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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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仏法の初学者は、光を見たり、宝香を聞く機会が多い

2014-07-06 | 【仏陀の教育】


初學佛的人見光、聞到寶香機會多 仏法の初学者は、光を見たり、宝香を聞く機会が多い
文摘恭錄—淨土大經科註(第一八七集)2012/2/12 檔名:02-037-0187

香積佛剎香積如來用的是妙香,接引大眾、成就大眾,這個事情好,極樂世界也有。肯定法藏比丘在香積國學到這些東西,所以西方極樂世界,它的寶香比香積國還要殊勝。極樂世界寶香普熏,能令聞香眾生『皆修佛行』。塵勞垢習,這就是煩惱、習氣,聞這個寶香自然不起。極樂萬物皆以寶香合成,無量的寶香,十方剎土裡面的好香,極樂世界統統具足。
香積仏刹の香積如来が用いるのは妙香(みょうこう)です。大衆を導き、大衆を成就させます。これは良い事です。極楽世界にもあります。法蔵比丘が香積国でこれらを学んだのでしょう。ですから西方極楽世界の宝香は香積国よりも更に殊勝です。「極楽世界宝香普(あまね)く薫(かお)り、能く香を聞かしめ衆生皆仏行を修む」。「塵労垢習」、これは煩悩、習気(じっけ)ですが、この宝香を聞くと自然に起こらなくなります。極楽の万物は皆宝香でつくられています。無量の宝香です。十方刹土の良い香りは、極楽世界にすべてあります。

其香普熏十方世界,皆顯事事無礙的法界。極樂世界有佛光、有寶香,佛光遍照,寶香普熏,我們這個世界有沒有人見過光?有沒有人聞過香?有,而且很多。特別是初學,初學佛的人心很清淨、很真誠。所以中國古有說,「學佛一年,佛在眼前」,那種真誠心、歡喜心,「學佛二年,佛在天邊;學佛三年,佛就化成雲煙」,學佛就學成老油條了,這真的,不是假的。
「其の香普く十方世界に薫り、皆事事無碍の法界を顕す」。極楽世界には仏光があり、宝香があります。「仏光遍く照らし、宝香普く薫る」。私たちのこの世界で光を見る人はいるでしょうか?香りを嗅ぐ人はいるでしょうか?います。しかもたくさんいます。
特に初学者です。仏法の初学の人は心が清浄です。真誠(しんせい=誠の心)があります。ですから中国の古徳は言っています。「仏法を学んで一年、仏は眼前にあり」。そのような誠の心、歓喜心があります。「仏法を学んで二年、仏は天の果てにあり。三年学べば、仏は雲煙に変わる」。仏法を学んで古狸(ふるだぬき)になってしまいます。これは本当です。嘘ではありません。

所以初發心很了不起,哪一個人要把初發心永遠保持,他一定成功。時間久了就學疲了,不把它當作回事情。甚至於還有很多學佛久了就利用佛教,去欺騙初學的信徒,這是有罪過的,這罪過很重。但是這種人不少,我們在佛門這麼多年都見過。初學佛的人何以見光、聞到寶香機會多?就是他心地虔誠。印光大師說,「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」。
ですから最初の発心は素晴らしいものです。最初の発心を永遠に保てる人がいれば、その人は必ず成功します。時間が経過すると学び疲れてしまい、大切だと思わなくなります。甚だしきに至っては、久しく仏に学んで仏教を利用する人がたくさんいます。初学の信徒を騙します。これは罪過です。この罪過はとても重いものです。しかしこのような人は少なくありません。私たちは仏門に長年いてすべて見て来ました。
仏法の初学者はなぜ光を見たり、宝香を聞く機会が多いのでしょうか?それはその人の心が敬虔だからです。印光大師は、「一分の誠敬(真心)があれば一分の利益を得、十分の誠敬があれば十分の利益を得る」と説かれました。

香也是隨著我們眾生的根性,我們自己的福報、智慧,聞那個香不一樣。一般,我遇到很多,聞到的香味是檀香味,但是比我們一般檀香味要濃,就是真的很好的檀香。初學的時候真有,我自己也遇到過,以後這個情形就很少了。這是什麼?這是佛菩薩的慈悲,給你有這種感應,長你的信心,真相信,真有,真相信。不是常常叫你遇到,偶爾叫你遇到,讓你生起稀有感應的心,給你做證明。
香もまた私たち衆生の根性(資質)、福報、智慧によって異なります。一般的に、私もたくさん経験しましたが、香りは檀香(だんこう)の香りがします。しかし一般の檀香よりも香りは濃いものです。本当に高価な檀香の香りです。初学の時には本当にあります。私自身も経験しました。その後はそのような事は少なくなります。これは何でしょう?これは仏菩薩(ほとけぼさつ)の慈悲です。あなたにこのような感応を与えて、あなたの信心を深くします。本当に信じるようになります。本当にあるので、本当に信じます。頻繁にあるものではありません。偶発的にあなたに経験させ、得難い感応の心を起こさせます。あなたに証明します。

大眾在一起有同聞到的,我有一次最明顯的,是住在美國達拉斯。差不多是二十五年前,我們在一個居士家裡,晚上月光非常好,他的院子很大,院子裡面有個平台,我們在平台上喝茶、談佛法。忽然有一陣香,風吹著帶著香氣,我們有五、六個人,每個人都聞到,香氣很濃,大概有五分鐘,時間很長。我們好幾天都談這個事情,這個香從哪裡來的?自己家裡沒燒香,跟我們燒的香味道不一樣。我們這些鄰居,外國人,也沒有燒香的,從哪來的?
大勢で一緒に同じ香りを嗅ぐこともあります。ある時はとても顕著でした。アメリカのダラスに住んでいた頃です。だいたい二十五年前、私たちはある居士(在家の信徒)の家にいました。夜月がきれいで、敷地は広く、中にはベランダがありました。私たちはベランダでお茶を飲みながら、仏法の話をしていました。忽然として一陣の香りがしました。風が吹いて香りを運んできました。私たちは五、六人いて、どの人にも香りがしました。香りはとても濃く、だいたい五分ほどしていました。長い時間です。私たちは何日もこの事について話しました。あの香りはどこから来たのでしょうか?家の中では香をたいていません。私たちがたいている香とは香りが違います。隣近所は外国人で、香はたいていません。どこから来たのでしょう?

我在埔里跟懺雲法師,那個時候還沒有出家,在茅蓬裡做義工,初學佛,常常聞到,不是我們自己燒的香。我把這個事情告訴懺雲法師,他經驗比我豐富,他告訴我,這多半是天人,我們今天看到此地講的忉利天、夜摩天、兜率天、化樂天這些天人。天人從這邊經過,看到你在這裡誦經、念佛、拜佛他很歡喜,他在這裡停一下,停一下,他身上的香氣。他立刻就走了,走了這香氣就沒有了。他告訴我多半是這種情形,這種情形最多。
私は埔里(ほり、台湾の地名)で懺雲法師についていました。あの頃はまだ出家していませんでしたが、かやぶきの小屋でボランティアをしていました。仏法を学び始めて、よく香りを嗅ぎました。自分でたいた香ではありません。私はこの事を懺雲法師に話すと、彼は私より経験豊富で、その大半は天人だと言いました。今日ここで講じている忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天などです。天人はここから通って、あなたがここで読経し、念仏し、仏を拝むのを見て喜んでいます。彼はここに少し留まります。少し留まると、彼の身体から香りが立ちます。彼はすぐに立ち去ります。立ち去るとその香りはなくなります。懺雲法師は私に、大半はこのような状況で、このような状況が一番多いと言いました。

佛菩薩感應的那個香是異香,不是普通的香,你從來沒有聞過這種香味。有,不是沒有,這都是佛菩薩給你加持,讓你產生信心,斷疑生信。見到佛光亦如是,讓你以前半信半疑的心堅定了,不再疑惑。我們對佛法有百分之九十九相信,還有一分懷疑,那還不行,這一分懷疑就是障礙。在這種情況之下,佛菩薩一定會照顧你,會有感應,讓你完全斷疑生信,佛菩薩慈悲。所以見光、聞香我們都有機會,甚至於自己本人都有這個經驗,同修們有很多人有經驗的。證明極樂世界佛光普照、寶香普熏是真的,不是假的。
仏菩薩(ほとけぼさつ)の感応する香りは異香(いこう、優れた良い香り)です。普通の香りではありません。あなたがこれまで嗅いだことのないような香りです。あります。これはすべて仏菩薩のご加護です。あなたに信心を起こします。疑いを断って信心を起こします。仏光を見るのもまたこのようなことです。以前は半信半疑だった心を確かなものにします。もう疑うことは無くなります。私たちは仏法を99%信じていても、1%疑いがあれば駄目なのです。一分の疑いは障碍です。このような状況で、仏菩薩は必ずあなたを助けます。感応があります。完全に疑いを断って信心を起こさせます。仏菩薩は慈悲深いものです。ですから光を見たり、香りを嗅ぐことは、誰にでも機会があります。私自身にもこの経験があります。門徒の皆さんも多くの人が経験しています。極楽世界は仏光普く照らすということの証明です。宝香普く薫るというのは真実です。偽りではありません。

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仏法の世界観

2014-06-27 | 【仏陀の教育】


佛法的世界觀 / 仏法の世界観
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一集)2010/4/5 檔名:02-039-0001

我自從八六年跟黃念祖老居士結這個緣認識了,在當時我們兩個非常欣慰,因為弘揚夏蓮居老居士的會集本,就只有我們兩個人,他在國內講這部經,我在海外講這部經。我們見面時黃老就給我提出這個問題,告訴我佛經上講的單位世界不是太陽系,是銀河系。銀河系的中心是洞,須彌山應該就是指的這個洞。洞之高大我們能理解,洞到現在也沒有人能夠了解它真正的狀況,只知道它的引力很大,連光線都沒有辦法穿過,都被它吸引了。
私は一九八六年に黄念祖居士【注】とご縁を結びました。当時私たち二人は安堵しました。なぜなら夏蓮居居士の合本は私たち二人だけが弘法していて、彼は国内で講じ、私は海外でこの経を講じていたのです。私たちがお会いした時、黄さんはある問題を提起しました。仏経に説かれている世界の単位は太陽系ではなく、銀河系だというのです。銀河系の中心はブラックホールです。須弥山(しゅみせん)はこのブラックホールを指すはずだと言うのです。ブラックホールが大きいことは私たちも理解していますが、今に至るまで本当の状況を理解している人はいません。引力が大きく、光さえ貫くことはできず、すべてが引き込まれることを知っているに過ぎません。

這個是銀河系的核心,所有的星球都是圍繞著這個核心來轉,我們中國古人稱之為黃極,這才是一個單位世界。一千個單位世界叫一個小千世界,那就一千個銀河系一個小千世界;再以小千世界為單位,一千個小千世界叫中千世界;一千個中千世界叫一個大千世界。那一千個大千世界就多少個銀河系呢?十億個銀河系。現在天文學家都沒觀察到,這是一尊佛的教化區,《華嚴經》上告訴我們,像這樣的世界在這個太空中無量無邊。
これは銀河系の中心です。あらゆる星がすべてこの中心を回っています。中国の古人は黄極と言いました。これが正に一つの世界の単位です。一千の世界の単位を小千世界と言い、それは一千個の銀河系の一つの小千世界です。更に小千世界を単位として、一千個の小千世界を中千世界と言います。一千個の中千世界を大千世界と言います。それでは一千個の大千世界はいくつの銀河系なのでしょうか?十億個の銀河系です。今の天文学者でも観測できません。これは仏の教化区です。『華厳経』では、このような世界はこの宇宙に無量無辺であると説かれています。

講到一個華藏世界,一個華藏世界就好像一層大樓一樣,有二十層,我們娑婆世界跟極樂世界都在第十三層。像這樣的華藏世界又不曉得有多少,這是佛法裡面講的世界觀,宏觀世界確實是不可思議。所以佛出現在世間,每一個佛的教化區就是一個大千世界,這是最小的,有兩、三個大千世界,五、六個大千世界,十幾個大千世界,都有。佛也有福報大小不一樣,它原因在哪裡呢?是在因地修行的心量不一樣,所以感的果也不相同。除這個之外沒有一樣是不同的,這就像什麼?度化眾生的緣不相同。所以學佛人要跟一切眾生廣結法緣,將來你成佛了度的人就多了。所以廣結法緣很重要。
華蔵世界に話が及びましたが、一つの華蔵世界はちょうどビルと同じように、二十階あります。私たちの娑婆世界と極楽世界はすべて十三階にあります。このような華蔵世界はどれほどあるのか分かりません。これは仏法の中で説かれている世界観です。大宇宙は本当に不可思議です。ですから仏が世間に現れると、どの仏の教化区も一つの大千世界です。これは最も小さいもので、二つ、三つの大千世界、五つ、六つの大千世界、十個の大千世界、すべてあります。仏にも福報があり、大きさは異なります。その原因はどこにあるのでしょうか?因地(いんじ=悟りを開くに至らない菩薩の位)における修行の心の大きさが異なります。ですから感応する果報も同じではありません。この他に異なるところは何もありません。これは何に似ているでしょうか?衆生を済度するご縁です。ですから仏法を学ぶ人は、一切の衆生と広く法縁を結ばなければなりません。将来あなたが仏に成れば救われる人が多くなります。広く法縁を結ぶことは重要です。

<注>
黄念祖居士(1912-1992)・・・・本籍は湖北省江陵。無線通信技術を専攻し、大学卒業後はラジオ局に勤めた。解放後は北洋大学、天津大学、北京郵電学院にて教授を歴任。若い頃から仏法を学び、経典研究に専念し、叔父にあたる梅光羲について仏法を学び、虚雲和尚に帰依して禅を学んだ。また諾那活仏の弟子である王家斉、及び貢噶上師より密教のニンマ派(紅教)・カルギュパ派(白教)を学んだ。夏蓮居に師事して浄宗発揚の必要性を学んだ。(百度百科より抜粋して翻訳)
(注) 「解放」は1949年10月1日中華人民共和国成立の意。
    「北洋大学」は天津大学の前身の名称。

<参考>
ブラックホール・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB
「大質量ブラックホール」より抜粋
銀河系 (天の川銀河) の中心部にある電波源複合体いて座Aには太陽の370万倍の質量を持った巨大なブラックホールが存在すると多くの天文学者によって考えられている。1995年にはNGC4258(M106) 銀河の中心に太陽質量の3,600万倍のブラックホールがあると推定された。

須弥山・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1
 須弥山の概念図は拡大可。

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仏に成る条件は放下すること

2014-06-26 | 【仏陀の教育】


成佛的條件是放下 / 仏に成る条件は放下すること
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三十四集)2010/5/9 檔名:02-039-0034

這一句佛號是梵語,阿彌陀佛,如果完全翻成中文的意思,阿翻作無,彌陀翻作量,佛翻作覺,不是不能翻,為什麼不翻?叫尊重不翻。整個翻出來是無量覺,沒有一樣不覺。我們現在怎麼樣?我們現在是一切迷,一樣也不覺,天天念這一句提醒自己。什麼是覺?放下障礙就覺了,不執著、不再有成見,你就開始覺悟了。真的不執著了,對於世出世間一切法都不執著,身也不執著了,恭喜你,你證得阿羅漢果,你成了正覺。再放下分別,不但不執著,於世出世間一切法都不分別了,為什麼?凡所有相,皆是虛妄;一切有為法,如夢幻泡影。今天科學家跟我們說,一切現象都是波動,根本就不是事實存在,了無所得。科學家發現這個事實真相,只要他放下,他也成佛,他也成菩薩。
阿弥陀仏、この仏号はサンスクリット語(梵語)です。もし中国語の意味に翻訳するなら、阿は「」と訳し、弥陀は「」と訳し、仏は「」と訳します。翻訳できないのではありません。なぜ訳さないのでしょうか?尊重して訳さないのです。すべて翻訳すれば無量覚です。覚らないところは一つとしてありません。私たちは今どうでしょう?私たちは今すべて迷っています。一つとして覚っていません。毎日この仏号を念じて自分を悟らせます。覚とは何でしょうか?障碍を放下すれば覚ります。執著せず、成見(せいけん=先入観、既成概念)を持たなければ、あなたは覚り始めます。本当に執著せず、世間、出世間の一切の法に執著せず、身体にも執著しなくなれば、幸いにして、あなたは阿羅漢果を証得したのです。あなたは正覚を得たのです。更に分別を放下します。執著しないだけでなく、世間、出世間の一切の法を分別しません。なぜでしょう?「凡所有相,皆是虚妄」(およそ姿・形あるものは、すべて偽りである)、 「一切有為法,如夢幻泡影」(すべての現象は、夢、幻、泡、影のようなものである)【注1-2】。今の科学者は説いています。一切の現象は波動であり、根本的に事実として存在せず、捉えることはできません。科学者はこの事実の真相を発見しました。放下しさえすれば、彼らもまた仏に成り、菩薩に成ります。
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 【注1】 凡所有相,皆是虚妄。
 凡そ相有る所、皆是虚妄なり。
 およそ姿・形あるものは、すべて偽りである。
 【注2】 一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。
 一切の有為(うい)の法、夢幻泡影(むげんほうよう)の如し、露の如く亦(ま)た電(かみなり)の如し、応(まさ)に是(か)くの如く観を作(な)すべし。
 すべての現象は、夢、幻、泡、影のよう、また露、または電光のようなもの、そのように見るが良い。
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不一定是學佛才能成佛,學科學也能成佛,學哲學也能成佛,學其他宗教也能成佛,成佛的條件是放下。無論學什麼,你只要能把執著放下,在佛家講,你就成正覺,你證阿羅漢果;你分別放下了,你就成菩薩,你成正等正覺;你不起心、不動念,你就成佛,你成無上正等正覺。釋迦牟尼佛給我們講這些事實真相,除了教學之外,幫助我們覺悟,幫助我們回歸自性。他要什麼?他什麼都不要,他也不要名,也不要利,也不需要別人尊重,心地確實一塵不染。他給我們示現的,他所教導我們的,都是我們自己本來有的,我們本來跟他是一樣的,向他學習就能夠找到我們本來面目。
仏法を学んで仏に成るとは限りません。科学を学んでも仏に成れます。哲学を学んでも仏に成れます。他の宗教を学んでも仏に成れます。仏に成る条件は放下することです。何を学ぼうと、執著を放下することができれば、仏家で言うところの正覚を得るのです。あなたは阿羅漢果を証得するのです。分別を放下すれば、あなたは菩薩に成ります。正等正覚を得るのです。心を起こさず、念を動かさなくなれば、あなたは仏に成ります。無上正等正覚を得るのです。釈迦牟尼仏はこれらの事実の真相を説かれました。教学の他に、私たちが悟るのを助け、自性(じしょう)【注】に回帰するのを助けました。彼は何かを必要とするでしょうか?彼は何も必要としません。彼は名声も利益も要りません。また他人が尊重することも要りません。心は間違いなく一塵の穢れもありません。彼は私たちの為に示現されました。彼は私たちを教え導いているのです。すべて私たち自身が本来具えているものです。私たちは本来彼と同じなのです。彼に学べば私たちの本来の面目を見つけることができます。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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<参考> *以下は浄空法師のお話を基に整理したものです。
 <放下する煩悩>  <回復する本性>  <境界>
    執著心   →   清浄心   → 阿羅漢  正覚
 (執着・こだわりの心)  (清らかな心)    ↓ *六道輪廻からの離脱
    分別心   →   平等心   → 菩薩   正等正覚
 (識別・差別する心) (分け隔てのない心) ↓
    妄想(起心動念)→       → 仏陀   無上正等正覚
 (心・意念の働き)  (妄想を離れた境界) *相似即仏

*相似即仏(そうじそくぶつ)は仏に似ているが、まだ妄想、起心動念の習気(じっけ)を残している。起心動念、無始無明の煩悩を放下して、ようやく常寂光土に入り真仏に成るという。

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妄想、分別、執著を放下すれば、次元空間はすべて打ち破られる

2014-06-25 | 【仏陀の教育】


妄想分別執著都放下,空間維次全打破 / 妄想、分別、執著を放下すれば、次元空間はすべて打ち破られる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三十四集)2010/5/9 檔名:02-039-0034

這是修行,修正!修正就是正確的看法。正確看法第一個,身不是我,這對一般人很難!身不是我。身是什麼?身像衣服一樣,我所有的,是我的一個工具,它不是我。你要了解這個事實真相,不再執著身是我了。第二個把邊見放下,邊見是什麼?我們講對立,這是所有一切煩惱的根源。我們再不跟人對立,無論是親人、是仇人,冤親債主,不對立,自他不二,不對立了。再把成見放下,成見是什麼?自以為是,這個觀念要放下,錯誤的。再放下一切錯誤的觀念,你能把這部分修正過來,這是修行,修正過來,你就證須陀洹果,你的六種能力就恢復兩種。
これは修行、修正です!修正とは正しい見解ということです。正しい見解の一つ目は、身体は自分ではないということです。これは一般の人には難しいものです!身体は自分ではありません。身体は何でしょう?身体は衣服と同じで自分が所有するものです。自分の一つの道具であって、自分ではありません。あなたはこの事実の真相を理解して、身体が自分であると執著しないことです。二つ目は辺見(へんけん=偏りのある不平等な心)を放下することです。辺見とは何でしょうか?私たちは対立と言います。これはあらゆる一切の煩悩の根源です。私たちは二度と人とは対立しません。身内であろうと仇であろうと、恨みを持った人であろうと、対立しません。自他は不二(ふに)【注】であり、対立はしません。更に成見(せいけん=先入観、既成概念)を放下します。成見とは何でしょうか?自分は正しいと思い込むことです。この観念を放下しなければなりません。それは間違いなのです。更に一切の間違った観念を放下します。あなたがこの部分を修正すること、これが修行です。修正できれば、あなたは須陀洹果(しゅだおんか)を証得し、六つの能力のうち二つ回復します。
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 【注】 不二(ふに)・・・・対立するかに見える二つの要素も、絶対的な見地から見ると一つのものであるということ。
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這兩種第一個是天眼,第二個是天耳,別人看不到的東西你能看到,什麼原因?你突破了一部分空間維次。我們一般人只能看到三維空間,你能看到四維、看到五維、看到六維,自然就不一樣了。為什麼?空間維次從哪裡來的?是從妄想分別執著變現出來的。你只要把妄想分別執著減輕,放下一部分,它就突破一部分。
その二つのうち一つは天眼、二つ目は天耳です。人に見えないものをあなたは見ることができます。どういう原因でしょうか?あなたは一部分の次元空間を突破したのです。私たち一般人は三次元空間しか見ることができません。あなたが四次元、五次元、六次元を見ることができるなら、同じではありません。なぜでしょう?次元空間はどこから来るのでしょうか?妄想、分別、執著が変化して現れたものです。あなたは妄想、分別、執著を軽減しさえすれば、一部分を放下すれば、一部分(の次元空間)を突破するのです。

空間維次,科學家告訴我們,從理論講它是沒有數量的,無量無邊,所以只要你能夠突破。科學家不知道空間維次怎麼來的,佛知道,是從妄想分別執著裡變現出來的。如果妄想分別執著統統放下,空間維次全部打破了,全部打破之後你的能力就大,你睜開眼睛,你能看到遍法界虛空界,不需要用望遠鏡,這些科學儀器統統不需要用,你能看到其他的星球,看到星球就好像看到我們面對面一樣,那麼清楚。其他星球裡面,距離我們無限的遙遠,他們在那裡什麼音聲,我這裡聽得清楚,他有這種能力。本能,我們在《還源觀》上講到的,它有三種周遍,第一個,念頭一起,周遍法界,第二個出生無盡,第三個含容空有。這種能力還得了嗎?不可思議!不需要用任何儀器。
次元空間について、科学者は言っています。理論上ではそれには数量はありません。無量無辺です。ですからあなたが突破できさえすれば良いのです。科学者は次元空間がどのように出来たのかを知りませんが、仏は知っています。妄想、分別、執著が変化して現れたのです。もし妄想、分別、執著をすべて放下すれば、次元空間はすべて打ち破ることができます。全部打ち破った後、あなたの能力は大きくなり、あなたは眼を開くと遍法界虚空界【注1】を見ることができます。望遠鏡を用いる必要はありません。科学の計測器などはすべて必要ありません。あなたは他の惑星を見ることができます。惑星を見ると、まるで私たちが向かい合っているのと同じようにはっきりと見えます。他の惑星の中で、私たちから無限の彼方の距離であっても、彼らはそこでどんな声なのか、ここではっきりと聴くことができます。その人にはそのような能力があります。本能です。私たちは『還源観』で講じましたが、それには三つの周遍(しゅうへん)があります。一つ目は、念が起これば、法界(全宇宙)に遍く行き渡ります。二つ目は、尽きることなく生み出します。三つ目は、空有(くうう=実体の有無)を包含しています【注2】。この能力は大したものではありませんか?不可思議なものです!計測器を用いる必要はありません。
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 【注1】 遍法界虚空界(へんほっかい、こくうかい)・・・・因果に支配される全宇宙(法界)と、それを超越した根源的な真如の世界(虚空界)のこと。
 【注2】 「周遍法界,出生無尽,含容空有」(法界を遍く周り、出生尽くこと無く、空有を含容す)。
 念の波動は法界(全宇宙)の隅々に行き渡り、尽きることなく生み出し、空有(実体の有無)をすべて包含している。 (『還源観』)
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所以佛沒有別的,就是把妄想分別執著統統放下,或者講統統斷掉了,他的能力完全恢復。所以他所講的都是現量境界,就是親眼所看、親耳所聽,那當然真實,不是推測,不是妄想。而且佛告訴我們,我們也有這個能力,只要我們肯放下,我們就恢復了。所以這是科學,科學實驗,你試試看,你放下放下看看,你一放下,這個能力真的恢復,這不就證明是真的不是假的嗎?所以凡夫日常生活,生活在哪裡?心浮氣躁。心浮氣躁是怎麼造成的?妄想分別執著造成的,只要有這些東西,你自性裡面的智慧、相完全不能現前。所現前的是什麼?現前是扭曲的現象,煩惱現前,災難現前,就這麼回事情。這是修行最高指導原則,要知道!
ですから仏は他でもありません。妄想、分別、執著をすべて放下して、或いはすべて断ち切れば、その人の能力は完全に回復するのです。ですからその人が語ることはすべてその場で量った境界です。つまり自分の眼で見て、自分の耳で聴いたものです。それは当然本当のことです。推測でも妄想でもありません。しかも仏は私たちに説かれています。私たちにもこの能力があり、私たちが自ら放下しさえすれば回復するのです。ですからこれは科学です。科学の実験です。あなたは試しに放下してみれば良いのです。あなたが放下すると、この能力は本当に回復します。これこそが本当か嘘かを証明することではないでしょうか?凡夫の日常生活はどうでしょうか?落ち着きがありません。落ち着きがないのは、どうしてそうなるのでしょうか?妄想、分別、執著によるものです。これらがあるだけで、あなたの自性の中の智慧、徳相は完全に現れることはできません。現れるのは何でしょうか?現れるのは捻じ曲がった現象です。煩悩が現れ、災難が現れます。このようなことなのです。これは修行の最高の指導原則です。知っておかなければなりません!

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放下すれば境界に入ることができる

2014-06-24 | 【仏陀の教育】


放下就能契入境界 / 放下すれば境界に入ることができる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二十二集)2010/4/26 檔名:02-039-0022

我們煩惱習氣重的,迷得很深的,佛在經上所講的,我們明白了,做不到。我們能信,為什麼能信?因為這個道理我們聽了之後能肯定,這是有道理,不是沒有道理,我們能夠相信、能夠理解,但是做不到。做不到就是放不下!這是真的不是假的。放下就能契入,就入境界,剛才我講的,走到門口了,你要不把這三樣東西放下,你就進不去。你把身見放下、邊見放下、成見放下,你才能進得去,你這個不放下,你進不去。
私たちは煩悩の習気(じっけ)【注】が重く、迷いが深いので、仏が経で説かれていることを理解しても、実行することができません。私たちは信じることはできます。なぜ信じることができるのでしょうか?私たちは道理を聞いた後で肯定することができます。これは本当に道理があり、道理の無いことではないと思い、信じることができ、理解することができます。しかし実行できません。実行できないとは、つまり放下できません!これは本当です。嘘ではありません。放下すれば(仏の)境界に入ることができます。先ほどお話ししたように、門前までたどり着いたのです。あなたが三つのものを放下しなければ、入ることはできません。あなたが身見(しんけん=身体が自分であるという誤った見解)を放下し、辺見(へんけん=偏りのある不平等な心)を放下し、成見(せいけん=先入観、既成概念)を放下すれば、入ることができます。これを放下できなければ、あなたは入れません。
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 【注】 習気(じっけ)・・・・身にしみついた習慣。煩悩が心に残す影響。
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這一進去,給諸位說,就叫聖人,就不叫凡夫,在小乘就是須陀洹,初果;在大乘,《華嚴經》上講,十信位菩薩你證得初信,你看第一個階級,初信。十信好比是佛教的小學,這小學一年級,這個學校有十年級,從一到十,你才小學一年級,聖人了。跟凡夫差別在哪裡?你只要進入這個學校一年級,你決定不墮三惡道,雖然沒有出六道,保證不會墮三途。你的學習空間天上人間七次,肯定脫離六道輪迴,你得到保證,這是三種不退的位不退,你的地位不會退轉,佛家講三種不退,第一種你得到了。第二種是行不退,是菩薩。第三種是念不退,那是法身大士,那是佛,菩薩還做不到。所以這三個層次,這個境界慢慢向上提升。
ここに入れば聖人と言います。凡夫とは言いません。小乗における須陀洹(しゅだおん)、初果です。大乗では『華厳経』に説かれています【注1】。十信位の菩薩を証得すれば初信です。最初の階級は初信です。十信はちょうど仏教の小学です。これは小学一年生です。この学校は十学年あり、一から十まであります。小学一年生になれば聖人になります。凡夫との差はどこにあるのでしょうか?あなたはこの学校の一年生になりさえすれば、絶対に三悪道【注2】には堕ちません。たとえ六道を出ていなくても、三途に堕ちないことは保証されます。あなたの学習する空間は天上人間七階層になり、必ず六道輪廻を離脱します。あなたは保証を得られます。これは三つの不退の位不退です。あなたの位は退転しません。仏家では三つの不退を説きますが、あなたは最初の一つ目を得たのです。二つ目の不退は行不退であり、菩薩です。三つ目は念不退です。それは法身大士であり、仏です。菩薩にはできません。ですからこの三つの階層、この境界は少しずつ向上していきます。
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 【注1】 参考「菩薩の位」・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9
 【注2】 三悪道(さんあくどう)・・・・畜生道、餓鬼道、地獄道。
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這是阿彌陀佛建立極樂世界,幫助我們這些沒有能力斷煩惱的,只要專念阿彌陀佛,你就能往生。這阿彌陀佛你只管念,不要去分別。阿彌陀佛的意思很廣,阿翻作無,彌陀翻作量,這是梵文,不是不能翻,能翻,為了要尊重不翻,就是無量。佛呢?佛是覺悟。無量覺,無量覺是什麼?是自性本具般若智慧的名號。你要不分別、不執著,這個佛號是念自性,這叫自性彌陀。天天念自性,自性就放光,自性就透出來。不是一切法從心想生嗎?就這麼個道理。
これは阿弥陀仏が建立した極楽世界であり、私たちのような煩悩を断つ能力のない者を助けるものです。専ら阿弥陀仏を念じるだけで、あなたは往生できるのです。この阿弥陀仏(の仏号は)ただ念じるだけで、分別してはなりません。阿弥陀仏の意味は広く、阿は「」と訳され、弥陀は「」と訳されます。これはサンスクリット語です。訳せないのではありません。訳せますが、尊重する為に訳さないのです。これは無量のことです。仏は何でしょう?仏は「覚悟」(目覚め、悟り)です。無量覚。無量覚とは何でしょう?自性(じしょう)【注】が本来具えている般若の智慧の名号です。あなたが分別せず、執着しなければ、この仏号は自性を念ずることになり、これを自性弥陀と言います。毎日自性を念じると、自性は光を放ちます。自性が透け出します。「すべては心から生じる」のでしたね?つまりこの道理です。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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所以念佛見佛,臨終時阿彌陀佛、觀音、勢至來接引你,那是什麼?那全是自性變的,自性彌陀、自性觀世音、自性大勢至,連西方淨土也是唯心淨土,是自己真如本性現出來的。你明白這些道理,了解事實真相,你對於念佛往生就有把握,你有信心,你不會再懷疑,哪有不成就的!所以善導大師講,這個法門「萬修萬人去」,沒有一個不成就的。之所以念佛不能往生,是什麼人?對這個法門有懷疑,第二個是修學這個法門裡頭雜念太多,夾雜,你的心不純,這就不能夠相應。
ですから念仏して仏に会い、臨終の時に阿弥陀仏、観音、勢至があなたを迎えに来ます。それは何でしょう?それはすべて自性が変化したものです。自性の弥陀、自性の観世音、自性の大勢至です。西方浄土さえも唯心浄土、自分の真如本性が現れ出たものです。これらの道理が分かれば、事実の真相を理解できます。あなたは念仏往生を把握し、自信を持ち、疑うことはありません。成就しないことがあるでしょうか!ですから善導大師はこの法門を「万修万人去」(万人が修めて万人が往生できる)と説かれています。一人として成就しない人はいません。念仏して往生しないのは、どのような人でしょうか?この法門に疑いを持ち、二つ目はこの法門を修学して雑念が多過ぎて、心が不純であることです。これでは(仏と)相応することはできません。

真實慧從哪裡來?從清淨心來的。你夾雜的時候,你的心就不清淨;心不清淨,不生智慧,它只生煩惱。煩惱就是妄念,這個妄念,前念滅了,後念就生,它永遠不停,一個接一個,這是煩惱習氣,這個東西很嚴重。在修學法門,也就是說轉這些煩惱雜念,恢復真實智慧。真實智慧叫菩提,恢復真實智慧,念佛這個方法妙極了,八萬四千種方法,念佛這個方法最簡單、最容易、最穩當、最直捷,所以選擇這個法門,大智慧!
真実の智慧はどこから来るのでしょうか?清浄心から来るものです。雑念を挟むと、あなたの心は清浄ではなくなります。心が清浄でなければ、智慧は生まれません。ただ煩悩が生じるだけです。煩悩とは妄念です。この妄念は、先の念が滅すると、後の念が生じて、永遠に止まりません。一つまた一つと繋がっていきます。これは煩悩の習気です。これはとても深刻です。法門を修学することは、言い換えるなら、それらの煩悩雑念を転じて、真実の智慧を回復するということです。真実の智慧を菩提と言います。真実の智慧を回復します。念仏のこの方法は絶妙です。八万四千種類の方法のうち、念仏の方法は最も簡単で、最も容易で、最も妥当で、最も直截的です。ですからこの法門を選択するのは、大きな智慧です!

有很多老阿公、老阿婆,沒有文化,不認識字的,你教他,他就相信、就肯念,他真智慧嗎?是,真智慧,他自己還不曉得,真正的善根福因緣。為什麼你講給別人聽,他不相信?講給高等知識分子聽,他還不相信,為什麼?他障礙多,煩惱障重,所知障重,這二障把他障住了。障什麼?障他的智慧,障他的善根,障他的因緣。所以不能瞧不起這些阿公、阿婆,不可以瞧不起他們。他們為什麼能接受?他前世有習,這一世一接觸生歡喜心,過去生中阿耶裡頭有佛法種子,有淨宗的善根,不是沒有道理的。
お爺さん、お婆さんの多くは、教育を受けておらず、字を知りません。あなたが教えると、すぐに信じます。聞き入れて念仏します。真の智慧ではないでしょうか?そうです。真の智慧です。彼らはまだ自分でも理解していません。本当の善根福徳の因縁です。なぜあなたが人に説いて聞かせると、信じないのでしょうか?高学歴の人に講じて聞かせると、その人は信じません。なぜでしょう?その人は障碍が多く、煩悩障が重いのです。この二つの障碍が遮っているのです。何を遮っているのでしょう?その人の智慧を遮り、その人の善根を遮り、その人の因縁を遮っています。ですからお爺さん、お婆さんを見下してはなりません。彼らはなぜ受け入れられるのでしょうか?前世で影響を受けたことがあるので、この一生で接触すると歓喜心を生じるのです。過去世の阿頼耶識の中に仏法の種があり、浄土宗の善根があるのです。道理のないことではありません。

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仏法を学ぶことは放下すること

2014-06-22 | 【仏陀の教育】


學佛就是放下 仏法を学ぶことは放下すること
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二一二O卷)2010/2/27 檔名:12-17-2120

所以學佛,學佛就是學放下,放下從哪裡學起?從十善學起。先放下不傷害眾生這個念頭,念頭沒有,當然沒有行為。一切眾生都不可以傷害,人不能傷害,所有一切動物不能傷害,花草樹木不能傷害,山河大地也不能傷害,依報正報都不能傷害,這在不殺生裡頭包含的。對有情眾生,我讓他生煩惱,我就傷害他了,我就造了罪業。所以這十條非常微細,微細統統給你寫出來是八萬四千條,這個不能不知道。八萬四千條,跟諸位說,每一條下面都有八萬四千條,這叫什麼?細行。這個菩薩位子愈高,他做得愈究竟、愈微細。
仏法を学ぶことは放下【注1】を学ぶことです。放下はどこから学べば良いでしょうか?十善【注2】から学びます。まず衆生を害する考えを放下します。考えがなければ、当然行うことはありません。一切の衆生を害してはなりません。人はあらゆる一切の動物を害してはなりません。樹木や草花を害してはなりません。山河や大地を害してはなりません。依報(えほう)、正報(しょうほう)【注3】すべて害してはなりません。これは不殺生の中に含まれます。有情(うじょう)【注4】の衆生に煩悩を起こさせれば、(衆生を)害したことになり、罪業を犯したことになります。ですからこの十ヶ条は非常に細かく、すべて書き表せば、八万四千ヶ条になります。これは知っておかなければなりません。八万四千ヶ条について皆さんに話しておきます。どの一ヶ条にもすべて八万四千ヶ条があるのです。これを何と言うでしょう?細行です。菩薩の位が高くなればなるほど、行はより究極的に、より微細になっていきます。
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 【注1】 放下(ほうげ)・・・・執着を捨て去ること。手放すこと。
 【注2】 十善(じゅうぜん)・・・・下記。
 【注3】 依報(えほう)・・・・過去の業の報いとして受ける、心身のよりどころとしての国土などの環境。
      正報(しょうほう)・・・・過去世で行った善悪の行為の報いとして受ける、衆生の身心。(大辞泉)
 【注4】 有情(うじょう)・・・・意識など、心の働きのあるもの。
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我們初學的人,能把這十條學到,你的根扎穩了,然後你才能慢慢深入。如果這十個根都沒有,你在佛門裡面學一輩子,你很精進,你很用功,可是你所學的是語言、是文字,你沒有吃進去,口皮上的。所以你不得受用,依舊搞生死輪回,你說麻煩不麻煩?所以凡夫成佛,要多少時­間?經上常講無量劫。這話是真的,不是假的,真難!這放下,改過,不容易,太難了。
私たち初学者は、この十ヶ条を修得できれば、確かな根を張ることができます。その後あなたは少しずつ深く入ることができます。もしこの十ヶ条がなければ、あなたは仏門の中で一生学び、精進し、努力しても、あなたが学んだのは言語、文字に過ぎません。あなたの身になっていない、上辺だけのものです。ですからご利益を受けることはできず、依然として六道輪廻を続けるのです。面倒だとは思いませんか?凡夫が仏に成るにはどの位の時間が要るでしょうか?経には無量劫と説かれています。この話は真実です。偽りではありません。本当に難しいのです!放下すること、悔い改めることは簡単ではありません。難しいことです。

可­是這個事情,不是求人,世法裡頭常說,「登天難,求人難」。這是求自己,回光返照,反­求諸己。嚴格的要求自己,不要去要求別人,要求別人錯了。要求別人,你天天生煩惱,天­天跟眾生結怨,你的冤親債主一大堆。要求自己,回歸自性,才真正消除業障,才真正自利­利他。利他什麼?給別人做個好樣子。原來你是放下才成就的,自責才成就的,不是責備別­人成就的。
しかしこの事は人には頼みません。世間の法ではよく、「天に登ること難く、人に求むること難し」と言われます。これは自分に頼ります。心の中を照らして、自分をよく内省します。厳格に自分に要求します。他人に要求してはなりません。他人に頼るのは間違いです。他人に頼れば、あなたは毎日煩悩が生じて、毎日衆生と恨みの縁を結んで、あなたを恨む衆生は数え切れなくなります。自分に頼り、自性(じしょう)に回帰すること。それでこそ本当に業障を解消することができ、本当に自利利他となるのです。利他とは何でしょう?他人に良いお手本を見せることです。あなたは放下してこそ成就するのです。自分を諌めてこそ成就するのです。他人を咎めて成就するのではありません。

所以諸佛菩薩從來不責備人,你做再大的過失的時候,他也是笑笑。為什麼?他­清楚你造的這個業,你將來一定要受報,報盡之後,你覺悟了,你回頭了,他再來幫助你。­你正在造業受報的時候,他只是提醒你,他知道你聽不進去,但是什麼?一歷耳根,永為道­種,他在阿耶識裡頭,給你種善的種子。這個善的種子在現前,不會起現行,它不起作用­,但是你業障消除之後,它就起作用。
ですから諸仏菩薩は人を咎めたことはありません。あなたがどれほど大きな過失を犯しても、その人はただ微笑むだけです。なぜでしょう?その人にはあなたが造った業が明らかだからです。あなたは将来必ず報いを受けます。報いを受け尽くした後で、あなたは悟り、改心します。その人は再び訪れてあなたを助けます。あなたが業を造り、報いを受けいている時、その人はただ注意喚起するだけです。その人はあなたが聞き入れないことを知っています。しかしどうでしょう?「一歴耳根,永為道種」(一たび耳根を歴(へ)れば、永く道種と為る【注5】)。その人は阿頼耶識の中に、善の種を植えてくれます。この善の種は今のところ作用することはありません。あなたが業障を解消した後で、作用し始めるのです。
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 【注5】 一歴耳根,永為道種・・・・ひとたび耳根を通せば、仏道の種は(阿頼耶識の中に)永く留まる。
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<注>
十善(じゅうぜん)
 不殺生・・・・生きものを殺しません
 不偸盗・・・・ものを盗みません
 不邪淫・・・・みだらな男女の関係をしません
 不妄語・・・・うそいつわりを言いません
 不綺語・・・・たわごとを言いません
 不悪口・・・・人の悪口は言いません
 不両舌・・・・二枚舌をつかいません
 不慳貪・・・・ものを慳(おし)み貪りません
 不瞋恚・・・・いかり憎むことをしません
 不邪見・・・・間違った考え方をしません

第一回更新 2014-06-22
第一回訂正 2014-11-18

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仏はなぜ放下させるのか

2014-06-21 | 【仏陀の教育】


佛為什麼教我們放下 / 仏はなぜ放下させるのか
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經  (第二0五六卷)  2009/11/8  檔名:12-17-2056

每一粒微塵都是活的,周遍法界,出生無盡。怎麼會出生?那就是像善導大師講的,「總在遇緣不同」。我們這一生當中能不能成佛、能不能成菩薩?或者你在六道搞輪迴,總在遇緣不同,這句話說得太好了。
どの微塵もすべて生きています。周遍法界、出生無尽です。なぜ生まれるのでしょうか?それは善導大師が説かれたように、すべて遇縁が異なります。私たちはこの一生で仏や菩薩に成れるでしょうか?或いは六道において輪廻の業を造るのでしょうか。すべて遇縁が異なります。これは素晴らしい言葉です。

  我們今天遇到這個緣,遇到了《華嚴經》,遇到了淨宗法門,這就說明什麼?你遇到成佛的緣分。如果你要能夠依教奉行,你這一生就功圓滿了,做佛去了。作佛是什麼?回歸到華嚴境界,這個緣多稀有、多難得!如果你對這個世間還有留戀,那就麻煩了,緣雖然遇到了,很可惜,當面錯過。這是在緣裡頭無比殊勝的因緣,所以我們要想一想,應不應該把它抓住?抓住要想契入,那你就得要遵守佛陀的教誡,就是他提供給你的方法妙極了,放下妄想分別執著,你就圓滿了。
私たちは今日このご縁に遇いました。『華厳経』に遇い、浄宗法門に遇いました。これは何の証明でしょうか?あなたは仏に成るご縁に出会ったということです。教えに従って実行できれば、あなたはこの一生で功徳が円満になり、仏に成りに行くのです。仏に成るとはどういうことでしょうか?華厳の境界に回帰することです。このご縁はどれほど稀有で、得難いものでしょうか!この世間に未練を持っていれば面倒なことになります。ご縁に遇っていながら、目の前で機会を逸してしまいます。これはご縁の中でもこの上なく殊勝な因縁です。ですから私たちはそれを掴むべきかどうか、よく考えなければなりません。それを掴んで理解したいと思うなら、あなたは仏陀の教誡(きょうかい)を遵守しなければなりません。彼が提供する方法は絶妙です。妄想、分別、執著を放下すること。あなたはそれで円満になります。

對於世出世間一切法,決定沒有留戀,決定沒有執著。這個執著是什麼?執著就是控制、佔有。我們想一想,我們在一切法裡頭有沒有這個念頭?想不想控制?想不想佔有?佛為什麼教我們放下?你要真正明白,所有現象是剎那生滅的,你就曉得佛講的話真的,你控制不住,你佔有不了。如果真有這個本事,你控制自己,我自己十八歲,控制住,年年十八,你能不能做到?你做不到。你能佔有,我佔有這個身體,永恆不滅,你能做到嗎?那這是真的,你能不能把你這個身體佔有住、控制住,讓他絲毫變化都不產生?你做不到,為什麼?它剎那生滅。所以彌勒菩薩講得好,性識極微細,不可執持,你沒有辦法執著,你沒有辦法控制,那個持就是保持,做不到,這才是事實真相。
世間、出世間一切の法に対して、絶対に未練を持たず、絶対に執著しないことです。この執著とは何でしょう?執著とは制御(コントロール)すること、占有することです。考えてみて下さい。私たちは一切の法においてこの考えを持っていないでしょうか?制御しようと思っていないでしょうか?占有しようと思っていないでしょうか?仏はなぜ私たちに放下させるのでしょうか?すべての現象は刹那の生滅に過ぎないことを本当に理解すれば、あなたは仏の話が真実だと理解できます。あなたは制御することも、占有することもできません。もし本当にそのような力があるなら、自分を十八歳にコントロールして、いつまでも十八歳でいられます。それができるでしょうか?できません。あなたはこの身体を占有して、永久不滅でいられるでしょうか?これは真実です。あなたは身体を占有し、制御して、少しも変化させないでいられるでしょうか?できません。なぜでしょう?それは刹那の生滅だからです。ですから弥勒菩薩は言っています。「性識極微細,不可執持」(性識は極微細であり、執持することはできない)。あなたは執著しようがありません。制御しようがありません。この「」というのは保持することです。できません。これこそが事実の真相です。

了解事實真相,我們才能把這個控制的念頭、佔有的念頭放棄了,不再去打這個妄想了。那是妄想,你決定控制不住,中國有一句諺語說,「閻王要你三更死,不能留人到五更」,這是一個比喻,無法控制。我們這一生到這個地方來,為什麼一切都生死有命,富貴由天,這個天跟命是什麼意思?業力。我們是業報身,你活多大年歲,是命裡注定的,那個算命算得准的是真的,真沒錯,你們念《了凡四訓》你就明白了。
事実の真相を理解してこそ、私たちは制御の心、占有の心を放棄することができ、二度とこの妄想をしなくなるのです。それは妄想です。あなたは絶対に制御できないのです。中国には諺があります。「閻魔さまが三更に死ぬと決めたら、五更まで人を留めることはできない」。これは一つの比喩です。制御することはできません。私たちはこの一生はこの場所に来たのです。なぜ生死の命があり、富貴は天にあるのでしょうか。その天や命とはどういう意味なのでしょうか?業力【注】です。私たちは業報身です。あなたが何歳まで生きるかは、命の中に定められています。算命が正確に勘定されているのは真実です。本当に間違いありません。皆さん『了凡四訓』を読めば分かります。

<注>
業力(ごうりき)・・・・果報を生じる業因の力。善因には善報、悪因には悪報を生じる力。(大辞泉)

<訳者注>
執著(しゅうじゃく)は執着(しゅうちゃく)と同義。
これまで三年間の訳文は読みやすさを優先して「執」としていましたが、今後は「執」と表記します。

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仏光は太陽と同じように平等に普く照らす

2014-06-21 | 【仏陀の教育】


佛光和太陽一樣平等普照 / 仏光は太陽と同じように平等に普(あまね)く照らす
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一一六集)2010/8/15 檔名:02-039-0116

菩薩雖然應化在十法界,特別是在六道,我們住在六道,菩薩的心是平等的、是清淨的,菩薩雖然有應,但是他從來沒有起心動念。所以說「無有先此後彼等分別心」,他像太陽一樣普照大地,沒有分別,什麼都照到。我們有業障,太陽雖然美好也照不到,這什麼業障?你躲在房間裡面,太陽照不到你,你出門打一把傘,太陽也照不到你。那是你自己有業障,你障礙了,不是太陽不照你,是你不想讓它照。
菩薩は十法界【注1】に応化(おうげ)【注2】しますが、特に私たちが住んでいる六道において、菩薩の心は平等です。清浄です。菩薩は応化したとしても、起心動念(きしんどうねん=心の働き)はありません。ですから「無有先此後彼等分別心」(かれ、これ、先、後等、分別心有ること無し)と言います。菩薩は太陽と同じように大地を普(あまね)く照らします。分別(分け隔てをする心)はありません。何でもすべて照らします。
私たちには業障【注3】があるので、太陽がどれほど輝いても照らされません。これはどのような業障でしょうか?あなたが部屋の中に隠れていれば、太陽はあなたを照らせません。外に出ても傘を差していれば、太陽はあなたを照らせません。それはあなた自身に業障があり、あなたが障碍になっているのです。太陽があなたを照らさないのではなくて、あなたが照らされたいと思わないのです。

佛菩薩示現在十法界就像這個樣子,普照一切眾生,「如電光照物,無彼此先後分別」。為什麼?他已經證得遍法界虛空界萬事萬物跟自己是一體,一體當然就沒有彼此先後的分別,一體嘛!這個境界我們學佛的人要發心,他們證得了,我們也應該證得,這才對。
仏菩薩(ほとけぼさつ)が十法界に示現されるのは、正にこのように、一切の衆生を普く照らします。「如電光照物,無彼此先後分別」(電光の物を照らすが如く、彼此(かれこれ)先後(せんご)の分別無し)。なぜでしょう?彼はすでに遍法界虚空界【注4】、万事万物は自分と一体だということを証得しているからです。一体ですから当然、あれ、これ、先、後の分別はありません。一体なのですから!私たち仏法を学ぶ者はこの境界を発心しなければなりません。彼らは証得したのです。私たちも証得しなければなりません。それで良いのです。

<注>
1.十法界(じっぽっかい=十界)・・・・地獄から仏界までの十種の世界。全世界。全宇宙。

2.応化(おうげ)・・・・仏・菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。

3.業障
(ごうしょう/ごっょう)・・・・過去の悪業(あくごう)によって生じた障害のこと。

4.遍法界虚空界(へんほっかい、こくうかい)・・・・因果に支配される全宇宙(法界)と、それを超越した根源的な真如の世界(虚空界)のこと。

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釈迦牟尼仏の真実の身分

2014-04-12 | 【仏陀の教育】


釋迦牟尼佛的真實身分 / 釈迦牟尼仏の真実の身分
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二0四八卷)2009/09/30 檔名:12-017-2048

學佛要守本分,釋迦牟尼佛當年在世就示現榜樣給我們看。我過去講經也常講,要想社會安­定、世界和平,應該怎麼做?每個人要從事自己的行業,把你自己本分行業做好,這就是印­光大師常講的「敦倫盡分」。敦倫,倫就是人與人的關係,五倫;敦是敦睦,就是與人,人­際的關係要懂得和睦相處,對自己,在自己行業當中要盡分,我的本分要做好。那我們這是­一個行業,這個行業是什麼行業?教學的行業,所以一定要認識釋迦牟尼佛,他是什麼身分­?職業教師,我們參與這個行業就是職業教師,而且這個職業教師沒有收入的,是一個社會­義務工作者。
仏法を学ぶには本分を守らなければなりません。釈迦牟尼仏がご在世の頃、示現して模範を見せて下さいました。私は以前の講経で何度もお話ししています。社会の安定、世界平和を願うなら、どのようにすべきなのでしょうか?各人が自分の職業に従事して、しっかりと自分の仕事をすることです。これは正に印光大師がよく言われた「敦倫尽分」(倫を敦(あつ)くして分を尽くす)です。「倫を敦くする」とは何でしょう?「」とは人と人との関係、五倫【注】です。「」とは敦睦(とんぼく。人情が厚く、睦まじいこと)、つまり人間関係を仲睦まじくすること。自分に対しては、自分の仕事の中で分を尽くすことです。自分の本分(つとめ、役割)をしっかりと果たすことです。それでは私たちも一つの職業です。この職業は何でしょう?教学の職業です。ですから必ず釈迦牟尼仏を理解しなければなりません。彼はどのような身分でしょうか?職業教師です。私たちはこの業界に参与すれば職業教師です。しかもこの職業教師には収入はありません。社会の奉仕活動家です。
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 【注】 五倫(ごりん)・・・・父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。
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我讀了釋迦牟尼佛的傳記之後,我就曉得了,釋迦牟尼佛的身分要現在人來講­,他是一個多元社會教育家,我們可以用這個來稱他,多元文化的社會教育家。他自己本身­身分,是個多元文化社會教育義務工作者,一生教學不收學費。為什麼加「多元」?他是有­教無類,跟中國孔子一樣,不分你是哪一國的人,不分你是哪個族群的人,也不分你信什麼­宗教,你只要來,他都會教你,很認真,很誠懇的教你。所以佛的學生很多,常隨眾就有一­千二百五十五人,所以他講經法緣非常殊勝。我們要從這個地方去學,我們在社會上是義務­教育工作者,我們所學的是多元文化的社會教育。
私は釈迦牟尼仏の伝記を読んで分かりました。釈迦牟尼仏の身分は現代人の言うところの、多元(文化)社会教育家です。私たちはこのように言うことができます。多元文化の社会教育家です。彼自身の身分は、多元文化社会教育の奉仕活動家です。一生教学して学費を取りませんでした。なぜ「多元」を付けるのでしょう?彼はどのような人にも等しく教育を与えました。中国の孔子と同じです。あなたはどの国の人であるとか、どの民族であるとか、また何の宗教を信仰しているかで区別はしません。あなたが来さえすれば、彼はあなたに教えます。とても真摯に、誠実に教えます。ですから仏の学生はたくさんいます。常時付き従っていたのは千二百五十五人いました。ですから彼の講経の法縁は非常に殊勝なものでした。私たちはここから学びます。私たちは社会においては奉仕教育家です。私たちが学ぶのは多元文化の社会教育です。

<参考>
印光大師(1861-1940)・・・・釈印光。法名を聖量、字を印光、自称・常慚愧僧。中国浄土宗第十三代祖師。俗姓は趙、名は丹桂、字は紹伊、号は子任。陜西省郃陽(現・合陽)孟庄郷赤城東村の人。大師は仏教の中でも特に浄土宗の振興に偉大な功労をされ、中国の近代仏教に最も深い影響をもたらした人物の一人である。(「百度百科」より抜粋して翻訳)

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金色が表す法の意味

2014-04-12 | 【仏陀の教育】


金色表法的意思 / 金色が表す法の意味
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五四六集)2011/8/17 檔名:02-039-0546

「悉皆開闢明現」,故云『悉大開闢』。且一切諸物『皆同一色』,「一色者,準《觀經》說,悉皆金色也」。一色是金色,這個裡面我們要懂得它真正的意思。在相上說,不一定是金色,各種不同的色彩都有,各種不同的色彩統統稱為金色。金是什麼意思?不變。在我們這個世界上,金銀銅鐵叫金屬,金屬都容易氧化,唯有黃金它不會氧化,所以人們把這個看得很重視、很珍貴,它不變。
悉皆開闢明現」(悉(ことごと)く皆開闢(かいびゃく)明現す)、故に「悉大開闢」と云ふ。且つ一切諸物は「皆同一色」なり。「一色者,準『観経』說,悉皆金色也」(一色は、『観無量寿経』に準(なぞら)へて説くに、悉く皆金色なり)。一色とは金色のことです。この中で私たちはその真の意味を理解しなければなりません。相において言えば、金色とは限りません。様々な異なる色彩があります。様々な異なる色彩をすべて金色と言っているのです。金とはどのような意味でしょうか?不変です。私たちの世界で、金、銀、銅、鉄は金属と言います。金属はどれも酸化しやすいものですが、唯一黄金だけが酸化しません。ですから人々はこれを重視し、貴重なものと見なしました。それは不変です。

金代表永恆不變,永恆不變就叫真金色,表法的意思你要懂。我們世間人造像,造佛像、造菩薩像,都把它貼成金。如果一個人一身的顏色都像黃金一樣的,你說好不好看?全世界全部是這個黃金色就單調了。極樂世界七寶池裡面的蓮花,你看經上講四色,實際上《觀經》裡面給我們講的無量的光色,各種不同顏色都有,那叫美不勝收。各種顏色都有,各種顏色都不變,這就叫金色。所以諸位一定要懂金色表的意思,永恆不變稱之為金。
金は永久不変を表します。永久不変のことを真金色と言います。法の表す意味を理解しなければなりません。世間の人は仏像や菩薩の像を造ると、すべて金を貼りつけます。もし人の身体の色がすべて金色だったら、あなたは綺麗だと思うでしょうか?全世界のすべてが黄金色であれば単調になってしまいます。極楽世界の七宝池の蓮の花は、経の中には四色と説かれていますが、実際には『観無量寿経』の中では無量の光色と説かれており、様々な異なる色があります。美しいものは数え切れません。様々な色があり、様々な色がすべて不変であること、これを金色と言っています。ですから皆さんは金色の表す意味を理解しなければなりません。永久不変のことを金と言うのです。

「如《觀經》第七觀云:無量壽佛住立空中。觀世音、大勢至是二大士,侍立左右。光明熾盛,不可具見。百千閻浮檀金色,不得為比。」這是說佛的正報,阿彌陀佛、觀音菩薩、大勢至菩薩,除他們之外,圍繞在佛身邊的菩薩們、聲聞眾,人數就太多太多了,不說我們也能想到。他們的光明,佛的光明、菩薩的光明、聲聞大眾的光明,統統有身光,光明熾盛,不可具見。下面是比喻,百千閻浮檀金是黃金裡面最好的,就是成色最好的,都比不上。
如『観経』第七觀云:無量壽佛住立空中。觀世音、大勢至是二大士,侍立左右。光明熾盛,不可具見。百千閻浮檀金色,不得為比。」(『観無量寿経』第七観に云ふが如く、無量寿仏空中に住立したまふ。観世音、大勢至この二大士、左右に侍立せり。光明熾盛(しせい)にして、具(つぶさ)に見るべからず。百千の閻浮檀金色、比と為すを得ず)。これは仏の正報を言っています。阿弥陀仏、観音菩薩、大勢至菩薩、彼らを除いて、仏の身辺を囲繞する菩薩たち、声聞衆、人数は数え切れないほどです。私たちには想像もつきません。彼らの光明、菩薩の光明、声聞大衆の光明は、すべて身光(しんこう)があり、光明は火が燃え上がるように勢いが盛んで、よく見ることさえできません。その次は比喩です。百千の閻浮檀金(えんぶだんごん)【注】、これは黄金の中でも最も良いものです。つまり金の含有量が最も多く、(他のものとは)比べものになりません。
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 【注】 閻浮檀金(えんぶだんごん)・・・・梵語。閻浮樹(えんぶじゅ)のある大森林の中を流れる川に産する砂金。(新漢語林)
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「又第八觀云:佛菩薩像皆放光明,其光金色。」佛放光、菩薩光,光的顏色很多很多種,為什麼?人的妄想分別執著不相同,有多少種就有多少光,就有多少色,只有佛光、法身菩薩光,清淨光明,皆作金色。「第十五觀云:見阿彌陀佛與諸眷屬,放金色光。又如《七佛神咒經一》曰:其中所有一切萬物,皆作金色。又如《法華》放光現瑞時,照於東方萬八千土」,這個土是佛剎,東方一萬八千佛剎,「皆如金色。進言之,則一色者,表萬法一如也」。金代表什麼?金代表自性,金代表性,永恆不變。
又第八観云:佛菩薩像皆放光明,其光金色。」(また第八観に云ふ。仏菩薩の像は皆光明を放たん。其の光は金色なり)。仏の放つ光、菩薩光、光の色はたくさんあります。なぜでしょう?人の妄想・分別・執著は異なり、どれだけ種類があるかによって、それだけの光があり、それだけの色があります。仏光、法身菩薩の光だけが、清浄、光明であり、すべて金色です。
第十五観云:見阿彌陀佛與諸眷屬,放金色光。又如『七佛神咒経一』曰:其中所有一切萬物,皆作金色。又如『法華』放光現瑞時,照於東方萬八千土」(第十五観に云ふ。阿弥陀仏、諸の眷属と与に金色の光を放つを見る。また『七仏神呪経』に曰ふが如く、其の中のあらゆる一切の万物は、皆金色に作る。また『法華経』放光現瑞の時の如く、東方万八千土を照らす)。この「土」とは仏刹です。東方一万八千の仏刹です。
皆如金色。進言之,則一色者,表萬法一如也」(皆金色の如し。進めて之を言ふに、則ち一色は、万法一如を表すなり)。金は何を表すのでしょう?金は自性【注】を表します。金は性徳【注】を表します。永久不変です。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。
     性徳(しょうとく)・・・・衆生が本性として具えている生まれつきの能力。
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 *書き下し文は自己流ですので、参考程度にして下さい。
 *『観無量寿経』の書き下し文は、こちら(http://www.geocities.jp/tubamedou/index.htm)を参考にしました。浄土三部経の書き下し文、現代語訳などが載っています。

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修行はすべて自分が頼りである

2014-04-12 | 【仏陀の教育】


修行真的全靠自己 / 修行は本当にすべて自分が頼りである
文摘恭錄—淨土大經解演義(第六十集)2010/6/17 檔名:02-039-0060

所以十方剎土,不能說哪個地方好,哪裡壞,不能說,沒有好壞。好壞不在外面,好壞在自己,自己要會修,這個境界太好了。我們在這個世界要真正用功修的話,將來往生可以往生到實報莊嚴土。如果你不善學,你不會修,你在這個地方修的是凡聖同居土,到西方極樂世界再提升到實報莊嚴土,至少還要用十劫,用那麼長的時間。如果在這裡你真會的話,你這幾十年就超過極樂世界修行十個大劫。因為它誘惑太多,好事也有,壞事也有,你在這裡頭真正能夠修到不動心,不起心、不動念,看得清清楚楚、了了分明,無動於衷,你就成功了。
ですから十方刹土(無量無辺の国土)において、どの場所が良い、どこが悪いとは言えません。良し悪しはありません。良し悪しは外にはありません。良し悪しは自分にあります。自分が修めることができれば、その境界は素晴らしいものです。私たちはこの世界で本当に修行に励むなら、将来は実報荘厳土に往生することができます。もしあなたが善を学ばず、修めることができなければ、あなたがこの場所で修めているのは凡聖同居土です。西方極楽世界に行ってから更に実報荘厳土に上がるまで、少なくとも十劫かかります。それほど長い時間がかかります。もしあなたがここで本当に修めることができるなら、あなたの数十年は極楽世界での十劫に渡る修行を超えています。なぜならここはとても誘惑が多く、良い事も悪い事もあります。あなたはこの中で真に不動心を修め、心を起こさず、念を動かさず、はっきりと見極めて、明らかにして、真心が動くことがなくなれば、あなたはそれで成功です。

清清楚楚是智慧,了了分明,慧;如如不動是定,不起心、不動念是自性本定。這樣的功夫念佛往生是生實報莊嚴土,不是方便有餘土。真正做到不執著、不分別,在方便有餘土。妄想分別執著統統都有,用這句佛號壓住,不讓它起現行,這叫功夫成片,這叫帶業往生,生凡聖同居土,這我們得搞清楚。然後我們對於時間延促無礙真的明白了。
はっきりさせるのは智慧です。明らかにするのは、です。一切動揺しないのは、(じょう)です。心を起こさず、念を動かさないのは、自性本定です。このような技量で念仏往生すれば実報荘厳土に生まれます。方便有余土ではありません。本当に執著(しゅうじゃく)せず、分別しなければ、方便有余土です。妄想、分別、執著がすべてあり、この仏号を用いて抑え、それらを起こさせないこと。これを「功夫成片」(念仏の技量が定着すること)と言います。これを「帯業往生」(業を携えて往生すること)と言い、凡聖同居土に生まれます。これを理解しなければなりません。そして私たちは時節の延促(信心を得るのに要する時間の長短【注】)に対する障碍がなくなります。本当に理解できます。
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 【注】 「延促」(えんそく)についてはこちらのサイトを参考にした。http://www.gyousin.com/text/rondai/siniti.html
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所以提升自己的境界,你看看靠誰?全靠自己。諸佛菩薩的示現跟教誨都是平等的,佛菩薩對我們有什麼樣的期望?你們說說佛菩薩對我們有什麼期望?是不是期望我們好好的學,正法久住,我們這一生能夠高品位的往生?說實話,這些都是我們凡夫的妄想。如果佛菩薩對於我們有什麼期望,他是凡夫,他不是佛菩薩,為什麼?他起心動念,不但起心動念,他還有分別執著,哪有這種道理!應化到我們這個世間,他已經退轉了,退了跟我們一樣。我們在誤會,他沒有。
ですから自分の境界を高めるには、誰に頼るのでしょう?すべて自分に頼ります。諸仏菩薩の示現と教誨はすべて平等です。仏菩薩は私たちに何かを期待されるでしょうか?あなた方は、仏菩薩は私たちにどのような期待をされると思うでしょうか?私たちがしっかりと学び、正法が永くこの世に留まり、私たちがこの一生で高い位に往生することを期待されると思うでしょうか?
実を言えば、これらはすべて私たち凡夫の妄想です。もし仏菩薩が私たちに何かを期待されるなら、その人は凡夫です。その人は仏菩薩ではありません。なぜでしょう?その人に起心動念(きしんどうねん、意識の働き)があるからです。起心動念があるばかりか、更に分別と執著があります。どこにそのような道理があるのでしょうか?この世間に応化【注】して、その人はすでに退転しています。退転すれば私たちと同じです。私たちは誤解しています。その人は違います。
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 【注】 応化(おうげ)・・・・仏菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。(大辞泉)
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釋迦牟尼佛當年在世,天天給我們講經說法,跟我們在一起也有說有笑,確實他沒有起心動念過,人家害就害在這一點。我們用佛教的意思來說,念念跟自性相應,他不跟煩惱相應。起心動念就跟無明煩惱相應,分別就跟塵沙煩惱相應,執著就跟見思煩惱相應,他全沒有。這些真的搞清楚、搞明白,你才曉得怎麼修法。修行不離開生活,不離開人群,五十三參,哪裡都可以去,理事無礙,事事無礙。十玄門就是講事事無礙,沒障礙,全是幫助你、成就你。你在這裡頭一接觸,自己什麼樣情形全都顯現出來,功夫淺深立刻就出來了,哪裡還需要找什麼祖師大來印證?不需要!那些印證給你說都是表演的,表演給世間人看的,不是真的。真的盡在不言中,我們不能不知道。
釈迦牟尼仏が在世の頃、毎日私たちに講経、説法されていました。私たちと一緒にいて話したり笑ったりして、間違いなく起心動念はありませんでした。彼が人並みでないのはこの一点にあります。仏教の意味で言うなら、すべての念が自性に相応して、煩悩とは相応しません。起心動念が無明煩悩と相応し、分別が塵沙煩悩と相応し、執著が見思煩悩と相応する、彼はそのようなことはありません。これらを本当に理解し、明らかにしてこそ、あなたはどのように法を修めるのかが理解できるのです。
修行は生活を離れず、群衆を離れません。五十三参のどこにでも行くことができ、理事無碍、事事無碍なのです。十玄門は正に事事無碍を説いています。障碍はありません。すべてがあなたを助け、あなたを成就させるものなのです。あなたはこの中で接触してみれば、自分がどのような状況であるかはすべて現れます。技量の深浅がすぐに現れます。どうして祖師大徳の印証(証明)が必要なのでしょうか?必要ありません!それらの印証はすべて演出です。世間の人に演じて見せているのであって、真実ではありません。真実は不言の中に尽くされています。私たちは知っておかなければなりません。

<参考>
四土(しど)
(以下、岩波『仏教辞典』第二版を参照した)
常寂光土(じょうじゃっこうど)・・・・報身仏の住む浄土。真理そのものの世界。一切の浄土の根源的な絶対界。(=寂光浄土)
実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)・・・・無明の煩悩を断ち、真如、中道を悟った聖者が住む国土。(=実報土) *筆者注:「実報荘厳土」と同義と思われるが、筆者の見る限りでは「実報荘厳土」という言い方は日本のサイトではあまり見られない。
方便有余土(ほうべんうよど)・・・・見惑、思惑の煩悩を断った菩薩が住む浄土。根本煩悩である無明の煩悩を残しているので「方便有余」と言われる。迷いの世界。(=方便土)
凡聖同居土(ぼんしょうどうこど)・・・・凡夫と聖者が共に住む浄土。ここには不浄が充満する「穢土」(えど)と、清浄なる世界である「浄土」がある。迷いの世界。(=同居土)

<仏法の世界観>                        【浄土】(じょうど)
一真法界 生滅の無い世界                   常寂光土 寂光浄土
真理そのものの根源的な境界                  実報荘厳土
  ↑                                   ↑
十法界(四聖法界+六道輪廻) 生滅のある世界      方便有余土
【四聖法界】(悟界)仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界      凡聖同居土
  ↑                                   ↑ 
【六道輪廻】(迷界)天界、人界、修羅界、畜生界、地獄界 【穢土】(えど)

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大勢至菩薩は智慧を表す

2014-03-29 | 【仏陀の教育】


大勢至菩薩表智慧 / 大勢至菩薩は智慧を表す
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四四九集)2011/6/11 檔名:02-039-0449

下面再介紹大勢至菩薩,「大勢至菩薩。菩薩之大智大勢」,這個勢就是力,大智大力,「可至一切處」。以他的大智大力,他能到一切處,遍法界虛空界沒有他不能到的地方,所以叫大勢至,名號從這裡來的。「據《楞嚴經》,大士以念佛心,入無生忍;不假方便,自得心開;今於此界,攝念佛人歸於淨土。與觀世音菩薩,同為阿彌陀之脇士」,這個脇士就是協助阿彌陀佛教化眾生。
次にまた大勢至菩薩が紹介されています。「大勢至菩薩。菩薩之大智大勢」(大勢至菩薩。菩薩の大智大勢は・・・)。この「勢」とは力のことです。大智大力です。「可至一切處」(・・・一切処に至るべし)。彼は大智大力を用いてどこにでも行くことができます。遍法界虚空界、彼が行けない場所はありません。ですから大勢至と言います。名号はここから来たのです。
據『楞嚴經』,大士以念佛心,入無生忍;不假方便,自得心開;今於此界,攝念佛人歸於淨土。與觀世音菩薩,同為阿彌陀之脇士」(『楞厳経』に据れば、大士は念仏の心を以て、無生忍【注1】に入る。方便を仮らず、自ずから心開かるることを得ん。今此の界に於て、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。観世音菩薩と、同じく阿弥陀の脇士と為す)。この脇士は阿弥陀仏が衆生を教化するのを助けます。
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 【注1】 無生忍(むしょうにん)・・・・生じることも滅することもないという真理を認識すること。また、その真理を悟った安らぎ。(大辞泉)
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《楞嚴經》「大勢至圓通章」,這一章經專門介紹大勢至菩薩,大勢至菩薩是修念佛法門的。以念佛心,入無生忍,他怎麼成佛?念佛成佛,就這麼一個簡單的方法。念到理一心不亂,理一心不亂跟禪宗大徹大悟,明心見性,是同一個等級、同一個境界。禪宗是用參禪的方法達到的,大勢至菩薩就是用念阿彌陀佛的方法達到的。原理是一個,用念佛的方法先把見思煩惱放下,得事一心不亂,然後再把分別、起心動念放下,得理一心不亂,就成佛了。
『楞厳経』の「大勢至圓通章」では、特に大勢至菩薩を紹介しています。大勢至菩薩は念仏の法門を修めました。「念仏の心を以て、無生忍に入る」。彼はどのように仏に成ったのでしょうか?念仏して仏に成ったのです。正にこの簡単な方法です。理一心不乱【注2】に達するまで念じたのです。理一心不乱は禅宗の大徹大悟、明心見性と同じ等級、同じ境界です。禅宗は参禅の方法を用いて達します。大勢至菩薩は阿弥陀仏を念じる方法で達したのです。原理は一つです。念仏の方法で見思煩悩【注3】を放下して、先ず事一心不乱【注4】を得ます。そして更に分別、起心動念(意識の働き)を放下して、理一心不乱を得て、仏に成ったのです。
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 【注2】 理一心不乱・・・・念仏して分別、起心動念(心の働き)を放下して得られる境界。禅宗の大徹大悟、明心見性と同等。法身菩薩の境界。
 【注3】 見思煩悩(けんしぼんのう)・・・「見思」とは、見惑(けんわく)と思惑(しわく)のこと。「見惑」とは仏教の真理について迷いを覚えること。「思惑」とは、貪嗔痴(貪り、怒り、無知)などの煩悩のこと。「惑」は煩悩の意味。「見思煩悩」は、それらの迷いや煩悩のこと。
 【注4】 事一心不乱・・・・念仏して見思煩悩を放下して得られる境界。阿羅漢の境界。
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念佛而不能放下見思煩惱,就出不了六道輪迴,念佛變成什麼?變成人天福報。確實這個世間大富大貴的人,過去都在佛門修的福報,不是佛門修不到這麼大的福報。不在佛門,如果要修得像帝王這種福報的話,至少要十世善行;如果在佛門,他一次就可以能做到。真誠心修善,見思煩惱沒斷。見思煩惱斷了,他所修行變成功,就不是福;功能幫助你了生死出三界,福不行,福所感的是人天福報。
念仏して見思煩悩を放下できなければ、六道輪廻を出ることはできません。念仏は何に変わるでしょう?人道天道の福報に変わります。確かにこの世間の富豪たちは、過去に仏門において福報を修めたのです。仏門でなければそこまで大きな福報は修められません。仏門でないなら、もし帝王のような福報を修めようとすれば、少なくとも十世の善行を要します。もし仏門であれば、一度でできてしまいます。真誠の心で善を修めて、見思煩悩は断っていません。見思煩悩を断てば、その人の修行は功徳に変わります。福報ではなくなります。功徳はあなたが生死を明らかにし、三界を出るのを助けてくれます。福報では駄目です。福報が感応するのは人道天道の福報です。

可是我們想想,哪一個有大福的人不造業?有權有勢,做了帝王,不高興就殺人,別人殺人要犯罪,他殺人不犯罪。殺人是不犯罪,因果還是沒辦法,還是要償命的,還是要受果報的。人殺得太多了要墮地獄,地獄果報受完之後還要償命,這是無法避免的。人要真正了解這個事實真相,不敢殺生,連吃肉都不敢,吃肉都有果報。佛經上又說,古大常講,吃他半斤,來生要還他八兩,一點便宜都佔不到,何必造這個罪,給自己找麻煩。所以因果教育比什麼都重要。
しかし考えてみて下さい。大きな福報のある人で、業を造らない人がいるでしょうか?権勢を持ち、帝王になり、気に入らなければ人を殺して、他人が人を殺せば犯罪ですが、その人が人を殺しても犯罪になりません。殺人が犯罪になりません。しかし因果はどうにもなりません。やはり命で償わなければならず、果報を受けなければなりません。人を多く殺せば地獄に堕ちて、地獄の果報を受けた後、更に命を償わなければなりません。これは避けることはできません。人は本当にこの事実の真相を理解したなら、殺生はできません。肉を食べることさえできません。肉を食べることさえ果報があります。仏は経に説かれています。昔の大徳はよく講じています。「半斤食べれば、来世で八両にして償う」ことになります。少しも甘い汁を吸うことはできません。その罪業を造り、自分で面倒を引き受ける必要があるでしょうか。ですから因果の教育は何よりも重要です。

念佛方法無比的方便,用念佛心,入無生忍,這是他成道的。不假方便,自得心開,這個方便就是其他的法門。八萬四千法門他都不用,就單單一句佛號念到底,他成就了。所以跟阿彌陀佛緣就深了,阿彌陀佛就用一句佛號。所以阿彌陀佛這個方法也不是他自己創辦的,古佛就已經有了,在阿彌陀佛之前就有了,就是所謂一門深入,長時修,決定不要改變。功夫念成了,心開意解,大徹大悟。今在此界,這是娑婆世界,在我們這個世界。攝念佛人,專門攝受念佛的人。歸於淨土,大勢至菩薩接引大眾同歸極樂。所以,每一個念佛人,真正念佛求生淨土,一定得大勢至的加持,這肯定的,跟他修同一個法門。他與觀世音菩薩同為阿彌陀佛的助手,等於說在極樂世界是阿彌陀佛的助教。
念仏の方法はこの上なく便利です。念仏の心を用いて無生忍に入れば、その人は成道します。方便を借りることなく、自ずから心が開かれます。この方便とは他の法門のことです。八万四千の法門はすべて用いず、ただ一句の阿弥陀仏を最後まで念じて、彼は成功しました。ですから阿弥陀仏との縁は深いのです。阿弥陀仏は一句の仏号を用いました。ですから阿弥陀仏のこの方法も彼自身が創作したのではありません。古仏にはすでに(この方法が)ありました。阿弥陀仏の前にもあったのです。いわゆる一門に深く入り、長期に渡って修行を積むことです。絶対に変えてはなりません。念じて技量を得れば、心を開いて意を解し、大徹大悟します。
「今此の界に於て」、これは娑婆世界です。私たちのいるこの世界です。「念仏の人を摂する」とは、特に念仏する人を摂受(しょうしゅ=仏の慈悲で衆生を救うこと)することです。「浄土に帰せしむ」とは、大勢至菩薩が大衆を引導して極楽に帰ることです。ですから念仏するどの人も、本当に念仏して浄土に生まれることを求めれば、必ず大勢至の加持を得ます。これは間違いありません。彼と同じ法門を修めるのです。彼と観世音菩薩は同じく阿弥陀仏の助手です。極楽世界で阿弥陀仏の助教を務めるということです。

「《觀經》曰:以智慧光,普照一切,令離三途,得無上力,是故號此菩薩為大勢至」。這是菩薩化他,菩薩表智慧,觀音菩薩表慈悲,大勢至表智慧。智慧普照一切,幫助一切眾生破迷開悟,破迷開悟需要智慧。迷破了,六道三途自然就沒有了。六道三途怎麼來的?見思煩惱,我們套《無量壽經》上的話,阿彌陀佛的話,自然成就。阿彌陀佛是願力,五劫修行功的自然成就,我們是見思、塵沙、無明煩惱,也是無量劫的修行自然成就,成就什麼?成就六道輪迴,成就三途苦報,一個道理,真的,不是假的。都在幹,我們錯了方向,他走的是正道,我們走的是邪道。所以,世出世間一切法,沒有一法不是自然成就,佛經上有個名詞叫「法爾如是」,一切法它自自然然就是這樣的。
「『觀經』曰:以智慧光,普照一切,令離三途,得無上力,是故號此菩薩為大勢至」(『観経』に曰く、智慧の光を以て、一切を普く照らし、三途を離れしめ、無上の力を得る。是の故に此の菩薩を号して大勢至と為す)。これは菩薩が人を教化することです。菩薩は智慧を表します。観音菩薩は慈悲を表し、大勢至は智慧を表します。智慧は普(あまね)く一切を照らし、一切の衆生が迷いを破り悟りを開くことを助けます。迷いを破り悟りを開くには智慧が必要です。迷いを破れば、六道や三途は自然に無くなります。六道や三途はどこから来るのでしょうか?見思煩悩です。
私たちは『無量寿経』の言葉、阿弥陀仏の言葉に沿っていれば、自然に成就します。阿弥陀仏は願力です。五劫の修行の功徳の自然な成就です。私たちは見思煩悩、塵沙煩悩、無明煩悩、そしてまた無量劫の修行が自然に成就してしまっています。何が成就しているのでしょう?六道輪廻が成就し、三途の苦報が成就しています。(これらは)一つの道理です。本当のことです。偽りではありません。すべて行っているのです。私たちは方向を誤っているのです。阿弥陀仏が進むのは正道です。私たちが進むのは邪道です。ですから世間・出世間一切の法において、自然に成就しないものはありません。仏経の言葉では「法爾如是」(ほうににょぜ=あるがままにそうである)と言います。一切の法は極極自然であり、正にこのようなものなのです。

<補足>
理一心不乱、事一心不乱については、下記サイトを参照した。
(一心不乱の頭に、理、事を付ける区別は日本のサイトには見られない)
http://baike.baidu.com/view/128459.htm?fromTaglist
一心不乱,指心意专一而不散乱。念佛人念到没有了见思惑,叫做“事一心不乱”;若念到破一品无明,证一分法身时,叫做“理一心不乱”。

<参考>
功徳と福徳 2012-09-23更新
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/367bcb2b686895cafc8d2309df235c05

功徳と福徳の区別 2013-02-16更新
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/ca56572351b7c495b6e7ab41c43ef8a3

勢至菩薩(せいしぼさつ)・・・・阿弥陀三尊の右脇侍で、仏の智門を司り、衆生の菩提心を起こさせる。智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う菩薩。(ウィキペディアより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A2%E8%87%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9

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大勢至菩薩の名号の由来

2014-03-29 | 【仏陀の教育】


大勢至菩薩名號由來 / 大勢至菩薩の名号の由来
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四五O集)2011/6/12 檔名:02-039-0450

「《悲華經》曰:由汝願取大千世界故,今字汝大勢至」。這是《悲華經》上有這麼一段經文,由汝,這個汝就是大勢至菩薩,他願意取大千世界,這個取的意思就是協助、幫助大千世界裡面一切苦難眾生,所以佛給他起了個法名叫大勢至。「又《思益經》曰:我投足之處」,我是大勢至菩薩自稱,「震動三千大千世界及魔宮殿,故名大勢至」。菩薩投足之處,這個意思就是說,他所住的地方,教化眾生的道場,教學產生威大的能量,現在人講磁場,這個磁場能夠震動三千大千世界,能夠震動魔宮殿,所以菩薩名號叫大勢至。
『悲華経』曰:由汝願取大千世界故,今字汝大勢至」(『悲華経』に曰く、汝大千世界を取るを願ふの故に由りて、今汝を大勢至と字す)。『悲華經』にこのような経文があります。汝(なんじ)に由りて、この汝とは大勢至菩薩です。彼は大千世界を取ることを願いました。この「取」の意味は協力すること、大千世界の一切の苦難の衆生を助けることです。ですから仏は彼に大勢至という法名を授けたのです。
又『思益経』曰:我投足之處」(また『思益経』に曰く、我が投足之処)。「我」は大勢至菩薩の自称です。「震動三千大千世界及魔宮殿,故名大勢至」(三千大千世界及び魔宮殿に震動す。故に大勢至と名づく)。菩薩の投足之処、この意味は、彼が住む場所、衆生を教化する道場ということです。教学は大きなエネルギーを生み出します。現代人は磁場と言います。この磁場は三千大千世界を震動させ、魔宮殿を震動させることができます。そのため菩薩の名号を大勢至と言います。

「《觀經》又云:此菩薩」,就是大勢至菩薩,「行時」,這個行就是行道的時候,行道就是教學。他住在這個地方,為這個地方眾生講經說法,無論時間長短,行時這兩個字都包括了。短時間,講一、二天,長時間,那就講很多年,這不定,這都叫行時。行道的時候,行道就是講學、教學,教化眾生。
『観経』又云:此菩薩」(『観経』に又云う。此の菩薩」、これは大勢至菩薩です。「行時」、この「行」とは道を行ずる時、道を行ずるとは教学のことです。彼はこの場所に住んで、この場所の衆生の為に講経、説法します。時間の長短に関わらず、「行時」の二字はすべて含まれます。短時間なら一日、二日講じ、長時間なら何年も講じます。これは決まっていません。これはすべて「行時」と言います。道を行ずる時のことです。道を行ずるとは講学、教学をして、衆生を教化することです。

*書き下し文の正確性は不明です。参考程度にして下さい。
 筆者は白文から中国語の語感で受け取ります。

<参考>
勢至菩薩(せいしぼさつ)・・・・阿弥陀三尊の右脇侍で、仏の智門を司り、衆生の菩提心を起こさせる。智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う菩薩。(ウィキペディアより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A2%E8%87%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9

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戒律は重要です 2

2014-03-22 | 【仏陀の教育】


戒律很重要 2 / 戒律は重要です 2
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五三三集)2011/8/11 檔名:02-039-0533

「世人愚痴不重因果」,特別是近代。我這一代比現代這一代好多了,雖然不是很深信,但是不排斥,不會批評它,還好教。現代人不好教,他不相信,他批判你,說你是迷信,說你不合科學。所以「或更狂妄」,我們那個時代愚痴,不重視因果,現在?現在更狂妄,「撥無因果」,排斥因果,說因果是宗教,說因果是迷信,說因果是騙人的。對於今天的社會,諸佛菩薩瞭如指掌,他太清楚了。「故諸經中,反覆教誨」,時時刻刻提醒你,你不相信。我在此地看到這一句,自然就想到章嘉大師。
世人愚痴不重因果」(世人愚痴にして因果を重んぜず)。特に近代です。私の世代は今の世代よりだいぶましでした。たとえ深く信じていなくても、批判することはしませんでした。まだ教えやすかったのです。現代人は教え難いものです。信じないうえに、批判します。あなたは妄信している、科学的ではないと批判します。ですから、「或更狂妄」(或いは更に狂妄す=更に思い上がる)。私たちのあの時代は愚かにも因果を重視しませんでした。今はどうでしょう?今は更に思い上がって、「撥無因果」(因果を撥無す=因果を否定して排除する)、因果を排斥しています。因果は宗教だと言い、迷信だと言い、人を騙していると言います。今日の社会について、諸仏菩薩には手に取るように明らかです。非常に明瞭です。
故諸経中,反覆教誨」(故に諸経の中にて、反覆して教誨す=各経文の中で、繰り返し教え諭している)。時々刻々あなたに注意を与えています。しかしあなたは信じません。私はここでこの言葉を見ると、自然に章嘉大師【注1】のことを思い出します。

我初學佛的時候,我不重視戒律,我有個錯誤的想法,認為戒律是生活規範,釋迦牟尼佛是三千年前的印度人,三千年前到今天,古今我們生活方式不相同,我們怎麼可能去過三千年前的生活,去守三千年前的規矩,哪有這種道理!你看我這個歪念頭,還挺有道理的,不接受!在空間上講,我們是中國,那是印度,我們中國人有中國人的生活習慣,有中國人的文化,怎麼可以用印度的東西,用印度三千年前的東西,哪有這種道理?我雖然不敢跟章嘉大師辯論,我心裡有這個念頭,那個老人都看出來。所以他也不勉強我,恆順眾生,隨著我。可是他用的技巧,就是我每次去看他老人家,他都會送到門口,在門口他會叮嚀一句,「戒律很重要」。輕描淡寫說一句,也不管我聽不聽,反正每次送我出來都會說這句話。這就是反覆教誨,慈悲到極處!
私が仏法を学び始めた頃、私は戒律を重視しませんでした。私には誤った考えがありました。戒律は生活の規範だと考えていました。釈迦牟尼仏は三千年前のインド人です。三千年前から今日まで、私たちの生活様式は同じではありません。私たちはどうして三千年前の生活を送ることができるでしょうか?三千年前の規範を守るなど、どこにそんな道理があるのでしょうか!私の歪んだ考えにはそれなりに道理があり、受け入れられませんでした!空間について言えば、私たちは中国で、それはインドです。中国人には中国人の生活習慣があり、中国人の文化があります。どうしてインドのものを使えるでしょうか。インドの三千年前のものを使うなど、どこにそのような道理があるのでしょうか?
私は章嘉大師と議論することはできませんでしたが、心の中でこの考えを持っていました。あのご老人にはすべて見えていました。ですから大師も私に無理強いはしません。衆生に合わせ、私に合わせていました。しかし大師はとても巧妙でした。私が毎回大師の家に伺うと、大師はいつも玄関まで見送って下さり、玄関で咬んで含めるように一言、「戒律は重要です」と仰られたのです。気軽に一言だけ話されて、私が聞いていようといまいと、とにかく毎回私を見送る時にこの言葉を仰いました。これは正に繰り返しの教えであり、慈悲の極みです!

大師圓寂了,他火化的時候專門造了一個塔,火化的塔。我們有十幾個人,甘珠活佛帶頭,他是我們的老學長,我們搭帳棚,在他火化的塔旁邊我住了三天。我有工作,請假三天,住三天三夜,他們在那裡住的時間久,住二、三個星期。我在那裡住三天就在那裡想,我跟他老人家三年,他教了我些什麼?這樣一回顧,「戒律很重要」,這個他講得太多遍,所以印象特別深刻。為什麼講這句話?我就想他講這個話用意何在,慢慢想,想一、二個星期想通了。戒律是佛法,佛法跟世間法不一樣,佛法是了生死、出輪迴之法,它的標準就是戒律。我們世間法是社會大眾生活的方式,所以三代就不一樣,三代講夏商周。時代變了,我們的生活跟著變,所以這個禮、法律常常要修訂。
大師が円寂(えんじゃく、僧が亡くなること)され、火葬する時には特別に塔を造りました。火葬する塔です。私たちは十数人いました。甘珠活仏が先頭に立ちました。彼は老学長です。私たちはテントを張って、火葬する塔の傍に三日間宿泊しました。私は仕事があったので、休暇を三日もらって、三日三晩泊まりました。彼らはそこに二、三週間泊まりました。私はそこに三日泊まって考えました。私が大師について三年、大師は私に何を教えて下さったのか。そのように振り返ると、「戒律は重要です」と何度も話されたので、その印象はとても深いものでした。なぜこの言葉を話されたのでしょうか?私は大師がこの言葉を話された意図はどこにあるのか、ゆっくり考えました。一、二週間考えて分かりました。戒律は仏法です。仏法は世間の法とは違います。仏法は生死を明らかにし、輪廻を出るための法であり、その基準こそが戒律なのです。世間の法は社会大衆の生活様式です。ですから三代経てば違ってしまいます。三代とは夏、商、周です。時代が変われば、私たちの生活は時代に沿って変わっていきます。ですから礼法や法律は頻繁に改訂されます。

佛不能修訂,佛一修訂就不能出輪迴,它是出輪迴的法,你這一修訂、一改變,你就出不去了。我想通這個道理,應該是這個意思,這就接受戒律,把過去錯誤的觀念改正過來。所以那時候我想,章嘉大師圓寂是為了我,他要不圓寂,我永遠不會認真去想這句話是什麼意思;換句話說,我學佛的根基就紮不穩,這個錯誤的觀念太嚴重了。他這一走,讓我認真去反省,三年他教我什麼,我學到什麼。這樣一想的時候,這個戒律重要,真的是學佛第一樁大事,這是根,這個疏忽之後,我們這一生所學的是佛學,不是學佛,這多重要。所以,他住世是教眾生,他圓寂還是教眾生,他不這樣做我們醒不過來。所以我們對老師感恩,決定不能疏忽。
仏を改訂することはできません。仏を改訂すれば輪廻を出られなくなります。それは輪廻を出る法であり、あなたがこれを改訂すれば、改訂した途端に出られなくなります。私はこの道理に気がつきました。おそらくこのような意味でしょう。これで戒律を受け入れました。過去の誤った観念は正されました。ですからその時私は、章嘉大師の円寂は私の為ではないかと思いました。大師が円寂されなければ、私は永遠にこの言葉の意味を考えることはありませんでした。言い換えるなら、私の仏法を学ぶ基礎は揺らいでいました。この誤った観念は非常に深いものでした。大師が亡くなり、私は真摯に反省させられました。三年で大師は私に何を教えたのか、私は何を学んだのか。このように考えると、戒律は重要であり、本当に仏法を学ぶ上で最初の一大事なのです。これは根です。これを疎かにすれば、一生学んだことは仏教学になってしまいます。仏に学んだのではありません。これはどれほど重要なことでしょうか。ですから大師の在世は衆生を教える為であり、大師の円寂もまた衆生を教える為なのです。大師がこのようにされなければ私たちは目が覚めませんでした。ですから私たちは老師に感謝しています。絶対に疎かにすることはできません。

<注>
1.章嘉大師(1890-1957)・・・・第十九世、章嘉呼図克図。本名は羅森班殿・丹畢蓉梅といい、一般には章嘉大師、章嘉活佛と称される。呼図克図(ホトクト)はモンゴル語であり、漢訳すると「明心見性,生死自主」(悟りを開いた生死自在の聖者)の意味である。チベット仏教中国内モンゴル地区の最高活仏(生き仏)。達頼喇嘛(ダライラマ)、班禅額爾徳尼(パンチェン・オルドニ)、哲布尊丹巴呼図克図(ジェプツンダンバ・ホトクト)と同じくチベット仏教四大指導者の一人。(「維基百科」より抜粋して翻訳)

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仏心は鏡の如し

2014-02-16 | 【仏陀の教育】


佛心如鏡 / 仏心は鏡の如し
文摘恭錄—淨土大經科註(第二0四集)2012/2/21 檔名:02-037-0204

「於上之語,若能信受,即是蒙佛深恩,為我開智慧之眼,得光明之身」。這個要相信,所以這句佛號能不能念到明心見性?能,念到理一心就明心見性,就大徹大悟,跟禪宗明心見性完全相同,用的方法不一樣。他們是觀心,止觀、參究用這些方法,淨宗就是一句阿彌陀佛,念到什麼時候明心見性?念到不起心不動念,這原理完全相同,參禪也要到不起心不動念才大徹大悟。
於上之語,若能信受,即是蒙佛深恩,為我開智慧之眼,得光明之身」(上の語に於て、若し能く信受すれば、即ち是仏の深恩を蒙り、我が為に智慧の眼を開き、光明の身を得るなり)。これは信じなければなりません。(阿弥陀仏の)仏号を念じて明心見性することができるでしょうか?できます。「理一心」に達するまで念じれば明心見性です。それが大徹大悟です。禅宗の明心見性と完全に同じです。用いる方法は異なります。彼らは観心、止観、参究などの方法を用います。浄宗では一句の阿弥陀仏です。いつまで念じれば明心見性するのでしょうか?心を起こさず、念を動かさなくなるまで念じます。この原理は完全に同じです。参禅もまた心を起こさず、念を動かさなくなって、ようやく大徹大悟するのです。

不執著、不分別功夫得力了,沒有見性,一定要不起心不動念,六根眼耳鼻舌身意,對著外面的境界色聲香味觸法,不起心不動念就大徹大悟,就見性。古時候沒有電視,沒有電腦,現在用電腦、用電視,屏幕是個非常好的例子。我們的真心是什麼?屏幕就是我們的真心,所有現相都是真心現的。
執着せず、分別しなければ技量を得られます。しかしそれでも見性してはいません。必ず心を起こさず、念を動かさなくならなければなりません。六根(眼耳鼻舌身意)が外界の色声香味触法に対して、心を起こさず、念を動かさなくなれば、正に大徹大悟であり、見性です。
昔はテレビがなく、パソコンもありませんでした。今はパソコンを使い、テレビを使います。スクリーンはとても良い例になります。私たちの真心とは何でしょう?スクリーンが私たちの真心です。すべての現れる相は、真心が現すものです。

真心染不染?不染。真心有沒有執著?沒有執著。真心有沒有起心動念?沒有起心動念。佛的心就像這個樣子,所以古人講佛心如鏡,像鏡子一樣照見。不但不照的時候痕跡沒有,即使正在照的時候也是痕跡都沒有,沒有染污。
真心は穢れるでしょうか?穢れません。真心に執着はあるでしょうか?執着はありません。真心に起心動念(識の働き)はあるでしょうか?起心動念はありません。仏の心は正にこのようなものです。ですから古人は、「仏心は鏡の如し」と言います。鏡と同じように照見します。(真相を)映さない時に痕跡がないばかりか、今正に(真相を)映している時でさえ痕跡はありません。染汚(ぜんま=煩悩による穢れ)はありません。

能常作如是觀,心就不動。然後把這個功夫移在日常生活當中,穿衣吃飯、待人接物都能像電視螢幕一樣,我們事情做得圓圓滿滿,沒有起心動念,沒有分別執著,這就是佛菩薩,這在佛門當中就叫大徹大悟,明心見性。在世間法裡頭恆順眾生,隨喜功,懂得隨喜,隨著眾生的分別而分別,隨著眾生的執著而執著,在這裡面示現染淨、善惡、業報,示現這些幹什麼?教化眾生,幫助眾生覺悟,幫助眾生回頭。
常にこのように観ずれば、心は動きません。そしてこの技量を日常生活の中に移します。服を着たり、食事をしたり、人と接することは、すべてテレビのスクリーンと同じです。円満に事を成して、起心動念がなく、分別・執着がなければ、それこそが仏菩薩です。これが仏門で言われる大徹大悟、明心見性です。世間法の中で衆生に従い、随喜功徳します。随喜を理解します。衆生の分別に合わせて分別し、衆生の執着に合わせて執着して、その中で染浄、善悪、業報を示現します。それらを示現してどうするのでしょう?衆生を教化します。衆生の覚醒を助け、衆生の改心を助けます。

迷得深的幫助他斷惡修善,這對迷得深的人,菩薩也要做出迷的樣子,跟他才能夠溝通;迷得淺的幫助他破迷開悟,根熟的幫助他明心見性;淨土根熟的,就是剛才講他能信、能願、能持名,幫助他念佛往生淨土,也算根熟。因為生到淨土就是阿惟越致菩薩,這根熟,這是淨宗無比殊勝。所以淨宗這個法門稱為寶印,有道理!
迷いが深い人には、その人が悪を断って善を修めるのを助けます。迷いの深い人には、菩薩も迷っているかのようにします。そうすることでその人と意思の疎通ができます。迷いが浅い人には、その人が迷いを破って悟りを開くのを助けます。機根が熟した人には、その人が明心見性するのを助けます。
浄土の機根が熟した人は、先ほど話したように、信じることができ、願うことができ、持名することができます。その人が念仏して浄土に往生するのを助けます。これは機根が熟しています。
なぜなら浄土に生まれれば阿惟越致菩薩【注1】になるからです。これは機根が熟しています。これは浄宗のこの上なく殊勝なところです。ですから浄宗法門を宝印と称するのには、道理があります!

<脚注>
阿惟越致菩薩(あゆいおっちぼさつ)・・・・阿惟越致は無退・不退・不退転の意。阿惟越致の位に達すれば仏になることが定まり、再び菩薩以下の境界に退転することはなくなるとされる。念仏して往生すると、阿弥陀仏の願力の助けを借りて、この菩薩の境界に達することができるという。
 <参考>
 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%98%BF%E6%AF%98%E8%B7%8B%E8%87%B4

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