悩み、苦しみ、それでも歯を食いしばりながら努力する姿を、きっと誰かが見ていることでしょう。これまでも、そうであったように――。
黒原の“努力”を近所の人たちはよく知っていた
広島・黒原拓未投手(23)は、和歌山の北西部に位置する海南市で育った。約5万人が暮らす、大きいとも田舎とも言えないこの町で野球に熱中した。そして、黒原がよく努力する選手であることを近所の人たちはよく知っていた。町中をよく走っていたからだ。
ある野球少年も、そのランニング姿を何度か見かけたことがあった。黒原より6学年下で、今年の夏に黒原の母校・智弁和歌山で背番号1を背負うことになる吉川泰地である。 「地元が近いこともあって、黒原さんに憧れていました。黒原さんは、よく走っていた印象があって、努力家であることは知っていました。よく走っているとか、地元だと分かるじゃないですか」
吉川が小学生の頃に所属した日方スポーツ少年団でコーチを務めていたのが黒原の父・和男さんだった。その縁もあり、小学生の吉川は、よく練習する黒原先輩を尊敬していた。
和歌山の野球少年は、智弁和歌山に憧れて努力する。黒原も吉川もそうだった。黒原が高1の頃、吉川は小4だったものの「身近な黒原さんが入ったことで、より智弁和歌山に興味が湧きました。かっこいいなと思いました」と当時のことは鮮明に覚えている。先輩を追いかけるかのように、少年野球チームから高校まで全て黒原と同じチームに入った。智弁和歌山への進学が決まったことを報告すると、黒原から伝えられた。「頑張れよ。色んなことがあると思うけど、頑張るんだぞ」。黒原は「頑張る」というシンプルな言葉で、努力することの大切さを後輩に説いた。
黒原が智弁和歌山に進学できたのは、自らの努力を陰ながら見てくれていた人がいたからだ。和歌山駅の近くに「紀之国スポーツ」というスポーツ用品店がある。その社長が、偶然目にした黒原の投球に惚れ込んだ。突然、面識すらない社長から「お兄ちゃん、身長170センチまで伸びるやんな?」と聞かれた。社長は当時の智弁和歌山・高嶋仁監督の知り合いだった。社長の推薦もあって高嶋監督に練習を見てもらう機会に恵まれ、智弁和歌山への進学へとつながった。
鞘師スカウトが黒原に惚れた理由
そして、智弁和歌山―関学大と進む計7年間の練習を見守り続けることになるのが、近畿圏を担当する広島の鞘師智也スカウトである。鞘師スカウトは、黒原の投球だけでなく、その努力も追いかけてきた。 「黒原に惚れたのは、投球とかよりも取り組みの方が先かな。(智弁和歌山の)中谷(仁)監督から“凄く練習をする”と聞いたのが最初だった。それから誰に聞いても“めちゃくちゃ練習する”と言うし、そう聞くと大学1年からの変身していく過程も納得できた」
黒原は、高3夏に初めて甲子園に出場した。2回戦の大阪桐蔭戦に先発し、6回途中1失点の好投を見せるも敗れた。その後、関学大に進み、1年春のリーグ戦から登板機会を与えられることになる。このデビューの舞台となった春季リーグで、夏の甲子園よりも明らかに直球が速くなっていたのだ。高校野球引退から大学入学までの期間を無駄にしていなかったことを容易に想像させる投球内容だった。鞘師スカウトは、この努力を気に入った。
大学3年は、コロナ禍の影響で春のリーグ戦が中止となった。全体練習すらできない期間も長く続いた。恵まれない環境の中で多くの学生が伸び悩んだ一方、黒原は3年秋から4年春にかけてメキメキと頭角を現した。鞘師スカウトは「コロナの間に相当練習していたのだと思う。スカウトを長くやらせてもらっているけど、ここまで計画性を持って練習できる選手は(なかなかいない)」とさらに惚れ込んでいく。そして、21年ドラフト会議での1位指名へとつながっていった。
幼少期からプロ2年目を迎えた現在まで、人一倍の努力を誰よりもそばで、そっと見守ってきたのが家族である。母・千晶さんも「ずっと真面目に練習していました。高3の夏の甲子園で負けてからも、毎日練習をしていて感心したほどです。とにかく練習が好きなんです」と努力家であることを認める。
今季は3度の先発を含む5試合に登板するも、プロ初勝利はお預けとなっている。振り返れば、ドラフト会議から数日後に広島の佐々岡監督らが関学大へ指名あいさつに訪れたとき、取材に応じた鞘師スカウトが「これから壁にぶち当たったとしても、負けずにやってもらえる気がしています」と答えていた。努力家の真価は、うまくいかなかったときに試される。ドラフト1位とはいえ、踏ん張って、はい上がるストーリーが黒原にはよく似合う。