花郎徒の庵 

目指せ楽隠居! 大長今ファン&歴史フリークの隠者・花郎徒による よろずつれづれ日記です。(*>∀・*) 

豊臣家の6人

2008-09-25 23:31:23 | 歴史全般
 歴史にIfは禁物だと昔から言いますが、歴史フリークの私はその道の学者でもないので勝手にあれこれ考えて自分なりの解釈をして楽しんでおります。今回はそんなIfの一つを語ってみたいと思います。

(かなり独断と偏見に満ちた長ったらしいログになると思いますので、この手の話題が苦手の方はぶっちゃけスルーしちゃってかまいません。

 テーマは『もしこの人物が長生きしていれば豊臣家が滅亡せずに済んだかも…』です。
 応仁の乱以来長きに亘って続いてきた戦乱の世を鎮め、遂に天下を統一した人物と言えば…
誰もがご存知の豊臣秀吉ですね。我が国の歴史でも稀にみる立志伝中随一の人物とされ、その独特の風貌や逸話から人気も高い人物の一人です。

 たしかに彼は元々織田信長の家臣として主の天下統一の作戦にかかわり、主が頓挫した統一への道を継承し見事に成し遂げた英雄です。
 しかし、一度天下人となってからはそれまでの陽気で血を流すことを避けた明るいキャラクターが一変、権力の魔物に魅入られたかのように身内の粛清や何もメリットのない外征などにその命と頭脳、そして民力をいたずらに消費してしまい、それがやがて祟り自らの横死だけでなく、豊臣政権の崩壊を招く結果となったことは、あまり歴史に詳しくない方でもたいだいはお分かりになっていると思います。

 さて、教科書的な視点だけだとまるで彼一人の能力だけで天下統一ができたという錯覚がする秀吉ですが、実際は多くのブレーンや支援者の力による部分も大きいのであります。
 例えば、まだ彼が信長配下の下級家臣だった頃、有名な「墨俣一夜城」の成功に寄与したのは尾張(現在の愛知県西部)と美濃(同岐阜県中・南部)両国にコネクションを持った地侍・蜂須賀小六(ハチスカ コロク)やその仲間たちの協力があってのことですし、それをきっかけに出世した彼の軍師として働いた竹中重治(通称:半兵衛)もまた秀吉の前半生で大いなる働きをして支えたブレーンであったと言えます。
 されど惜しいかな、両名とも秀吉の天下統一を見届けることなく世を去っています。
 
 他にも後に豊臣家の重臣となった加藤清正や福島正則は秀吉の親戚筋の出身で、農民出身で自分の家臣を持っていなかった秀吉にとっては頼もしい連中でありました。ただ、そんな彼らも戦働きでは無双の勇者でしたが、豊臣家の天下を守る上では政治的に未熟であり頼りにはなりませんでした。
 秀吉が天下人への道を驀進する上で重要な役割を果たし、なおかつその行いに一定の発言力を持って陰で働き、時には激しく諌めることができた人物の存在こそが豊臣家安泰の基盤であったのです。

 思うに秀吉が統一を果たしてまもなく、狂気じみた生き方をするようになってしまったのはそれら重要人物たちをいろいろな意味で失ってしまったことが原因だと私なりに気づきました。
 ちなみに私が考えた人物は3人、いずれも何かしらの形で秀吉のそば近くで苦楽をともにした人たちです。それでは具体的にそれらを論じてみたいと思います。

*豊臣秀長(秀吉の実弟)
 大将である兄秀吉の補佐役として働いた人物。懐の深い温厚な人物ゆえに彼を慕う人間も多く、初期豊臣家の大番頭として諸大名を纏め上げた功績は高い。
何かと暴走しがちな兄を度々諌め軌道修正させたのはそれだけ彼が信頼されていたからだと言える。天下統一から間もなく兄よりも先に死去。仮に彼が兄よりも長生きしていれば秀頼の補佐役として有力大名と堂々渡り合えたはず。

*千利休(天下の茶頭)
 爛熟期を迎えた茶道のフォーマットを確立した茶人。元は泉州堺の商人であったが茶道をもって信長・秀吉に接近しブレーンとなる。
豊臣家の文化サロン担当者であり「茶の湯ご政道」でのVIPとして尊重され諸大名とも深い結びつきがあったが、後に秀吉の勘気を被って死を命じられる。商人出身らしく天下統一後の日本と諸外国との交易推進を願っていたらしく、外征には批判的だったと言われる。 

*大政所(秀吉の母)
 秀吉が頭が上がらない数少ない人間。彼女がいたからこそ秀吉は世に生まれたわけで、しかも弟秀長にしろ清正らにしろ彼女なしには血縁を基礎とする家臣団として固まることはなかった。
後に外征を目論んだ秀吉も戦陣に飛び込んできた彼女の死の報にはかなり衝撃を受けたらしく、文禄の役終戦の間接的理由ともなった。 

 また同時に秀吉死去の後も生存して豊臣家を守るべき立場にあった人物3人も加えて論じます。
 
*黒田如水(通称:官兵衛・秀吉軍における後期軍師) 
 竹中半兵衛亡き後の秀吉軍の軍師を務めた智将。その居城であった姫路城を秀吉に提供したばかりでなく、息子長政をはじめ若手将校らからも一目置かれる存在であった。
 天下統一の過程で常に軍略の才を発揮したことで大功があったが、その器量を恐れた秀吉から逆に警戒され褒美として与えられた所領は極めて小さく、石田三成ら官僚の台頭もあって次第に発言権を奪われていった。
 実際、彼には天下取りの野心があったとされるが、もし秀吉亡き後の豊臣家が彼の再出馬を要請しこれに応えたならば、関ヶ原の戦いもだいぶ変わっていたかもしれない。

*前田利家(秀吉の親友・秀頼の傅役・加賀藩祖)
 いわゆる豊臣家五大老の一人で秀吉に最も信頼された実力者。加賀百万石の礎を作る一方で何かと対立することの多い豊臣家臣団を抑えることができた人間。 
残念ながら秀吉の死の翌年、後を追うように病死。彼の死により抑えが利かなくなった家臣団は武断派(加藤清正など)と文治派(石田三成など)に分かれ対立を深め、そこを徳川家康につけ込まれることとなった。豊臣秀長亡き後は譜代大名格に彼ほどの重鎮がいなくなったのも悔やまれる。
 長生きして秀頼が無事成人できるようになり、また文武両派の対立を収められたなら豊臣家の運命も変わったであろう。

*北政所(秀吉の正室・本名:寧々もしくは於寧)
 夫秀吉を下級家臣時代から支え続けた賢妻。秀吉との間に子は無かったものの、後に家臣となる有能な若者たちを我が子のように慈しみ教育した功績は大きい。
秀頼誕生後に権勢を誇った淀殿と対立し、それが巡り巡って豊臣家臣団の分裂に波及したのも否めない。一説に拠れば、秀吉の死の時点で豊臣家の天下が維持できない事を悟り、淀殿はともかく、名目上の息子である秀頼と大坂城だけを守る形で豊臣家存続を望んでいたとされる。
 もしも彼女が(淀殿への私憤を忘れて)あくまで豊臣家安泰を企図して家臣団を纏める行動に出たならば、関ヶ原の戦いも違った決着になっていた可能性もある。

 秀吉という強烈な個性がこの世を去った時点で跡継ぎである秀頼はまだ幼く、正室北政所と秀頼生母淀殿との対立や家臣同士の対立は豊臣家の天下に危うさを残していました。
 その隙を見極め、情報を収集し味方を増やし着々と存在感を増していったのは五大老筆頭・徳川家康でした。
 秀吉存命中から豊臣家の人々は家康の力を多少なりとも知っていたはずなのに、内輪もめばかり起こしてそれを顧みることも無く、豊臣家の将来に望みを見い出せなかった人々は様々な事情を抱えながら徐々に家康に近づいてゆきました。
 それでも目覚めることなく内紛は続き、実力者No.2の前田利家が死に、北政所が大坂城を出て京の郊外に閑居するに至るや、豊臣家が一枚岩である可能性はなくなりました。

 やがて家康の会津征伐から関ヶ原の戦い。わずか半年ほどの時間の中で豊臣家の天下は多いに揺らぎ、世は徳川時代へシフトすることになります。 江戸に幕府が開かれ、天下人としての地位が確実に徳川家のものとなった後、豊臣家は大坂を本拠とする一大名に転落を余儀なくされます。
 そして紆余曲折の末、大坂冬の陣・夏の陣が起こり結果的に豊臣家は滅亡となったのでした。

 秀吉の天下統一からわずかに25年。 秀吉の恩顧を忘れ御家大事として家名を守るために幕藩体制に組み込まれていった元豊臣系大名たちは、その光景をどう思っていた事でしょう。
 意外に一切の感傷もなく、ただただ天下の平穏と子孫の繁栄を願っていた者が大半だと思いますが、中には次第に幕府によって実力を削がれてゆく大名としての運命を悔しく思うあまり、秀吉の天下を懐かしく思った者もいたことでしょう。

 もし歴史のIfが実現できるのであれば、秀吉に先んじて亡くなった人々を生き返らせ、また故あって豊臣家を去らなければならなくなった人々を復権させ、「徳川幕府が生まれることのない別な豊臣家と日本の歴史」を描かせてみたいものだと私は思います。
 もしかしたら、展開次第では日本の首都は東京じゃなくて大坂や名古屋になってたかも?


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3 コメント

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千利休さまは少し馴染んでるかな? (アンE)
2008-09-29 18:52:10
へへへ~ 「歴史全般」 場違いだけど
どなたもみえてないから・・・まぜくっちゃおうーーーっと
スルーしてもいいって言われちゃったら、何か読んでしまったピッピ
6人のお名前くらいは知ってました。・・・秀吉さんは信長さんが生きてる頃までは楽しい人だけどぉ 後はつまんない人になっちゃったね
オッパ、豊臣家に恩義でもあるんですかぁ? へへ

>日本の首都は東京じゃなくて大坂や名古屋になってたかも?
おおー じゃサー
関西弁が標準語になってたカモぉ~ アハハ面白いね~

そーすっと 江戸は?ないの?
ね江戸庶民の暮らしとか結構興味津々だったりするよ
返信する
Unknown (井の蛙)
2008-09-29 23:00:24
こんばんは。
選挙結果ですが・・・まだです。明日以降になるかと。
豊臣秀吉・・・ちなみに我が家では、あの「黄金の茶室」は不評でした・・・「下品」とかって言われて。
でも、最下層の身分から頂点に登り詰めたのはすごいと思います。現代にたとえるのは間違いかもしれませんが、最近の政治家の人たちは2世・3世とかの人が多い気がしますので。
もしも東京じゃなくて大阪や名古屋が首都になってたら・・・東北は今より不便な土地で、仙台も百万都市といわれなかったかも?  なんちゃって。
返信する
功罪相半ば (花郎徒)
2008-09-30 20:14:52
☆ピッピ姫
>6人のお名前くらいは知ってました。・・・秀吉さんは信長さんが生きてる頃までは楽しい人だけどぉ 後はつまんない人になっちゃったね
 6人ご存知でしたか~ なぁ~んだ、姫もけっこう歴史通じゃないですか! で、誰々なんでしょう?

 秀吉については仰るとおりで、信長の家臣時代は機転が利く人情味あふれる陽気な人物でしたが、主君が亡くなり自分が天下取りに出る辺りから随分野心的な生き方をするようになりました。信長という先駆者に負けまいとする気負いや、天下人として一定の非情さも必要だと思えばこその行為もなきにしもあらずです。
 それだけ権力というものは使い方次第で魔物と化すという証拠だと思います。

>オッパ、豊臣家に恩義でもあるんですかぁ?
 別に恩義はないんですが、徳川家がずっと栄えたのは、信長・秀吉が基礎となる天下を地ならししてくれたおかげですから、せめてもしもの世界でも豊臣家が栄えるシミュレーションができたらなぁと思い、ログにしちゃったまでです。

>そーすっと 江戸は?ないの?
 たぶんなくなるか最小限のものになると思います。
たしかに江戸独特の文化にはすばらしいものがありますし、なければ無いで残念ですね。
 特に食文化に関して言うと、とかとかが生まれない可能性も… それはヤダなぁと。

☆井の蛙さん
>あの「黄金の茶室」は不評でした・・・
 あれはたしかに不味いですよね。正直、成金趣味そのものでした。見せられた人たちは一応、天下人のすることだからと表向きは褒め称えたり驚いて見せたでしょうが、内心はだめだこりゃって思ってたことでしょう。
 それをひるまず正直に苦言を呈したのが千利休です。
「殿下、ありゃなんですか? とても侘び寂びの世界とは相容れないものですよ」って感じで…
 一説ではそれが後に二人の関係を悪化させた原因の一つになったとかならないとか… でも、これには利休のほうに明らかに理はあると思います。

>でも、最下層の身分から頂点に登り詰めたのはすごいと思います。
 中国で言うと、漢の高祖・劉邦や明の洪武帝・朱元璋もそうだと言えます。ただ、彼らの場合、10~20年程度の混乱を収めたのであって、応仁の乱以来100年を超える戦乱を収めたことを考えれば、(領土の広さを加味しないで言うと)秀吉のほうがすごい気がします。

>東北は今より不便な土地で、仙台も百万都市といわれなかったかも?
 江戸に天下の政治中枢があったおかげで東北も恩恵を受けていたことは確かです。文化的にも情報面でもさして遅れることなく済んだのですから…
 大坂が首都であれば、仰るように今のような開けた東北じゃなくいまだに辺境扱いされていたのかも…
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