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25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

一人ドライブ

2019年02月21日 | 日記
 久しぶりに伊勢へ。病院付き添いである。病院はインフルエンザ予防の厳戒体制で、絶対マスクが必要。麻疹警戒もところどころに警戒ポスターが貼ってある。
 妙なおとにこの伊勢赤十字病院は、11時の予約で診察が13時を過ぎていた。どうなっているのだろうと思う。名古屋大学病院で待っても30分くらいだった。なぜこれほど待たせるのか、それなりの理由があるのだろう。
 診察が終わってから精算までは速かった。この速さも初めてのことで、とにかく速かった。

 伊勢から松阪までの道路沿いにコメダ珈琲店があり、ウッドデッキまで備わっていた。いつも思うことだが伊勢から松阪あたりは平野になっていて広さを感じる。コメダは道路沿いにあったが裏は田んぼだった。コメダ沿いの道路も昔は農地だったのだろう。
 車中一人なので物事を考えることができる。考えることに飽いたら、音楽を聴く。何度でも隣に遠慮することなく、おぼえたい歌を聴くことができる。

 すっかり春の感じで車内は暑いくらいだ。車で遠出するのが億劫になってきている。
 東京までも行っていたのに、この頃は名古屋にいくのも結構億劫である。
 そうだ、ブックオフに持っていき、売る本をまとめておこうとブックオフの看板を見て思う。松阪辺りがブックオフの出店限界ラインだろう。これまで何度本を売ったことか。苦しかった時、整理しなきゃと突然思ったとき。自分にとって愛着のあるもの、データ的に価値があると思うものは残して他は売る。CDも同様である。

 服も捨てるものは捨てよう。事務所のものも出来る限りの捨てよう、と思うのだった。運転時間間は行きが75分。帰り65分だった。ちょうどよいドライブ時間である。



  

パソコン、タブレット、スマホ

2019年02月14日 | 日記
 スマホはだいたい4年もすれば劣化し、故障も始まるという。タブレットを落とし、表面のガラスが破れたが画面が見えないこともないので放っおいた。タブレットは外へ出て、仕事上で使うので、NTT ドコモと契約している。ところが外で画面を見せたい場合、自分で撮ったビデオはどのままSDや本体に保存できるし、写真も同様である。WIFIがあるところならYOU TUBEもできるわけだし、ダウンロードだってできる。
 すると、WIFI環境がない家にいくかとなれば、おそらくないと思う。ということはドコモとタブレットの契約を切ればよい。これでいくらか節約できる。
 事務所にはデスクトップのパソコンがある。これがなかなか面倒になってきた。どこかから画面に不要なものが現れる。いちいち削除する。警告がぅくるときもある。更新すべきものがいくつかあって、それをすればもっと快適になる、と言ってくる。動きが遅いので本当らしく思えてきて、そこをクリックすると、次々と誘導の案内が出てきて、年に5千円でいつでも最適化の管理をするというので、申し込むとカナダの会社だった。契約を解除することもあるだろうから解除の方法を確認するとそれが分かりにくい。

 こんな風にパソコンが面倒になってきた。知らぬ間に、知らないブラウザが出てくることもある。印刷機を替えれば、その会社からの案内が出てくる。
 ローマ字打ちして漢字変換の漢字を探し、と日本語は相当不便な入力の仕方をしなければならない上に、要らぬ物が飛び込んできて、それを削除などすることにイラつく。
 で、タブレットのような画面操作ができて、キーボードがあるものがよいと思い、店でみてみると、その種のものは10万円以上はする。タブレットだけだと3万円くらいのものだ。7万円の差はなになのだろう。迷惑なものがくるようならば、10万円以上するものを買おうとは思わない。
 こういうことを考えるのも面倒臭くなってくる。

 話が違うが、今日ウィスキー「知多」をアマゾンで買ったら、売り主のSHOJI SAKETENの「世界の酒類事典」というお酒の通販カタログである。これが凄かった。世界の酒がほとんどといっていいほど載っている。解説までついていて、値は安い。
 こういうことができるのもアマゾンを逆手にとって酒を販売し、来た客に総合カタログを送り、直接販売を行う。スマホ、タブレットでできる商売だ。ぼくの方はスマホひとつで購入できる。パソコンを使う時間もだんだんと少なくなっている。

キジに、イワシに

2019年02月12日 | 日記
 この前、曽根の庭で雉がピョコピョコと歩いていて、美しい鳥だなあと思いながらみとれていた。次に谷中の雉丼の店に何度か行ったことを思いだした。なんてことはない昔の労務者が昼に寄るような食堂だったが、脇の個室に池波志乃と中尾彬夫妻がいた。穴場の店としてJALのウィングという雑誌でこの店が紹介されていた。歯ごたえもよく、タレも旨かった。
 ちょうどその頃は池波正太郎の鬼平や剣客商売などを愛読していて、ちょっと食通めいたことをしてみたかった時分であった。
 よく尾鷲と東京を行き来していた。結局馴染みとなって定着した店はなかった。幾つかの店は思い出として残るだけだ。

 もう二月も半ばになってきたのに、鰯が獲れない。小さなカレイが揚がったらしく、昭子さんの家の前でツナギとして干してあったのをみた。すると知り合いの女性から電話がかかってカレイあるよって明日昭子さんとこへ行ってこい、と言う。するとぼくの分を作って置いてあった。鰯の話になったが、さっぱり獲れんという。サンマもイワシも獲れずでは尾鷲の市場はどうなるのだろう。黒潮は貧しい潮で、岩礁に当たってこそ泡立ってプランクトンんがわく。イワシをとる漁師がいなくなったのか、水温が高く、通り道が変わってしまったのか。毎日チェックを入れているのだが、いまのところ朗報がない。

座っているということ

2019年02月08日 | 日記
 この頃、いくつかの会社では立ってミーティングをしている。座ってするより効率が良いらしい。そう言えば暗記するなら立ってせよ、という人もいた。人間は本来動く動物で、立って歩いているのが一番いいのもしれない。様々なところが「座る」という人間のひとうつの動作が、「座っている」「座りっぱなし」になってしmあい、それが股関節を硬くし、大腿四頭筋肉を弱らせ、腸腰筋を弱らせる。それだけでなく、血管を圧迫し、血行を悪くする。すると、酸素、栄養素の吸収だけでなく二酸化炭素などの排出も鈍る。
 6時間の運動をしても3時間座ってしまえばその運動が帳消しになってぢまうほど、体に悪いという報告を聞くと、さもありなんち思うが、この座る習慣から脱出するのは相当に難しい。
 以前、床に和用の炬燵があって、和式の生活を一時期することがあった。これだとうたたねしたり、起き上がるのも無精となってしまうので、また居間を洋式にした。洋式と言ってもソファは置くことなく、学校机に毛がはえたくらいのお粗末なものだ。おかげにぐずぐずせずすぐに立つようになった。できるだけパソコンの前にいるときも、立ち上がったり、姿勢を変えたりしているつもりだが、やっぱり座っている時間が長い。座って頬杖でもついてしまえば筋肉はだらりと緩むが頬杖ぢないとしんどい時もある。頬杖、凭れる、これもよろしくない座り方である。
 人間はどうしても座る場面はあるのだから、だとすれば正しい座り方をしなければならない。最近「若返りの薬 ネオエイジングGHRP-2という薬がでたそうで、アメリカで錠剤で売っているらしい。医師の処方が必要である。日本では注射用が主流らしいが、1個の細胞の図はぼくらが習った頃の細胞図とは全く違う。細胞格言とかミトコンドリアなどは同じだが、細胞骨格というフィラメントなどが網の目のように張っている。細胞分裂を起こす原動力となるたんぱく質線維であり、筋肉などの元となっているナノサイズのものだ。
 これは人工的に細胞から若がえらせるものであるが、もしも人間が動かない植物のような動物になったら、この薬が多用されるのか、無駄となるのか、考えてしまう。
 とりあえずは最低限の動きができればよいので、それは維持しなければならない。腰痛はや膝痛、股関節痛なぢのロコモティブシンドロームは立つことを台無しにするから、用心している。

  昨年2月に書いたもの

















おぼえられない

2019年02月06日 | 日記
中島みゆきの EAST ASIA をおぼえているのだが、何度聴いてもおぼえられない。おそらくこれまでの僕の脳にない複雑なメロディであり、歌詞の流れ方をしているのだろうと思う。FADの一曲がなかなかおぼえられないのと同じで、メロディとかリズムには親しみ馴れたものがあり、初めてのものを身体に取り込むにはなかなかたいへんな努力がいるように思う。音楽にはいささか自信があっただけに、覚えられないのには参ってしまう。以前、桑田佳祐の「サウダーデ」という曲を何度も何度も聴いておぼえた。これにも時間がかかったが、今ではスーッと間違いなく出て来るし、この曲がさして難しいとも思わなくなった。つまり身体に入ったのだ。
 いっそのこと、楽譜を買おう、と思って調べてみたら、中島みゆきの楽譜全集で中古のものはアマゾンにあって、7700円ほどで売っていた。ほとんどの曲が載っているのだろうが、一曲のためにこれを買うというのももったいない。ヤマハがダウンロードして楽譜を印刷できるサービスをやっている。それには手続きがいるので、これも面倒なことだと思ったのだった。本当は便利なサービスのはずが、なのに。
 それでやっぱり聴きとおしておぼえるしかないと思っている。脳がだんだん腐ってきているのだろうかとも思う。若い人なら簡単におぼえてしまうような気がする。

 今小説を書いていて、一応書いたのだが、どうもすっきりこなくて、何かを挿入したら全体がまとまるみたいな感覚があって、それをいつも頭の隅に置いてある。昨晩の夜中小説を読んでいて、突然、その挿入すべきことが浮かんだ。小説の中にヒントがあったのである。よし、と思って寝たら、翌日忘れてしまっている。午前五時に目を覚ましたとき、おぼえていない。それであわてて、また昨晩読んだところを読んでみた。どこがヒントだったのかわからない。もしかして読書をしていて夢でもみたのか、と怪しんでいる。今日はそれを思い出すことに精を出す。

アルコールのとりすぎ

2019年02月04日 | 日記

 体重が増えていく傾向にあり、これは食べすぎ、飲みすぎだとわかるのだが、これは血管を硬くし、血液をつねにドロドロにし、血圧を上げ、肝臓を傷め、腎臓を弱らせ、骨や関節、筋肉に負担をかけ、となにもよいことはない。計るだけダイエットは有効であるが、ぼくのようなものはそのくらいの方法では甘いと思うようになった。アルコールである。アルコールの分解に肝臓が疲れているのはわかるし、夕方の5時からは絶えず、脱水状態だということもわかる。すると当然、血液、血管に支障がくる。またアルコールはカロリーも高いため、糖分が脂肪に替わり、脂肪肝になり、中性脂肪になる、だろうと考え、一昨日は6時頃350ml缶の発泡酒を2缶飲んだ。(ノンアルコールビールもそうだが、発泡酒もずっと美味しくなっていることに最近驚いている)
 すると、睡眠の質が違ったと実感した。それで気をよくして翌日も2缶にしたが、米倉涼子と黒木華の「疑惑」がとても面白かったので、途中もう1缶飲んでしまった。それでもまだ10時頃のことである。
 2缶と3缶とでは微妙に睡眠の質が違った。やはり1缶は余分だと思った。あるいは、1缶余分に飲めばコップ2杯ほどの水を飲めばいいかな、と思った。そして寝る前には尿は出し切っておく。
 眠るまでに十分読書もできる。それに読んだことも覚えてもいる。
 昨夜などはロシアが2020年までに食糧自給率を100%にすると、国家プロジェクトで、有機野菜に取り組んでいるらしい。ところが種子の購入にアメリカに5兆円ほども払っているらしく、それを止めるため、独自に自然な方法で交配を重ね、遺伝子組み換えを否定し、新鮮でおいしく、安全な野菜や穀物を自給し、余れば輸出するということだ。ロシアの大地は広く、人口は少ないのだから、可能なのだろう。
 
 ちょうど3日前に朝日新聞の一面広告欄に「ネオエイジング」という本が出たことを知り、すぐにアマゾンで注文した。今手元にある。12兆の細胞を覚醒させる若がえり先端医学の紹介本である。リチャード・フランシス・ウォーカーというアメリカの成長ホルモン研究者の一人である。この「若返り」の科学がどこまで進んでいるのか、かねてから知りたいと思っていた。
 酒を控えたことで、読書の時間が増えた。頭もすっきりしている。
 体重はどう変わるだろう。 

腰が軽いか重たいか

2019年02月01日 | 日記
「ちょっと、ちょっとこれ持っていって」と母の家の近所の方が「広報おわせ」をぼくに手渡した。すぐにぼくは裏の「人の動き」の欄を見る。先月と比べて、12月末現在ということで、世帯数が15減っている。人口は24人減って住民票のある人は17,924,人である。人口はどんどん減っていく。「河原町らあ、空き家ばっかやんな」と配達のおばさんが言う。

 世帯数が減るということは空き家が出て来るということだ。空き家になれば、とりあえずは家の中にあるものの処分が必要だ。それと掃除。廃棄処分はシルバーセンターの登録男性が受け持ち、掃除は登録女性が受け持つ。この仕事が多くて、シルバーセンターは忙しいらしい。世帯数15のうち全部が全部シルバーセンターというわけでもないだろうが、それにしても結構な数である。

 自分のことを考えてもわかる。処分すべきものとそうでない物は子供たちがするのだろうが、結局シルバーセンターに頼まなければならないことだろう。その量たるや、と考えてもぞっとする。母親の家だけでも今からぞっとしているので、この頃、細君と相談して、捨ててもよいものをこっそりと母親に黙って、捨てている。毎日ちょっとづつやれば、結構違うことだろう。

 ぼくの事務所に使っている部屋にも相当な物がある。これまでの仕事の物だ。本、雑誌、前のパソコン、書類ケースがいくつも。本棚がいくつもある。バリ島のマッサージクリームだのなんだかのと一杯ある。この解決には、まだ絶対に必要なものだけに印をつけて、あとは全部一斉に廃棄をお願いすることだ。1日で済むことだろう。どこかで重い腰を上げなければならない。

 神戸の芦屋に住む仕事上の付き合いがあった先輩に仕事のことで連絡をしたら、「すべて仕事から引退しました。ベネッセとも接点はありません。ぼくはもう古希ですよ。こちらにくるときがあればランチしましょう」ときた。「何を言っているのですか。今どきの古希っていうのは80のことですよ。腰が重くなったらいけませんよ。ぼくは58歳ですよ」と返しておいた。

 腰が重たいのは実はぼくもそうである。車で東京まで走るのが億劫になった。ホテルの予約をし、紀勢本線に乗り、新幹線に乗り換え、品川からまたどこかに向かうことを想像するだけで億劫になる。情けない話ではある。がよくよく考えてみると、強い動機さえあれば、腰はシャンと上がるはずだと思う。例えば、シアトルまで飛行機で飛び、美味しいダンジリン蟹でも食おう、と誘われたら、きっと腰は上がると思う。さすがにオリンピックのために上京する気にはなれない。
 
  

 

  

うんぷてんぷ

2019年01月31日 | 日記
  ぼくはどこにも勤めたことがなく、もっぱら自分で仕事を作り、会社を作り、いわば気ままにやってきた。海で暮らようなもので、人生が壊れるほど荒波に落ち込んだときもあったが、なんとかもちなおして、その間も結構楽しいことができた。レストランを経営してみたいと、バリ島に作ったことがある。それはすべてガラスでできたレストランで、海の中をイメージして有名なガラス工芸家にデザインしてもらった。レストランの名前は「グラン・ブルー レストラン&バー」とした。120席だった。映画「グランブルー」からイメージした建築物だった。

 設計から始まり、デザインをし、シェフを探す。チーフバーテンダーを探す。彼らが冷蔵庫、冷凍庫、キッチン器具やらそんな物を買いそろえてくる。ウエイターやバーテンダー、コックらの服を決める。
 そしてメニューを決める。メニューも食べ物と飲み物があり、カクテルなども含まれる。その味を決めていく。この仕事は楽しかった。音楽にも凝ったつもりだった。レストランで飾る物、置く物も凝ったつもりだった。どこにもないレストラン。興奮した六か月が過ぎ、メニューデザインはパトリシアが、開店時の混雑の仕切りはクミコさんが、ヨーコさんはキッチンに入ってスタッフが落ち着くまで手伝うこととして、店は十二月にオープンした。

 店は本当に素晴らしく、壁としてあるガラス板がが海の砂漠と女性の乳房のように浮かび、まさに海の底のようだった。創作したテーブルと椅子も木のテーブルと椅子をパステルカラーの布で巻き、そこに樹脂を入れ、磨くとなんとも言えぬ波紋のような波のような模様が浮かんだ。白と青空の青の中に黄色が浮かんでいた。トイレだけは磨いていない大理石にした。
 レストランは作るまでが楽しく、出来上がればぼくの役割は激減する。日々のルーティーンですぎてゆく。
 レストランを作るのがこんなに楽しいのなら、ホテル作りはどれほどのものか、ホテルをやってみたいと思ったがこればかりは無理でチャンスはこなかった。レストランは食事とデザインと音楽。ホテルはひとつひとつの部屋、ガーデン、プールサイド、会議室、ホール、絵画、定期的なイベント、企画物がある。これはおもしろいだろうと思ったものだった。
 レストランは繁盛した。ところがレギャンストリートでイスラム原理主義者による爆弾テロが起き、レストランのある道路は封鎖された。六ヶ月の封鎖であった。六ヶ月スタッフを抱え続けることはできたが、六ヶ月後観光客は戻って来なかった。ようやく爆弾テロ前の8割ほどまで戻ったのは一年以上経っていた。それからまた数ヶ月して今度はクタで爆弾テロがあった。これが撤退の決意となった。エステ店の管理もぼくの会社が管理していた。そのエステ店も爆弾テロで撤退することになり、ぼくは備品などを買い取り、サヌールに移って、「学校法人」を作った。急に、というわけでもなかった。エステテシャンは誰かに教えてもらっているのだが、どうしてここは押すのか、ここはひっぱるのかとか、ほとんどの知識をもっていないことを知っていた。それでぼくは身体のことをレストランをやっている間、勉強していたのだった。

 皮膚のことや、マッサージのことを教えるのだが、ぼくは特に疲れない、自分を傷めないマッサージ法を身につけるには「力の伝え方」を教えなければならないと思った。ぼくの学校はこれが決定打となって日本からもいろいろな人が習いに来たのだった。バリの女性たちは子供の頃からバリ舞踊を習っていて、重心をとるのがうまく、力を伝えるにも何の問題もなかったが、日本人はできなかった。
 ぼくも研究をすすめ、姿勢、歩き方の講座、免疫系、血管、内蔵と勉強していき、認知行動療法まで勉強した。世界で行われているマッサージの伝授、フェイシャルもヘッドも何種も教え、理論、知識を重視する学校にした。ぼくは知識、理論を教え、レストラン時代のスタッフにマッサージを習いに行かせ、そこから様々な独自の手法を加えていった。
 講習の部屋にはモジュラのバリの舞踊の人形。部屋のランプは金の繭でランプシェイドを作らせた。

 この学校も母が交通事故を起こしたときに売却した。それまではいつも若い人がまわりにいて、騒がしい日々があったが、今はもうない。

 振り返るとなんとまあ、いろいろなことをしてきたことだと思う。バリ島では対葉豆も作って、日本に運んでいた。エッセンシャルオイルもブレンドして作っていた。大学にバリの伝統的な家を建てたいという要望があり、それを請け負ったこともある。映画ロケのすべてのコーディネートをしたこともある。そうそう、大阪駅の三国に「ハッピーバリ」というレストランも作ったのだった。それはぼくが経営者ではなかったが、バリ島からすべての資材を運び作ったのだった。すべてを任されて作ったのだった。今も三国にその店はある。爆弾テロのあと、スタッフの働き口を確保してあげる必要があった。在留許可証も労働ビザもみなぼくが手続きした。キッチンメンバーはお金を貯めて、バリ島に仕送りし、土地を買ったり、家を建てたりしていた。 シェフのバワは自分のレストランを作った。
 バリ島に行かなくなってからもう四年以上経つ。この20年ほどのことはまとめておきたいと思い、昨年小説の形でまとめておいた。タイトルは「うんぷてんぷ」とした。まあ、運まかせ、という感じだ。

 現在の為替レートを見てみれば、1円120ルピアである。なんと円が強いことか。初めてバリ島に行ったときは1円が15ルピアだった。それで大いに得した気分だった。ぼくがバリ島で事業を始めた22年前は50ルピアから60ルピアのあいだをウロウロしており、四年前には1円が100ルピアとなっていた。
 観光客相手の仕事というのは何が起きるかわからず、とたんに客が来なくなることもある。
 そう言えば、オリンピックの入場料が高いのにはびっくりした。ホテル建設ラッシュらしいが、オリンピック後どうなることやらと疑っている。

 

語学学習のアプリ

2019年01月24日 | 日記
ぼくの仕事場の1メートル脇の床に、ゼンマイで動くラジオがある。緊急時に必要なものだとイギリスのおじいさんが開発したものだ。それは24年ほど前のことだ。おもしろそうな人だからパトリシアにその発明家を取材してほしいと頼んだ。彼女は尾鷲からすぐに成田へ。そこからロンドンに飛び、詳細に取材してきた。その記事は雑誌に掲載されている。今も持っていると思う。まだ携帯電話が普及していなかった時代だったと思う。
 災害時に携帯電話の充電光景をよくみる。どの会社もいち早く充電ができる体制を整える。だから日本ではゼンマイのラジオはもう必要がないのかもしれない。携帯電話システムが整っていない地域。もう世界にはないのかもしれない。
 またこのラジオは発想が面白かったものの売れなかったかもしれない。災害のためだけに買うとは思えず、ラジオだけなら乾電池の予備を用意しておいたほうが安いだろう。この発明家は今はどうしているのだろうか。このラジオからの応用で何かをまた発明しているのかもしれない。

 ぼくがやった語学教材のアイデアさえ、アプリになって実現化していないので、プログラミングができる人と話し合いたいと思っている。ぼくは語学学習は、例えば20の文があるものとして、1~20まで通しで聴ける。任意の文だけを何度も聴ける。一文、一文前にも後ろにも進める。その任意の文にサービスがつく。例えばスロー読みとか、解説とかである。さらに20の文を任意にグループ分けができる。こんな教材ツールがあれば世界最高だろうと思ったのだった。

 次に音源である。アプリにCDやSDからの音源、直接にICレコーダーからの音を入れる。その音を文ごとにインデックス分けしていく。文と文を自動的に区切って、見えない番号をふっていく。

 ぼくらはアプリではないが圧縮技術を使って従来のCDより16倍の容量にし、上記のことが自動的にできるオーサリングソフトを昔作った。このソフトを使って多くの教材出版社の教材を上記のことができるCDにした。パソコンでも使える。これは成功したのだったが、大手電機会社のプレイヤーに欠点があることがわかった。12時間目くらいで止まってしまうのである。その会社は製造した一万台の出荷を止めた。ぼくらにフォーマットを提供してぼくらが作ったものなのに、ぼくらの教材によって瑕疵が見つかることになった。結局大手電機会社とコンビでやらなければどうにもならなかったこの事業は頓挫した。会社は休業となった。それ以後、ぼくはすっかりこの件については忘れることにした。また実際に興味をなくすほどたいへんだった。

 この頃ふと考える。あのようなことができる教材は今の世界にあるか。アプリを探してみた。語学教材も調べてみた。無いのである。アプリにすることができないか、とこの頃思うようになったのである。
 22年経って、周囲のインフラ的な技術の環境変化があって、あのときのソフトは生きてくるのかもしれない。もうプレイヤは要らない。スマホやタブレットでいい。でもぼくはプログラマーではない。だからアプリは作れない。「だれでも作れるアプリ」と検索するとたくさん出て来るが、ぼくの勘では、無理だ、と思う。アプリ開発をしたいプログラマーの練習生みたいな人と知り合えればいいのかもしれない。そんな人がいたら紹介してほしい。中国の人でもアメリカの人でも、インドの人でもよい。おそらくプログラム言語に言葉の壁はないはずだ。
*この文で理解して作ってみようと思い、作った人が出てくれば、それはそれで結構なことだと思うことも一筆しておこう。

気にかかったこと

2019年01月23日 | 日記
ブログ、1750という閲覧数に驚いた。昨日何を書いたのだろう。「NHKさまさま」という題で書いた。それで多くの人が訪れたのか、原因は別のところにあるのか、一人の人が1000ページほども読んだのか、わからない。とにかくびっくりした。
 それはともかく、今日は朝の9時から大坂なおみの対戦があり、楽勝でいよいよ四強に入った。次は準決勝である。5時からは錦織戦がある。錦織の体力消耗は回復できているのか、それが心配である。
 相撲は白鵬がいよいよ強くなってきて、貴景勝がまた星を落とした。残るは玉鷲、高安、豪栄道、貴景勝の誰かが倒して、千秋楽まで賑わえばよい。ぼくは玉鷲に期待しているが、玉鷲は白鵬にずっと勝てないでいるという記憶がある。
 ぼくは中学時代に相撲部に入っていたせいか、実感的に相撲がわかるところがあって、相撲観戦が好きだ。テニスもかじったことがあるので、それもやや実感的にわかる感がある。卓球、バドミントンは驚嘆するばかりである。
 剣道を見るのも好きだが、残念ながら実感的ではない。ただ目にも止まらぬ早業に感嘆したり、一本時間内に取り返せるかとか、そんなところで見ているだけである。

 今回は一時、相撲、卓球、テニスが重なったので、興味がそこに行ってしまい、ロシアでの安倍首相の会談であるとか、韓国との問題であるとか、新聞程度で知るだけのことだ。賃金の上昇率をごまかしていたなどと、腹も立つが、横にしてもっぱらテレビ観戦である。

 そんな中、シルバーセンターの所長さんと話をする機会があり、驚いた。決して安くはないシルバーセンターへの頼み事で、多いのは空き家になった家の中の物を廃棄処分すること。物がなくなったあとに、掃除をすること。これが多いのだそうな。
 そう言えば、毎月の「尾鷲広報」で月ごとの人口と世帯数の動向が掲載されている。人口で月に平均20人程度減っている。世帯数に注目していなかったので忘れたが世帯数も減っていることだろう。すると、空き家が生まれる。その掃除アルバイトに登録している女性が多いのだとか。なるほど。そんなことが気にかかったのだった。 

新書買い置き

2019年01月21日 | 日記
新宮のひとつ隣にある佐野のショッピングモールまでドライブした。ここには書店、音楽CDショップもあり、金魚屋さんもある。それとウィスキーの品ぞろえがよい。「麻布」というピュアモルトがあった。へえ、麻布、日本のメーカー、しかも大阪のメーカーのようである。それを買ったみた。夜、それを飲んだ。スモーキーである。「山崎ウィスキー」をスモキーさ1だとしたらアイラ島の「ボウモア」は10である。スーパーニッカは4。麻布は7ほどである。ところがこの「麻布」、最後の氷で薄まった一滴の味が雑なのである。このあたりはニッカやサントリーはうまくできている。ロックで飲んでいると最後は水の雫のようになる。その雫が二杯目へと進ませない。熟成がまだ足りないのだろうか。これであれば、「麻布」より安い「知多」の方がうまい。しかしこれはグレーンモルトである。

 書店で新書を買い置きした。
 「日本が売られる」(堤未果) 水が売られる、土が売られる、種が売られる、ミツバチの命が売られる、食の選択肢が売られる、牛乳が売られる、農地が売られる、森が売られる、海が売られる、築地が売られる、とうとう日本人の未来まで売られるという話らしい。
 もう一冊は「日本進化論」(落合陽一)。人口減少社会を危惧する中、彼は「人口減少社会は、史上稀なるチャンスだ!」という。果たして? という感じで手にした。
 最後の一冊は「極上の孤独」(下重暁子)である。これは新聞広告で見たので、あれば買おうと思っていた。タイトルからわかるように「孤独であってもいいじゃないか、こんな自由ってないよ」と言っているような気がする。まだ読んでないからわからないが、きっとそうだと思う。「孤独を寂しいとか、孤独じゃいけないから人との交流に無理をするとかそういうことはもういいんじゃないの」と言っているような気がするのだ。
 これらはしばらくの間は読むことはない。「サピエンス異変」を読んでいるからだ。昨日までは考古学でしか言えない、人類の遠い、遠い昔の「中央、東アフリカの環境がサバンナになって、「足の進化」が始まり、汗をかくことの有利性、手の進化と話が続いた。労働時間はせいぜい1日4時間から6時間ほどだったという研究もあるらしい。今日からは有史時代に入る。軸はあくまでも「人新世」が来年から始まり、今は「完新世」だということである。

 ヨーロッパ、アメリカは難民、移民でたいへんである。適度な労働者として使ってきた歴史があり、そこへ戦争などで難民が押し寄せることになった。白人系は押しやられるというか、確実に人口割合を減らしていく。今のアメリカがそうだ。日本も同じステージに入っていく。中東、アフリカ、地球経済はグローバル化が進行する中、一国主義が登場している。混然としていきながらも、5G,AI,Iot、ブロックチャーン、ビッグデーター、解像度、センサー技術、医学などは進んでいく。人類の新たな産業革命が起こりつつあると言われている。
 ぼくは飢餓がなくなり、貧困が底上げされ、戦争という言葉がなくなれば人類はもはや言うことなしという気がするが、みなどう考えているのか知りたいから新書を読むのである。  

忘れる

2019年01月16日 | 日記
 「純烈」のメンバーたちはみな四十代だそうでびっくりした。以前に比べてお年寄りが若く見えるようになったと思っていたが、四十代の男性も若く見えるものだと感心した。これはどういうことだろう。そういえば、ある店で出会った女性はぼくには20歳くらいにみえたのだったが、ある日、小学生ほどの子供を連れていて、びっくりしたことがある。聞けば
子供が二人いるという。すると、ぼくの娘ほどの年なのだろう。近頃の化粧品の品質いいのだろうか。肌などは輝いている。
 夕方母親から電話がかかり、「下の入れ歯がない。今日乗った車落ちてないか」と言う。探してみたがなかった。母の家に行ってみると探している。ぼくも探すがない。可笑しいのはははが途中で何を探しているのか忘れてしまい、「あっ、クスリやったかな」などと言って、「ちゃう、ちゃう、入れ歯」と言うと笑いながら「あっ、そうやったな、入れ歯やな。このごろ物忘れが多てな」とのたまう。いくらさがしてもない。とんでもないところに置いたのだろう、と冷蔵庫を見る。トイレも見てみる。ない。「いずれでてくるやろ」とその日の捜索を止め、明日、母がいない間に家捜ししようと思ったのだった。
 翌朝、捜索にかかった。物の十分で、細君が見つけた。ベッドの脇下にあると指をさす。何回もみたはずだ。「どこに?」入れ歯など見えない。「そこからだと見えないかもしれない」
 細君が手を伸ばしてゲット。やれやれ。早速入れ歯をデイケアの施設にもっていく。昼の弁当があるから必要である。
 昼、台湾料理の「美味館」にいき、グーグルで日本語から中国語の簡略体に翻訳したものを印刷して、通じるものかチェックしてもらった。開発したものと、それの市場性を問うE-mail である。返事次第では砂漠での実験依頼と歩を進める。興味をもってもらえるかが問題なのである。日本語がわかる先生だという話であるが、念のために
中国も添付しておきたい。正しいものが望ましい。
 高吸水ポリマーで保水層を作る手もあるが、産業廃棄物をであり、植物の綿くずを使う手もある、と日本語で自分が書いたのに、大連出身のナミちゃんに、「この手は何? 」中国語の文のなかの「て」をさして質問される。ぼくは何だったか忘れている。あわてて、元の日本文を車においてあったので、取りにいく。そうそう、「手段」を意味する「手」だよ、と説明すると、わかった風だった。
 母は93だから物忘れなどはごく自然だと思うが、ぼくなどはまだしてはいけない。努力して思い出す。できるだけ覚える。
 そう言えば、認知症がすすむと第2外国語は忘れてしまう、ということで、本当かどうかしらないが、海外に移住した日本人の中にはそれを心配する人もいるようだ。

プリンスルパート 姉妹都市

2019年01月15日 | 日記
スピーチというのは難しいものである。頭の中であれこれと話すことを思い描いていたが、いくつか結構大事なことを言い忘れてしまう。知らない人ばかりならまだしも、知っている人でもいれば、照れくささも出て来て、神経も過敏になる。つまり緊張する。
 スピーチ2番目だと言われていたので、1時半から始まるそのサロンでは、せいぜい二時にはぼくの役も終わるだろうと思っていた。そしたら、いつになるやら、ぼくは最後の最後であった。だから二時間というものはまんじりもしなかった。
 なにかしらいいことでも言わないととも思うし、そんな感情や心理も嫌なことだし、モッサンに頼まれたのでしかたなかったのであるが、やはりなるべくこういうスピーチたるものはお断りしようと思うのだった。結婚式のスピーチも嫌なものだ。
 というわけで、会そのものはみなさんの努力でいいものになっていたが、ぼく個人はまんじりとしないふわついた時間を過ごすことになった。
 尾鷲小学時代、特に印象に残っている同級生たちと会うことになり、それは嬉しかった。一人は高校のとき音楽のクラブを作った創業メンバーの一人で今は教育長をしているFちゃん。この会を紹介してくれたモッサン、第一スピーカーのはずだったTちゃん。普段の付き合いは今はもうないが、会えば、親しく話す。それぞれに生きる世界が違っている。もっさんとは読書会で月に一度会う。
 尾鷲市役所を退職された方々ともお会いした。近況を伝えあった。

 プリンスルパートはカナダ西部、太平洋岸の北にある。バンクーバーから飛行機で1時間くらい北上する。プリンスルパートの100キロほど先はアラスカ州となる。フィヨルドの海岸がシアトルからプリンスルパートまで続いている。ダンジリン蟹、キングサーモン、木材、石炭の集積地で、港、空港、高速、鉄道、バスがあり、市内は計画されて設計されているようである。産業地域と住宅地域、商業地域が明確に区分されている。自然に渾然と形成されていくような日本の町とは違っている。
 興味深いのはその人口の低さである。約13000人。そしてさらに驚くもは十代、二十代、三十代の多さである。75歳以上は500人くらいしかいない。平均年齢は確か35くらいだった。これはどういうことなのだろう。高齢者用の施設も充実していた。ある時期になると人は移動してしまうのだろうか。ゴルフ場がある。ミュージックホールもある。総合病院もある。ストリップ劇場まである。大きなショッピングモールもあった。1910年に設立された市である。高齢者の数が少なく働き盛りの人口が多いのは市や州の計画の結果なのだろうか。早めに死ぬ人が多いのだろうか。
 市役所は経済政策をする権限はない。ゴミ収集や図書館、市の施設の管理をするだけである。
 
 今であればこんな疑問も湧くのだが、当時、そのような問題意識はなかった。ぼんやりしていたことを後悔する。
 

測るだけダイエット

2019年01月11日 | 日記
 サントリーが新しいウィスキーを出すという。5ヶ国にある蒸留所でできるシングルモルトをブレンドするらしい。World whisky 碧(Ao)と呼ぶらしい。楽しみにしている。最近はスーパーニッカの旨さに驚いてもっぱらスーパーニッカを飲んでいる。響、山崎とサントリーは強力ウィスキーを持っているが、品薄で盆と正月前にしか出てこない。知多というウィスキーも美味しいので、いまはわざわざネットで買うこともない。
 煙草をやめてから3ケ月以上が経つ。その分ウィスキーの量が増えたと思う。体重も増えた。血圧が高めだったもで、医者に忠告された。薬は拒否した。正月明けにまた診て、薬を考えましょう、ということだった。
 正月明けて、7日。クリニックへ行き、血圧を測ると、上が140、下が80だった。正月に運動したわけでもなく、飲み食いするだけだった。だからきっと血圧は最低でも前回と同じか上をいるかだろうと思っていた。それが不思議なことに、問題のない数値だった。医者は不思議そうな顔をした。ま、今回はよかったですから、次回また診ましょう。
 その夕方「夢古道の湯」に行った。体重計があったので測ると、75.5kgあった。人生で最高新記録である。65キロくらいが一番よいと思っている。血管は老化しているはずだから、この歳になってから太ってくるのは気持ちが悪い。
 「測るだけダイエット」をやろう。一日の夜の十時に体重をはかり、それを毎日グラフに記録する。特別なことがあれば記録しておく。宴会があったとかだ。この方法は脳に働きかけて食事を減らし、カロリーを減らす方法で有力である。リバウンドもない。なにせ一ケ月に1kgの減量だから、脂肪を溜め込もうとする飢餓ホルモンはでない。
 とりあえず4月までに70kgを割りたい。

利己的な自分

2019年01月08日 | 日記
 やっと静かな日常が戻った。ちょっと考えてしまう。年末年始はどこかへ逃げ出そうか。孫がまだ乳幼児期、いや小学生までは主人公で、来たら放っておくわけにもいかない。JRの腹立たしく高い料金を払ってくるのである。孫たちの成長を目の当たりにすれば、必然的に自分は死に近づいていくことをより自覚するのである。
 自分が孫だった頃、ばあさんは小遣いをくれる人で、ばあさんがどんな人生をおくり、今なにを思っているのか考えたこともなかった。ぼくが孫を卒業する頃はもうばあさんは精神的には遠いところにいて、なんとなく死んでいった。悲しみに溢れるのでもなかった。父方のばあさんは夫を早くに亡くし、女てひとつで四人の子を育て、最後は布団の中で脳溢血を起こしたらしく、三日後に回復することなく病院で死んだ。母方のばあさんも夫が相撲を見ていて死んだのはまだ四十代だった。このばあさんはおおらかではなく、うるさく、ぼくは嫌いだった。母が離れの部屋を建て、面倒をみていた。癌だった。寝込んで三年ほどで死んだと思う。
 ばあさんのことを思いだしても、孫たちとじいさんはさらに遠く、身内ゆえの虚無感さえ感じる。「もう連れてこなくてええよ。会いたいときはこっちからいくから」と言っていいのだが、小学を卒業するまでぐらいのことだから辛抱と思い耐えている。まあ、耐えていると言っても孫は可愛く、面白いときも多いのではあるが。
 一日が自分中心で動いているのが孫中心となる。利己的な自分なのである。年に2回のことだ。