肺がん末期の母

2011年1月末に肺がん末期と診断された母のことを綴っていこうと思います。

入院16日目

2011-02-25 01:05:07 | 入院
午後11:30
母に頼まれた仕事をしてから病院へ。
病室に着くとベッドでウトウトとしている母。
『今日もダメ~~?
 眠いのかな~?』
と聞くと
「今日もダメ~、ずっと眠いや~」

「だから今日は来なくていいよって電話しようと
 思っていたんだ~」と言う母。

まぁ、言われても来ますけどね(;゜∀゜)=3

看護師さんに聞いてみると朝はすっきりとして
20-30分シャキシャキしていたらしい。
が、その後またウトウトしだしてずっと
こんな様子だという。

眠剤のせいじゃないのかな・・・?
今日は薬の量減らしてみてくれませんか?と
頼むが、多分無理だろうなと半分諦め。

「昨日の夜もやっちゃった。」
と笑いながら話す母。
何やったん?と聞くと、
夜中に筆ペンを口に入れて真っ黒にして大騒ぎだったらしい。
夢なんじゃない?(幻覚?)と言うと
看護師さんに聞いてみ?と言う。

口の中を見ると確かに墨っぽい色がところどころに
残っているし、娘が買った可愛いパジャマの腹部には
墨が沢山ついていた。

∑(´□`;) ・・・。

看護師さんに聞くと
多分眠剤が抜け切れていない夜中に起きて
手紙でも書こうとして筆ペンのキャップが外れているのに
キャップを外そうと口にして真っ黒になってしまったんじゃないかとのこと。

ううーん・・・。
ううううーん・・・。

昼食もやはり食べれそうな気配はない。
うどんを1/5食べ、パイナップルを3欠片。
朝もまったく食べていない様子。

体は入院する前と比べると痩せていて
足や腹の肉がなくなり、
骨と皮だけになって、皺が縦にできてしまった。
そんな体を見て
「あ~~、もう死ぬんだな・・・」
という母。

午後お風呂に1:30に入ろうと看護師さんに言われ待つ母。
元々待つのが嫌いでせっかちな母は1:30と約束したのに
お風呂にお湯がはってないのが許せなかったりしてイライラしだす。
元々短気だったけど、ますます短気になった気がする。

お風呂から戻ると頭も乾かさずすぐ横になりゼィゼィ言う。
ドライヤーを横になったままかけて乾かしてあげる。
だんだんと座る時間が短くなっているようでぞっとした。

午後3時形成外科の先生が来て雑談と痛みについて話をする。

食事は取れてますか?そう聞かれ食べる気力もないし、
食事がまずいというと、先生がゼリーはどう?と聞いてきた。
母がそれいいねみたいな顔をする。

入院後何度も食べれそうなものを聞いたりしていた中に
ゼリーがあったのに、要らないと答えた母。

「このこね、買って来てくれないの。」

先生にそういった。

多分母のいつものブラックジョークだったのだろう。

私は毎日午後から7時過ぎまで病院で
話しかけたり、さすったり、世話をしてきたつもりだったから
カチンっときてしまった。
『前に聞いたら要らないっていったじゃん!
 冷蔵庫にはフルーツもヨーグルトもあるよ!』
っと、テーブルに並べて食べれるようにすると
「こんなの要らないよ」
というから片付けようとすると
「これ(ヨーグルト)は食べるよっ、なにしてんの。」と
怒られまたイラっとする。

イライラマックス。
入院後初めての経験だった。

あまりのイライラに落ち着こうと椅子に座って
富士山を眺めて深呼吸するものの、
悔しさで涙が溢れそうになる。

「自分はしているつもりでも
 相手がそう思ってなければ
 伝わってないってことだね」

そう母が言うので余計に涙がこぼれそうになる。

そっか。
そうかぁ
そうなんだ。
伝わってないんだね。
私はなんもしてあげれてないんだ。
そう考えて全ていやになった。

丁度看護師さんがやってきたので、
娘の習い事あるから帰るねと言って
いつもの数時間早く病室を出ようとすると
「怒って帰ってる(笑」
と母に言われる。

べーーっだ!!
もうしらないよ!!!
今日は無視しちゃうからね!!

怒ってるんじゃないんだよ。
失望なんだ。
自己満足って分かっていても、
認めてほしかったんだね。
切ないな。

帰り道大きな声で歌うけど気が晴れない。
兄貴にメールして愚痴ると
「おまえさー、今ばーさんはボケ老人と同じなの。
 性格はあのまんまなボケ老人。
 それなのにいちいち真に受けて、
 さっさと帰ってんの?何してるんだ。
 冷静になれ。ぼーけっ」
と返ってきた。

わかってるよー。
わかってるけどさー・・・
私だって人間なんだよー・・・。

家庭放置して、毎日来てるんだよ。
好きなことはひとつもしてないよ。
それでいいと思ってたのは
母の支えだと思っていたからなの。
否定されたら私困るじゃん。

けど、夜心配で眠れない。
母はあの後寂しくなかったかな?
夜中辛くて暴れてないかな?
もし、急変して今日いなくなったら・・・
私はあれが最期の会話なの?
と。

明日からはまた頑張ろう。
大阪からおじさんたちもくる。
日曜は3時間だけだけど、
外出もあるからね。





入院15日目

2011-02-24 00:37:23 | 入院
昼前に保険屋Sさんと会う。
母の診断書が病院から出たので、
一時金の請求書を一緒に渡した。

来週辺りには入ってくるそうで、
足りない時は保険金から下りますからと念押ししてくれた。

昼過ぎに病院へ。
今日は痛みがほとんどないが、昨日のように眠気が多く
頭がぼーっとしているようだ。
そのため、話をしたり相談・説明になるとわずらわしいらしい。

「痛みはある程度あっていいから
 考える力が欲しい。
 こんな風にぼーっと過ごすのはいやだ」
と言うようになった。
「抗がん剤は無理なの?」
何度も聞かれ、
『今やっても体力奪われて死が近づくだけだし
 抗がん剤で死ぬ人もいるんだよ?
 気の先生のお母さんも抗がん剤をやって死んだって
 言ってたじゃん?
 だから今は無理なの。』
そういうと、
「ノートに大きく書いておいて」
といわれ、しぶしぶ書くと
ノートを手にしてみては
「無理なんだ・・・」
そういう母。

抗がん剤が無理→死を待つのみ
そう考えるのは当然で・・・
奇跡でも起きない限りはそれは止められない。
そんなのは誰でも思うんじゃないだろうか・・・。

家族の私ですら辛いこの現実を
母はどう考えるのか、想像がつかず
胸がいたい。

今日は起きたり寝たりするとゼィゼィと
呼吸は酷くなり、口で息を必死で吸おうとする姿が多かった。

「あぁ、もう近いね。
 死が近づいているよ・・・」
と何度となく口にする。

気の先生がやっていたように胸を挟むように
胸と背中に手を当てて、念じるように

(良くなって・・・消えて・・・
 絶対まだ逝かせない
 病は気から、癌は富士山へ消えていけっ)

そんな風に気を送るしか出来ない。

気休めとしか言えないそんな私の気を受けて
母は暫くすると「楽になったよ」そういってくれる。

夕方またCさんとkさんが来てくれて、
暫し席をはずす。
夕方夕飯を4人でレストランで取り、
二人には帰ってもらった。
一緒にいると楽しそうに笑う母だが
やはり体はしんどいらしい。

さすりながら大阪のおじさんたちが来る土曜の話をする。
夕方から御殿場高原に案内しようとおもう。
イルミネーションもやってるし、
綺麗だからさ。
そういうと
「あぁ、あそこにはスケートがあるから
 やっておいで。」
とか、お金は出すんだよ?とか色々。

何で癌で逝く人がお見舞いに来る人のことを
心配したり、もてなしたりするの?アホじゃん?

『なんで貴方はそんなに人の心配ばかりするの?
 皆自己満足のために見舞いに来てるだけだよ?
 病気のときくらい、そんな心配しなくていいんじゃない?』
そういうと
「大阪のおばさんにはお父さんと一緒にいるころ
 パチンコで2万負けてね、お父さんに怒られるって
 言ったら、3万送ってくれてね、本当世話になったから。」
って。
馬鹿だなー・・・
そんなの店が順調になって余裕出来てからは
大阪に行く度高い料理ご馳走したり
おこづかいあげたりして消えてるのに・・・。
けど、やっぱりこれが母なんだよね。
そういうところはやっぱり好きだわ。

k先生が来たので、
痛みはないが一日中夢うつつで考えがまとまらなかったり
手紙すら書く気力がないので、痛み止めのせいなら
痛みが少しあってもいいから薬を減らしてくれという。

先生は痛み止めを今やめてしまえばかなりの痛みになるので、
眠剤の時間を少し早めて様子を見ましょうといってくれた。

7時には眠剤を投与。
明日は意識しっかりしてるといいね。




入院13日目*二度目の余命宣告

2011-02-22 04:21:59 | 入院
今日は母を慕ってくれて毎日のように
飲みに来てくれていたYママの一周忌。

Yママは糖尿病、腎不全、白血球が少なく血を出したら止まらない難病を抱えていて、
母の店の近くで小さな店を出していた。

在日韓国人のYママはとても美人で、気さくで酔うと癖が悪かったが良い人だった。
そんなYママは去年の今日なくなった。
自宅で発作を起こし、誰にも気付かれず数日たったとき、
母がおかしいと気付いてアパートへ行き、大家に頼んであけてもらったそうだ。

そんなYママの命日に、
肺がんと診断された母は逝くと言っていた。
告知から約1ヶ月。

病院に着くと丁度K先生がいたので
挨拶すると話しがあるといわれ別室へ。

昨日母が話した「自分の今の体の状況・病気」について
説明してもよいのかどうかという内容だった。

私が知りうる状況は昨日ノートに絵で書いて示したというと
見て分かっているとのこと。
ただ、ここからどこまで話していいのか悩んだらしい。

私としては、母に病気のことは包み隠さず伝えて大丈夫、
だけどやはり抗がん剤は無理なのか聞いてみた。

抗がん剤は最期の砦。
抗がん剤がだめなら死を待つしかないというのは
酷過ぎると伝えた。

先生曰く、
抗がん剤は日常生活をこなせる体力があることが条件で
始めて行く治療ということと、
副作用によって死に至る場合もあること
体力がない場合は命を削っていくだけだということを
話してくれた。

では、回復したらできるのですね?
と聞くと

このまま痛みを取り、緩和ケアしていくほうがいいと思われます。

といわれた。
つまりは、どうせ死ぬから辛い治療をする必要がないってことなの?

嘘でもいいから母には入院前の体力まで戻ったら
抗がん剤しましょうって言ってくださいとお願いしたが
それはやはり無理らしい。

余命に関しては
11日ごろにはかなり酷かった(週単位の進行)が
今は普通の1ヶ月単位になっているとのこと。
つまり入院のときに聞いたくらいかとたずねると

桜が咲く頃まで・・・
桜が咲くのを見れるかな・・・どうかな・・・?
という感じです。

と。
ロマンチックなこというんだなぁ・・・
と呑気に考える一方
後、1ヶ月くらいしかないのかと思ったら
ぶわっと涙が出た。

私が住んでいる地域では卒業式には桜は咲かない。
大抵入学式前後だ。

あぁ・・・そうか・・・
本当にそうなんだ・・・。

奇しくもこの病院は私が卒業した高校のすぐ傍に出来た。
私の母校はいつか出来るこの病院の看護婦学校か、
病棟になるために作られて、ベビーブームが過ぎたら高校は廃校になる
予定で建てられたと卒業後に聞いた。

校舎もおかしな作りだったんだよね。
1組から10組まで横長に一列なの。
1組から10組まで休み時間に行こうとすると
すごい時間かかって大変だったな。

その入学式のとき、母は腹膜炎になって入院中で
父が替わりに来てくれたっけ。
そこで出会った親友の旦那さんは今同じ肺がんで闘病中で・・・

あはは・・・。
なんだこの運命。
めんどくさいな。

そんなことを一瞬で考えていたとおもう。

その時先生にもう一個聞かれた。

食べ物や飲み物を口にすると食道ではなく肺に落ちてしまい
それが原因で肺炎になりやすくなっている。

肺炎になるということは、命をさらに縮めることになる。
それを踏まえて、食事制限をすべきかどうかとのことだった。

ここまで来て、食べ物すら飲み物すら制限して
1-2ヶ月の命を2ヶ月にするために??

ばかばかしい。

母には長生きして欲しい。
けど、飲み物すらとろみをつけたりして
不快感を与えるの?

ああああ・・・もう・・・・
悔しくて涙が出るが先生には
「制限しないでください。せめて食事くらいは自由に・・・」と伝えた。

病室につくと
「何してたの!遅いよヽ(`д´)ノ」とイライラしながらも
私が来るのを楽しみにしている母になんだか愛おしくなった。




入院12日目

2011-02-21 04:08:45 | 入院
今日も朝TELなし。
いや、ないのが普通なんだけど^^;

病室に着くと白い点滴(痛み止めと骨の強化の薬)と、
ビタミン剤の点滴をしていた。
午前中はやはり眠かったようだが痛みはなく、
午後から少し痛み出した。

今日は便も沢山出した様だけど昼間は食べていなかった。

白い点滴でも痛みは止まらず、腹部に刺しっぱなしの点滴の
痛み止めを増やしてもらう。
それでも痛みが収まるまで1時間は掛かっただろうか。

今日は肺の水を抜くと聞いていたが
やる気配はない。

右肺の下部分から水がたまるのでたまりすぎると
肋骨が刺さるような感じで痛みが増すらしい。
それが痛くて辛そうだ。

放射線で治療したのは胸椎と骨盤の骨折している部分。
そこは痛みがなくなったようだ。

水の量を測るためレントゲンへ行く。
途中K先生に会ったので、一緒に2Fに行きがてら
眠気が酷いので薬を減らして欲しいとお願いする。
そろそろ飲む痛み止めに変えてもいいかな?と話もした。

夕方M先生とK先生の回診時
・水を抜くのは明日の午後
と聞かされてほっとしていると母が堰を切ったように
話し出す。

今の自分の体はどんな状態で
どんな病気で余命いつなのか。
この先の不安なことを訴えていた

先生「この病院に来て、初めて会ったときは
痛みが酷くて先で、病気のこと、この先のことが
考えられなかったんだね。
今は痛みがなくなって急に病気に対する不安が
生まれてきたのかな?」

なるほど・・・そうなんだ・・・。
私は全て聞いているけど、
母は痛みに集中して癌なのは分かっていても
ナゼこうなっているのか、この先なんて痛みで
考えられなかったのかな・・・。

ここ数日やたら当り散らすのはそうか
不安だからか・・・。

「心療内科の先生とは面談してる?」
といわれ、
「まだないです。お願いします」
とお願いをした。

私1人で母の悩みを受け止めるには私はまだ器が小さいし
私は娘だからこそ、言えないことがあるかもしれない。

最近は長く一緒に居すぎるせいか、
イライラも増えてやたら当たられるし@@

どーんっと受け止めるじぇーって
余裕ぶちかませばかますほど
鬱陶しいときってあるしね@@

うう・・・難しい・・・。

入院11日目

2011-02-20 03:48:36 | 入院
今日は娘のBDなので、旦那の実家で毎年恒例のBDパーティーをする。
母が心配だが、今日だけは早めに帰らせてね・・・。

入院11日目にしてやっと旦那もお見舞いへ。
今まで行きたくなかったとかじゃなく、
私から断っていたのだ。

母の店で知り合った私達。
母のことはよく知っている旦那
そんな旦那にはいつもの母を覚えていて欲しいから。
気が弱く優しい旦那だから。

ここ数日具合がよかったから今日は思い切って声をかけて
一緒にいくことに。

病室に着くと期待は外れていた。
午前中ずっと眠気があり、体が異様にだるいという。
痛みも午後になってくるとかなり訴えてくるように。
娘と旦那がいるのでなるべく気丈にふるまっている母だが
察して二人を早めに帰そうとすると母が娘にBDプレゼント買ってもらいなさいと
おこづかいを渡す。

これが最後のBDプレゼントかもしれないと
思うと涙が出てくる。

大阪のおじさんからTEL。
26日にこっちにくるそうだ。
大阪の人たちは母に会いたいと思ってくれてるので
全員で来るという。
少し仰々しいし、母に負担になっては困るなと思うが
好意を受け止めることにした。

母に話すと誰が言ったのかと怒り出す。
お兄さん(おじさん)に会ったら最期な気がするから
よして欲しかったと。

そうなって欲しくはないけど・・・
残される人からすれば死んだ後に教えてもらっても
後悔だけが募ってしまう。
仲が良い兄弟ならなおさら。
元気なうちに会えるならあって話をしたほうがいい
兄貴と二人で出した結論だった。

具合が余りよくないが横になってばかりだと夜また
眠れないだろうから散歩に行こうと看護師さんにいわれて
行くことに。
車椅子に乗ってどこへいけというのか。

緩和病棟を見て見たいというので、
4Fにある緩和病棟を見ることにした。
この病院には二つの緩和病棟がある。
1Fの離れにある緩和病棟と、一般の病棟に入っている4Fの緩和病棟の二つ。
1Fのところは中庭の離れにあるので、
前に見に行こうとしたら入れなかったので、4Fへ。

病室の間に中庭や、談話スペースがあった。
中庭に出て、中庭に面している病室を覗いてみた。
今居る個室より少し広いかな?
母はここだとこうして覗かれるからイヤだという。
いやいや、今貴方覗いてますから!w

PM4時、私は娘のところへいくために
母に「ごめんね、今日はBDやるからかえるよ?」
というと、
「ママが一人ぼっちになっちゃうよ~~、早くお兄ちゃん来てよ~~」って
電話してよっていう(笑

なんだか可愛いね。

病室を笑いながら「また明日ね」って出ようとすると

「ありがとうね」

そういう母。

ドキッとして出口からベッドに戻って
「ありがとうなんていわれると、最期になりそうでドキっとするから
 やめてね!wまたね!!」
というと笑っていた。

このところ、帰るとき私は必ず
「また明日ね。よく寝てね」
とか明日をつなげようと必死な感じ。

明日になったらどうなっているか分からない不安を11日に味わったから。
明日はまたボケ老人かもしれない・・・
寝たままかもしれない。
そんな不安がよぎってしまう。

エレベーターを降りると丁度兄貴とYが乗るところだった。

よかった。
これで1人じゃないね。
ほっとする。

夜実家から帰宅後母にTEL。
兄達は7時過ぎまで居てくれたようだ。

兄は母が病気してから変わった。
毎日病院にはこれないが、来れない時は
必ず私に「どうだった?」とメールが来て、
私が不安なときは電話も着たりする。
今日もBDで傍に居れないから4時には来て
ギリギリまでいてあげてねと言うと
それに近い形にしてくれた。

そうだよね。
こんな時こそ力を合わせてがんばらなきゃね。