・・・他人のためになる行為。
同事(どうじ)・・・他人と協力すること。
(『岩波仏教辞典第二版』の解釈を参照した)
2.六波羅蜜(ろくはらみつ)・・・・菩薩が涅槃に至るための六つの徳目を指す。
持戒(じかい)・・・・戒律を堅く守ること。
忍辱(にんにく)・・・・侮辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさないこと。
精進(しょうじん)・・・・雑念を去り、仏道修行に励むこと。
禅定(ぜんじょう)・・・・精神を集中し三昧に入り、寂静の心境に達すること。
般若(はんにゃ)・・・・悟りを得る智慧。真理を把握する智慧。
「般若」は「智慧」と同義ですが、浄空法師の説明では、『宇宙の現象を説明できる智慧を「智慧」といい、煩悩と妄想を断ち切ることの出来る智慧を「般若」という』とのことです。(『認識仏教』(仏教を知る)より)
放下是心裡放下 / 放下は心の中で放下する
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四四六集)2011/6/9 檔名:02-039-0446
放下是心裡放下,事沒有關係,事沒有障礙,最重要是你的心,心裡頭不再掛念,沒有這個念頭了。也就是說,自私自利的念頭沒有了,名聞利養的念頭沒有了,對於五欲六塵的享受沒有了,喜怒哀樂七情的牽掛沒有了,貪瞋痴慢疑大幅度的降溫,你往生就有把握,什麼時候往生都沒障礙。如果這些拉雜東西還有,你就得多想想,你往生沒有把握。這是愚痴,這是煩惱、習氣。雖然極樂世界主張是帶業,帶業是指帶舊業,不帶現行。最後一口氣還沒斷,還有牽掛,那不就完了嗎?所以,真正有把握,平時就淡薄,緊急關頭心裡只有佛號,除佛號之外什麼都沒有,這個人決定得生。
放下(ほうげ=手放すこと)は心の中で放下します。事象とは関係ありません。事象に障碍はありません。最も重要なのはあなたの心です。心の中で、もはや気に掛けないこと、その考えがないことです。言い換えるなら、私利私欲の考えがないこと。名聞利養【注1】の考えがないこと。五欲六塵【注2】の享受をしないこと。喜怒哀楽、七情の気掛かりがないこと。貪瞋痴慢疑【注3】が大幅に減れば、あなたは極楽往生を把握して、いつ往生しても障碍はありません。もしそれらの細々とした物があるなら、あなたはよく考えなければなりません。あなたは往生を把握できていません。これは愚痴です。これは煩悩、習気(じっけ)です。たとえ極楽世界には業を携えて行けると言っても、業を携えるというのは古い業を携えることを指しています。現行の業ではありません。最後の呼吸が断たれる前に、まだ気掛かりがあるようでは、もうお仕舞いではないですか?ですから本当に把握していれば、平素から淡泊にして、瀬戸際には心の中には仏号だけになり、仏号の他には何もなくなります。その人は必ず浄土に生まれます。
用什麼方法來練習?我有個方法,用了好幾年,有一點效果,提供給大家做參考。每天晚上上床睡覺就想著我死了,那還有什麼放不下?在練習,練習死,每天晚上練習一次。到真死就很平常,天天都這個樣子,什麼都不想了。這個方法雖然很笨拙,但是它有效。人到死的時候,你什麼能帶去?眼前的東西,有很好,沒有也很好,全不放在心上就對了。有一樁放在心上,那都是你的麻煩,障礙你清淨心,障礙你往生的功。平常要淡薄,每天睡覺的時候練習徹底放下,不再放在心上。真的像中峰禪師所說的,心裡只有阿彌陀佛,「阿彌陀佛即是我心,我心即是阿彌陀佛」。厭捨輪迴業身,這個身要厭惡,不要喜歡它。天天去打扮它,天天那麼愛惜它,麻煩可大了!這證明什麼?證明你捨不得,捨不掉它,這是最大的障礙。能捨才同登極樂彼岸,捨不了那就不行。
どのような方法で練習するのでしょうか?私にはある方法があり、何年も用いて少しばかり効果がありますので、皆さんに参考として提供します。毎晩ベッドに上がって寝る時に、自分は死ぬのだと考えることです。まだ放下できないものがあるでしょうか?練習です。死ぬ練習です。毎晩一度練習するのです。本当に死ぬ時は平静でいられます。毎日このようにして、何も考えません。この方法は愚かではありますが、効果があります。人が死ぬ時、あなたは何を携えて行けるのでしょうか?現前の物は、あっても良いですし、無くても良いのです。全部心に留めなければ正解です。ある事が気に掛かかるようなら、それはすべてあなたの問題であり、あなたの清浄心の障碍となり、往生の功徳の障碍となります。平素から淡泊にして、毎日寝る時に、徹底して放下する練習をして、もう心の中に留めないこと。本当に中峰禅師が説かれたように、心の中は阿弥陀仏だけにします。「阿弥陀仏即是我心,我心即是阿弥陀仏」(阿弥陀仏は即ち我が心、我が心は即ち阿弥陀仏)【注4】。輪廻の業身を捨て、この身を嫌い、好んではなりません。毎日それを飾り立て、毎日それに愛着を持っていれば、面倒なことになります!これは何の証明でしょう?あなたが手放せないこと、捨てられないことの証明です。これは最大の障碍です。手放すことができれば極楽の彼岸に至るも同然であり、手放せなければ駄目なのです。
<脚注>
1.名聞利養(みょうもんりよう)・・・・名声と利得。名誉欲と財欲に駆り立てるもの。
2.五欲(ごよく)・・・・財欲、色欲、食欲、名欲、睡眠欲。
六塵(ろくじん)・・・色、声、香、味、触、法の六悪根のこと。心を乱し煩悩を起こさせるもの。
3.貪瞋痴慢疑(とん・じん・ち・まん・ぎ)・・・・「貪」は貪欲、貪り。「瞋」は瞋恚、怒り。痴は愚痴、愚かさ。「慢」は傲慢さ。「疑」は疑い。
4.「阿弥陀仏即是我心,我心即是阿弥陀仏」・・・・『三時繋念法事全集』の中で中峰禅師(1263-1323)が説いた言葉。
善財童子是我們修行的榜樣 / 善財童子は私たちの修行の手本である
文摘恭錄—淨土大經科註(第一三六集)2012/1/13 檔名:02-037-0136
《華嚴》末後做出修行的榜樣給我們看,我們要了解善財的起步,他是從什麼樣的基礎向上提升的?起步是圓教初住。吉祥雲比丘他所證得的是初住菩薩,能參訪他的,斷證地位一定是平等的。也就是起步的時候是大徹大悟,明心見性,從這個時候才開始參訪,自己沒有到這個程度不能離開老師。
『華厳経』は最後に修行の手本を私たちに見せてくれます。私たちは善財の最初の境界を理解しなければなりません。彼はどのような基礎をもって進歩向上したのでしょうか?最初の境界は円教初住です。吉祥雲比丘が証得したのは初住の菩薩です。彼を訪問できるのであれば、間違いなく地位は平等だと判断することができます。言い換えれば、出発する時には大徹大悟、明心見性していたのです。その時からようやく行脚を始めたのです。自分がこの段階に達していなければ、老師の元を離れることはできません。
他的老師是文殊菩薩,老師照顧他,不讓他走錯路。徹悟之後自己可以照顧自己,為什麼?是非善惡你都能夠明辨,你有這個能力,再用不著老師照顧了。好比走路,不認識路的時候需要別人帶路,自己認識了,不需要別人帶路。
善財の老師は文殊菩薩です。老師は彼の面倒を見て、彼に道を誤らせません。徹悟した後であれば自分で自分の面倒を見ることができます。なぜでしょう?是非、善悪をはっきりと区別できるからです。あなたにこの能力があれば、老師が面倒を見る必要はありません。ちょうど道を歩く時のように、道を知らない時は他人の案内を必要としますが、自分が知っていれば案内は要りません。
大徹大悟、明心見性就什麼都知道了,這才可以參學,才真正是《還源觀》上的四,這第一個說的,「隨緣妙用」。你看五十三參,隨緣。妙用是什麼?一絲毫都不沾染,不取於相,如如不動,他向上提升了。不著相,於一切法不起心、不動念、不分別、不執著,這真的往上提升。
大徹大悟、明心見性すれば、何でもすべて分かります。これでようやく参学(さんがく)することができるのです。これが本当の、『還源観』の四徳のうち一つ目に説かれている「随縁妙用」(縁に随うことで生じる不思議な作用のこと)です。五十三参は「随縁」です。「妙用」とは何でしょう?少しも悪習に染まることなく、相に執着せず、心を動かさないことです。そうして彼は進歩向上します。相に執着せず、すべての事に心を起こさず、念を動かさず、分別せず、執着しません。これなら本当に向上します。
法藏比丘五劫修行就是《華嚴經》五十三參,他圓滿了,成就了。所以具足無量,無法計算的、說不出的深妙功,這是果,果;具足無量清淨莊嚴,這是因,修因證果。「具足者,圓滿也」,一絲毫欠缺沒有了。「周遍含攝,無欠無餘」,這就是圓滿,大圓滿。「故云具足。所具功與莊嚴,皆不可思議」。
法蔵比丘【注1】の五劫の修行とは、正に『華厳経』の五十三参であり、彼は円満に成就しました。ですから無量(計り知れないもの)を具足します。計ることも、語ることもできない深妙なる功徳、これが果、果徳です。無量の清浄荘厳を具足すること、これは因です。因を修めて果を証得します。「具足者,円満也」(具足は、円満なり)。僅かな欠陥もなくなります。「周遍含摂,無欠無余」(周遍を含摂し、欠無く余無し)。これはつまり円満、大円満です。「故云具足。所具功徳與荘厳,皆不可思議」(故に具足と云う。具わる所の功徳と荘厳は、皆不可思議なり)。
功,五劫修行的功,自自然然現出極樂世界。極樂世界的成就就像我們這個世間欲界天,欲界天裡面的第六天,他化自在天。我們這個世界第六天人的一切受用,是第五天變化供養第六天的。我們往生到極樂世界,就像第六天人一樣,那不是第五天供養的,是阿彌陀佛供養的。阿彌陀佛五劫修行本願功來供養我們,讓我們在極樂世界樣樣都不缺乏。
五劫の修行の功徳は、極自然に極楽世界を現します。極楽世界の成就は、ちょうどこの世間の欲界天の中の第六天、他化自在天(たけじざいてん)のようなものです。私たちのこの世界、第六天の人の一切のご利益は、第五天が第六天に供養したものです。私たちが極楽世界に往生するのは、ちょうど第六天の人と同じです。それは第五天の供養ではなく、阿弥陀仏が供養したものです。阿弥陀仏の五劫に渡る修行の本願功徳によって供養され、私たちは極楽世界で何から何まで不足することはありません。
他老人家做了個大施主,做了一個大護法,還天天為大家講經說法,從來沒有中斷。不可能中斷,什麼原因?每一天新往生的人有多少,說不盡。所以那個像學校一樣,天天有新生進來,天天也有畢業出去的。成佛了,畢業,就出去了。學校,有新來的、有畢業的。所以阿彌陀佛永遠沒有休息。
阿弥陀仏は大施主となり、大護法となって、やはり毎日皆の為に講経・説法して、中断したことはありません。中断することは不可能です。原因は何でしょう?毎日新しく往生する人がたくさんいて、語り尽くせないからです。ですからそこは学校と同じように、毎日新入生が来て、毎日卒業して出ていく人がいます。仏に成れば卒業して、出て行きます。学校には新しく来る人、卒業する人がいます。ですから阿弥陀仏には永遠に休憩はありません。
<脚注>
1.法蔵比丘(ほうぞうびく)・・・・阿弥陀如来の、過去世で世自在王仏のもとで出家し修行していた時の名。(大辞泉)
<参考>
善財童子(ぜんざいどうじ)・・・・『華厳経入法界品』に於いて、インドの長者の子に生まれたが、ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として描かれている。 善智識の中には比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思われる女性、童男、童女も含まれている。(ウィキペディアより) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E8%B2%A1%E7%AB%A5%E5%AD%90
菩薩五十二位・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9#.E8.8F.A9.E8.96.A9.E4.BA.94.E5.8D.81.E4.BA.8C.E4.BD.8D
天(てん)・・・・六道の最上位。天界、天道、天上界、天上道ともいう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
六欲天(ろくよくてん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%AC%B2%E5%A4%A9
善財童子五十三參的精神 / 善財童子五十三参の精神
文摘恭錄—淨土大經科註(第一一0集)2011/12/30 檔名:02-037-0110
你看看《華嚴經》五十三參,善財童子是個求覺悟的人,就是他,善財童子怎麼成佛?五十三位善知識代表的是什麼?現實社會男女老幼各行各業,這些人在我們心目當中,都是佛、都是善知識。中國古人教導我們,「三人行必有我師」,三個人是什麼?我自己一個,一個善人,一個惡人,這叫三人。善人、惡人都是佛,都是幫助我成佛,善人教我的,他所想的、他所做的,我聽到、我看到,我有沒有?沒有,趕快跟他學;有,好好的保持不要失掉,他是我的老師。
『華厳経』の五十三参を見ると、善財童子は覚りを求める人でした。善財童子はどのように仏に成ったのでしょうか?五十三人の善知識(人を仏の道に導く先生)は何を表しているのでしょうか?現実社会の老若男女、様々な業種の人々です。これらの人々は私たちの心の中ではすべて仏であり、すべて善知識です。中国の古人は私たちに教えています。「三人行けば必ず我が師あり」。「三人」とは何でしょう?自分自身が一人、一人が善人、一人が悪人。これが「三人」です。善人、悪人はすべて仏であり、すべて私が仏に成るのを助けています。善人が教えてくれる考えや行い、自分はそれを見聞きします。自分にそれがあるでしょうか?なければすぐに学びます。あればしっかり維持して失わないようにします。その人は私の先生です。
惡人也是我的老師,他所想的、他所做的,我聽到、看到了想想自己有沒有,有,要改過,把它改過來;沒有,記住千萬不要犯。這不都是我的老師嗎?我成佛了,是他兩個教我的。善財童子五十三參的精神就在此地。五十三參在哪裡?我們早晨起來到晚上睡覺,這一天當中你所看到的、所聽到的、所接觸的就是五十三參。問題是什麼?你不會參。善財會參,所以他成佛了;我們不會參,還在當凡夫。這就是宗門常說的「會麼」,會就成功。
悪人も私の先生です。その人の考えや行いを見聞きして、自分に(その過失が)あるかどうか考えます。もしあるならそれを改めます。なければその過失を犯さないように覚えておきます。これはすべて自分の先生ではないでしょうか?私が仏に成れるのは、彼ら二人が私に教えてくれたからです。善財童子五十三参の精神はここにあります。五十三参はどこにあるのでしょう?私たちが朝起きてから夜寝るまで、この一日の中であなたが見ること、聞くこと、接触すること、それこそが五十三参です。問題は何でしょう?あなたはお参りができません。善財にはできます。ですから彼は仏に成りました。私たちはお参りができません。依然として凡夫です。これが宗門でよく言われる、「できるのか」ということです。できれば成功です。
<参考>
善財童子(ぜんざいどうじ)・・・・『華厳経入法界品』に於いて、インドの長者の子に生まれたが、ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として描かれている。 善智識の中には比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思われる女性、童男、童女も含まれている。(ウィキペディアより) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E8%B2%A1%E7%AB%A5%E5%AD%90
戒律是根 / 戒律は根である
文摘恭錄—淨土大經科註(第一二二集)2012/1/5 檔名:02-037-0122
我們今天修行六波羅蜜,為什麼得不到像經上講的功利益?我們雖然修六度,沒有根。這個諸位要記住,根是什麼?根是戒律。我們連《沙彌律儀》都做不到,六度修得再好,不會開花結果,沒有根。所以這些年來,特別提醒大家,儒釋道的三個根重要。
私たちは今日六波羅蜜【注1】を修行して、なぜ経典に説かれているような功徳とご利益が得られないのでしょうか?私たちは六度(=六波羅蜜)を修めても、根がないからです。これは皆さん覚えておいて下さい。根とは何でしょう?根とは戒律です。私たちは『沙弥律儀』さえ実行できないのですから、どれほど六度を修めても、花が咲き、実を結ぶことはありません。根がないからです。ですからここ数年来、儒教・仏教・道教の三つの根の重要性を、特に皆さんに提起しています。
這三個根是什麼?淨業三福的第一福,你就知道它的重要性了。第一福,「孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業」。孝親尊師落實在《弟子規》,《弟子規》沒有做到,淨業三福的根沒了。根本的根本就是孝親尊師,就是這兩句。
この三つの根とは何でしょう?浄業三福【注2】の第一福を見れば、あなたはその重要性が理解できるでしょう。第一福は「孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業」」(父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す)です。「孝親尊師」(親孝行して師を尊ぶこと)は、『弟子規』において実行します。『弟子規』ができなければ、浄業三福の根はありません。根本の根本こそが親孝行して師を尊ぶことであり、正にこの二句なのです。
《孝經》讀過,做不到。從天子到庶人,《孝經》上都講得清清楚楚、明明白白。什麼叫孝養父母,《孝經》裡頭講得很清楚、很明白,為什麼做不到?沒根。《弟子規》做到、《感應篇》做到、《十善業》做到,你就有根了。然後再把《沙彌律儀》做到,你就有菩提根。
『孝経』を読んだことがあっても、実行できません。天子から庶民まで、『孝経』にはすべてはっきりと、明瞭に説かれています。「父母に孝養する」とはどういうことか、『孝経』の中にはっきりと、明瞭に説かれています。なぜ実行できないのでしょう?根がないからです。『弟子規』を修め、『感応篇』を修め、『十善業』を修めれば、あなたには根があります。そして更に『沙弥律儀』を修めれば、あなたには菩提の根があります。
沒有這三個根,你自己不能成就,你這一生當中再大的成就,用現代的話說,你成為一個學者,你成為一個像現在一般學校的大學教授,你只能做到這個,你是凡夫。為什麼?小乘須陀洹你做不到,大乘《華嚴經》上所講的初信位的菩薩你做不到,這是真的,這不是假的。佛對弟子的要求不是在信解,信解是入門,佛是希望你能夠行證,如說修行,出生諸佛就是證。
この三つの根がなければ、あなたは成就することはできません。この一生でどれほど大きな成就であっても、現代の言葉でいえば、あなたは一介の学者になり、普通の学校の大学教授のようになるというだけのことです。あなたは凡夫です。なぜでしょう?小乗の須陀洹【注3】ができないのですから、大乗の『華厳経』に説かれている、初信位の菩薩さえ修めることはできません。これは本当です。嘘ではありません。仏が弟子に要求するのは信解(しんげ=信じて理解すること)ではありません。信解は入門です。仏はあなたが行証(ぎょうしょう=修行して証得すること)を願っています。仏の説かれたように修行し(如説修行)、諸仏として生まれること(出生諸佛)、これこそが証得です。
<脚注>
1.六波羅蜜(ろくはらみつ)・・・・菩薩が涅槃に至る為の六つの徳目。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧(般若)。
2.浄業三福(じょうごうさんぷく)
第一福(世福)・・・・孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業
第二福(戒福)・・・・受持三皈,具足衆戒,不犯威儀
第三福(行福)・・・・発菩提心,深信因果,読誦大乗,勧進行者
3.須陀洹(しゅだおん)・・・・煩悩を脱して聖者の境地に入った位。四果の第一。
四果(しか)・・・・小乗仏教で修行によって分けられる悟りの位を四段階に分けたもの。
須陀洹(しゅだおん)果、斯陀含(しだごん)果、阿那含(あなごん)果、阿羅漢(あらかん)果。
淫欲有三種過 / 淫欲に三種の過あり
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五二六集)2011/8/6 檔名:02-039-0526
「如制強力,弱者自伏」,這個跟上面意思是一樣的。「然此欲法有三種過」,這個欲法就是淫欲,有三種過。第一個是「苦而似樂故」,這個沒有人想到,這是苦事不是樂事。第二個「少味多災故」,給你帶來的災難太多,你沒有想到。第三個是「不淨似淨故」,這是嚴重的染污。
「如制強力,弱者自伏」(強い力で制せられ、弱者は自ら屈服するようなものである)。これは前述の意味と同じです。「然此欲法有三種過」(然るにこの欲法に三種の過あり)。この「欲法」とは「淫欲」のことで、三種の過(過失、誤り)があります。一つ目は「苦而似楽故」(苦しみは喜びに似ている)です。これは思いもよらないことです。これは苦しい事であり、楽しい事ではないのです。二つ目は「少味多災故」(少し味わえば多くの災いがある)です。あなたに多くの災難をもたらしますが、あなたは思いもよりません。三つ目は「不浄似浄故」(不浄であるのに清らかであるかのようである)です。これは重大な染汚(ぜんま=煩悩による心の穢れ)です。
「又云,何耽剎那之微樂」,這個何是個問號,為什麼?為什麼你耽著剎那之微樂,後頭「應受永劫之大苦」?「又《訶欲經》云:女色者,世間之枷鎖,凡夫戀著,不能自拔;女色者,世間重患,凡夫困之,至死不免;女色者,世間之衰禍,凡夫遭之,無厄不至。」這是佛在經典裡面告訴我們,勸導我們。歷史上,古今中外,因淫欲,殺身、家破、國亡,不知道有多少例子,古今中外皆然。戒經裡面,淫欲抱銅柱,這講因果報應,這種刑罰我們一般人講很淒慘,慘無人道。
「又云,何耽刹那之微楽」(また言う。なぜ刹那の微楽に耽るのか)、この「何」は疑問詞です。なぜ、あなたは刹那の微楽に耽るのでしょうか。その後には「応受永劫之大苦」(応(まさ)に永劫の大苦を受くるべし)とあります。「又《訶欲経》云:女色者,世間之枷鎖,凡夫恋著,不能自抜;女色者,世間重患,凡夫困之,至死不免;女色者,世間之衰禍,凡夫遭之,無厄不至。」(また『訶欲経』【注1】に言う。女色というものは、世間の首かせであり、凡夫は未練をもち、自ら抜け出すことができない。女色というものは、世間の重患であり、凡夫はこれに困惑し、死に至るまで免れることができない。女色というものは、世間の衰禍であり、凡夫がこれに遭えば、災難が降り掛からないことは無い)。 これは仏陀が経典において私たちに勧告して下さっているのです。歴史上、古今東西、淫欲によって人を殺し、家を没落させ、国を滅ぼす、そのような事例は数え切れません。古今東西、皆そうです。戒経の中には、「淫欲は(灼熱の)銅柱を抱かされる」とあります。それは因果応報を説いています。そのような刑罰は、一般の人に言わせれば非常に凄惨で、人情のかけらもなく残酷なものです。
<脚注>
1.『訶欲経』・・・・『菩薩訶色欲法経』の略称。
第一回更新 2013-02-26
第一回訂正 2014-07-30
修行在個人 / 修行は個人にあり
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一四四集)2010/9/15 檔名:02-039-0144
真正的佛教是釋迦牟尼佛的教育教學,很少看到。我們學佛機緣可以說無比的殊勝,我們遇到了真善知識,指導我們認識釋迦牟尼佛,向釋迦牟尼佛學習,這個指導非常正確。認識釋迦牟尼佛,釋迦牟尼佛是什麼身分?他不是宗教,他是教育,一生從事於教學的工作。現在佛教裡面,所有這些儀規、這些佛門的法事,在釋迦牟尼佛當時完全沒有,連修行,現在我們常常看見的禪七、佛七,有沒有?沒有。世尊當年在世,從來沒有跟大家在一起念一天佛,沒有,也沒有跟大家在一起做個七天禪七,沒有。
本当の仏教は釈迦牟尼仏の教育・教学です。見ることはごく稀です。私たちの仏法を学ぶ機縁は、この上なく殊勝であると言えるでしょう。私たちは真の善知識に遇い、釈迦牟尼仏を知り、釈迦牟尼仏に学ぶことを指導されました。この指導は本当に正しいものです。釈迦牟尼仏を知る。釈迦牟尼仏はどんな身分でしょうか?彼がしたのは宗教ではなく、教育です。一生教学の仕事に従事されていました。今の仏教の中の、あらゆる習わしや、仏門における法事は、釈迦牟尼仏の当時には一切ありませんでした。修行でさえ、今私たちがよく見る禅七、仏七などはありませんでした。世尊が在世の当時、皆で一緒に一日中念仏したことなどありません。また皆で一緒に七日間禅七を行ったこともありません。
真正是古所說的,「師父領進門,修行在個人」,他只是給你上課,只是給你解答問題,你統統都明白了,怎麼樣修行證果是你自己的事情。所以佛家講「開示悟入」,《法華經》上說的,佛對學生只做兩個字開、示,開是開啟,示是指示,做樣子給你看,他做榜樣給你看。悟入是你自己的事,學生自己的事情,學生接受老師的開示,要有能力悟入,那你真正就成就、就得法。你得要悟入才行,這點比什麼都重要。
本当に昔の大徳が、「師父領進門,修行在個人」(師父は門に誘(いざな)うだけで、修行は個人の取り組みにかかっている)と言われる通り、彼はただ講義をするだけです。ただ質問に答えて下さるだけです。あなたはすべてが明らかになります。どのように修行して証果を得るかは、あなた自身の事なのです。ですから仏教では「開示悟入」(注1)と言います。『法華経』に説かれています。仏陀が学生に対してするのは、ただ「開」「示」の二字だけです。「開」とは明け広げることです。「示」とは指し示すことです。身をもってあなたにお手本を見せて下さいます。「悟入」はあなた自身の事です。学生自身の事です。学生が老師の開示を受け入れ、悟入する能力があれば、本当に成就し、法を得ることができます。あなたは悟入しなければなりません。この点は何よりも重要です。
<脚注>
1.開示悟入(かいじごにゅう)・・・・世の人々に、仏の智見を開示し、悟らせ、仏道に入らせること。法華経に説く、仏がこの世に現れた目的を要約した語。(大辞泉)
宇宙的真相是波動,只有真心不動 / 宇宙の真相は波動であり、真心だけが不動である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三八四集)2011/4/23 檔名:02-039-0384
社會動亂,地球上這麼多災難,與我們起心動念有密切的關聯,大乘經上講得很多,現代的科學家證明,真難得!我們要不借重現代的科學,我們對佛經上很多地方都存著懷疑。佛講的,我們不敢反對,佛菩薩講的還能有錯誤嗎?可是我們想不通,究竟是什麼道理?不知道。現代最近的三十年,世界上著名的物理學家給我們做的報告,跟佛經上講的是一樣的,宇宙人生的真相,我們對他不能不佩服。
社会が乱れ、地球上にこれほど多くの災難があるのは、私たちの起心動念(心を起こし、念を動かすこと)と密接な関係があります。大乗経にはたくさん説かれていますが、有り難いことに、現代の科学者が証明してくれています!私たちは現代科学(の成果)を借りなければ、仏典に説かれている多くの部分に対して疑問が残ります。仏陀が説かれたことに私たちは反対することはできません。仏菩薩が説かれたことに誤りがあるでしょうか?しかし私たちには理解することができません。いったいどのような道理なのか、理解することができません。現代ではここ三十年、世界の著名な物理学者が私たちに教えてくれたことは、仏典に説かれていることと同じです。それは宇宙・人生の真相であり、私たちは彼らを尊敬せずにはいられません。
可是佛所講的比他還高,比他還深,比他講得詳細、講得明白,為什麼?佛證得了,他沒有證得,他只是用數學推理知道一部分,用精密的儀器觀察看到一部分,所以他還有不能解決的問題。但是大乘經上沒有不能解決的問題,這個妙!尤其是阿彌陀佛建立極樂世界,真不可思議!極樂世界可以說是諸佛如來他們的智慧,他們的神通道力,顯現出這樣殊勝圓滿的境界!理很深,但是我們現在能夠體會到一部分。我們肯定,我們相信,我們不懷疑了。
しかし仏陀は彼らよりも更に高く、更に深く、更に詳細に、明確に説かれています。なぜでしょうか?仏陀は証得(開悟)したからです。彼らは証得していません。科学者はただ数学的な推測によって一部分を知ったに過ぎません。精密な計測器を用いて一部分を観察したに過ぎません。ですから彼らにはまだ解決できない問題があります。しかし大乗経には解決できない問題はありません。本当に妙というものです!特に阿弥陀仏が極楽世界を造られたことは、本当に不可思議なものです!極楽世界は諸仏如来の智慧であり、彼らの神通力が、そのような殊勝で円満な境界を顕現させたと言っても良いでしょう!その理はとても深いものですが、私たちは今ほんの一部分だけ理解することができます。私たちは肯定し、信じ、疑いません。
真相明白之後,才肯放下,才知道整個宇宙是怎麼回事。說真話,這佛說的,說誠實言,遍法界虛空界整個宇宙,萬事萬物跟我什麼關係?一體,太密切了,還不能說一家,一家還很疏遠,是一體。我們在《華嚴經》上讀到,在賢首國師《妄盡還源觀》這一篇論文上讀到,整個宇宙是一個波動現象,這是科學家說的,說波動現象應該有五十年以上了,也就是說整個宇宙現象是動的,不動,現象就沒有了,包括物質現象亦如是。可是真心,真正的我,它是不動的,所以佛給我們講總體的現象是虛妄的,就是凡所有相皆是虛妄,為什麼?全是波動現象產生的,科學家把它歸納為三大類,物質現象,精神現象,自然現象,全是波動。
真相を理解してから、ようやく(執着を)放下して、全宇宙はどのような事なのかを理解することができます。実を言えば、仏陀が説かれた事は、本当に真実の話なのです。遍法界・虚空界・全宇宙、万事万物と自分とはどのような関係なのでしょうか?一体です。とても密接なのです。家族と言う事さえできません。家族ではまだ疎遠です。一体なのです。私たちは『華厳経』の中に、または賢首国師の『妄尽還源観』という論文に見ることができます。全宇宙は波動の現象なのです。これは科学者が言っていることです。波動の現象と言い始めてから、おそらく五十年以上になるでしょう。言い換えるなら、全宇宙の現象は動いており、動かなければ現象はなくなります。物質的な現象を含めてそのようなことなのです。しかし真心(真の心)(注1)、真の我、それは動きません。ですから仏陀は、すべての現象は虚妄である(実体がない)と説かれています。つまり「凡所有相,皆是虚妄」(姿・形あるものは、すべて偽りである)と説かれています。なぜでしょう?すべて波動の現象から生み出されるものだからです。科学者たちは、それを大きく物質現象、精神現象、自然現象の三種類に帰納しています。すべて波動です。
我們住在廣東這個地區,這個地區是唐朝惠能大師的故鄉,我們跟惠能大師的緣都很深,惠能大師開悟了,證得了,證什麼?他成佛了,真佛不是假佛,他所證得的境界跟釋迦牟尼佛完全相同,釋迦牟尼佛就像觀音菩薩三十二應,應以佛身而得度者,他就現佛身。能大師在中國,中國人不知道什麼是佛,印象很陌生,所以他老人家應以比丘身得度者,即現比丘身而為說法,中國人尊重祖師,他現祖師身。
私たちが住んでいる広東という地区は、唐朝の慧能大師の故郷です。私たちは慧能大師との縁が深いようです。慧能大師は悟りを開き、証得しました。何を証得したのでしょう?彼は仏に成った(成仏)のです。真の仏であり、偽の仏ではありません。彼が証得した境地は釈迦牟尼仏と完全に同じものです。釈迦牟尼仏はちょうど観音菩薩の三十二の応化身(注2)のように、仏身で得度すべき者には、彼は仏身を現します。大師は中国に現れました。中国人は仏とはどのようなものか、よく分かりませんでした。ですから彼は比丘身で得度すべき者対して、比丘身を現して説法しました。中国人は祖師を尊重するので、彼は祖師身として現れました。
他說自性不動,明心見性,性是什麼樣子?他說第一個清淨,性是清淨的,從來沒有染污,現在有沒有染污?現在還沒有染污,染污是意,意識有染污,自性沒有染污,自性是真的,意識不是真的;自性不生不滅,本自具足,一樣都不缺。本無動搖,這就是自性本定,它不是波動的現象,所以自性不是自然現象,不是精神現象,也不是物質現象,換句話說,科學家、哲學家對它都無可奈何,決定見不到它,它在哪裡?它無所不在,無時不在,無處不在,你就是緣不到它。
慧能大師は自性(注3)は動かないと説かれました。明心見性(自己の本性を見極めて悟りを開くこと)の、「性」とはどのようなものでしょう?彼は第一に清浄(清らか)であると説かれました。性は清浄であり、これまで穢れたことがありません。今も穢れていないでしょうか?今も穢れてはいません。穢れとは「意」であり、意識には穢れがありますが、自性には穢れはありません。自性は真実ですが、意識は真実ではありません。自性は不生不滅で、本来すべてが具わっており、一つとして足りないものはありません。(自性は)本来動揺することがありません。これこそが自性本定です。それは波動の現象ではありません。自性は自然現象ではなく、精神現象ではなく、また物質現象でもありません。言い換えるなら、科学者や哲学者は自性に対してどうしようもないでしょう。絶対にそれを見極めることはできません。自性はどこにあるのでしょう?それは、無い所はなく、無い時はなく、どこにでもありますが、あなたは手掛かりをつかむことはできません。
它不是物質,我們的前五根緣不到,眼耳鼻舌身,它不是物質。你眼看不見,耳聽不到,手也摸不到它,它不是物質。它不是精神現象,你想都想不到,你用第六意識思想,思想緣不到它,它不是精神現象,它也不是自然現象,但是它是真的,它能夠變現自然現象、精神現象、物質現象,它能變現,但是所變現的現象是幻相,《金剛經》上的比喻,「如夢幻泡影」,它不是真的。怎樣才能見性?把妄想分別執著統統放下,就見到了。惠能大師的本事就在此地,他聽五祖忍和尚講經,聽懂了,他真放下了,五祖的衣缽就傳給他了。
自性は物質ではありません。私たちの前五根(注4)、眼・耳・鼻・舌・身では分かりません。物質ではないのです。あなたは目で見ることができず、耳で聞くこともできず、手で触ることもできません。自性は精神現象ではないので、考えても考えつきません。第六意識(つまり意識)を用いても、考えが及びません。精神現象ではなく、自然現象でもありません。しかしそれは真実です。それは自然現象、精神現象、物質現象に変化して現れます。それは変化して現れますが、変化して現れた現象は幻相です。『金剛経』の比喩には「如夢幻泡影」(夢、幻、泡、影のようである)(注5)とありますが、それは真実ではないのです。どうすれば見性できるのでしょうか?妄想、分別、執着をすべて捨て去れば、見極めることができます。慧能大師の能力はそこにあります。彼は五祖・忍和尚の講経(注6)を聴いて、理解することができました。彼は本当に放下しました。そして五祖の衣鉢(注7)は彼に継承されたのです。
<脚注>
1.真心・・・・真実の心。
(現代日本語の優しさ・誠実さというニュアンスではなく、自性と同様、心の本質の意と思われます。/筆者)
2.応化身(おうけしん)・・・・仏・菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。(大辞泉)
3.自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。
禅宗の第六祖・恵能大師が開悟した際の感嘆の言葉。
何期自性 本自清浄 自性は本来清らかである
何期自性 本不生滅 自性は本来生まれも滅びもしない
何期自性 本自具足 自性には本来すべて備わっている
何期自性 本無動搖 自性は本来動揺しない
何期自性 能生万法 自性は宇宙万物を生み出すことができる
4.前五根・・・・眼根・耳根・鼻根・舌根・身根。
5.「如夢幻泡影」(『金剛経』の一節)
一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。
一切の有為(うい)の法、夢幻泡影(むげんほうよう)の如し、露の如く亦(ま)た電(かみなり)の如し、応(まさ)に是(か)くの如く観を作(な)すべし。
すべての現象は、夢、幻、泡、影のよう、また露、または電光のようなもの、そのように見るが良い。
6.講経(こうきょう)・・・・経典の講義をすること。説法。
7.衣鉢(いはつ)・・・・禅宗で、法を伝える証拠として授ける袈裟と鉢のこと。(大辞泉)
六道是幫我們消業的 / 六道は業の解消を助けてくれる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五十三集)2010/6/10 檔名:02-039-0053
你要造業,六道是業力變現的,業有善惡,這個業一定要消掉,不消掉你帶不走,它在六道裡頭,你不能把業消掉,你就沒有辦法脫離六道輪迴。所以三善道是消你善業果報,你修的那麼多福,你一定把它享盡。造作惡業是三惡道,那你得去受罪,罪受滿了再出來。
あなたは業を造っています。六道(注1)は業の力が変化して現れたものです。業には善悪があり、必ず解消しなければなりません。解消せずに(業を)持って行くことはできません。業は六道の中にあります。あなたは業を解消できなければ、六道輪廻を離れることはできません。三善道(注2)は善業の果報を解消させます。あなたが修めた多くの福は、必ず享受し尽くさなければなりません。悪業を造れば三悪道(注3)です。そこであなたは罪を受け、すべて受け終わればまた出ることができます。
所以六道都是幫助我們消業障的,業障裡頭有善有惡。三惡道有什麼不好?要是沒有三惡道,造作罪業的人那個業障永遠消不掉,消不掉就苦了,在人間就人間地獄,他受這個果報。所以人墮落地獄,為什麼時間那麼長?他要把業報都消除他才能出來。就好像這個人造了很多罪業,最後案子爆發,法官判他去坐牢,刑期滿這就釋放,這就出來了。三惡道就好像是監獄一樣,有輕重不相同,輕的,受苦輕的畜生道,重一點的餓鬼道,最重的是地獄道,六道是給人消業的。
ですから六道はすべて業障(注4)の解消を助けてくれるものです。業障には善悪があります。三悪道は何が良くないのでしょうか?もし三悪道がなければ、罪業を犯した人は業障を永遠に解消することができません。解消できなければ苦しみます。人間界が人間地獄になって、果報を受けることになるでしょう。人が地獄に堕落すると、なぜ長い時間がかかるのでしょうか?業の報いをすべて解消しなければ、出ることができないからです。ちょうどある人が多くの罪業を犯したら、最後の審判が下り、法官が入獄の判決を下して、刑期が満了になれば釈放されるようなものです。三悪道はちょうど監獄のようなものです。罪の軽重は異なります。軽ければ苦しみの軽い畜生道、重ければ餓鬼道、重罪であれば地獄道です。六道は人に業を解消させてくれるものです。
<脚注>
1.六道(ろくどう)・・・・衆生が業によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のこと。六趣、六界。
【悟界】(四聖法界)
・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
【迷界】(六道輪廻)
・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。
2.三善道(さんぜんどう)・・・・六道の天上界、人間界、修羅界。
3.三悪道(さんあくどう)・・・・六道の畜生界、餓鬼界、地獄界。
4.業障(ごうしょう/ごっょう)・・・・過去の悪業によって生じた障害のこと。
六道是一場夢 / 六道は一場の夢である
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經 (第二0四四卷) 2009/9/27 檔名:12-17-2045
聖凡用什麼做標準?標準就在阿耶跟自性。自性是真心,用真心的是聖人;用阿耶的,凡夫。四聖法界裡面我們都稱聖人,尤其是菩薩跟佛,那真的跟大乘教裡面講的佛菩薩似乎沒有兩樣。天台大師六即佛裡面說,他們這個階層的人叫相似即佛,相似可見得不是真的。他能夠依教修行,把佛在經典上所講的道理變成自己的思想見解,佛在經典裡面所講的教訓,他統統都能落實到生活、落實到處事待人接物。
聖人と凡夫は何を基準としているのでしょうか?基準は阿頼耶識(注1)と自性(注2)にあります。自性とは真心です。真心を用いているのが聖人で、阿頼耶識を用いているのが凡夫です。四聖法界(注3)の人たちを、私たちはすべて聖人と言っています。特に菩薩と仏です。聖人というのは本当に大乗教で言われる仏・菩薩とよく似通っています。天台大師は六即仏(注4)の中で、彼らの階層の人を「相似即仏」(そうじそくぶつ)と説いています。相似(そうじ=よく似ていること)ですから本物ではありません。彼は教義に従って修行することができます。仏陀が経典に説かれた道理が自分の思想と見解に変わり、仏陀が仏典に説かれた教訓を、すべて生活で実践し、社会生活で実行することができます。
所以我們簡直看不出來他還是凡夫,他跟佛一樣沒有什麼差別,就是用心不一樣。佛教導我們,我們真的像《華嚴經》上所說的,對世出世間一切法我們不執著了、執著放下了,執著是見思煩惱,見思煩惱斷了就證阿羅漢果。所以要知道六道怎麼來的,真的是自作自受!六道是執著變現出來的,就是見思煩惱。這個東西沒有了,六道就不見了。六道不見了,就等於說是六道是一場夢,你醒悟過來了。
ですから私たちは、彼がまだ凡夫だとはまったく分かりません。彼は仏と同じで何の区別もありません。ただ心の用い方が違うのです。仏陀は私たちを教え導きます。私たちは『華厳経』に説かれているように、世間・出世間(注5)の一切の法(有形無形の存在)に執着せず、執着を放下することです。執着とは見思煩悩(注6)です。見思煩悩を断てば、阿羅漢果(注7)の境地に達します。ですから私たちは、六道(注8)がどこから来るのかを知らなければなりません。本当に自業自得です!六道とは執着が変化して現れたもの、つまり見思煩悩なのです。これが無くなれば、六道は見えなくなります。六道が見えなくなれば、六道は一場の夢と同じになり、あなたは迷いから覚醒するのです。
<脚注>
1.阿頼耶識(あらやしき)・・・・宇宙万有の展開の根源とされる心の主体。万有を有することから蔵識、万有発生の種子(しゅじ)を蔵するところから種子識ともいわれる。
2.自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。
3.四聖法界(ししょうほっかい)・・・・仏や菩薩の悟りの境界。
十法界
【悟界】(四聖法界)
・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
【迷界】(六道輪廻)
・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。
4.六即仏(ろくそくぶつ)・・・・(=六即)天台宗の悟りに至る六段階。
①理即、②名字即、③観行即、④相似即、⑤分真即、⑥究竟即。
5.世間(せけん)・・・・生きとし生けるもの(衆生世間)、山河大地(器世間)、それらを構成する要素(五陰世間)の総称。
出世間(しゅっせけん)・・・・俗世間の煩悩を離れた仏や菩薩の境界。
6.見思煩悩(けんしぼんのう)・・・「見思」とは、見惑(けんわく)と思惑(しわく)のこと。「見惑」とは仏教の真理について迷いを覚えること。「思惑」とは、貪嗔痴(貪り、怒り、無知)などの煩悩のこと。「惑」は煩悩の意味。「見思煩悩」は、それらの迷いや煩悩のこと。
7.阿羅漢果(あらかんか)・・・・梵語のarhatの音写。尊敬に値する人の意。仏の十号の一。
浄空法師の解説では、妄想・分別・執着の煩悩のうち、執着を断って清浄(清らかな心)の境地に達した人。六道輪廻(カルマ)を離れた境地の人。阿羅漢はまだ妄想・分別の煩悩を残しているという。
*下記は浄空法師のお話を基に整理したものです。
<放下する煩悩> <回復する本性> <境地>
執着心 → 清浄心 → 阿羅漢 (六道輪廻からの離脱)
(こだわりの心) (清らかな心)
分別心 → 平等心 → 菩薩
(識別・差別する心) (分け隔てのない心)
妄想(起心動念)→ 覚 → 仏陀
(心・意念の働き) (妄念を離れた状態)
8.六道(ろくどう)・・・・衆生が業によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のこと。(=六趣、六界)
成佛是回歸自性而已 / 成仏とは自性に回帰するだけである
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二0七二卷)2009/11/25 檔名:12-17-2072
首先必須知道我們為什麼要學佛,佛是什麼,為什麼要學。佛這個字從表面上來看,文字的含義是智慧、是覺悟,那沒有智慧就是愚痴,不覺就迷惑。我們不願意做個愚痴人,做個愚迷的人,我們要學佛,佛是智覺。智覺終極的目標在哪裡?是成佛。什麼叫成佛?回歸自性而已。所以佛教不是別的,教你回頭。從哪裡回頭?現在這個地位回頭。我們現在這個地位是什麼?人道,十法界裡的人法界。如果你是畜生道,就在畜生道裡頭回頭。就地回頭,那個快。那是什麼?上上根人!當下就回頭。但不是上上根人,一般講中下根人,這就不是利根,那麼有階級。
初めに知っておかなければなりません。私たちはなぜ仏法を学ぶのでしょうか。仏とは何でしょうか。どうして学ばなければならないのでしょうか。仏という字を見てみると、文字に含まれている意味は智慧であり、覚悟(覚醒、覚り)です。智慧がなければ愚か(愚痴)であり、覚らなければ迷い(迷惑、迷妄)ます。私たちは愚かな人になりたくはありません。私たちは仏に学ばなければなりません。仏は智覚(智慧と覚り)なのです。智覚(智慧と覚り)の究極の目標はどこにあるのでしょうか?それは仏に成る(成仏)ということです。成仏とは何でしょう?自性(注1)に回帰するだけのことです。ですから仏教とは他でもなく、あなたを善に立ち返らせるものなのです。どこから立ち返るのでしょう?今居る所から立ち返ります。私たちが今居る所はどこでしょう?人道(注2)です。十法界(注3)の中の人法界です。もしあなたが畜生道にいるなら、畜生道で立ち返ります。その場で立ち返ること、それが一番早いのです。それはどんな人でしょう?上上根(注4)の人です!その場で善に立ち返ります。しかし上上根の人でなく、一般に言われる中根(ちゅうこん)下根(げこん)の人であれば、それほど優れた資質(利根)ではありません。それには階級があります。
我們迷失了自性,才變成十法界。如果我們在十法界裡面距離自性最遠的,一百八十度違背的,那一道叫什麼?叫地獄道。一百八十度完全相違背,不忠、不孝、不仁、不義,就到那裡去了。在佛法裡面,殺盜淫妄、妄語惡口、貪瞋痴,這是惡道,十惡,阿鼻地獄。根性鈍的人菩薩有善巧,讓你回頭,從地獄回頭到餓鬼道,從餓鬼道回頭到畜生道,畜生道回頭到人道,人道回頭到天道,天道回頭到聲聞道,聲聞回頭到緣覺道,緣覺回頭是菩薩道,菩薩回頭是佛道。這個佛是相似佛,不是真佛,佛再回頭,那就成了真佛。回頭是岸!不可以沉淪,不可以墮落。人要懂得向上,不能往下墜落。我們的本性純善純淨,不在十法界,墮落到十法界作佛也違背了本性。可是迷邪染是非常害的,就跟吸毒一樣,你只要碰上它,就變成有癮。如不趕快回頭,他一定是愈陷愈深。
私たちは自性を見失ったからこそ、十法界に変わったのです。十法界において自性と最も程遠く、百八十度(自性に)背いているのは、何という道でしょう?それが地獄道です。百八十度、完全に正反対です。不忠、不孝、不仁、不義によって、そこに行くことになります。仏法の中では、殺生・窃盗・淫欲・妄想、嘘(妄語)・悪口、貪(貪欲)・瞋(怒り)・痴(愚かさ)、これらが悪道、十悪(注5)、阿鼻地獄(注6)です。生まれ持った資質(根性)が純粋な人には菩薩による善の導き(善巧)(注6)があり、あなたを改心させます。地獄道で改心して餓鬼道に行き、餓鬼道で改心して畜生道に行き、畜生道で改心して人道に行き、人道で改心して天道に行き、天道で改心して声聞道に行き、声聞道で改心して縁覚道に行き、縁覚で改心して菩薩道に行き、菩薩道で改心して仏道に行きます。この仏は仏に似ていますが、真の仏ではありません。仏が更に改心して、真の仏に成ります。改心すれば救われます。落ちぶれてはなりません。堕落してはなりません。人は向上することを旨として、下に堕落してはなりません。私たちの本性は純善(じゅんぜん)純浄(じゅんじょう)であり、十法界にはありません。十法界に堕落して仏に成るのも本性に背いています。しかし迷妄、邪心、心の汚染は尋常ではありません。ちょうど麻薬を吸うのと同じように、少し触れただけで中毒になってしまいます。もしすぐに改心しなければ、増々深みにはまってしまいます。
<脚注>
1.自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。
2.人道(じんどう)・・・・六道のうち人間道のこと。人間界。人界。
3.十法界(じっぽっかい)・・・・地獄から仏界までの十種の世界。全宇宙。
【悟界】(四聖法界)
・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
【迷界】(六道輪廻)
・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。
4.上上根(じょうじょうこん)・・・・仏道を修める性質・能力が非常に優れていること。
上根(じょうこん)、中根(ちゅうこん)、下根(げこん)とあり、下根は修行する能力が最も乏しいこと。
5.十悪(じゅうあく)・・・・身(身体)、口(言葉)、意(意念)の十種の悪い行為のこと。
身(身体)
殺生(せっしょう)・・・・衆生の命を奪うこと。
偸盗(ちゅうとう)・・・・盗むこと。
邪淫(じゃいん)・・・・淫らな性行為をすること。
口(言葉)
妄語(もうご)・・・・嘘をつくこと。
綺語(きご)・・・・不誠実に言葉を飾りたてること。
両舌(りょうぜつ)・・・・二枚舌を使うこと。
悪口(あっく)・・・・他人の悪口を言うこと。
意(意念)
貪欲(とんよく)・・・・欲望を貪ること。
瞋恚(しんに)・・・・怒り、恨むこと。
愚癡(ぐち)・・・・心性が愚かで道理に暗いこと。
6.阿鼻地獄(あびじごく)・・・・地獄の中で最も苦しい地獄。
八大地獄
①等活地獄、②黒縄地獄、③衆合地獄、④叫喚地獄、
⑤大叫喚地獄、⑥灼熱地獄、⑦大灼熱地獄、⑧阿鼻地獄(=無間地獄)
6.善巧(ぜんぎょう)・・・・衆生を教化するその手段・方法の巧みなこと。
<参考>
【地蔵菩薩】・・・・仏陀の入滅後から弥勒菩薩がこの世に現れるまでの56億7000万年の間、六道の衆生を救う誓いをしたのが地蔵菩薩、お地蔵さんです。お地蔵さんは日本では平安中期から江戸時代まで、庶民にとても親しまれた菩薩です。日本の昔話でも有名な「六地蔵」は、地蔵菩薩が六道を超越して衆生を救済することから日本で作られたといわれています。
四禪八定突破空間維次 / 四禅八定は空間の次元を突破する
文摘恭錄—淨土大經解演義(第八十五集)2010/7/20 檔名:02-039-0085
佛經裡面講的四禪八定,諸位要知道這不是佛教的,四禪八定是婆羅門教的,也就是今天的興都教,也有人稱印度教。我們下面三樓就是印度教。他們的歷史,我跟他們有往來,他們一些長老告訴我,他們的教,歷史應該超過一萬多年。這個我相信,印度教不重視歷史,他們重視修行,為什麼不重視歷史?時間跟空間是假的,不是真的,既不是真的,何必要去執著它?這是他為什麼不重視歷史,他們重視禪定。人在禪定當中就能夠把空間維次突破,這是科學家知道的。近代科學家,他們確實證實有不同維次空間在這個世間,從理論上講,不同維次空間是沒有限度的,不知道有多少。科學家確實證明,確實證明的大家承認的,至少有十一種不同維次空間。這些話黃念祖老居士告訴我的,他是學科學的,學無線電的,在大學就教這個科目,他告訴我一些科學方面的知識,跟佛法相應的。
仏典に説かれている四禅八定(注1)、これは仏教ではなく、バラモン教が伝えたものです。また今日のシーク教、またある人はヒンズー教とも言います。私たちの下の三階にいるのがヒンズー教です。彼らの歴史について、彼らと交流したところ、彼らの長老が私に言うには、彼らの教義の歴史は一万年を超えるということです。私はこれを信じます。ヒンズー教は歴史を重視せず、修行を重視していたのです。なぜ歴史を重視しないのでしょうか?時間と空間には実体がないからです。真実ではありません。真実でないなら、どうしてそれに執着する必要があるでしょうか?なぜ歴史を重視しないかというと、彼らが禅定を重視していたからです。人は禅定の中で、空間の次元を突破することができます。これは科学者が知っています。近代の科学者は、この世界に異次元空間が存在することを実証しています。理論上では、異次元空間には際限がなく、どのくらいあるかは分かりません。科学者が間違いなく証明し、皆が承認しているのは、少なくとも十一種類の異次元空間があるということです。このような話は、黄念祖居士(注2)が私に話してくれました。彼は科学を学んだ人です。無線通信技術を学んで、大学でその科目を教えていました。彼は私に、仏法にも通じる科学的な知識を教えてくれました。
我們學佛學了這麼多年,多少能體會到一些關於空間維次的問題,空間維次怎麼來的?從分別執著來的。諸位想想看,我們一個人的分別執著有多少?起心動念都是分別執著,就造成不同維次空間。又何況這個世界上這麼多人,每個人都起心動念,所以空間維次就很複雜,真的是沒有法子、沒有頭數,但在禪定當中能夠突破。四禪八定總共就是說這個禪定有八個等級,這個禪定如果你要是修,真的古人所講的公修公得,婆修婆得,不修就不得。你要去修你得到了你看到六道,他修他也看到了,我修我也看到了,我們大家在一塊談談,你看到什麼,我看到什麼,他看到什麼,都一樣的,這證明不是假的,是真的。你禪定的等級愈往上提升,你看的空間愈大。
私たちは長い間仏法を学んでいるので、いくらか空間の次元の問題について理解することができます。空間の次元はどこから来るのでしょうか?分別・執着から来るものです。皆さん考えてみて下さい。私たち一人の分別・執着はどれくらいあるでしょう?起心動念はすべて分別・執着であり、それが異次元空間を造り出しているのです。ましてやこの世界には多くの人々がいて、全ての人に起心動念があるので、空間の次元はとても複雑になり、数えることなど到底できません。しかし、禅定の中であれば突破することができます。四禅八定とは、つまり禅定には八つの段階があるということです。この禅定をあなたが修めるなら、本当に古人が「公修公得,婆修婆得,不修就不得」(修行を積むのは個人にかかっており、修行しなければ得ることはできない。)(注3)と説いている通りです。あなたが修めれば、あなたは得ることができ、六道を見ることができます。彼が修めれば彼も見ることができ、私が修めれば私も見ることができます。私たちは皆で集まって、あなたが何を見たのか、私は何を見たのか、彼が何を見たのかを話してみれば、すべて同じはずです。これは偽りではないことの証明です。真実です。あなたの禅定の段階が上がれば上がるほど、あなたが見る空間は大きくなります。
四禪十八層天,往上去還有四空天,四空天是沒有身體;四禪有身體、有宮殿,有居住的地方。四空天沒有,四空天就是我們一般人講的靈界,他有靈魂,他沒有肉體。為什麼沒有肉體?他不要肉體,肉體太麻煩,不要肉體多自在!實在講中國早年佛法沒到中國來,中國人有這個思想,老子。《老子》裡面有一句話,他說的「吾有大患,為吾有身」,他說我最大的憂患是什麼?我有身體,身體就有,沒有身體多自在。沒有身體就四空天,真有,所以我稱四空天叫高級凡夫,我在講經的時候用這個名詞,高級凡夫。他們不要身體,不要身體就不要吃飯,也不必穿衣服,也不必住房子,你看省多少事!這高級凡夫。
四禅十八層天、更に上には四空天(注4)があります。四空天には身体はありません。四禅には身体があり、宮殿があり、居住する場所があります。四空天にはありません。四空天とは、一般の人が言う霊界です。霊魂はありますが、肉体はありません。なぜ肉体がないのでしょうか?肉体は不要だからです。肉体はとても面倒です。肉体が要らなければ自在になります!実のところ、仏法がまだ中国に伝わっていない頃、中国人にはこのような思想がありました。老子です。『老子(道徳経)』の中にある言葉で、彼は「吾有大患,為吾有身」(自分に大きな心配があるのは、自分に身体があるからである)(注5)と説いています。彼が言う人の最大の心配事とは何でしょう?自分に身体があることです。身体がなければ本当に自在になります。身体がなければ四空天であり、これは本当にあるものです。ですから私は四空天のことを「高級凡夫」と言っています。私は説経するときに、この言葉を使っています。高級凡夫です。彼らは身体が要りません。身体が要らないので食事をする必要がなく、服を着る必要もなく、家に住む必要もありません。どれだけ手間が省けることでしょう!これが高級凡夫です。
只要有定功有了初禪,初禪雖然看不到上面,他能看到下面,下面是什麼?能看到地獄。地獄也非常複雜,最苦的叫無間地獄,他都能看到。所以這個六道不是什麼宗教,不是胡思亂想,真有其事。我們在佛法理論上搞清楚了,為什麼會有六道?為什麼會有天堂?天堂也不是像宗教裡面講那麼單純,很多很多天堂,很複雜的天堂,而且天還有二十八個高低不同的層次。這些都是古婆羅門發現的,也就是說在釋迦佛出世之前的一萬年,人家就搞得清清楚楚、明明白白。
禅定の技量があり初禅に達しさえすれば、初禅では上の世界は見えませんが、下の世界は見ることができます。下は何でしょう?地獄を見ることができます。地獄も非常に複雑で、最も苦しい所を無間地獄(=阿鼻地獄)と言いますが、すべて見ることができます。ですからこの六道というのは、宗教でも何でもなく、くだらない妄想でもなく、本当にそのような事なのです。私たちは仏法の理論において明確です。なぜ六道があるのでしょうか?なぜ天国があるのでしょうか?天国も宗教で言われるような、そのような単純なものではありません。非常に多くの天国があり、天国は非常に複雑なのです。しかも天には二十八の高低の異なる階層があります。これらはすべて古代のバラモンが発見したことです。そして釈迦牟尼仏が生まれる一万年前に、彼らはそれをはっきりと、明確に理解していたのです。
<脚注>
1.四禅八定・・・・仏教の四禅八定は、「色界四禅」と「無色界四定」の総称である。即ち初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処定、識無辺処定、非想・非非想処定のことである。四禅八定は禅定の基礎であり、仏陀が悟り涅槃に達した時、それまでに修めた四禅八定の技量がその助けとなっている。
参考(中文):http://www.rushiwowen.org/category-02-1-008.jsp
2.黄念祖居士(1912-1992)・・・・本籍は湖北省江陵。無線通信技術を専攻し、大学卒業後はラジオ局に勤めた。解放後は北洋大学、天津大学、北京郵電学院にて教授を歴任。若い頃から仏法を学び、経典研究に専念し、叔父にあたる梅光羲について仏法を学び、虚雲和尚に帰依して禅を学んだ。また諾那活仏の弟子である王家斉、及び貢噶上師より密教のニンマ派(紅教)・カルギュパ派(白教)を学んだ。夏蓮居に師事して浄宗発揚の必要性を学んだ。(百度百科より抜粋して翻訳)
(注)
「解放」は1949年10月1日中華人民共和国成立の意。
「北洋大学」は天津大学の前身の名称。
3.「公修公得,婆修婆得,不修就不得」
旦那が修めりゃ旦那が得、女房が修めりゃ女房が得、修行しなけりゃ得ざるなり。
修行を積むのは個人にかかっており、修行しなければ得ることはできない。(*筆者の意訳です)
4.四空天・・・・①空無辺天、②識無辺天、③無所有天、④非想非非想天。
http://baike.baidu.com/view/2084026.htm
5.「吾有大患,為吾有身」 (老子『道徳経』第十三章)
自分に大きな心配があるのは、自分に身体があるからである。
寵辱若驚。貴大患若身。
称賛と侮辱が人の心を動揺させるのは、
その利害損得を自分の身体の事のように心配するからである。
何謂寵辱若驚。
どうして人は称賛と侮辱に動揺するのだろうか?
寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。
称賛を善いものと考え、侮辱を悪いものと考えているから、
称賛されれば飛び上がって歓喜し、侮辱されればひどく落ち込むのである。
是謂寵辱若驚。
称賛と侮辱が人の心を動揺させるというのは、このような訳である。
何謂貴大患若身。
どうして人はそれらを自分の身体のように心配するのだろうか?
吾所以有大患者、爲吾有身。
自分に大きな心配があるのは、自分に身体があるからである。
及吾無身、吾有何患。
自分に身体が無いなら、何を心配する必要があるだろうか。
故貴以身爲天下、若可托天下。
したがって、自分の身体のように天下を貴ぶ人であれば、天下を託すことができ、
愛以身爲天下、若可寄天下。
自分の身体のように天下を愛する人であれば、天下を任せることができるのである。
老子『道徳経』第十三章
四依法
一、 依法不依人
法(真理)に依拠して、人(の見解)に依拠してはならない。
二、 依義不依語
義(意味)に依拠して、語(文辞)に依拠してはならない。
三、 依了義不依不了義
了義(真実の教義)に依拠して、不了義(偽りの教義)に依拠してはならない。
四、 依智不依識
智(智慧)に依拠して、識(知識)に依拠してはならない。
<参考>
四依法・・・・日本では法四依(ほうしえ)とも言うようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%9B%9B%E4%BE%9D
空間維次的奧妙 / 空間次元の奥妙
文摘恭錄—淨土大經解演義(第八集)2010/4/12 檔名:02-039-0008
從催眠裡面知道人有過去世,過去不止一世,有人在催眠裡面說出十幾世、二十幾世,我看到魏斯報告裡曾經有一個人好像有好幾十世,推到前面差不多四千多年,在上古時代,他們居住還沒有房子,居住在洞穴裡面,在那樣一個時代,這就是靈魂轉世。
催眠の中で人には過去世があることを知ることができます。過去は一世だけではありません。ある人は催眠の中で十数世、二十数世と語り出します。私はブライアン・L・ワイス(Brian L. Weiss)の著書で見たのですが、かつてある人は数十世、およそ四千年以上前の上古時代までさかのぼりました。住居はまだ家ではなく、洞窟の中に住んでいた時代でした。これが霊魂の転生です。
六道是真的,不是假的。在古印度釋迦牟尼佛那個年代,印度是宗教之國,他們宗教的信徒都有禪定的功夫,學術界裡面都知道修禪定,在禪定裡面可以突破空間維次,也就是說六道裡面的空間維次他們都能夠突破,四禪八定,他能看到非想非非想天,下面能看到阿鼻地獄。這不是假的,誰得定誰就能看到,你問那些得定的人,請教他們所見到的地獄狀況和天堂狀況,他講給你聽,大家都講得一樣,不是假的。
六道(注1)は真実です。偽りではありません。古代インドの釈迦牟尼仏の時代、インドは宗教国家でした。彼らの宗教信徒は、すべて禅定の技量を積んでいました。学術界においても、禅定を修めることを知っていました。禅定の中では空間の次元を突破することができます。つまり六道の中の空間の次元を、彼らは突破することができました。四禅八定(注2)、彼らは非想非非想天(ひそうひひそうてん)(注3)や阿鼻地獄(あびじごく)(注4)を見ることができました。これは偽りではありません。誰でも定を得れば、見ることができます。あなたが定を得た人たちに質問すれば、彼らは地獄の状況や天国の状況を、あなたに話してくれます。皆言うことが同じですから、偽りではありません。
他不是用科學儀器,他是用禪定功夫把空間維次突破。現在科學知道確實有空間維次存在,但是還不知道用什麼方法突破,找不到方法。在古印度這些宗教學術界的大,他們在幾千年前,如果從印度教來講,印度教長老告訴我,他們的歷史有一萬多年,可是今天我們這個世界,學術界承認它八千五百年,比我們佛教早五千年。他們自己說一萬多年,我相信,他們不重視歷史記載,代代相傳。
彼らは科学の計測器を使いません。禅定の技量を使って空間の次元を突破します。現在では科学的にも間違いなく空間の次元が存在することが分かっています。しかしどんな方法で突破できるのかは、まだ分かっていません。古代インドの宗教界・学術界の大徳たちは、数千年前にいたのです。ヒンズー教の長老が私に言うには、彼らの歴史は一万年以上あるそうです。しかし今日の学術界では八千五百年と承認されています。私たちの仏教よりも五千年も早いのです。彼らが言うには一万年以上です。私は信じます。彼らは歴史の記載を重視せずに、代々継承していたのでしょう。
空間維次突破,不一樣了,境界完全不相同,都沒有出離六道輪迴。所以靈魂實在講,中國聖人對這些事情我想他們也知道,知道他不說。為什麼不說?一般世俗的群眾沒有這個境界。不說好,說了擾亂他們的心思,讓他們去胡思亂想,不如不說,程度沒到,所以夫子所講的是人道,天道、鬼神很少說。這都是說機感不同,所以教學的方法就不一樣。
空間の次元を突破すれば、同じではありません。境地は完全に異なります。しかしすべて六道輪廻を離れていません。霊魂については実のところ、中国の聖人たちも、それらのことを知っていたと私は思います。知っていながら話さなかったのでしょう。なぜ話さなかったのでしょう?世間一般の人々は、この境地に達していないからです。話さない方が良いのです。話せば人々の心を混乱させます。人々につまらない考えを起こさせるくらいなら、言わない方が良いのです。そこまでの程度に達していないからです。ですから孔夫子が説かれたのは人道であり、天道、鬼神についてはほとんど説かれていません。これはすべて機感(きかん)(注5)が異なるからです。ですから教学の方法も異なります。
<脚注>
1.六道(ろくどう)・・・・衆生が業によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のこと。六趣、六界。
【悟界】(四聖法界)
・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
【迷界】(六道輪廻)
・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。
2.四禅八定・・・・仏教の四禅八定は、「色界四禅」と「無色界四定」の総称である。即ち初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処定、識無辺処定、非想・非非想処定のことである。四禅八定は禅定の基礎であり、仏陀が悟り涅槃に達した時、それまでに修めた四禅八定の技量がその助けとなっている。
参考(中文):http://www.rushiwowen.org/category-02-1-008.jsp
3.非想非非想天(ひそうひひそうてん)・・・・三界(上から無色界・色界・欲界)のうち、無色界の最高の処を指す。(=有頂天、非想非非想処)
4.阿鼻地獄(あびじごく)・・・・地獄の中で最も 苦しい地獄。
5.機感(きかん)・・・・仏が衆生の心の働きを感じ取って、それに対応すること。また、衆生の心の働きが、仏を導く力を感じること。(大辞泉)
古聖先賢皆是諸佛應化世間 / 古の聖賢はすべて諸仏が世間に応化したものである
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一二五集)2010/8/27 檔名:02-039-0125
乃至「虛空際無所著解脫三昧」,這個好懂,虛空就是法界,無量無邊無數無盡。中國古人有兩句話來形容它,所謂「大而無外」,你說大,什麼叫大?它沒有外,也就是說它沒有邊際,這真大;小,什麼叫小?「小而無內」。古聖先賢這兩句話,都不是佛教傳到中國來以後說的,跟佛經上講的三昧的意思境界完全相同。佛教沒傳到中國來,那些古聖先賢,我們的老祖宗,說這些話的境界跟諸佛如來沒有兩樣,你能說這些人不是佛菩薩再來的嗎?
「虚空際無所著解脱三昧」、これは理解し易いでしょう。虚空とは法界であり、無量無辺、無数無尽です。中国の古人はそれを二つの言葉で形容しています。いわゆる「大而無外」(果てしなく大きい)です。大きいとはどういうことでしょうか?外がないこと。つまり際限がないこと。それが本当に大きいということです。小さいとはどういうことでしょうか?「小而無内」(果てしなく小さい)ということです。古の聖賢のこの二つの言葉は、仏教が中国に伝わった後で語られたのではありません。仏典に説かれている三昧の意味と、その境地はまったく同じものです。仏教が中国に伝わっていない頃、古の聖賢たち、私たちのご先祖様が説かれている境地は、諸仏如来と何も異なるところはありません。あなたはこのような人を仏菩薩(ほとけぼさつ)の再来ではないと言えるでしょうか?
我們讀了《華嚴經》、學了《還源觀》,這個疑惑沒有了,知道諸佛菩薩在遍法界虛空界現身,與一切眾生感應道交,現身說法。《楞嚴經》上講得好,「隨眾生心,應所知量」,眾生希望佛現什麼身,佛就現什麼身,佛隨眾生,從來沒有自己的意思。在中國這個環境,中國人非常尊重聖賢,他就現聖賢身;印度人仰慕佛陀,他就現佛菩薩身;乃至於在西方,崇敬上帝的就現上帝身,仰慕摩西、耶穌的就現耶穌、摩西身,沒有一樣不自在。
私たちは『華厳経』を読み、『還源観』を学べば、そのような疑いはなくなります。諸仏菩薩は法界・虚空界に遍く行き渡って現身【注1】し、一切の衆生と感応道交【注2】し、現身して説法するのです。『楞厳経』には「随衆生心,応所知量」(衆生の心に随い、所知の量に応ず)と説かれています。衆生が仏にどのように現身して欲しいかによって、仏はそのように現身します。仏は衆生に従うだけで、自分の考えはありません。中国のこの環境では、中国人が非常に聖賢を尊重したので、聖賢となって現れたのです。インド人は仏陀を敬慕したので、仏菩薩身となって現れたのです。さらに西洋では、神を崇拝したので神が現身したのです。モーセ、イエスを敬慕すればイエスやモーセが現身するのであり、何一つ不自由はありません。
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【注1】 現身(げんしん)・・・・仏・菩薩が衆生を救うためにこの世に現れるもの。(=現身仏。応身仏。)
【注2】 感応道交(かんのうどうこう)・・・・仏の働きかけと、それを感じ取る人の心が通じ、相交わること。
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早年我到日本訪問,日本一個老和尚,中村康隆,我去訪問他那一年他一百歲。他知道我在團結宗教,在做「世界宗教是一家」的工作,他很歡喜。我們見面他告訴我,他說「全世界所有宗教的創始人,都是觀世音菩薩的化身」。觀世音菩薩三十二應,應以什麼身得度就現什麼身。我們聽了非常歡喜,這個老和尚不簡單。我離開的時候,他的徒弟送我到山門口,告訴我,老和尚今天說的話,好像一生都從來沒聽他說過這個話,「所有宗教創始人都是觀世音菩薩的化身」,沒聽說過。是真的不是假的,這個話也不是普通人能說得出來的。
以前私が日本を訪問した時のことですが、日本のある老和尚、中村康隆和尚【注3】はその時百歳でした。彼は私が宗教の団結を呼びかけ、世界の宗教を家族にする仕事をしていることを知って、とても喜ばれました。私たちがお会いした時、中村和尚は、「全世界の宗教の創始者は、すべて観世音菩薩の化身です」と話されました。観世音菩薩は三十二の応化身があり、どのように衆生を救うかによって、自在に応化【注4】します。私たちはそれを聴いて、とても喜びました。あの和尚さんは人並みではありません。私がおいとまする時、彼の徒弟が私を山門まで送ってくれました。彼は、「和尚が今日話された話ですが、あのような話をされたというのは、これまで聞いたことがありません」と言いました。「あらゆる宗教の創始者は、すべて観世音菩薩の化身である」。これは真実であり、偽りではありません。またこのような話は普通の人が話せることではありません。
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【注3】 中村康隆(なかむらこうりゅう、1906-2008)・・・・知恩院門跡第86世浄土門主。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%BA%B7%E9%9A%86
【注4】 応化(おうげ)・・・・仏菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。
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第一回更新 2012-11-17
第一回訂正 2014-11-14