美と知

 美術・教育・成長するということを考える
( by HIGASHIURA Tetsuya )

『学校カウンセリング』氏原寛著

2006年05月17日 | 私の本棚
本文より
「人間が生きることの意味はまことに各人各様で、決定的なことはとても言えない。しかし、人間が自分のもつ様々な欲望や感情を受け止めた上で、しかも一つの可能性に自分を賭けることにこそ真に生きる意味を実感しうるのではないか。ある瞬間にわれわれの為しうることはほとんど無限である。しかし、そこで一つの行動を選ぶということは他のすべての可能性を放棄することである。そこにひとつの決意が要る。それは、可能性の中から自分の責任においてそのことに、その瞬間の存在の意味を賭けることに他ならない。そのことに後悔は許されない。しかし、この選ぶ行為においてのみ、われわれは、われわれが自由な存在であることを実感する。その限りわれわれは主体的な存在なのである。
私は、人間がその主体性を失うところに現代の諸悪の根源があると思っている・・・」

「発達段階に応じて、ひとりひとりの子どもが尊重され、それぞれに独自な存在として生きてゆけるようにすること。学校はひとりひとりの生徒が実現しようとしている学校生活の意味を、彼らなりに満たしていくのを助けてやること・・・」

「どれだけ多くのことを知っているかではなく、変転きわまりないその都度新しい場面においてどれだけうまくのりこえられるか・・・」

「現代の不適応の根源は結局は自己疎外に他ならない。
自分自身の存在にそれ自体意味を感じえないために、何らかの外的尺度によって相対的な価値によって自分を意味づけようとする。しかし、そこには絶対的な安心感はなく、絶えず不安がつきまとう・・・・
比較を超えた世界に住むことは素晴らしいことであろう。そこで人々はおそらく傷つきの経験を持たないですむ。しかし、私は、理想としてもつのはよいにしても、凡人にそのことが可能とは思わない。好むと好まざるにかかわらず人とたえず比較し、その結果つねに傷つくのである・・・」

「「われわれは60点から80点というところなんですよ」というのをある先生から聞いたことがある。教師である以上60点も取れない落第生もいない代わりに、80点以上取るほどの者ならば教師になどなりはしないという意味である。これはたしかにある程度の真実を示している。・・・・・教師の場合、60点以上の力があるだけに80点以上の知人が多すぎる・・・・あるいは、80点以上の力を持ちながら60点ぐらいにしか評価されない・・・・」


「望ましくない教師のタイプ・・・①内心の不安、劣等感から回復しようとして一般に受け入れられたよき教師のイメージに自分の行動様式を合わせようとする先生。これは人間として内側からにじみ出てくる行動でない場合が多い。②教師は副業ですみたいに、教師であることを否定しようとするタイプ。教師であることに傷つかないように別な場所を求める。しかし、考え方にはやや柔軟性があり生徒の受けはいい場合がある。③教師と言う関係性の中だけで生きようとするタイプ。教師という肩書きがはずれたときの人間的魅力に欠ける。」





多くの教師がいろいろな意味で傷ついている。しかし、自分が教師であることから逃げてはいけない。教師である自分をしっかり自覚し、狭い教師という集団の中でこじんまりと自分をまとめてしまうのではなく、教育という仕事をこれからの若い人を生かす、広く深い、夢のある仕事としていくことができるか・・・
氏原さんの著作からいろんな示唆にとんだ内容を受け取り、自分自身に挑戦していきたい。

「この一瞬に自分を子どもとの出会いに賭ける」そんなふうに生徒と関わる教師としてのあり方、を考えさせられる書物である。


若い先生にぜひ読んでもらいたい本である。


『学校カウンセリング』氏原寛著、培風館、2000年9月




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