25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

さきの戦争

2017年03月12日 | 社会・経済・政治

 情況への発言だけは生涯やろうと思っている。今日は産経新聞、皿木喜久が書いた「日本の戦争」を読んだ。子供たちたちに伝えたい、あのときなぜ戦ったのあ、という副題がある。

 この著者は日清戦争、日露戦争、朝鮮併合は日本の近代国家としての「自存自衛の戦いだった」となんとしても言いたいのである。

 半藤一利は戦争を回避する場面がいくらでもあったことを主張する。どちらも本当なのだろう。と言って、戦争に国民を巻き込み、反対するものを弾圧し、外国に侵略し、土地や建物を奪い、人を殺したのも事実である。戦争の結果として、空襲で大人数の国民が死に、路頭に迷わせ、沖縄が占領され、広島、長崎という悲惨に陥ったのも事実である。自存自衛という言葉には国家存亡の危機みたいな意味合いがある。

 押し付け憲法だ、東京裁判は間違っている、などと今さら言っても仕方がないというものだ。負けたものが、ヘイヘイと言うことききながら、あとになってほざくのと同じである。

 しかし、国民の、しかも若者の多くの命を権力の力で戦争に行かせて奪ってしまったのも上にいるものたちである。

  だから、もしも集団的自衛権の行使で戦地に赴くことがあったら、防衛大臣や閣僚が前線にいかなければならないとするよう言いたい。

 戦争にも解釈があるなどとするのは不思議な話である。正義の戦争も、悪の戦争と分ける必要もない。戦争そのものが悪である。多くの人はそれを知っている。これにどう立ち向かうかわからない、わかりにくいのだ。

 せめて先の戦争で多大な犠牲者をだした日本がとるべき道は永生中立国宣言だと思う。