花郎徒の庵 

目指せ楽隠居! 大長今ファン&歴史フリークの隠者・花郎徒による よろずつれづれ日記です。(*>∀・*) 

UKON

2009-05-14 18:27:32 | 歴史全般
 前回の歴史関連ログはなんと1月! 気がつけば季節も冬から春そして初夏へと移り変わってしまいました。歴史ログ自体ほとんど庵主個人の趣味の話なので、大部分の皆さんには甚だ退屈な話になってしまいますが、よろしかったら覗いてみて下さいませ。

 いわゆる戦国時代の中頃、西洋(時代的な表現だと"南蛮")より日本に伝来した代表的なものといえば、鉄砲(火縄銃)とキリスト教ですね。これは小学校高学年の社会科でも少しは触れますので、誰でもご存知なことだと思います。

 前者は日本の合戦における戦術を革命的に変えてしまった武器であり、後者はそれまでの圧倒的に仏教が幅を利かせていた日本の宗教に新たな風を吹き込んだ異文化でありました。
当時、全国で割拠していた有力大名・武将のほとんどが、時代が進むにつれそのどちらかに接触し自家に取り入れていたのは広く知られていますが、何と言ってもその両者を誰よりも先に取り入れ、自勢力の躍進の原動力に変えた人物は言わずと知れた「織田信長」であります。

 信長は、例えば切支丹大名として有名だった大友宗麟のような誤った南蛮文化の受容はまったくせず、鉄砲に関しては商人や職工らに任せ、それを独自の経済力で購入とバックアップをする形式をとりました。
 一方、キリスト教に関しては西洋の技術・学問(軍事学・科学・天文学など)や海外情報を学び取り入れる手段として、また既成宗教勢力の牽制と抑制のために利用する形式を守りました。信長自身はキリスト教には関心はあったものの、受洗することも進んで家臣・領民らに広めることはしませんでした。
(なにせ晩年に近づくにつれて自身を祀る形式の寺院を作ったり、"第六天魔王"というまがまがしい異名を自称したくらいですから…)

 さて、すっかり長くなってしまいましたが、もう一人キリスト教にとても強い関連性のある一人の武将をご紹介したいと思います。
名前は「高山右近(たかやま うこん)」と言いまして、戦国~安土・桃山期に活躍した摂津出身の武将(1552生~1615没)です。

 右近というのは通称で、本名は重友(しげとも)もしくは友祥(ともよし/ともなが)と言われており、先に受洗した父・飛騨守(ひだのかみ)の影響で信者になったと伝えられています。(※洗礼名はジュスト)
高山家は力の弱い地方領主ながら、時代の先を読むことに関しては長けていたらしく、当時の政治的中心地域であった近畿地方を支配した勢力に常に従い、最終的には天下人となった織田信長の配下(厳密に言えば、信長の直臣・荒木村重の配下)となりました。
元々キリスト教に対して寛容だった信長に従ったことは敬虔な信者であった右近にとっては当然プラスとなり、彼の領地であった高槻(現:大阪府)は大都市・堺や安土城下に勝るとも劣らぬ規模で関連施設が建てられ、多くの領民も信者となったそうです。
 
 ある年、止むに止まれぬ事情で上司である荒木村重が信長に謀反を起こし、なし崩し的に右近も加担することになりました。緒戦は戦上手な右近を味方とした村重側が優勢でさすがの信長も攻めあぐねました。しかし、右近の武将としての器量に目をつけていた信長は、彼がキリスト教徒であることに注目し、高名な宣教師を介して右近を引き抜くことに成功し、それをきっかけに村重を打ち破ったとされます。 
 
 そして右近にとって人生最大のターニングポイントとなったのは、本能寺の変で信長が倒れた後の処世術にありました。明智光秀によって京周辺が制圧され、また信長の死によって政情不安となった中で、彼はいち早く信長の弔い合戦のために山陽道を転進(いわゆる「中国大返し」)してきた羽柴秀吉に人質を差し出し臣従を誓い、光秀との決戦となった「山崎の合戦」で先鋒として奮戦し、大名としての地位を安泰のものとしました。

 その後の右近はむしろ武将としての活躍ではなく、宗教家・文化人としての人生を歩んでゆきました。天下の茶頭として知られる千利休の門下の一人(いわゆる「利休七哲」)として侘び茶を極め茶人としても成功、それまでの功績によって高槻から明石(現:兵庫県)に加増の上で領地変えとなってからも、以前にもまして切支丹として信者獲得に尽力するなど、武将としての枠にはまらぬ興味深い生き方をしています。
(注:右近の勧めによって切支丹になった豊臣政権の武将もけっこういます。例:蒲生氏郷・黒田官兵衛)

 しかし、秀吉が「伴天連(宣教師)追放令」を突如打ち出したことにより右近の運命は急転直下し、他の切支丹大名たちが信仰を捨てる中、彼はそれを頑なに拒絶したために秀吉の逆鱗に触れ、遂には領地没収で改易となり大名から牢人になってしまいます。が、縁戚であった加賀前田家に客将として迎え入れられ、以後は一武将として小田原攻めや関ヶ原の戦いにも参陣、一方で前田家で会得していた西洋式築城法を駆使して普請のアドバイザーをしたり茶を嗜みつつ、秀吉の死後も徳川幕府が開かれてからも金沢でしばらく悠々自適に行き続けます。

 やがて時代は進み、それまで切支丹に対して半ば黙認していた幕府も、幕府と相容れない豊臣家に加担する牢人衆の中に切支丹が多い事実や、旧教派(ポルトガル・イスパニア)と新教派(オランダ・イギリス)の対立が日本国内でも深刻になってきたのを考慮し、禁止令へとシフトしてゆきます。
 
 それにより国内切支丹に対して多大な影響力を持つ右近の身辺も慌ただしくなり、またも信仰を捨てなかったために最後には国外追放処分となりました。右近はとうとう武将としての地位も、日本人としての立場すらも捨てて信仰に生きる決心を胸に、一路旧教国イスパニア領だった呂宋(るそん 現:フィリピン・ルソン島)を目指します。が、老齢であったことと慣れぬ長い航海は彼の残された体力を奪ってゆき、目的地に着いてまもなく客死してしまいました。

 切支丹大名といわれる人物は数多くいましたが、彼ほど自己犠牲の下で信心深い生き方をやり遂げた人物はいないように思います。しかしながら、せっかく得た領地や愛すべき領民、そして茶人としての造詣などもいともたやすく投げ打ってしまったことに関しては、正直なところ統治者・文化人としては失格じゃないかと… まぁ本人に信仰以外の欲がなかったと思えばそんなこと関係ないのかもしれませんけど…

 なお、右近についての余談ですが、彼の墓所は当然国内には存在せず、なんとマニラ郊外に葬られています。ただ、彼が残した切支丹信仰の土台はその後も受け継がれ、現在でも領地であった高槻や明石にはクリスチャン(カソリック)が多く、また彼を記念する教会や肖像画・銅像も残されております。
 一方、信長や秀吉などの超有名人とは違い、ドラマなどで彼が出てきた作品は極めて少なく、庵主が憶えているところでは大河ドラマ数作で切支丹や前田家に絡んでほんの少し登場するような脇役扱いでした。数年前まではマイナーだった直江兼続や安倍晴明も映像化されメジャーになったくらいですし、短編でもいいので右近のような隠れた「日本史に一定の影響を与えた人物」ももう少し取り上げてほしいものです。


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4 コメント

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「黄金の日々」 (てるてる)
2009-05-14 20:42:19
NHKの大河ドラマ「黄金の日々」に、高山右近が登場しているのですね。


http://www.nhk-ep.com/shop/commodity_param/ctc/+/shc/0/cmc/07152A1/detail.html

あんまり見ていなかったけど、最終回で、助座右衛門が呂宋に行くことにした場面は覚えています。


高山右近も一緒に行ったのかな?

史実では、マニラで大歓迎を受けたそうですが。
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誤字訂正です (てるてる)
2009-05-14 20:44:41
助座右衛門

助左衛門
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UKO・・? (悠菜)
2009-05-15 19:12:01
 こんばんは、大兄
 先日は少しスパークしておりまして、失礼いたしました
 
 UKONですか・・酔っ払った次の日に利きますよね、あの黄色の薬草は・・って違いますね
 戦国武将って何だか東北か九州が有名どころですよね。しかもキリシタン大名って九州に多いんですよね。
 何でだろ?南蛮人の航海ルートと関係あるのでしょうか?インド航路で来るから対馬からこっち・・太平洋からルートはまだこの時期はなかったのでしょうか?
 すいません。高校は日本史専攻のくせに中国と関係のない時代は全く興味なかったもので
 知ってる戦国武将は友人の影響で黒田如水ですし・・

 あ、そうそう
 現在、「書く書く」言いつつまだなのですが、韓国の時代小説書くことにしました。粗雑な計算の結果、時代は明宗の時代、日本では無理やりくっつけて高山宗鱗です
 日本人と朝鮮人の恋愛を絡めた暗行御吏を書こうと無謀にも思ってます
 
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もっと見てみたい (花郎徒)
2009-05-17 10:30:46
☆てるてるさん
>「黄金の日々」
松本幸四郎さんの若い頃(市川染五郎)の主演作でしたね。私はタイムリーに見ることが出来なかった世代なので、学生時代にレンタルビデオとBS再放送版にて見ました。今は幸いにもDVD版もリリースされてますので、今度改めてみたいと思っております。
キャストが当時としてはかなり豪華で、故・夏目雅子さんや根津甚八さん、故・川谷拓三さんなどが出てました。個人的には根津さんの石川五右衛門が特に印象に残ってます。
高山右近役は… えぇと、たしか鹿賀丈史さんじゃなかったかと…

☆悠菜さん
>UKONですか・・酔っ払った次の日に利きますよね、あの黄色の薬草は・・って違いますね
 ははは、実は本ログに関してはタイトルをつけた段階であの某強壮ドリンクの画像をシャレで貼ろうかと思ってましたが、真面目に多くの方に彼のことを知ってもらいたくて、無難で象徴的なものにしときました。

>南蛮人の航海ルートと関係あるのでしょうか?インド航路で来るから対馬からこっち・・太平洋からルートはまだこの時期はなかったのでしょうか?
 当時はやはりインド・東シナ海ルートがメインだったと思います。(比較的安定した)太平洋ルートや北極海ルートなどはもっと時代が下って後ですね。まだまだ七つの海といっても未開だったはずです。
ちなみに伊達政宗がヨーロッパに使節を派遣するまで、公式記録以外では日本人が太平洋を渡ったことはないです。

>韓国の時代小説書くことにしました。
 さすがに創作意欲が尽き果てませんね。本当に尊敬いたします。書いているうちになんとかなるでしょうから、評や細かい齟齬を気にせず前向きに頑張ってください。
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