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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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貪りはあらゆる煩悩の根本である

2014-09-11 | 【仏陀の教育】


貪是所有煩惱的根本 貪りはあらゆる煩悩の根本である
文摘恭錄—淨土大經科註(第三七三集)2012/6/11 檔名:02-037-0373

「菩薩道者,圓滿自利利他而成佛果之菩薩大行(即六度)名為菩薩道,亦即菩薩行」。這一句理事都深廣沒有邊際,修學大乘應該在這上特別留意。菩薩道是自利、利他、成佛,這就是大道。六度第一個是布施,布施的目的是破根本煩惱,就是慳貪。煩惱很多,歸納起來不外乎貪瞋痴,這就包括盡了,貪瞋痴再歸納就是一個貪字。
菩薩道者,圓滿自利利他而成佛果之菩薩大行(即六度)名為菩薩道,亦即菩薩行」(菩薩道は、円満なる自利利他【注1】にして、而も仏果を成す菩薩大行(即ち六度【注2】)なり。名づけて菩薩道、亦(ま)た即ち菩薩行と為す)。この一句の理(真理)、事(諸々の現象)は広くて深く、際限がありません。大乗を修学するなら、ここおいて特に留意しなければなりません。菩薩道は自利、利他、仏に成ることです。これが大道です。六度の一つ目は布施(ふせ:施しをすること)です。布施の目的は根本煩悩を破ることであり、それは慳貪(けんどん:物惜しみをすること)です。煩悩にはたくさんありますが、帰納すれば貪瞋痴(とんじんち:貪り、怒り、愚かな迷い)に他なりません。これにすべて包括されます。貪瞋痴を更に帰納すれば、正に「貪」の一字なのです。

他貪,他都能得到,他就不會發脾氣,就不會有瞋恚;貪不到,貪當中有障礙,瞋恚心就生起來,愚痴也就起來了。所以,貪是所有煩惱的根本。這個東西就跟大夫治病一樣,這是病根,最嚴重的病根,只要把它治好了,其他的病都好治,這是要命的病。今天社會動亂,災難這麼多,實際上就是這個字所造的罪業,感召來的,佛用布施來對治。
人が貪ってすべて得られれば、癇癪を起こさず、瞋恚(しんに:怒り)を起こすこともありません。貪って得られなければ、貪りの中に障碍が生じて、瞋恚の心が起こります。愚痴(ぐち:愚かな迷い)も起こります。ですから、貪りはあらゆる煩悩の根本です。これは医者が病を治すのと同じです。これは病根です。最も深刻な病根です。それをしっかりと治してこそ、その他の病も治るのです。これは命に関わる病です。今日社会は乱れ、これほど多くの災難がありますが、実際には正にこの字(貪)による罪業であり、感応によって招いたものなのです。仏は布施を用いて退治します。

<注>
1.自利利他
(じりりた)・・・・自分を高める修行と、他者を救済する行いのこと。
2.六度(ろくど)・・・・菩薩が涅槃に至るための六つの徳目。六波羅蜜(ろくはらみつ)。
  布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧(般若)。

仏法の説く根本煩悩(貪瞋痴)と自然界の感応
  <煩悩>      <感応>   <災害>
 (貪り、貪欲)・・・・・  ・・・・・ 水害、洪水
 (怒り、癇癪)・・・・・  ・・・・・ 火災、温暖化、火山の噴火
 (愚かさ、無知)・・・  ・・・・・ 風災、竜巻

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自分の境地を高める、唯一の頼りは戒律である

2014-09-06 | 【仏陀の教育】


提升自己的境界,唯一的依靠是戒律 自分の境地を高める、唯一の頼りは戒律である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第三OO集)2011/2/24 檔名:02-039-0300

「《涅槃經卅一》云:戒亦一切善法梯橙」。梯是樓梯,上樓要用樓梯,橙在此地也是樓梯的意思,墊腳的,我們今天講台階,一階比一階高。階是什麼?是一切善法的樓梯,一切善法是登樓,你要登樓你必須要有樓梯。換句話說,我們要提升自己的境界,唯一的依靠就是戒律。離開戒律你用什麼方法提升境界?《華嚴經》上告訴我們,菩薩是五十二個階級,十信、十住、十行、十迴向、十地,五十個,上面還有等覺、妙覺,五十二個階級。這五十二個階級憑什麼上去?全憑戒律。這個話早年章嘉大師教我的,因為我學佛,是從學術進去的,換句話說,從解門,不是從行門。跟方老師研究哲學,把佛經當作哲學來看待,所以沒有行門。
《涅槃經卅一》云:戒亦一切善法梯橙」(『涅槃経』三十一に云ふ。戒は亦た一切善法の梯橙なり)。「」は階段です。上にあがるには階段を使わなければなりません。「」はここではやはり階段の意味です。足で踏むものです。私たちが今日言うところの段階です。一段一段高くなります。「階」とは何でしょう?一切の善法の階段です。一切の善法は高殿に登るためのものです。高殿に登るためには階段がなければなりません。言い換えれば、私たちは自分の境地を高めたければ、唯一の頼りは戒律なのです。戒律を離れて、あなたは何の方法で境地を高めるのでしょうか?『華厳経』に説かれています。菩薩は五十二位の階級があります。十信、十住、十行、十廻向、十地の五十。上には更に等覚、妙覚があり、五十二位の階級です。この五十二位の階級は何によって上にあがるのでしょうか?すべて戒律によります。この話はかつて章嘉大師が私に教えて下さったことです。私は仏法の学習は学術から入りました。言い換えれば、「解門」(経文を解釈する門)からであり、「行門」(実際に修行する門)から入ったのではありません。方老師について哲学を研究し、仏経を哲学と見なしていたのです。ですから「行門」ではありません。

章嘉大師著急,但是也沒有辦法直接叫我從戒律上進修,在當時那個狀態下,我不會接受的,而且我認為什麼?那是迷信。同時對於戒律產生很嚴重的誤解,戒律是什麼?戒律是生活規範,釋迦牟尼佛定的,那是三千年前古印度人的生活規範,我們學佛還得回到三千年前,還要去做印度人,這講不通!你看我一套歪理。所以章嘉大師就很困難,但是他有善巧方便,我每次去看他,他老人家一定,我離開的時候他會送我到門口,送我到門口他會講一句話,「戒律很重要」。就這一句話,這句話我聽了大概幾十遍,所以印象特深。你看輕描淡寫,很輕的,大概別人都聽不到,他送我出門,我跟他靠得很近。
章嘉大師は気をもんでいました。しかし私に直接戒律から修めさせることもできませんでした。当時の状況では、私は受け入れられませんでした。しかも私はどう思っていたでしょうか?それは迷信だと思っていました。同時に戒律に対する重大な誤解がありました。戒律は何だと思っていたでしょうか?戒律は生活の規範であり、釈迦牟尼仏が定めたものですが、それは三千年前の古代インド人の生活規範です。私たちが仏法を学ぶのに、三千年前に戻ってインド人のようにしなければならないというのは、話が通りません!私には(このような)間違った理屈がありました。ですから章嘉大師は困難でした。しかし大師には善巧方便がありました。毎回大師にお会いして、私がおいとまする時、大師は必ず私を玄関まで送って下さいました。私を玄関まで送ると、「戒律は重要です」と一言話されました。この一言だけです。この言葉はおそらく数十回も聞きました。ですから特に深い印象があります。あっさりと、とても軽く話され、他の人には聞こえません。大師が私を送って玄関を出る時、私と大師はとても近くにいました。

所以他往生了,他往生是特別建了一個火化爐,不是跟一般人一起,特別建造的一個火化爐,甘珠活佛主持他的葬禮。火化之後,我們就在火葬場,他火葬場是特別的地方,不是一般的火葬場,是一個寺廟後面的院子。搭了帳篷,甘珠活佛他們在帳篷住了大概十天,我在帳篷住三天,那時候我還有工作請了三天假,守靈守三天。守三天當中我天天想,我跟章嘉大師三年,他教了我些什麼?印象最深刻的,教我「戒律很重要」。
大師が往生されると、特別に火葬炉を建てました。一般の人と一緒ではありません。特別に火葬炉を建てて、甘珠活仏が大師の葬儀を取り仕切りました。火葬した後、私たちは火葬場にいました。大師の火葬場は特別な場所で、普通の火葬場ではありません。寺院の後ろの中庭です。テントを建てて、甘珠活仏たちは約十日間泊まりました。私はテントに三日間泊まりました。その頃私は仕事をしていて、三日間休暇をとっていました。三日間お通夜をしました。三日間私は毎日考えていました。私が章嘉大師について三年、大師は私に何を教えて下さったのでしょうか?最も印象深いのは、私に「戒律は重要です」と教えて下さったことでした。

我就認真思考,為什麼他要說這句話說這麼多遍?他沒有勉強我。我終於想通了,世間法跟出世間法不一樣,世間法的禮,我原先把它當世間法看,看錯了,世間法的禮三代就不相同,夏商周。它是什麼?隨著時代、隨著人的生活習慣而修訂的。好像國家的憲法隔幾年要修訂一次,不修訂不適用,社會產生變化了。佛這是出世間法,是要超越六道輪迴、超越十法界的,它不能變,它一變就出不去,就超不出去。我就在這個基礎上,肯定了戒律是聖賢法,你要想做聖人、賢人,一定要這麼幹法,它不是普通東西,它不能變更的,所以才肯定了戒律是不能變更的。
私は真剣に考えました。なぜ大師はこの言葉を何度も話されたのでしょうか?大師は私に無理強いはしませんでした。私はようやく分かりました。「世間の法」と「出世間の法」(世間を超越する法)は異なります。それまで私は仏法を世間の法として見ていました。見間違えていました。世間の法の礼は三代で変わってしまいます。夏、商、周。世間の礼とは何でしょうか?時代に従い、人の生活習慣に従って改定されるものです。ちょうど国家の憲法が数年に一度改定され、改定しなければ適用できなくなるようなものです。社会には変化が生じます。仏のものは出世間の法であり、六道輪廻を超越し、十法界を超越するものです。それを変えることはできません。それを一たび変えれば出られなくなります。超越できなくなります。私はこれを基にして、戒律は聖賢の法だということを認めました。あなたが聖人、賢人になりたければ、必ずこの方法でなければなりません。それは普通のものではありません。それは変更することはできません。戒律は変えることが出来ないということを、ようやく認めたのです。

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智慧が開けば自然に博学多聞になる

2014-08-03 | 【仏陀の教育】


智慧開了自然廣學多聞智慧が開けば自然に博学多聞になる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五七七集)2011/9/4 檔名:02-039-0577

大乘經論,古大有很多註解,可以跟一個人學,也可以跟許多人一起學。但是你次第要知道,首先一定是跟一個人學。為什麼?因為佛法是求智慧,不是知識。集合許多人在一起廣學多聞,這是知識,不開智慧,這個一定要知道。學一家之言,那會開智慧,為什麼?他心是定的,他守規矩,不亂來。三、四年,一般中等根性的人,三、四年他就得三昧。
大乗経論には、古の大徳の註解がたくさんあります。一人に学ぶことも出来ます。また多くの人に同時に学ぶことも出来ます。しかし、順序を知っておかなければなりません。最初は必ず一人に学びます。なぜでしょう?仏法は智慧を求めるものです。知識ではありません。多くの人のものを集めて同時にあれこれ学ぶのは知識です。智慧は開きません。これは必ず知っておかなければなりません。ある一人の言葉に学ぶなら、智慧は開きます。なぜでしょう?その人の心は定まります。規範を守り、無茶なことはしません。一般の中くらいの根性(資質)の人は、三、四年で三昧を得ます。

我們學《無量壽經》得的是念佛三昧,如果你學《金剛般若》,你就得金剛三味,你學《法華經》就得法華三昧,學《華嚴經》就是華嚴三昧。三昧是得定,得到定之後,應該也在三、四年之間就開悟了,不能大徹大悟也應該是大悟,智慧開了。
私たちが『無量寿経』を学んで得られるのは念仏三昧です。もし『金剛般若経』を学ぶなら金剛三昧を得ます。『法華経』を学ぶなら法華三昧、『華厳経』を学ぶなら華厳三昧です。三昧は定(じょう)を得ることです。定を得た後、三、四年の間には開悟するはずです。大徹大悟を得られなくても、大悟するはずです。智慧が開きます。

智慧開了之後我們再廣學多聞,廣學多聞怎麼廣學?還是一門。譬如學《無量壽經》,像念老他能夠把經論、祖師大有關於能夠解釋經文的統統都搜集起來,這就是廣學多聞,給我們做最好的例子。總而言之,專攻、廣學都是一條路、一個目標,他才能成功。不是學很多經典,那就學亂了。
智慧が開いた後、私たちは再び博学多聞になります。博学多聞はどのように博学になるでしょうか?やはり一つの門です。例えば『無量寿経』を学ぶなら、ちょうど黄念祖さんが経論、祖師大徳の経文の解釈に関する物を探し集めたように、これが博学多聞です。一番良い例を見せてくれました。総じて言えば、専攻も博学もすべて一つの道、一つの目標であれば、その人は成功します。多くの経典を学ぶのではありません。それは乱読です。

那些很多經典要不要學習?給諸位說,不要。那些經典是不是都能通達?都能。為什麼?一部經通了,一切經全通。這是真的,不是假的。你要不相信你去讀《六祖壇經》,六祖是個什麼樣的人?沒有念過書,不認識字。你要是想學佛學,他一堂課沒聽過。
それらの多くの経典は学ばなければならないのでしょうか?皆さんに言っておきます。必要ありません。それらの経典に通達することはできるでしょうか?すべてできます。なぜでしょう?一つの経に通じれば、一切の経に通じます。これは本当です。嘘ではありません。あなたがもし信じられないのであれば『六祖壇経』を読んで下さい。六祖はどのような人でしょうか?書物を読んだことがなく、字も知りませんでした。あなたが仏教を学びたいと思うなら、彼は一度も講義を聴いたことはありません。

黃梅雖然住了八個月,講堂一次都沒去過,禪堂也一次都沒去過,沒有坐過一支香的禪,沒有在講堂聽一次經,你看看,五祖把衣缽傳給他。那是什麼?他一生就聽一次經,五祖給他講《金剛經》大意。肯定沒有經本,因為他不認識字,他不需要經本,也就給他講《金剛經》大意。講到大概四分之一,也就是這樣的,講到「應無所住,而生其心」,他開悟了。開悟之後他就通了,五祖就不講了,為什麼?不需要講,後面全知道了。
黄梅(おうばい、湖北省黄梅県)に八箇月滞在して、講堂には一度も行ったことはありません。禅堂にも一度も行っていません。線香一本の禅も座ったことはありません。講堂で経を聴いたことも一度もありません。どうでしょうか。五祖は衣鉢を彼に伝えました。それは何でしょう?彼は一生で初めて経を聴きました。五祖は『金剛経』の大意を講じました。間違いなく経本はありません。彼は字が読めないので、経本は必要ありません。それで『金剛経』の大意を講じました。だいたい四分の一、「応無所住,而生其心」(応(まさ)に住する所無くして、しかも 其の心を生ずべし)まで講じると、彼は開悟しました。開悟した後、彼は通じました。五祖はもう講じません。なぜでしょう?講じる必要はありません。その先はすべて分かっています。

不是《金剛經》呢?你看他在逃難路上遇到無盡藏比丘尼,無盡藏比丘尼一生受持《大涅盤經》,每天讀誦,也念得很熟。她在那裏念經,惠能大師在旁邊聽,諸位要記住,惠能大師那年二十四歲。他在旁邊聽,等她念完之後,惠能大師找這個比丘尼跟她講《涅盤經》。妳剛才念的那個我聽到了,那是什麼意思,意義講給她聽。
『金剛経』でない場合はどうでしょうか?彼は難を逃れる途中で無尽蔵比丘尼に遇います。無尽蔵比丘尼は一生『大涅槃経』を学んでいました。毎日読経して、念じるのに習熟していました。彼女がそこで経を念じていると、慧能大師は傍で聴いていました。皆さん覚えておいて下さい。慧能大師はその年二十四歳です。彼は傍で聴いていて、彼女が念じ終わるのを待って、慧能大師はこの比丘尼に『大涅槃経』を講じました。彼女が先ほど念じたのを聴いて、それはどのような意味なのか、彼女に説いて聴かせました。

她大吃一驚:你怎麼講得這麼好!捧著經本向他請教。他告訴她,我不認識字。不認識字你為什麼講得這麼好?這個與認不認識字不相干。換句話說,與講堂聽課不相干。與什麼相干?放下相干。能大師在方丈室聽五祖講《金剛經》,真的把妄想分別執著統統放下,用什麼聽?用真心聽。
彼女は大変驚きました。なぜこれほど素晴らしく説けるのでしょうか!経本を持って彼に教えを請いました。彼は彼女に、私は字が読めないと言いました。字が読めないのにどうしてこれほど素晴らしく説けるのでしょうか?これは字が読めるかどうかは関係ありません。言い換えれば、講堂で講義を聴くこととは関係ありません。何と関係があるのでしょうか?放下することと関係があります。慧能大師は方丈室で五祖が講じる『金剛経』を聴いて、本当に妄想、分別、執着をすべて放下したのです。何をもって聴くのでしょうか?真心をもって聴きます。

我們今天用什麼心?用妄心聽,分別心、執著心,用這個聽,所以你不開悟。用真心聽那就不一樣了,聲聲流入自性,這一觸動,立刻就大徹大悟。所以這個道理我們要懂,真正懂了之後,我們就會把廣學多聞放下。廣學多聞實際上很有限,開悟了是無限,開悟之後什麼都懂得了。再告訴你,經典完全懂了,世間法也懂了,中國的懂了,外國的也懂了。
私たちは今日どのような心でしょうか?妄心をもって聴いています。分別心、執着心、これを用いて聴いています。ですから開悟しません。真心をもって聴けば同じではありません。どの言葉もすべて自性に流れ込み、これに一たび触れれば、すぐに大徹大悟します。この道理を理解しなければなりません。本当に理解した後、私たちは博学多聞を放下します。博学多聞は実際には有限です。開悟すれば無限です。開悟した後では何でも理解しています。言い直すなら、経典を完全に理解しています。世間の法も理解しています。中国のものを理解しています。外国のものも理解しています。

你可不能瞧不起惠能,外國東西,科學他懂不懂?他沒有一樣不懂。為什麼?一切法不離自性。世出世間一切法,唯心所現,唯識所變,他只要一徹悟,見了性,心性所變現他怎麼會不知道?哪有這個道理!沒人問他,他不說,你要問他他都給你講,沒有不知道的。這是佛法學習的終極目標。
慧能を侮ることはできません。彼は外国のもの、科学を理解できるでしょうか?彼が理解しないものは一つとしてありません。なぜでしょう?一切の法は自性【注】を離れません。世間、出世間一切の法は、心によって現れ、意識によって変化します。透徹して悟り、見性すれば、心性が変化して現れたものを知らないことがあるでしょうか?そのような道理はありません!問い掛ける人がいなければ、彼は話しません。問い掛けさえすれば彼はすべて話してくれます。知らないことはありません。これは仏法学習の究極の目標です。
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 【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)、真心のこと。本来具えている性質。
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一人の仏が世に出れば、千の仏が擁護する

2014-08-01 | 【仏陀の教育】


一佛出世,千佛擁護一人の仏が世に出れば、千の仏が擁護する
文摘恭錄—淨土大經解演義(第八十九集)2010/7/26 檔名:02-039-0089

所以凡夫成佛真的是一念之間,在中國禪宗六祖惠能,遍達佛法是在二十四歲,舍利弗十六歲。世尊在大乘經裡面,也把他的身分暴露,他是古佛再來,跟目犍連這兩位都已經成佛,是到這個世間來示現的,示現為釋迦牟尼佛的聲聞弟子。這是法身大士們、諸佛如來,應以什麼身得度就現什麼身,他們這是一幫人來的,叫「一佛出世,千佛擁護」,在這裡我們能看到。佛法裡這些覺悟的人,他們沒有好高騖遠的念頭,沒有妒嫉障礙,釋迦牟尼佛他的法緣成熟,到這個世間來以佛的身分出現,他出現一個人能不能度得了眾生?這時候度不了。一定要很多人跟他配合,來幫助他,什麼人幫助他?一定得內行的,外行的人幫不上忙。這些人絕大多數是諸佛如來,少數法身菩薩,法身菩薩都是地上菩薩。
ですから凡夫が仏に成るのは本当に一念の間です。中国では、禅宗六祖の慧能(えのう)は、仏法に通じたのは二十四歳です。舎利弗(しゃりほつ)は十六歳です。世尊は大乗経において、彼の身分を明かしています。彼は古仏の再来です。目犍連(もくけんれん)と彼は、すでに仏に成っていました。この世間に来て示現したのです。釈迦牟尼仏の声聞の弟子として示現しました。これは法身大士たち、諸仏如来です。どの身分で済度するかによって自在に現れます。彼らは仲間として来たのです。これを「一仏出世,千仏擁護」(一人の仏が世に出れば、千の仏が擁護する)と言い、私たちはこの中に見ることが出来ます。
仏法の中のこれらの覚った人は、高遠な理想を求めることもなく、嫉妬の障碍もありません。釈迦牟尼仏は法縁が熟すと、この世間に来て仏の身分で現れました。彼が一人で現れて、衆生を救うことができるでしょうか?それでは救えません。必ず多くの人が彼に協力しなければなりません。彼を助けに来るのは、どのような人でしょうか?必ず精通した人でなければなりません。門外漢では助けられません。これらの人は大多数が諸仏如来です。少数の法身菩薩がいます。法身菩薩はすべて「地上の菩薩」【注】です。
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 【注】 地上の菩薩・・・・菩薩の修行の過程は、智慧と修行の深浅によって、「地前の菩薩」「地上の菩薩」の二つの段階に分けられるという。典拠は『華厳経』。(下記サイトを参照した)
 http://homepage3.nifty.com/huayan/doctrine/jiewei.htm
 http://www.hkbuddhist.org/dharma/faq_51.html
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這就是《華嚴經》上說的四十一個位次,他們是最上層的十地菩薩,不是三賢,十住、十行、十迴向叫三賢,三賢菩薩無始無明的習氣還濃。十地菩薩很薄了,距離究竟圓滿的果位妙覺位愈來愈近,這些人。我們明瞭,經上說得很詳細,初住菩薩示現在六道、在十法界,就有能力示現三十二相八十種好,在六道裡面示現佛身普度眾生。釋迦牟尼佛示現佛身,六祖惠能大師示現比丘身,舍利弗尊者在這個地方也是示現比丘身。這個我們要知道,我們要學習,要有個很歡喜的心,清淨心、平等心成人之美,人家做一樁好事需要跑龍套的,需要服務的,看到沒有人,我們就得去。還有示現為國王大臣、長者居士,外護,這一群人不是凡人。
これは『華厳経』に説かれている四十一位です。彼らは最も上層の十地菩薩です。三賢ではありません。十住、十行、十廻向を三賢と言います。三賢の菩薩は無始無明の習気(じっけ)がまだ濃く残っています。十地菩薩は薄くなっています。究極円満の果位である妙覚の位に近づいています。これらの人です。経典には詳細に説かれています。初住菩薩は六道、十法界に示現すると、三十二相八十種好を示現する能力があります。六道の中では仏身を示現して衆生を済度します。釈迦牟尼仏は仏身を示現されました。六祖慧能大師は比丘身を示現されました。舎利弗尊者も比丘身を示現されました。これは私たちは知っておかなければなりません。学ばなければなりません。歓喜の心、清浄心、平等心をもって他人の善事を助けることです。人が善事を成し遂げるには端役が必要なのです。奉仕する人が必要です。助ける人がいないと見れば、私たちは行かなければなりません。他にも国王、大臣、長者、居士、外護(げご、仏教を保護する俗人)に示現する者もあります。これらの人は凡人ではありません。

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淫欲を慎む

2014-07-31 | 【仏陀の教育】

淫欲有三種過 / 淫欲に三種の過あり
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/cc5b84df120e52d97d32b9ffeeb4760c

1.苦而似楽故。
 苦しみは喜びに似ている。

2.少味多災故。
 少し味わえば多くの災いがある。

3.不浄似浄故。
 不浄であるのにまるで清らかであるかのようである。

歷史上,古今中外,因淫欲,殺身、家破、國亡,不知道有多少例子,古今中外皆然。
歴史上、古今東西、淫欲によって人を殺し、家を没落させ、国を滅ぼす、そのような事例は数え切れません。古今東西、皆そうです。


生死根本,淫欲是第一 / 生死の根本は、淫欲が第一である
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/5809fb7d408a4d1e2215eebc3c46dc0d

『沙彌律儀』曰:
『沙弥律儀』に曰く。

在家五戒,惟制邪婬。
在家の五戒は、ただ邪淫を制することにあるのである。

出家十戒,全断婬欲。
出家の十戒は、全て淫欲を断つことにあるのである。


生死根本,欲為第一 / 生死の根本は、欲を第一と為す
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/0fcd91ec2ab2eba790a0fa8e9ca2b05f

婬為枷鎖,縛衆生故;
「婬」(淫欲)を「首かせ」とするのは、衆生を縛るからである。

婬為罪源,生諸厄故。
「婬」(淫欲)を罪悪の根源とするのは、諸々の厄(わざわい)を生むからである。

一切衆生皆因婬欲而入生死,
一切の衆生は皆、淫欲によって生死(の輪廻)に入るのである。

故云:生死根本,欲為第一
故に言う。生死の根本は、欲を第一と為す、と。

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釈迦牟尼仏の法運

2014-07-30 | 【仏陀の教育】


釋迦牟尼佛的法運 / 釈迦牟尼仏の法運
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五七二集)2011/9/2 檔名:02-039-0572

釋迦牟尼佛的法運分三個時期,正法、像法、末法,末法最後就是滅法,法就滅了。這四個時期怎麼分的?《仁王經》上講得很清楚。在這個世間有人教學、有人修行、有人證果,教行果這三種都具足這叫正法;如果有教、有行,沒有證果的,那就叫像法;只有教,沒有行,也沒有果,那就叫末法;如果教都沒有了,這叫滅法。
釈迦牟尼仏の法運は三つの時期に分けられます。正法(しょうぼう)、像法(ぞうほう)、末法(まっぽう)です。末法の最後は滅法です。法が滅びます。この四つの時期はどのように分けられるのでしょうか?『仁王経』にはっきりと説かれています。この世間に教学する人がいて、修行する人がいて、証果(悟り)を得る人がいる、(教え)・(修行)・(悟り)の三つがすべて揃っている、それを正法と言います。
教えがあり、修行があり、証果を得る人がいなければ、それを像法と言います。教えだけがあり、修行がなく、証果を得る人もいない、それを末法と言います。もし教えもすべてなくなれば、それを滅法と言います。

《仁王經》上這個意思講得好。從時間上說,這大家都知道,所謂正法一千年,像法一千年,末法一萬年,這是從時間上講。在這個一千年當中,這三個字統統具足的,有教、有行、有證果的,這叫正法。第二個一千年,人的根性就不如從前,煩惱習氣重了,有教、有修行,沒證果的,這叫像法。第三個時期很長,一萬年,有教,修行證果沒有,真正修行證果沒有了,這叫末法。如果教都沒有了,也就是講經的都沒有了,這叫滅法。
『仁王経』のこの意味はよく言ったものです。時間で言えば、これは皆さんもご存知の通り、いわゆる「正法一千年、像法一千年、末法一万年」です。これは時間を講じたものです。一千年の中に、三つともすべて揃っているもの、(教え)があり、(修行)があり、証果(悟り)があるものを正法と言います。次の一千年は、人の根性(資質)は昔ほどではなくなり、煩悩の習気(じっけ)も重く、教(教え)があり、行(修行)があり、証果(悟り)を得る人がいない、これを像法と言います。三つ目の時期は長く、一万年です。教(教え)があり、行(修行)も証果(悟り)もありません。本当に修行して悟る人はいなくなります。これを末法と言います。もし教えもなくなり、講経(こうきょう=説法)する人も皆いなくなれば、それを滅法と言います。

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吉凶禍福はすべて自分の手中にある

2014-07-26 | 【仏陀の教育】


吉凶禍福都掌握在自己的手中 / 吉凶禍福はすべて自分の手中にある
文摘恭錄—淨土大經科註(第三0五集)2012/4/23 檔名:02-037-0305

諸佛菩薩定功深厚,成佛回歸到自性本定,所以他有能力見到遍法界虛空界過去、未來。李老師告訴我,凡是從術數上推演的,不完全可靠,定功所見到的那是現量境界,幾十年以後、幾百年以後、幾千年以後,他在定中看到的,這是真的,不是假的。會不會變?會變。怎麼會變?因為一切法它不是定法,它是現在我們知道,是隨著人念頭在變。
諸仏菩薩の定功(禅定の技量)は深く、仏に成れば自性本定に回帰します。ですから彼は遍法界虚空界【注】、過去、未来を見る能力があります。李老師は仰いました。およそ占術から推断し演繹したものは、完全には当てになりません。禅定によって見えるものは、直接知覚された境界です。数十年後、数百年後、数千年後のことを、その人が定(じょう)の中で見たものです。それは本当です。嘘ではありません。変わるでしょうか?変わります。どうして変わるのでしょうか?一切の法は決まり切った法ではありません。今私たちはそれを知っています。人の意念に従って変化しているのです。
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 【注】 遍法界虚空界(へんほっかい、こくうかい)・・・・因果に支配される全宇宙(法界)と、それを超越した根源的な真如の世界(虚空界)のこと。
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他在定功所看到的,是我們今天這種因,今天以前的因他看得很清楚,後面所感的果報就很清楚。可是我們明天呢?明白這個道理了,斷惡修善,他今天看到的,你明後年有災難。明年斷惡修善,他會告訴你,你這個災難免了,消掉了。它有變化的!這個道理佛經上講得很透徹,所以我們要細細的去思惟、去觀察。
その人が禅定の中で見たものは、今日このような因があり、今日以前の因がはっきり見えるので、後で感応する果報がはっきりしているのです。しかし明日はどうでしょうか?この道理を理解して、悪を断ち、善を修めます。その人は今日、来年・再来年にあなたに災難があるのが見えます。しかし来年に悪を断って善を修めていれば、その人は「この災難は無くなりました。消えてしまいました」と言うことでしょう。それは変化するのです!この道理は仏経に透徹して説かれています。ですから私たちは注意深く考え、観察しなければなりません。

所有一切現象全是動的,它不是靜的;靜的,永恆不變,只有自性。菩薩法也不是一定的,菩薩修行有勤有惰,就是有精進的,有懈怠一點的。精進的那一帆風順,他沒有障礙,如果有懈怠,他肯定也有障難現前,不過這些障難都可以突破。這些我們能夠理解的。
あらゆる一切の現象はすべて「動」です。「静」ではありません。「静」は永久不変であり、自性しかありません。菩薩の法も決まったものではありません。菩薩の修行には励む時と怠ける時とがあります。つまり精進する時もあれば、少々怠ける時もあります。精進していれば順風満帆で、障碍はありません。もし怠けていれば、必ず障碍が目の前に現れます。しかしこれらの障碍はすべて突破することが出来ます。これらは私たちが理解できるものです。

所以真有這個能力,見到後世,後世的業報可以預知。法國的預言家諾查丹瑪斯,這世界聞名,他的預言,後世的預言,幾十年、幾百年,真兌現了。古老的馬雅預言也非常靈驗。但是我們一定要曉得,那就是念頭隨時隨處它會變化,所以事實真相也隨著念頭變化。
ですから本当にこの能力があれば、後世が見え、後世の業報【注】を予知することができます。フランスの予言者ノストラダムスは世界的に有名です。彼の予言、後世の予言は、数十年、数百年、本当に当たっています。古いマヤの予言も非常に霊験があります。しかし私たちは必ず理解しておかなければなりません。それはつまり、意念はいつでもどこでも変化しているということです。ですから事実の真相も意念に従って変化しています。
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 【注】 業報(ごうほう)・・・・前世や過去におこなった善悪の行為による報い。
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念頭變化不大,這個預言就非常準確;念頭變化很大,這個預言就不可靠,就完全不準確。由此可知,人生一世、十世、百世,所謂千年萬世,吉凶禍福都掌握在自己的手中,不在別人,這個道理不能不知道。所有一切不善都是不善的心行所感應的,一切的善果是一切善因所感得的。
意念の変化が大きくなければ、この予言は非常に正確でしょう。意念の変化が大きければ、この予言は当てにはなりません。完全に不正確になります。このことから分かるのは、人生一世、十世、百世、いわゆる千年万世、吉凶禍福はすべて自分の手中にあるということです。他人にあるのではありません。この道理は知っておかなければなりません。あらゆる一切の不善は、すべて不善の心行(しんぎょう)に感応したものです。一切の善果は、一切の善因に感応したものなのです。

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真我を取り戻す

2014-07-25 | 【仏陀の教育】


把真我找回來 / 真我(しんが)を取り戻す
文摘恭錄—淨土大經解演義(第八集)2010/4/12 檔名:02-039-0008

我,六祖惠能大師開悟的時候說出來,我是什麼?自性是我。這是佛法說的,自性是我,要隨俗講,隨俗講就不能叫靈魂,叫靈性。魂不靈,魂要靈,你到世間來投胎一定會選大富大貴人家,那個日子多舒服,你要投胎到貧窮人家去,那不是錯了嗎?迷,不悟,他不覺。所以夫子說得好,夫子在《易經.繫辭傳》裡面講「遊魂為變,精氣為物」,這兩句話說得好!鬼魂速度很快,動盪不止,他定不住,速度很快,真的他是遊魂,這說得很有道理。在佛法裡面說迷魂,他迷了,迷而不覺,那個是自己,實在講就是佛家講阿耶識,阿耶識是迷,覺了就不叫阿耶識,叫自性,叫法性。一樁事,迷悟不同的名號。
我について、六祖慧能大師は開悟された時に話されました。我(自分)とは何でしょう?自性【注】が我(自分)です。これは仏法が説いているものです。自性が自分です。世間に合わせて言うなら、霊魂と言うことはできません。霊性と言います。魂は自在ではありません。魂が自在であるなら、あなたは世間に来て母胎に入るのに、必ず裕福な家を選んで、快適な暮らしをするはずです。あなたが貧しい家の母胎に入ったなら、それは誤りなのでしょうか?迷いです。その人は覚っていません。ですから孔夫子は良いことを言っています。夫子は『易経』の「繋辞伝」(けいじでん)の中で、「精気為物,遊魂為変」(精気は物を為し、遊魂は変を為す)と説かれています。これは良い言葉です!鬼魂の速度はとても速く、動揺して留まることがなく、落ち着きません。速度はとても速いものです。本当にそれは遊魂と言うべきもので、この言い方には道理があります。仏法の中では迷魂と言います。その人は迷っています。迷って覚らず。それが自分です。実のところこれが仏家の説く阿頼耶識です。阿頼耶識は迷いであり、覚れば阿頼耶識とは言いません。自性と言い、法性と言います。一つの事ですが、迷いと覚りとで名称が異なります。

我們凡夫跟佛一個性,一個自性,一個靈性,絲毫差別都沒有。我們在賢首國師的《妄盡還源觀》裡面得到這個信息,他老人家跟我們講得很詳細,講得非常的精彩。我們學了之後,雖然沒有證悟,有解悟,我們明白這個事實真相,佛菩薩、祖師決定不會欺騙我們,我們對他要有堅定的信心。我們學佛沒有別的,就是把它找回來,把自己的本來面目找回來。所以他論文的題目「妄盡還源」,還源就找回來,把真的我找回來。
私たち凡夫は仏と一つの性(しょう)、一つの自性、一つの霊性であり、寸分も違うことはありません。私たちは賢首国師の『妄尽還源観』の中にこの情報を得ることが出来ます。ご老人(賢首国師)は詳細に説かれており、非常に精彩を放っています。私たちは学んだ後で、たとえ証悟(悟りを開くこと)していなくても、解悟(悟りを理解すること)することはできます。この事実の真相を理解します。仏菩薩、祖師は絶対に私たちを騙したりしません。私たちは固い信念を持たなければなりません。私たちが仏法を学ぶのは他でもありません。それを取り戻すことです。自己本来の面目を取り戻すことです。ですから彼の論文の題目は「妄尽還源」(妄を尽くして源に還る)です。「還源」とは取り戻すこと、真の自己を取り戻すことです。

<注>
自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。

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和尚

2014-07-21 | 【仏陀の教育】


和尚 / 和尚
文摘恭錄—淨土大經科註(第一一三集)2011/12/31 檔名:02-037-0113

釋迦牟尼佛的佛教是教育,這要搞清楚。我們從一般習慣上,這些痕跡都還在,非常明顯。你看佛門弟子對釋迦牟尼佛的稱呼,稱本師,本師是根本的老師,這個教育最初的創辦人,稱他為本師。自稱為弟子,我跟釋迦牟尼什麼關係?師生關係,師生關係學校才有。
釈迦牟尼仏の仏教は教育です。これをはっきりさせなければなりません。私たちの一般的な習慣に、それらの痕跡が残っています。非常に明らかです。仏門の弟子の釈迦牟尼仏に対する呼称は、本師と言います。本師とは根本の老師ということです。この教育の最初の創始者のことを本師と言います。自分のことを弟子と言います。自分と釈迦牟尼との関係は何でしょうか?師弟関係です。師弟関係は学校にあるものです。

在中國,社會大眾看到出家人稱和尚,和尚什麼意思他不知道,他要知道他決定不會稱他和尚。為什麼?太尊重他了,跟他沒有這個關係。和尚是印度話,翻成中國意思是親教師。這個佛門裡,他親自教我的,我跟他學的,這個關係才稱和尚,沒有這個關係不稱和尚。像現在學校裡,指導教授稱和尚,校長稱和尚,不是隨便稱的。
中国では、社会の大衆は出家僧を見ると和尚と言います。和尚とはどういう意味なのか、その人は知りません。もし知っていれば、その人は絶対に和尚とは言いません。なぜでしょう?尊重し過ぎているのです。その人とはこの関係ではありません。和尚はインドの言葉で、中国の意味に訳すと直接の教師ということです。この仏門において、その人が自ら自分に教え、自分はその人に学んでいること。この関係において和尚と言うのです。この関係がなければ和尚とは言いません。今の学校で言えば、指導教授のことを和尚と言い、校長のことを和尚と言います。好き勝手に言うものではありません。

一個寺院叢林只有一個和尚,和尚是什麼?校長是和尚,這個寺廟住持是和尚,別人不能稱。和尚是主持教育的,他不講經教學沒有關係,別人代他教,他像校長一樣,他可以不上課。課程是他安排的,老師是他請的,他可以請老師代他來上課,學生學些什麼全是他安排的。
一つの寺院には一人だけ和尚がいます。和尚とは何でしょう?校長が和尚です。この寺院の住持が和尚です。他の人に呼ぶことはできません。和尚は教育を主宰します。彼が講経、教学しなくても関係ありません。他の人が彼に代わって教えます。彼は校長と同じようなものです。彼は授業をしなくても良いのです。課程は彼が割り振ります。老師は彼が要請した人です。彼は老師に頼んで代わりに講義をしてもらうことが出来ます。学生が学ぶことは彼がすべて手配します。

上課的老師只管執行教學,不管教學的計畫,他不管這個東西。教員你叫他上哪一門課,他就上哪一門課,把這一門課上好就完了。你要學些什麼東西,那是校長給你安排的,所以校長稱和尚。沒有教過我書的,學校老師很多,稱闍梨,阿闍梨。他是我學校的老師,但是沒有上過我的課,不一樣。見到都稱和尚,太客氣了。所以都是不了解這些意思,產生很大的誤會。
講義をする老師は教学するだけで、教学の計画には関わりません。教員はどの科目を教えなさいと言われれば、その科目を教えて、その科目を教え終わればそれで終わりです。何を学ぶかは校長が手配します。ですから校長のことを和尚と言います。学校には老師がたくさんいます。自分を教えていない老師のことを闍梨と言います。阿闍梨です。彼は自分の学校の老師ですが、自分の科目を教えていません。呼び方が異なります。会う人すべてに和尚と言うのは、気を遣い過ぎです。すべてはこれらの意味を理解していない為に、大きな誤解を生んでいるのです。

而且和尚不一定是出家人,在家人也能稱和尚。不但在家人,在家婦女都稱和尚。如果她是個居士,在家居士,她教你佛經,她教你修學,她就是你的和尚。在佛門裡面,和尚第一大,尊師重道。我雖然是出家佛弟子,可是教導我的是個在家居士,是位在家女居士,我對她都要稱和尚。這個都得要懂,不懂這裡頭就產生很多誤會。一剃頭,我是和尚了,貢高我慢都生起來,不但沒有功,在造罪業。所以這些是不能不知道的。
しかも和尚は出家僧とは限りません。在家の人も和尚と言うことが出来ます。在家と言うだけでなく、在家の女性も和尚と言います。もし彼女が在家の居士であれば、彼女はあなたに仏経を教えます。彼女はあなたに修学を教えます。彼女はあなたの和尚ということになります。仏門においては、和尚が一番上です。師を尊び道を重んじます。自分が出家の仏弟子であっても、指導する人が在家の居士、在家の女性の居士であれば、自分は彼女を和尚と呼ばなければなりません。これは知っておかなければなりません。知っておかなければここから多くの誤解を招きます。剃髪してすぐに自分が和尚になるのであれば、傲慢な心が生じて来ます。功徳が無くなるばかりか、罪業を造ります。ですからこれらのことは知っておかなければなりません。

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菩薩も念仏して仏に成る

2014-07-20 | 【仏陀の教育】


菩薩也要念佛成佛 / 菩薩も念仏して仏に成る
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一九三集)2010/11/12 檔名:02-039-0193

《法華》是一乘,《華嚴》是一乘。隋唐時代祖師大們公認的釋迦牟尼佛一生所說的一切經,一乘經三部,《華嚴》、《法華》、《梵網》。《梵網》沒有傳到中國來,沒有傳過來,傳過來只有一品,就是「梵網菩薩戒品」,就這一品,完整的經沒到中國來。一乘裡面還有一乘,這也是隋唐時代祖師大們發現的,這個一乘是什麼?這個一乘就是持名念佛,往生淨土。他們說出來有根據,不是隨便講的,《華嚴經》到最後,普賢菩薩十大願王導歸極樂。再看看善財童子五十三參,我們就完全明白了,善財是文殊菩薩的入室弟子,傳法的弟子,不是普通人,他所學的、所修的肯定是跟老師相同的。我們在《華嚴經》上看到,文殊、普賢都發願求生淨土,那善財還能例外嗎?所以他在文殊會上大徹大悟、明心見性,也就是證到初住的位置,這超越十法界。
『法華経』は一乗です。『華厳経』は一乗です。隋、唐時代の祖師大徳たちが認めた釈迦牟尼仏が一生で説かれた一切の経、一乗経三部は『華厳経』、『法華経』、『梵網経』です。『梵網経』は中国に伝わっていません。伝わったのは一品だけで、それが「梵網菩薩戒品」という一品です。全部揃った経は中国に伝わっていません。一乗の中には更に一乗があります。これも隋、唐時代の祖師大徳たちが発見したものです。この一乗とは何でしょう?この一乗とは持名念仏して、浄土に往生することです。彼らが説くところには根拠があり、好き勝手に説いているのではありません。『華厳経』の最後に、普賢菩薩の十大願王は極楽に導いています。更に善財童子五十三参を見れば、完全に明らかになります。善財は文殊菩薩の入室弟子です。法を伝えた弟子です。普通の人ではありません。彼が学んだもの、修めたものは間違いなく老師と同じものです。私たちは『華厳経』で見ることが出来ます。文殊、普賢はどちらも浄土に求生することを発願しています。それなら善財が例外ということがあり得るでしょうか?だから彼は文殊会で大徹大悟、明心見性したのです。初住の位を証得したのです。これは十法界を超越しています。

文殊菩薩打發他去參學,介紹他第一位善知識,吉祥雲比丘,那是初住菩薩,他沒有初住這一個等級,他就見不到初住菩薩。所以,我們看到善財參訪那個善知識他是什麼地位,就知道善財是什麼地位。吉祥雲比丘修什麼法門?修般舟三昧,專念阿彌陀佛求生極樂世界,第一個,第一個表法,中國跟古印度是相同的,所謂先入為主。再看最後第五十三位善知識,普賢菩薩十大願王導歸極樂,你看一頭一尾,不就清楚了嗎?《華嚴》到最後修什麼法門?修念佛求生淨土,這還得了,這給我們多大的啟示!
文殊菩薩は彼に参学に行かせ、最初に紹介した善知識は吉祥雲比丘です。彼は初住の菩薩です。善財が初住の等級に達していなければ、初住の菩薩に会うことはできません。ですから、私たちは善財が訪ねた善知識がどのような位(境地)なのかを見て、善財がどのような位なのかが分かります。吉祥雲比丘は何の法門を修めたのでしょうか?般舟三昧(はんじゅざんまい)を修めました。専ら阿弥陀仏を念じて極楽世界に生まれることを求めます。一つ目の法を表しています。中国ではインドと同じように、「先に入れば主と為る」と言います。最後の五十三番目の善知識を見ると、普賢菩薩の十大願王は極楽に導いています。始めと終わりを見れば、はっきりするのではないでしょうか?『華厳経』は最後に何の法門を修めるのでしょう?念仏して浄土に求生することを修めるのです。これは大変なことです。これは私たちにとって大きな啓示です!

我們這些人,我自己本身就是的,不是上根人,中下根人,自己以為自己想的都是正確的、都是對的,繞了好大的圈子,走了多少冤枉路,二、三十年之後才相信淨土法門。以前不相信,老師勸我,我不反對,但是我還是不學。我怎麼相信的?我講《華嚴經》相信的,《華嚴經》講了一半,有一天突然想到文殊、普賢修什麼法門,善財童子學什麼法門。因為我那個時候講《華嚴經》是八十跟四十同時講,一個星期講三天,兩天《八十華嚴》,一天《四十華嚴》。也講了十幾年,講了一半,突然想到這個問題,查,一查後面,看到這個經文真是寒毛直豎,怎麼文殊、普賢統統都是求生極樂世界?再細心去看善財童子。你看我講《四十》講了一半都沒有發現到,跟著古人註解講,沒有看到這個事實真相。
私たちは、私自身もそうですが、上根の人ではありません。中下根の人です。自分の考えはすべて正しいと思い込み、大きな回り道をして、疑いをかけられる道をたくさん歩いて、二、三十年後にようやく浄土法門を信じるようになったのです。以前は信じていませんでした。老師が私に勧めるので、私は反対しません。しかし私は学びませんでした。私はどのように信じたのでしょうか?私は『華厳経』を講じて信じたのです。『華厳経』を半分講じていて、ある日突然、文殊、普賢は何の法門を修め、善財童子は何の法門を学んだのかに思い至りました。私はあの頃、『華厳経』を講じるのに『八十華厳』と『四十華厳』を同時に講じていました。一週間に三日間、『八十華厳』を二日、『四十華厳』を一日講じていました。それも十数年かけて半分まで講じていました。突然この問題に思い至って、調べました。後ろの方を調べて、この経文を見て鳥肌が立ちました。どうして文殊、普賢はどちらも極楽世界を求生しているのでしょうか?もう一度注意深く善財童子を見てみました。私は『四十華厳』を半分講じても気がつかなかったのです。古人の註解に沿って講じていながら、この事実の真相が見えませんでした。

再仔細去看才明瞭,才恍然大悟,這個表法開頭是淨宗,最後終結也是淨宗,然後才完全了解當中這五十一位的參學,才懂得經文最後「戀禮辭」的意思。戀禮辭什麼意思?我參訪這個善知識,聽他報告、敘說他自己修學的法門,我完全懂得了,感謝他,這是戀。我在他這裡受教育了,我感謝他。禮辭是什麼?我不學他這個法門,還是念佛法門,一句佛號念到底,你們這些東西是八萬四千法門,我都知道,我都不學,我就是老實念佛修這個法門,辭是這個意思。才搞清楚、搞明白了,字字句句含義很深很深。所以才曉得文殊、普賢、善財原來都是一句彌陀念到底的。所以,《華嚴》、《法華》這些一乘經最後都歸到《無量壽》,《無量壽經》那是一乘裡面的一乘,我們總算把這部經搞清楚,認識它。不認識學起來有困難,認識之後就方便了,死心塌地。
もう一度注意深く見てようやく分かりました。ようやく忽然と大悟しました。この法の表現は、最初は浄土、最後の終結もまた浄土です。そしてようやく完全に理解できました。途中の五十一名の参学にそれぞれある、最後の「恋徳礼辞」(という経文)の意味が理解できました。「恋徳礼辞」とはどういう意味でしょうか?善財は善知識を訪ねて話を聴きます。善知識自身が修学した法門の話を聴き、完全に理解して、善財は彼に感謝します。これが「恋徳」です。彼のところで教育を受けたことに感謝します。「礼辞」とは何でしょうか?自分は彼の法門を学ばず、やはり念仏の法門で仏号を最後まで念じます。善知識のものは八万四千の法門です。自分はそれをすべて理解して、どれも学びません。自分は静かに念仏する法門を修めます。「」はこの意味です。ようやくはっきりしました。理解できました。一字一句に奥深い意味が含まれています。文殊、普賢、善財はすべて一句の阿弥陀仏を最後まで念じていたことがようやく理解できたのです。ですから『華厳経』、『法華経』、これらの一乗経は最後にはすべて『無量寿経』に帰ります。『無量寿経』は一乗の中の一乗です。私たちはこのお経のことが明らかになったと言えるでしょう。知らなければ学ぶのは困難です。知っておくと都合が良いもので、一生懸命になります。

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『華厳経』から浄土に導かれる

2014-07-18 | 【仏陀の教育】


從《華嚴》導歸淨土 / 『華厳経』から浄土に導かれる
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二O四集)2010/11/24 檔名:02-039-0204

雖然跟阿彌陀佛的緣很深,可是迷得也很嚴重,迷是什麼?聽到、見到了也不相信,老師勸導的時候還不相信。我就是這麼一個人,我信淨土真的好難!對這個淨宗法門原本有很深的誤會,連李老師勸我,最後勸我的話怎麼說?他說:這個法門,古來這些祖師大德,很多真正有學問、有道德、有修持,他們都信了,我們也就信一次吧!老師用這些話來勸我,我都沒有接受。
阿弥陀仏とのご縁が深くても、迷いもまた深刻です。迷いとは何でしょう?聴いても、見ても信じません。老師が導いても信じません。私は正にそのような一人でした。私にとって浄土を信じるのはとても難しいことでした!この浄宗法門に対してもともと深い誤解がありました。李老師も勧めて下さいました。最後にはどのように言って私に勧めたでしょうか?李老師は言いました。「この法門は、古来の祖師大徳や、真に学問があり、道徳があり、修行を積んだ人々が皆信じたのです。我々も一度信じてみましょう!」老師はこのような話をして私に勧めたのですが、私はそれでも受け入れませんでした。

我怎麼接受?我是從《華嚴》、《楞嚴》、《法華》裡接受的,講這些經講多了,有一天突然想起來,文殊、普賢是修什麼法門成功的?看《華嚴經》。因為《華嚴經》後面沒講到,很認真的從頭到尾再看一遍,發現了,《四十華嚴》第三十九卷,三十八卷、三十九卷就講到了,文殊、普賢是念阿彌陀佛往生西方極樂世界成就的。善財童子是文殊菩薩的得意門生,肯定跟老師是學同一個法門的。你看那個時候我也是粗心大意,《四十華嚴》講了一半,都不曉得這個事情。再回過頭來,從頭再看起,發現了,真的善財童子是跟老師走一個路子的。發現什麼?頭一個參訪的吉祥雲比丘修般舟三昧的,般舟三昧是專念阿彌陀佛求生西方淨土的,頭一個先入為主。看最後第五十三參,普賢菩薩十大願王導歸極樂,才恍然大悟,原來善財童子徹頭徹尾念阿彌陀佛。
私はどのように受け入れたのでしょうか?私は『華厳経』、『楞厳経』、『法華経』の中から受け入れました。これらの経をたくさん講じて、ある日突然思い至りました。文殊、普賢はどの法門を修めて成功したのでしょうか?そして『華厳経』を見ました。『華厳経』の後半はまだ講じていなかったので、真剣に最初から最後までもう一度読み直しました。そして発見しました。『四十華厳』の第三十九巻です。三十八巻、三十九巻に説かれています。文殊、普賢は阿弥陀仏を念じて西方極楽世界に往生して成功したのです。善財童子は文殊菩薩の自慢の弟子です。間違いなく老師と同じ法門を学んだのです。その頃は私もそそっかしいものでした。『四十華厳』を半分講じても、このことが分かりませんでした。もう一度最初から見直して発見したのです。本当に善財童子は老師と同じ道を歩みました。何を発見したのでしょうか?最初に訪れた吉祥雲比丘は般舟三昧(はんじゅざんまい)を修めています。般舟三昧は専ら阿弥陀仏を念じて西方浄土を求めるものです。先に入れば主と為るものです。最後の第五十三参を見ると、普賢菩薩十大願王は極楽に導いています。ようやく忽然と悟りました。善財童子は徹頭徹尾、阿弥陀仏を念じていたのです。

當中那個參學是示現,示現什麼意思?這個法門超過一切法門,示現這個意思。當中五十一位善知識,男女老少各行各業,善財童子去參訪,他這一段就是代表無量法門,代表八萬四千法門,門門都接觸,門門都了解,但是不學。後頭是「戀德禮辭」,參訪,你的接待、你的照顧、你的報告,我聽了很感激,戀德是感激他的恩德;禮辭,辭是不修,還是念佛念到底。才看出這個味道出來,我這樣才對淨土相信了,然後看淨土的經典不一樣,就看出味道出來。
途中の参学は示現です。示現はどのような意味でしょうか?この法門は一切の法門を越えています。示現はこの意味です。途中には五十一位の善知識、老若男女、様々な職業の人々を、善財童子は訪問します。この一段は無量の法門を表しています。八万四千の法門を表しています。どの法門にもすべて接触し、どの法門もすべて理解します。しかし学びません。後には「恋徳礼辞」とあります。訪問して、おもてなしや配慮、訓戒に感謝します。「恋徳」とはその人の恩徳に感謝することです。「礼辞」の「辞」とは修めないということです。やはり最後まで念仏します。ようやく味わいが見えて来ます。私はこのように浄土を信じるようになりました。その後で浄土の経典を見ると同じではありません。味わいを見い出したのです。

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テレビの影響力

2014-07-17 | 【仏陀の教育】


電視的影響力 / テレビの影響力
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二0六0卷)2009/11/12 檔名:12-17-2060

現在我們看看我們這一代,跟上面一代比,不是升,是下降,降的幅度很大。在那個時候,這些老法師、老居士,像李炳南老居士講經,他確實還有相當的水平。現在雖然有一些年輕法師常常講經,他水平不夠。特別是我們這一代,科學技術比從前進步很多,以前方東美先生雖然跟我提過電視,他跟我講過好幾次,他說這個東西是很好的工具,要懂得利用它,它的影響會很大,如果這裡面的內容是暴力、色情、殺盜淫妄,這個社會會被它毀掉,這他說的。
今私たちの世代を見て、一世代前と比べてみると、上がっていません。落ちています。落ちた度合いはとても大きいです。あの頃の老法師、老居士、李炳南居士【注1】の講経などは、間違いなく相当の水準でした。今若い法師たちが講経していますが、水準に達していません。特に私たちの世代は、科学技術が昔より格段に進歩しました。以前、方東美先生【注2】はテレビについて何度も私に話されました。
「テレビはとても良い道具なので、それを利用すれば大きな影響をもたらすでしょう。もしこの内容が暴力、色情、殺生、窃盗、邪淫、妄語などであれば、この社会はこれによって崩壊するでしょう」 これは方先生が言ったことです。

在那些年的時候,政府提倡復興中華文化,方老師跟教育部的幾位官員,他們到老師家裡訪問,正好我那一天也在老師家裡,我聽到老師的談話。這些官員問過一個問題,在那個時候美國是世界第一強國,好像是教育部有兩位處長、一位祕書,三個人。他們提這個問題,他說古羅馬,那也是盛極一時,它也亡國了,美國也不能說永久保持,不可能,將來亡國第一個因素是什麼?方老師毫無考慮,兩個字,電視。分析這個電視的利害,而且告訴教育部的這三位官員,叫他們要記住,台灣的電視雖然還沒有到美國那個樣子,但是如果要學美國,台灣前途也就很難講了。
あの頃、台湾政府は中華文化の復興を提唱していて、教育部の何人かの役人が方老師の家を訪れました。ちょうどあの日私は老師の家にいたので、私は老師の話を聴きました。役人たちはある質問をしました。あの当時アメリカは世界第一の強国でした。おそらく教育部の二人の所長、一人の秘書、三人でした。彼らが提起したのは古代ローマのことです。それも一時の隆盛を極めて滅びました。アメリカも永久に保つことはできません。不可能です。将来国が亡ぶ第一の要因は何でしょうか?方老師は考える間もなく、二字で答えました。「テレビ(電視)です」。テレビの利害を分析して、教育部の三人の役人に、よく覚えておくようにと言いました。「台湾のテレビはまだアメリカのようにはなっていません。しかしアメリカの真似をすれば、台湾の前途もどうなるか分かりません」

<注>
1.李炳南居士(1889-1986)・・・・山東省済南の人。名を艶、字を炳南、号を雪庐という。衍聖公孔奉祀官府の秘書長。最初に唯識を梅光羲に学び、禅宗・浄宗・密宗などを学んだ。後に印光大師に帰依して浄土宗を修めた。その他に中医(漢方医学)にも精通していた。抗日戦争期間は、孔徳成について重慶に行き、太虚大師の布教活動を補佐した。その後住居を台中に定めた。孔奉祀官府に勤めた他、中国医薬学院、中興大学教授を兼任し、余暇は仏法の普及に尽力した。台中にて経典の説法を数十年に渡って行い、“李老師”の名は台湾仏教界で著名であった。台中仏教蓮社、菩提樹雑誌社、慈光図書館、菩提医院、菩提救済院など布教活動を行いつつ慈善機関を設立した。(百度より抜粋して翻訳)

2.方東美老師(1899-1977)・・・・元の名は、字は東美。中国安徽省桐城の人。哲学者。清代の桐城派古文創始者である方苞先生の第十六世の孫。1921年にアメリカに留学経験があり、プラトンなどギリシャ哲学にも造詣が深い。(中国語版ウィキペディアより抜粋して翻訳)
浄空法師を私塾の形式で教育し、仏門に導いた人物。

<参考>
メディアの責任は重大である
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/21e6a5ceb39d229dfc76565a821b46eb

テレビ、インターネット、新聞雑誌を見ない
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/0919e9a815817fca583be22cb10d3947

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菩薩の断悪修善は浄業である

2014-07-09 | 【仏陀の教育】


菩薩斷惡修善是淨業 / 菩薩の断悪修善は浄業である
文摘恭錄—淨土大經科註(第三二三集)2010/5/5 檔名:02-037-0323

菩薩在六道裡頭也修斷惡修善,他有沒有造因?他沒有。他斷惡修善叫淨業,為什麼?他做善事,不把那個善事放在心上,他不放在心上;他做惡事,也不把惡放在心上。所以他心裡乾淨,心上沒有,他就不受果報,這本事。我們今天做一樁事情,落在阿耶識裡頭,記得清清楚楚,這個不行,這個錯了。
菩薩は六道の中でも断悪修善(悪を断ち善を修めること)を修めています。彼は業因を造っているでしょうか?造りません。菩薩が断悪修善を修めるのは浄業(じょうごう)と言います。なぜでしょう?彼は善行をして、その善行を心に留めません。彼は気にしません。間違いを犯しても、やはりその悪を心に留めません。ですから彼の心の中は清らかです。心には何もありません。彼は果報を受けません。これほどの技量です。私たちは今日一つの事をすると、阿頼耶識の中に落ちて、はっきりと記憶しています。これでは駄目です。これは誤りです。

惡應該把它懺除乾淨,善應該多做,都不能放在心上,就對了。那是菩薩,叫三輪體空。三輪體空是淨業,是菩薩應化在世間,心地清淨,一塵不染。這是佛教我們學習的,教我們要認真幹的。千萬不要把這些善惡都放在心上,那你就完全錯解如來真實義,你不懂得佛的意思。真正懂得佛所講的三輪體空,努力斷惡修善給世間人看,給世間人做個好榜樣。
悪はきれいに悔い改め、善は多く行って、すべて心に留めてはなりません。これで良いのです。それが菩薩です。三輪体空(さんりんたいくう)【注】と言います。三輪体空は浄業です。菩薩は世間に応化(おうげ)して、心は清浄にして一塵も穢れることはありません。これは仏が私たちに学ばせることです。私たちに真摯に実行させることです。決してそれらの善悪を心に留めてはなりません。留めていれば如来の真実義を完全に誤解します。仏の説かれる意味を理解できません。本当に仏の説かれる三輪体空を理解して、努めて悪を断ち、善を修めて、世間の人に良いお手本を見せることです。
--------------------------------------------------------------------------
 【注】 三輪体空(さんりんたいくう)・・・・布施する際に「布施する自分」、「布施する相手」、「布施する物品」の三つ(三輪)の価値に執着しないこと。三輪もまた実体は空であるということ。
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你看,造惡要墮三惡道,行善就三善道。三善道不錯,出不了輪迴,福享完了怎麼辦,還要墮落,脫離不了六道輪迴。只有斷惡修善而不落印象,保住你的清淨心,不要把這些東西往心上放,這就是有智慧的人。這種人不造業,不造六道輪迴的業他就不受六道輪迴的果。佛菩薩高在哪裡?就高在這個地方,這是世間一般人所不能比的。
悪事を犯して三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)に堕ち、善行をして三善道(修羅道、人道、天道)に行きます。三善道は悪くはありませんが、輪廻を出ることはできません。福を享受し終わったらどうするのでしょうか。また堕落してしまいます。六道輪廻を離脱できません。悪を断ち善を修めて、その印象にとらわれず、清浄心を保って、それらを心に留めてはなりません。これが智慧のある人です。このような人は業を造りません。六道輪廻の業を造らないので、その人は六道輪廻の果報を受けません。仏菩薩(ほとけぼさつ)はどこが優れているのでしょうか?優れているのは正にここなのです。これは世間一般の人と比べることはできません。

我們看小乘人修行,小乘初果把五種見惑放下,就是不善的清除掉了。不執著自身是我,這個東西放棄了,跟著,這必然的,自私自利放下了,他不再為這個身想,自私自利沒有了,做人才能大公無私。念念為別人著想,這是修善,修善還著相,不著相不容易,所以他還有天上人間七次往返。最後把這個清除了,不執著了,他就出六道,他要執著,出不了六道。
小乗の人の修行を見ると、小乗の初果は五つの見惑(けんわく)を放下しています。つまり不善なものをきれいに取り除いています。自分の身体が自分なのだと執着することなく、これを手放しています。それにつれて、必然的に、私利私欲を放下します。その人は身体の事で思い煩うことはなく、私利私欲はありません。それでこそ人として公正無私でいられるのです。人の為を思うこと、これは善を修めることです。しかし善を修めてその相に執着します。相に執着しないのは容易ではありません。ですから彼は天道と人道を更に七回往復します。最後にはこれをきれいに取り除いて、執着しなくなり、六道を出ます。執着していれば六道は出られません。

你看佛的方法,先教你斷惡,不執著斷惡的相,最後教你修善,斷惡修善,你會著修善的相。到一定程度的時候,告訴你修善的相也要放下,就超越六道,到十法界。十法界還有障礙,塵沙煩惱、無明煩惱,比這個輕,那也要放下,不放下出不了十法界。這兩樣東西放下,超越十法界,生到一真法界,一真法界就是華藏世界、西方極樂世界;念佛就生極樂世界,修其他法門的生華藏世界。
仏の方法は、まず悪を断つことを教え、悪を断ったという相に執着しなくなったら、最後に善を修めることを教えます。悪を断って善を修めます。あなたは善を修めたという相に執着するでしょう。一定の程度に達した時、善を修めたという相をも放下することを教えます。これで六道を超越して、十法界に到ります。十法界にはまだ障碍があります。塵沙煩悩、無明煩悩です。より軽いものです。それさえも放下しなければなりません。放下できなければ十法界は出られません。この二つを放下すると、十法界を超越して一真法界に生まれます。一真法界は正に華蔵世界、西方極楽世界です。念仏すると極楽世界に生まれ、他の法門を修めると華蔵世界に生まれます。

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どの程度まで阿弥陀仏を念ずれば往生できるのか

2014-07-08 | 【仏陀の教育】


念阿彌陀佛到什麼程度我們往生呢? どの程度まで阿弥陀仏を念ずれば往生できるのか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五六二集)2011/8/27 檔名:02-039-0562

看我們念阿彌陀佛,念到什麼程度我們往生呢?我們自己是阿彌陀佛,我心就是阿彌陀佛,阿彌陀佛就是我心,這怎麼能不往生?這決定往生。阿彌陀佛是阿彌陀佛,我是我,永遠往生不了。這個道理是一定要懂,要搞清楚、搞明白。阿彌陀佛是我們自心變現出來的,西方極樂世界也不例外。
私たちはどの程度まで阿弥陀仏を念ずれば往生できるのでしょうか?私たち自身が阿弥陀仏です。我が心は阿弥陀仏であり、阿弥陀仏は我が心なのです。これならどうして往生しないことがあるでしょうか?これなら必ず往生します。阿弥陀仏は阿弥陀仏で、私は私であるなら、永遠に往生できません。この道理は必ず理解しなければなりません。はっきりさせ、明確にしなければなりません。阿弥陀仏は私たち自身の心が変化して現れるものです。西方極楽世界も例外ではありません。

你看中峰禪師三時繫念法事裡講得多好,「我心即是阿彌陀佛,阿彌陀佛即是我心;此方即淨土,淨土即此方」。這就對了!我們自己跟阿彌陀佛融合成一體,我們居住的這個世界跟極樂世界融合成一體,這是真正往生的道理。你明白這個道理,我們就不能有惡念,不能有壞念頭。壞念頭是什麼?自己在製造三惡道。把一切不善的念頭統統丟掉,起心都是善念,與五倫五常、四維八相應,這是善念;在佛門裡面,與十善、三皈五戒相應是善念。我們才曉得怎麼叫修行、修些什麼。日常生活當中起心動念、言語造作一定要跟善相應,不能跟惡相應。
中峰禅師の三時繋念法事の中に良い言葉があります。「我心即是阿弥陀仏,阿弥陀仏即是我心;此方即浄土,浄土即此方」(我が心は即ち是阿弥陀仏、阿弥陀仏は即ち是我が心。此の方は即ち浄土、浄土は即ち此の方)。これで良いのです!私たち自身が阿弥陀仏と融合して一体になり、私たちの住んでいるこの世界が極楽世界と融合して一体になります。これが本当の往生の道理です。この道理を理解したら、私たちは悪い念を持つことはできません。悪い考えを持つことはできません。悪い考えとは何でしょう?自分で三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)を製造することです。一切の不善の念を捨て去り、すべてを善の心にすることです。五倫・五常、四維・八徳【注】に相応するのが善の心です。仏門の中では、十善、三帰五戒(さんきごかい)に相応するのが善の心です。私たちは修行とは何か、何を修めるのかをようやく理解します。日常生活において心の使い方、言葉や行為は必ず善と相応しなければなりません。悪と相応させてはなりません。

<注>
五倫(ごりん)・・・・父子の(親孝行)、君臣の(忠義)、夫婦の(役割の区別)、長幼の(上下の秩序)、朋友の(信義)。(『孟子』滕文公上より)

五常(ごじょう)・・・・(慈愛、優しさ)、(道義、義侠心)、(礼儀、礼節)、(善悪を見極める智慧)、(信義、信頼)の五つの道徳。(『漢書』)

四維(しい)・・・・(礼節を知る)、(信義を守る)、(心清らかで寡欲である)、(恥辱を知る)。これらの国家を維持するのに必要な四つの大綱。(『管子』牧民より)

八徳(はっとく)
 ①忠孝仁愛、信義和平
   *中華民国政府はこの「八徳」を国訓とし、「四維」を各学校共通の校訓としている。
 ②仁義礼智、忠信孝悌
   *日本では「八徳」というとこちらを指すようである。
 (慈愛)、(正義)、(礼節)、(智慧)、
 (忠義)、(信義)、(孝行)、(年長者に従順に仕える)

<参考>
阿弥陀仏は誰なのか?
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/55213fd9f27b10e15a8fa657d8a05df9

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仏光には二種類ある

2014-07-07 | 【仏陀の教育】


佛光有兩種 / 仏光には二種類ある
文摘恭錄—淨土大經科註(第一四四集)2012/1/17 檔名:02-037-0144

最下面這個三十二相第十五「身光面各一丈相」,這是說身放光明,四面各一丈。佛光有兩種,一種是身光,也叫常光,無論在什麼時候,你都能夠看到;另外一種是放光,特殊有緣的時候佛會放光。放光不定什麼地方,多半從白毫,面門也放光,身體也放光,我們在大乘經上常常看到,放光都是表法的。
一番下の三十二相第十五「身光面各一丈相」、これは身体から四方に一丈(中国の単位で約3.33m)の光明を放つということです。仏光には二種類あります。一つは身光です。常光とも言います。いつでも見ることが出来るものです。もう一つは放光です。特殊なご縁のある時、仏は光を放ちます。放光は決まった場所ではなく、大半は白毫(びゃくごう)から、顔からも放光します。身体も放光します。大乗経でよく見られますが、放光はすべて法を表すものです。

常光,我們一般人有緣就能看到,沒有緣還是看不到。我們中國人叫氣,外國人叫磁場,名詞不一樣,是一個意思。確實存在,而且每個人都有,練氣功的氣功師真有功夫,他都能看到。每個人的氣大小不一樣、顏色不一樣,從這個氣能看到人身體健康狀況,也能看到人的心情。
常光は、私たち一般の人もご縁があれば見ることが出来ます。ご縁がなければやはり見えません。私たち中国人は気と言います。外国人は磁場と言います。名称は違いますが、一つの意味です。確かに存在します。しかも誰にでもあります。気功を練る気功師には本当に功夫(技量)があり、見ることが出来ます。どの人の気も大きさは違います。色も違います。この気から身体の健康状態を見ることが出来ます。また人の気持ちも見ることが出来ます。

人心地善良,光就好,心行不善,這光不好看,而且光有凶,中國人叫殺氣,讓人感到身心不安。李老師以前講到這些地方,告訴我們,他一生曾經見到兩個人殺氣特別重,確實走進他那個磁場範圍,心就不能安靜,會心跳,有這麼嚴重。這兩個人都是將軍,都是打仗殺人,所以他氣場就很不好。
人の心が善良であれば、光は良いものです。心行が不善であれば、その光は綺麗ではなくなります。しかも光に凶(不吉なもの)があります。中国人は殺気と言います。人に身心の不安を感じさせます。李老師は以前この辺りのことを話して下さいました。李老師が言うには、殺気が非常に深刻な人を一生で二人見たことがあるそうです。本当にその人の磁場の範囲に近づくと、心が落ち着かず、動悸がしたそうです。それほど深刻です。その二人はどちらも将軍で、戦争で人を殺しました。ですから雰囲気は良くありませんでした。

如果見到修行人,氣場真的就不一樣,我這一生當中感觸最明顯、最深的章嘉大師,他的氣場、磁場柔和,你走近他範圍之內,他居住的範圍之內,你就感到很安全,有安全感,所以很不容易。即使大師一句話不說,我們也願意跟他,陪他坐在一起,坐一、二個小時,享受這個氣分。
修行者に会うと、雰囲気は本当に違います。私の一生の中で、最も顕著で最も深い感銘を受けたのは章嘉大師です。大師の雰囲気、磁場はやわらかく、あなたが大師の住まいの範囲に近づくと、安心を感じます。安全な感じがします。簡単な事ではありません。たとえ大師が一言も話さなくても、私たちは大師と一緒にいたいと思いました。大師と一緒に一、二時間座って、その雰囲気を味わいました。

我有一年在邁阿密講經,有不少當地的美國人,他聽不懂我說話,可是我在那裡講了八天,每天他一定來,一定我講完之後再走。有人就問他,你聽得懂、聽不懂?聽不懂。你為什麼要來?他說這裡磁場很好,我在這裡坐兩個小時很有享受,他能感覺到。這些外國人全都是學佛的,好像是學密宗的,他喜歡這個磁場。所以光的性質是這樣的。
私はある年マイアミで講経していました。現地のアメリカ人も少なくありません。彼らは私の言葉を聴いても理解できません。しかし私はそこで八日間講義をしました。ある人は毎日必ず来て、必ず私が講義を終えた後で帰りました。ある人が彼に質問しました。「聴いて理解できますか?」、「できません」、「あなたはどうして来ているのですか?」 彼は、「ここの磁場はとても良いので、私はここに二時間座って味わっています」と言いました。彼は感じたのです。それらの外国人は皆仏法を学んでいました。たしか密教を学んだ人です。彼はこの磁場を好みました。ですから光の性質はこのようなものです。

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