美と知

 美術・教育・成長するということを考える
( by HIGASHIURA Tetsuya )

鴨居玲の切り裂かれた教会

2007年06月12日 | 勤務校所蔵美術作品紹介
2007年1月、神戸である集まりがあり、「ギャラリー島田」のオーナー、島田誠氏の隣に座って、お話をするチャンスがありました。
島田氏は直前まで、地震で被災したインドネシアで、芸術文化を通しての復興のあり方を講演されてきたということで、阪神淡路大震災で被災した神戸の復興を、アートを通して実現してきた島田氏ならではのアプローチであると感じました。

私が関西学院に勤めていること、教育現場として、関西学院が美術を大切にしていること、そして、美術作品の収集をすすめていることなど・・・いろいろお話させていただいている中で、鴨居玲の話題になっていきました。

昨年2006年に、神戸小磯記念美術館で、鴨居玲没後20年の大きな回顧展が開催されましたが、年表の中で「1940年関西学院中学部に入学」とあり、私が鴨居玲と関西学院の結びつきを知り、何とか鴨居玲の作品を学校で手に入れたいと考えていることなどをお話させていただきました。

その時に、島田氏が、「鴨居玲の切り裂かれたカンバス」のことをお話してくださったのです。

以下は、島田さんのお話と、ギャラリー島田のホームページより抜粋しまとめさせていただきました。


「鴨居玲の突然の電話で呼び出されるのはしょっちゅうだった。この日も榎忠(エノチュウ・美術家)は、電話を受けて神戸・元町の鴨居玲のアトリエを訪ねた。イーゼルには半分ほど完成した50号の教会の絵があった。
榎忠と話し込んでいた鴨居さんが突然、立ち上がりナイフをとって、その教会の絵を縦に、横にスパッと切り裂いた。
今は押しも押されぬ現代美術家として活躍している榎さんだが、そのころの彼のパフォーマンス路線への批判であったのかもしれないし、この絵が気にいらなくて衝動的にやったことかもしれない。
そして創作への厳しい姿勢を榎さんに示したのかもしれない。
未だ真相は見えない。

鴨居玲の教会のスソ一面にまっ黄色の菜の花畑が広がっている、そういう作品が初めのころにあった。つまり教会と大地の接点は満開の花の中に隠されていて、絵は見事に安定して見える。みる人の心を落ち着かせる。だが画家は恐らく、自分がわずかに妥協したことを、どうしても忘れることが出来ないのだ。(略)生き方そのものがそこで問われてしまうのだ。お前は今どう大地に立っている?
そして鴨居玲の教会は苦悶を重ねながらやがて空中へ浮揚する。そこで最も彼らしい姿になる。
最も不安定な場所に昇ってようやくのこと安定する。

確かに鴨居さんは1969年から教会シリーズをはじめていて、この年の6点(カタログ・レゾネによる)は全て大地にしっかりと足をつけている。
鴨居さんがカンバスを切り裂いた1970年は4点の教会があるが、同じである。そして問題の50号は鴨居さんとしては大作の部類に入る。その作品を切り裂いた意味は深い。
榎さんは託されたこの作品を受け止めるように全く別の道を歩みながら「地球の皮を剥ぐ」「ギロチン・シェア―」「砲弾」「鉄砲」などの問題作を次々と発表し続けている。
そのカンバスは榎さんから私に託された。
厳しく良い仕事をしろという鴨居さんからのメッセージのバトンリレーである。
2000年3月17日 島田誠」



その切り裂かれた教会の作品(榎忠さんより島田さんに作品は管理を委託されていた)の関西学院への寄贈を考えてもいいと、島田さんがおっしゃってくださった時には、私は震えました。
その後、島田さんは榎忠さんにもいきさつをお話してくださり、榎忠さんも快諾くださったということで、作品を関西学院に寄贈していただくこととなりました。

42歳の鴨居玲が教会シリーズに取り組みつづけた頃の、カンバスを切り裂くという行為には、はたしてどんな意味があったのだろうか・・・
そんな謎を秘めた作品です。

2007年6月、鴨居玲が67年ぶりに関西学院にやってきました・・・
運命的な出会いだったような気がします。



今回寄贈いただいた作品と、島田さんが書いてくださった作品解説です。

鴨居玲 『切り裂かれた教会』 (F50号)(1970年)

 「 鴨居玲(1928~1985)は金沢美術工芸大学卒。1969年「静止した刻」で安井賞受賞。父が新聞記者であった関係で転居を繰り返すが、中学時代に関西学院で学ぶ。24歳から西宮、神戸に住み、フランス、ブラジル、スペインなど海外でも生活。
「教会」シリーズはヨーローッパで生活するなかで直面した宗教という壁に対して自分の存在を問いかけた重い作品です。1969年から始まり、試行を重ね、結局は神秘的なブルーの中空に傾いて浮かぶ「教会」へ辿りつきます。
 本作品は1970年、当時としては大作の部類に属する描きかけの浮遊しない教会の絵を鴨居玲がナイフで切り裂いたものです。
鴨居玲が弟のように可愛がっていた現代美術家として活躍している榎忠と話し込んでいた時のことです。妥協を許さない作家の姿勢をカンバスを切り裂くという行為で示し、「厳しく良い仕事をしろよ」と若い作家へのメッセージとして榎忠に託されたそのカンバスは、やがて私に託されました(1996年)。自死ともとれる57才での人生への訣別もまた作家の自己表現であったのでしょう。貴重な資料として鴨居玲に縁のある関西学院に所蔵していただくことは意義の深いものがあります。           2007年6月  ギャラリー島田 島田 誠  」


コメント (3)
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遠藤泰弘

2007年05月26日 | 勤務校所蔵美術作品紹介

『かさねる 白』1994年100号F

遠藤泰弘氏略歴
1934年神戸市生まれ、1958年武蔵野美術大学西洋画科卒業、NHK就職
1984年NHKを退社し画業に専念
1996年逝去

NHKの舞台装置設計の仕事も充実していたものであったにもかかわらず、NHKを退社されて制作活動に専念するという道を選ばれた遠藤氏は、世俗を離れて孤高で清廉な求道者のような姿勢を死の直前まで貫き通されました。

花や木や、自然を見つめ続けた遠藤氏の作品は、やがてその自然の構造そのもをつかみとります。デリケートな画質の奥底に、ゆるぎない力強さが秘められています。

遠藤泰弘氏の先生である麻生三郎氏のコメントを紹介いたします。
「黒白で立木を描いたのがよかった。ごく自然に描いている。このような質の絵はすくなくなった。自然なのだ。その人自身の自然さで描いているのがすきだ。このごろ絵が物化してきている。方法が先行している絵が多い。絵はたしかに「物」にはちがいない。その「物」の必要もあるが、人間の内側の自然さがなくてはだめだ。それがぶち毀れてきている。
・・・まったく呼吸するように自然な心の状態がなくなったらたいへんだ。
 遠藤君の絵はそういう自然さのなかで仕事が進行しているのだと思う。
絵のなかにやさしさのような質が感じられるがそれは大切な自然さだ。
そして彼は逆に絵から見られていることもよく知っている。」
(麻生三郎)

『かさねる 白』は、抽象絵画ですが、白が生み出す、豊かで奥行きのある空間は、生命や希望をも感じることが出来る魅力的な作品です。余分なものがいっさい描かれていない、一筆一筆の作家の呼吸を感じることのできる遠藤氏の代表作といえます。

ご遺族のご好意により、本校の所蔵するところとなりました。

(遠藤泰弘氏1989年頃アトリエにて)
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田中忠雄

2006年10月04日 | 勤務校所蔵美術作品紹介

「弟子の足を洗う」80号P(1957年)

田中忠雄は1903年北海道札幌市に牧師の息子として生まれました。11歳の時神戸に移住し、神戸第二中学校(現兵庫高校)在学中に、小磯良平と出会い絵を始めたとされます。当時、神戸の原田の森の関西学院の建物等をよく描いていたといわれます。京都高等工芸学校卒業後、上京し、前田寛治写実研究所に学び、1930年協会、二科展などに出品。1930-32渡仏。1945年行動美術協会創立会員として作品を発表。1969-74武蔵野美術大学教授。聖書の主題にテーマを求め作品を数多く生み出していきました。1995年没。

学院には本作品以外にも、中学部に「空の鳥を見よ」、社会学部に「よきサマリア人」、商学部に「クレネシモンの行い」などの所蔵作品があります。


「弟子の足を洗う」は、主イエスが弟子の足を洗うという、洗足の場面です。
この洗足は、イエスが十字架にかけられる直前の最後の晩餐の席で行われたものです。
イエスは、自身がこの世を去る時、最後まで弟子達を愛したということが、聖書のヨハネによる福音書に示されています。
これが最後の晩餐と走らない弟子たち。
普段と変わらない夕食の席で、イエスが弟子達の足を洗いました。
ひとりまたひとりと、順番に弟子達すべての足を洗います。
足を洗うという行為は当時最も身分の低い奴隷のする行為でした。
その僕(しもべ)の姿となったイエスは、そのことによって神様の愛を現しておられるのでしょうか。
神様によって罪を洗い清められた私達は、綺麗に洗われたこの足で道をまっすぐに、歩んでいかなければならない・・・・
田中忠雄氏の深い信仰に導かれた作品は、静かに、でも力強く、私たちに語りかけてくれます。


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S.W.ヘイター

2006年10月02日 | 勤務校所蔵美術作品紹介


S.W.ヘイターは1901年ロンドン生。地質学者として歩み始めますが、美術の分野に転向しました。1930年ごろまでは具象的な絵画制作を行っていましたが、1930年以降は線のオートマティズムによる作品や流動体のイメージの作品を生み出していきました。銅版画の制作において「一版多色刷り」という画期的な技法を生み出し、その技法は現在でも「ヘイター法」として現代版画の有力な技法となっています。

S.W.ヘイターの版画工房「アトリエ17」(パリ、ニューヨーク)には、カルダー、エルンスト、ジャコメッティ、ミロ、ピカソ、ポロック、シャガール、ダリ、タンギーなども通い、その顔ぶれは20世紀美術の中心的存在といえます。
日本人としては、具体美術協会の新人であった松谷武判がパリにわたり、ヘイターの元で学び、現在も現代日本美術を代表する作家として、ヨーロッパと日本を中心に活躍しています。

この作品は1976年作の銅版画「Sea Serpent(海蛇)」エディション55/75です。
オートマティズムな線の表現と、流動的な色面分割が見事に調和した深い作品です。空間がどこまでも深く視る人の視覚を引き込んで生きます。S.W.ヘイターの銅版画作品の中でも代表作といってもいいものだと思います。
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西村 功

2006年07月15日 | 勤務校所蔵美術作品紹介

「待つ人と降りる人1982年80号P」

西村 功(1923-2003)略歴
大正13年10月26日大阪に生まれる。
幼い頃悪性の中耳炎により聴覚を失う。
17歳の頃より中之島洋画研究所へ通い本格的に絵の勉強を始める。
1947年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)卒業。
西宮に戻り、聾学校で教鞭を執る傍ら創作活動を続け、二紀会、西宮美術協会に出品。
1965年第9回安井賞受賞。
1971年より神戸に住む。
生涯を通して、パリへの取材旅行を続け、パリのメトロ風景など多くの秀作を残す。



神戸から全国に作品を発表し続けた西村氏は、その温厚な人柄から多くの人に愛され、慕われました。また、その作品には、純粋で静かな時が刻まれており、人間愛に満ちた作品といえます。
2006年4月15日から5月21日まで西宮市大谷記念美術館で開催された回顧展「パリを愛した画家―西村功展」に出品された本作「待つ人と降りる人(1982年80号P)は、今は少なくなってきた白煉瓦のパリのメトロを好んで描いた西村氏の作品の中でも代表作のひとつと言えます。
電車がやってきて、ホームを多くの人が行き来する。そんな場所で、西村氏は一人静寂な世界を築いてきました。西村氏は何を視ていたのでしょうか・・・

今回、ご遺族のご好意によって、本校の所蔵することとなりました。




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