肺がん末期の母

2011年1月末に肺がん末期と診断された母のことを綴っていこうと思います。

入院13日目*水抜き

2011-02-22 23:30:51 | 2011年2月
続き→

部屋に入ると母は白いいつもの点滴を終えた後で
少し辛そうだった。
この痛み止めは効くのに15分ほど掛かるらしい。

部屋には大きな機械があって
何事かと驚いていると水を抜く為に用意されたエコーだった。

水を抜くのに先生が私にも手伝って欲しいという。
痛みの為に暴れたりしないためだ。
手を握ってあげることにした。

まるでお産のようで・・・。
私が娘を出産するとき、母は仕事人間なのに
仕事を休んで夜通し背中を摩ってくれたり、
励ましてくれたことを思い出した。
なんだか切ない気持ちになった。

右肺下部に針を刺すと
水が勢いよく飛び出してくるほど
ぱんぱんに水がたまっているようだ・・・。

チューブをつけると赤く染まった水が容器にたまっていく。
その水は血・水・栄養素を含んだものらしい。
この水を抜けば縮まった肺が広がり呼吸も楽になっていくそうだ。
本当は1000ml抜きたいが、時間は掛けられないので、
前回と同じ600mlくらい行くと母が同じ姿勢がしんどいからか
動き始めるので「もう今日はここまでにしましょうか」とK先生が
優しく声をかけてくれる。
看護師さんも「無理はよくないですからそうしましょう」と優しい。
その言葉を聞いて母は
「なんかそういわれると悔しいからもう少し頑張る!」といって
800ml抜くことができた。

始まる前体内の酸素濃度が86-88だったが、
終えると93にあがっていた。
呼吸もゼーゼーといっていたのが
すーすーっという音に替わってかなり楽そうに思える。

本人はあまり意識がないのか
「楽かも?」程度(笑

肺がどのくらい広がったか確認するために
レントゲンを撮りに行く。

水を抜いている最中k先生が申し訳なさそうにこういった
「すいません。ご家族にこんなこと(手伝い)させて・・・」

『???
 なにがですか?』

「ご家族はこういう姿見たくないでしょうし・・・
 辛いですよね・・・」

『いや?面白いですよ^^』

そういうと驚きながら笑っていた。

『痛がっていたり、苦しがっていたら
 やっぱり辛いですが、今痛みを感じてないみたいだし
 むしろ呼吸が楽になっているのならよかったです』
そういうと
「多分痛み止めを飲み続けているから感じてないのでしょうね。
 普通ならかなりの痛さです」
そういわれて胸が痛んだ。

その後k先生が部屋にやってきて
絵に今の母の病気を示して説明しに来てくださった。

母が希望した説明なのに、
聞いている傍から目を閉じてしまう。

「また今度にしましょうか?」
そういわれると目を開けるが・・・

多分、知りたいけど知りたくないと自然に拒否しているんだろうな。

アルツハイマーになる一番の原因は
見たくない知りたくない現実から始まるそうだ。

母はきっとそんな心境なんだろう。

『私が替わりに聞いて、
 知りたいときに説明します。』

そういって説明してもらった。

病気の原因は肺がん。
右上に大きな腫瘍があり
その腫瘍から
肺のつなぎ目の置くにあるリンパ節に小さい転移。
骨は胸椎4箇所(内3箇所は放射線治療済みで痛みはない)
左骨盤の上1箇所(ヒビが入っていて、これも放射線済み)
肝臓に小さい転移が見つかったそうだ。

もう手遅れな母の体は、正直もっと転移が多いと
思っていたが・・・
意外と少なかった。
体力さえあればきっと抗がん剤は出来るんだろうな。
それが聞いた印象だった。

夜、甥っ子の夜ご飯などを世話してくれているMちゃんからTELあり。
何事かと思うと母が乱心して電話で怒っていたとのこと。
怒っている原因はMちゃんが長居して甥っ子の勉強の妨げをするから。
これは誤解も少々あるので、気にしなくていいよ。
いつもありがとう、感謝しているんだよ?と伝えた。
Mちゃんも今日はYママの命日と知っているから
気が気じゃない様子。

大丈夫。
母は完全看護の中にいるんだし、
安定剤や眠剤を投与されて眠るから。
そう言ってMちゃんを宥めるもやはり22日なだけに
気になって、電話をするが電話には出てはくれなかった。

何事もなければいいけど・・・。
何事もないから私の電話は病院から電話ないんだ。
そう思って今日を終えた。

入院9日目

2011-02-17 02:06:57 | 2011年2月
娘は今日から義母が学校帰りから見てくれるので
安心して病院に行ける。

病室に行くと、ベッドでガサゴサしている母。
昨日の放射線をやったことに気付いていない。
「今日夕方から放射線の治療だよね?」
と聞いて来たので
「いやいや、もう昨日しちゃったんだよ?」
と言うと、嘘つきと思われた(笑

説明するとまったく信じられない様子で。
「痛みは早くて金曜にはなくなるって。」
何度と同じ説明を繰り返すが
最後には看護師さんに聞いて
「そうですよ~」といわれるまで信じてもらえない私って@@

PM3時頃からあまり痛いといわなくなってきた。

母は「気」を信じているので、
抗がん剤が無理なら気で治そうと思ったのか
私にやれという。

えええー・・・w
私信じてないのに?w

と思いつつも母がそれで治るならやってみるか!!
っと、気を込めて当ててみる。
「効いてきた!」
というから困ったもんだw

けどそうならいいね。
気の医院にも電話をして説明して病院に来てもらえることになった。
来週の水曜日。
頑張るという意思が見えたから
今日は素敵な日に思えた。
よかった。

病は気からだもんね、
がんばろうか!

3回目の検査「気管支鏡」

2011-02-09 09:23:18 | 2011年2月
今朝も娘の熱は下がらず、
学校はインフルエンザが流行っているので
37度以上ある場合は休ませて欲しいとのプリントを
以前受け取っていたので休ませた。

義母はお出かけなので今日は頼めず、
義妹が休みなので、夕方見に来てもらえるように
頼んで、検査に行くつもりだったが、
兄からTELがあったのでどうする?と相談し、
娘が熱以外は元気そのものなのでギリギリまで
家にいて、病院へ向かうことに。

気管支鏡が4つある検査の中で一番辛いはず。
何がなんでも傍にいたい。

兄と共に病院についた母は
昨日とは打って変わって病人そのものだった。
左足の痛みが増して歩くのも困難な様子。

骨に転移していれば、骨はかなりもろくなり
いとも簡単に骨折する。

検査以外に先にM先生との問診がある。
兄と3人で会うことに。

・背骨の痛み
・足の甲がつる
・血痰
・熱が上がる

「骨に転移しているのでは?」
と聞くと
「可能性はあるかも」

「こんなに進行は早いのか?」
と聞くと
「早いねぇ・・・こんなに早いのは珍しいね・・・」
といわれた。

今日の検査ではがん細胞を取り出し、悪性か良性か調べるので
それではっきりと癌かどうか決まるという。

8日には最後の検査PET検査があり、
そこで骨への転移があるかどうかが分かるそうだ。

あまりの痛みに入院を勧められる。
9日に入院し、モルヒネを点滴注射でいれていき、
痛みを取ろうととのこと。

飲み薬では一気に量を増やせないので
点滴注射で24時間点滴していって、痛みがなくなる量を
探し出し、それに見合う薬が飲めるようになるそうだ。
そうすれば痛みがないので生活に支障がでなくなる。

これって・・・本当に末期の人への対応じゃない?
と心の中が不安でいっぱいになる。
兄と母を外へ出したあと
先生と二人きりで話しをする。

こんなに急激に痛みが増して転移していることはあるのかと
聞いてみた。

めったにはないことだけど、万が一進行が早いのならば
余命は1ヶ月以内と思って欲しいとのこと。

後で兄には話すが母には内緒にしておいた。

余命が1ヶ月以内??
何が出来るの?
はぁ?
頭が真っ白になって旦那に泣きながら夜話した。

母は癌云々よりも目下の痛みが先で
痛い箇所を取り除いて欲しいのが優先。
9日に入院できるといいな。

4回目の検査「PET検査」

2011-02-08 09:42:03 | 2011年2月
PM1:45~ PET検査

4つの大きな検査が今日で終わる。
PET検査とは簡単に言うと、
癌の転移が体中のどこにあるのか分かる検査。

検査方法は体内に注射でブドウ糖を注入して
甘いものに集まってくるというがん細胞の性質を
生かして撮影する検査らしい。

体内に集まったがん細胞は赤く表示されるそうだ。

検査の間、傍にはいられないので院内を散策。
中庭を歩いてみた。
小川があったり池がある中庭は季節はずれだからか
花は咲いてはいなかったがとても気持ちが良い。

その時、病院から明日から入院できますとの連絡があった。

全国でも10本の指に入るこのがんセンターは
通常申し込むと2-3週間は入院待ちになっているらしい。
が、重病で必要ということで早めに許可が下りた。

検査を終え、自宅へ戻り
片っ端から保険屋にTEL。

国民共済、県民共済、全労災のがん保険、住友の介護保険と
母が入っている保険は山ほどあった。

母は、母の母(私のおばあちゃん)の介護で苦労をした。
60歳でアルツハイマーになり、5-6年介護を必要とした。
母は3人兄弟の末っ子だったが、母が面倒を見た。
夜は仕事でいないので、受験生だった私が夜は世話をした。
その時気が狂いそうになり、母に懇願したのを覚えている。
母はそんなおばあちゃんを見て、自分が将来こうなったら?
と考えて、金銭的にも肉体的にも精神的にも迷惑をかけないために
介護保険にはいってくれていたのだ。

入院一日にたいする保険料の保障は十分すぎるほどで
ほっとした。

介護保険とがん保険は癌と診断されたら一時金も下りる。
これで十分戦えるねと母と頑張る決意をする。

兄も協力的になってくれて、
こんな時だからこそ私に出来ることを考えたみた。

可能な限り傍にいよう。
赤ちゃんだった私を37歳になった今日まで
育ててくれた母に37年分のお返しをしなくちゃ。
そう決めた。

店にいるときの母

2011-02-04 09:39:49 | 2011年2月
土曜日も夜中居酒屋のバイトへ。

母は店に出ていないと思っていたが
店に出ていて、数店舗を歩き色々話していた様子。

9日より入院したらの話をしていたのかな?

保険を一度きちんと見直す必要があるなぁ。
店の売り上げもどうしていくのか
考えなくては。

店にいる母は気丈で痛いとは言うが元気に見える。
仕事人だな(笑