肺がん末期の母

2011年1月末に肺がん末期と診断された母のことを綴っていこうと思います。

入院3日目

2011-02-11 00:25:02 | 入院
入院3日目。

今日は祝日なので、娘と甥っ子のYを連れて病院へ。

Yと娘に会ったら母もきっと喜ぶだろうね^^
そう思って心軽やかに行くと・・・

ベッドに寝ている母は昨日とは別人だった。

鼻からチューブを入れて、まるで死人のような寝顔に
ドキっとする。

看護師さんがやってきて、
「酸素不足なのでチューブで酸素を送ってます。」
とのこと。

どうやら痛み止めの錠剤を倍に増やしたからか
睡眠不足だからか目を開けてもすぐに閉じてしまう。

夢うつつな状態だった。

昨晩も眠れなかったようで(30年以上夜型なのだから
当たり前なんだが)朝からずっと眠っている様子。

Yや娘の顔を見ても話が出来ずすぐ目を閉じてしまう。

薬のお陰で痛みはなくとも、
こんなにうつろうつろな状態では生きている意味が
あるのだろうか・・・
そんな事を考え、ぞっとした。

時折目が覚めるとモゴモゴっとジョークをいいケタケタ笑う姿を見ると
「あぁ、生きていてくれて嬉しい」
そう思える。

痛みだけはいやっ
そう言っていた母。
痛みがなくまるでボケ老人のような母・・・
どっちが幸せなんだろうか。


入院二日目

2011-02-10 00:08:06 | 入院
母の入院しているがんセンターは面会が午後1時から8時までなので、
昨日で足りないものを購入してから病院へ。

ポット・毛布・薄手のパジャマ・ぶじっこ・コーヒー・海苔・ミルク
などなど。

病院に着くとお昼ご飯中だった。
食欲はあまりない様子。
便が3日でていない。

母も私も食べたらすぐ出る体質なのだが
オプソ(モルヒネ)を飲むと便秘になるので
便を出す薬も飲んでいるがなかなか出ていないらしい。

浣腸はまだ抵抗があるみたい。

夜はやはり眠れなかったようだ。
モルヒネの量が増えたからか、寝不足だからか
時々おかしなことを言う。

幻覚?幻聴?

医療で使うモルヒネにはそんなことはないらしいけど・・・。

ふっと目が覚めるように我に返るらしく、
おかしなことをいっていたと気付くと大笑い。

ソレを見てほっとして私も大笑い。

眠そうだから横になっていいよって横になろうと
体を横に倒すと激しく背中が痛み出し、大声をあげて
テーブルの上のものを払いのける。
「こうやって当り散らしたくなるんだよ!!」
って。

うん。いいよ。
当たっていいよ。
どんどん投げていいよ。
生きているなら。

飲み薬のオプソを10ml飲む。
10分くらいすると落ち着いてくる。
錠剤にくらべ、オプソは即効性もあって体にも優しい。

あまりに痛みが酷いようなら点滴にしてみる?と
何度も聞かれるが、24hチューブでつながれてしまうのもいやらしく
抵抗があるのか錠剤で頑張るという。

痛みが落ち着き、暖かいお風呂に入りたいというので
看護師さんに頼んで連れて行ってもらう。

お風呂からあがるのを待つと母の店で働いてくれていた女性がやってきた。
病状を聞かれはなすと泣き出す彼女。
泣いている彼女を見たら母がどんな思いをするだろうと不安だったが
戻って来た母を見て馬鹿話をしたり笑いおどける彼女。

店での彼女はいつも大酔っ払いでまともな話なんて
したこともなく、正直私は良い印象がなかったんだけど^^;

とても暖かく、前向きで楽しい人だった。

母も楽しいらしく、とてもよく笑い嬉しそうだった。
よかった^^

夕方に先生がやってきた。
治療をするのかどうかの話になった。
骨が豆腐状態だってことが気になっていたが、
骨を強くする薬があり、それを始めるために
口腔外科に行って歯茎のチェックを受けてくださいという。

え?
骨は再生不能かとおもってた!!
まじで??

嬉しさがこみ上げる。
やっぱり、ほら、母は強運の持ち主じゃん!

っと心の中で万歳^^

希望はまだあるよ。
まだあるんだ。

「後5年・・・孫の為に生きたい」

兄の子供であるYは、母にとって子供のような存在でもある。
幼い頃から不遇なY。
実母とは幼い頃に別れ、母が母親代わりで育ててきた。
そのYももうすぐ中学3年生。
高校卒業して独り立ちするまでは見届けてあげたい。
母の切なる願いだ。

治療始めて、抗がん剤が辛くて途中でやめても
誰も責めないよ。
とにかく始めよう。
やってみよう!!

入院

2011-02-09 09:53:13 | 入院
2/9(水曜日)

AM9:45 癌センターへ。

入院の手続きをして10Fの部屋へ。
母は神経質なので1人でないと眠れない。
だから個室にしてもらった。

がんセンターには大部屋と呼ぶものがあり、
そこは2人部屋だ。
そこなら入院費は食事代・治療費だけで済むが
母の気持ちを優先して有料の個室にした。
1日1万。
食費・治療費がここに加算される。
高額医療の申請をすれば治療費は9万以下になるようだ。

朝薬がなかったようで、今までにない痛そうな様子。
歩くときに左足の付け根がコキコキ言う。
病棟を案内してもらう。

個室は思っていたよりは大きく、
富士山が見える。
ベッドが硬いっと文句を言ったり
口は元気な母。

同じ病院に同じ病気で入院経験のある旦那さんを持つ
親友が入院に必要なものを教えてくれていたので
楽だった。

主治医のM先生の助手のK先生と始めて会う。
女医さんだった。

肺がんの末期で、骨への転移がPET検査で判明。
治療をしなければ2-3ヶ月の命。
早ければ1ヶ月。
放射線・抗がん剤で治療していくかどうかは月曜に話すことになった。

骨への転移・・・。
最後の希望が閉ざされた気がした。
覚悟はしていた。
だからそんなにショックは受けてないつもりだった。

母はショックだったろうな・・・。

その日は痛みから何度か兄と私に当たることがあった。

介護保険の担当者が見舞いにきてくれた。
Sさんのお母様も半年前に亡くなったそうで、
話しているうちに涙を流していた。

「痛いくらいなら死にたい」
そういう母に
「残された人のことを考えてください。
 もっと生きることを考えてください。
 そのための保険です。」
そういってくれた。

母は涙ながらに
「治療すればするほどこの子達に迷惑がかかる。
 迷惑をかけたくないんだよ」
と何度もいう。

Sさんが言うには母の保険はとても良い物で、
癌の場合、一時金は勿論、入院の際には通常5000円(日)だが
25000円下りるのだという。

だから心配せず治療に専念してくれと。
ありがたい言葉だった。

母に言いたいことはひとつ。
死んだ後の保険金より生きてくれている間
お金を気にせず治療できるだけで私は十分です。

何もしないより、してダメなら諦めもつく。
諦めるのが先なんてイヤだよ。

夜また病院へいくと
CTの結果が(今日撮った)出ていて、骨が豆腐のような
状態でちょっとしたことで折れやすくなっているので、
歩いたり無理せず、トイレにいくのも車椅子でといわれたそうだ。

うん・・・
知ってる。
骨への転移ってそういうことだよね。
そっか・・・そっか・・・・
もうそんな状態なんだね。
本当に末期なんだね。
奇跡は起きない?
起こせない?

貴方は強運の持ち主じゃない。
いつも逆境を乗り越えて
良い環境にしてきたじゃない。
まだドンデン返ししてくれそうな気がするよ。

帰り道、娘にきかれる。
「Pちゃん(母)はもう治らないの?」
たぶんね・・・
けど、Pちゃんの前では笑っていてね。
笑うと体にはとてもいいんだよ?
『「笑う門には福来る!!」だったよね!!』
と、習ったばかりの言葉を言う娘。

そうだ。
そうだよね!!
偉いな!!娘!!!
そうだよ、笑おう!

といいつつ泣いてばかりの私。
だめだな・・・。


3回目の検査「気管支鏡」

2011-02-09 09:23:18 | 2011年2月
今朝も娘の熱は下がらず、
学校はインフルエンザが流行っているので
37度以上ある場合は休ませて欲しいとのプリントを
以前受け取っていたので休ませた。

義母はお出かけなので今日は頼めず、
義妹が休みなので、夕方見に来てもらえるように
頼んで、検査に行くつもりだったが、
兄からTELがあったのでどうする?と相談し、
娘が熱以外は元気そのものなのでギリギリまで
家にいて、病院へ向かうことに。

気管支鏡が4つある検査の中で一番辛いはず。
何がなんでも傍にいたい。

兄と共に病院についた母は
昨日とは打って変わって病人そのものだった。
左足の痛みが増して歩くのも困難な様子。

骨に転移していれば、骨はかなりもろくなり
いとも簡単に骨折する。

検査以外に先にM先生との問診がある。
兄と3人で会うことに。

・背骨の痛み
・足の甲がつる
・血痰
・熱が上がる

「骨に転移しているのでは?」
と聞くと
「可能性はあるかも」

「こんなに進行は早いのか?」
と聞くと
「早いねぇ・・・こんなに早いのは珍しいね・・・」
といわれた。

今日の検査ではがん細胞を取り出し、悪性か良性か調べるので
それではっきりと癌かどうか決まるという。

8日には最後の検査PET検査があり、
そこで骨への転移があるかどうかが分かるそうだ。

あまりの痛みに入院を勧められる。
9日に入院し、モルヒネを点滴注射でいれていき、
痛みを取ろうととのこと。

飲み薬では一気に量を増やせないので
点滴注射で24時間点滴していって、痛みがなくなる量を
探し出し、それに見合う薬が飲めるようになるそうだ。
そうすれば痛みがないので生活に支障がでなくなる。

これって・・・本当に末期の人への対応じゃない?
と心の中が不安でいっぱいになる。
兄と母を外へ出したあと
先生と二人きりで話しをする。

こんなに急激に痛みが増して転移していることはあるのかと
聞いてみた。

めったにはないことだけど、万が一進行が早いのならば
余命は1ヶ月以内と思って欲しいとのこと。

後で兄には話すが母には内緒にしておいた。

余命が1ヶ月以内??
何が出来るの?
はぁ?
頭が真っ白になって旦那に泣きながら夜話した。

母は癌云々よりも目下の痛みが先で
痛い箇所を取り除いて欲しいのが優先。
9日に入院できるといいな。

4回目の検査「PET検査」

2011-02-08 09:42:03 | 2011年2月
PM1:45~ PET検査

4つの大きな検査が今日で終わる。
PET検査とは簡単に言うと、
癌の転移が体中のどこにあるのか分かる検査。

検査方法は体内に注射でブドウ糖を注入して
甘いものに集まってくるというがん細胞の性質を
生かして撮影する検査らしい。

体内に集まったがん細胞は赤く表示されるそうだ。

検査の間、傍にはいられないので院内を散策。
中庭を歩いてみた。
小川があったり池がある中庭は季節はずれだからか
花は咲いてはいなかったがとても気持ちが良い。

その時、病院から明日から入院できますとの連絡があった。

全国でも10本の指に入るこのがんセンターは
通常申し込むと2-3週間は入院待ちになっているらしい。
が、重病で必要ということで早めに許可が下りた。

検査を終え、自宅へ戻り
片っ端から保険屋にTEL。

国民共済、県民共済、全労災のがん保険、住友の介護保険と
母が入っている保険は山ほどあった。

母は、母の母(私のおばあちゃん)の介護で苦労をした。
60歳でアルツハイマーになり、5-6年介護を必要とした。
母は3人兄弟の末っ子だったが、母が面倒を見た。
夜は仕事でいないので、受験生だった私が夜は世話をした。
その時気が狂いそうになり、母に懇願したのを覚えている。
母はそんなおばあちゃんを見て、自分が将来こうなったら?
と考えて、金銭的にも肉体的にも精神的にも迷惑をかけないために
介護保険にはいってくれていたのだ。

入院一日にたいする保険料の保障は十分すぎるほどで
ほっとした。

介護保険とがん保険は癌と診断されたら一時金も下りる。
これで十分戦えるねと母と頑張る決意をする。

兄も協力的になってくれて、
こんな時だからこそ私に出来ることを考えたみた。

可能な限り傍にいよう。
赤ちゃんだった私を37歳になった今日まで
育ててくれた母に37年分のお返しをしなくちゃ。
そう決めた。