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25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

58年ぶりに

2019年05月25日 | 日記
 イオンを出て駐車場までの間、すれ違う初老の男と顔を合わせた。たぶん、目をあわせたのだろうと思う。「じゅんちゃん?」、はて、あっ「あきちゃん?」。58年の歳月が経っているにもかかわらず、パッとわかった。
 あきちゃんは尾鷲の中学校にはいかず、大阪の中学校に行った。小学卒業後会うことはなかったが、あきちゃんの母親をよくスーパーで見た。教育熱心な母親だと思っていた。あきちゃんの母親を見なくなって四年。あきちゃんと偶然会った。「互いの58年を話そう」ということになり、三日後の昼「葉っぱがシェフ」というレストランで会おう、ということになった。
 3日後、「葉っぱがシェフ」に着き、まだあきちゃんが来ていないので、裏庭を見て廻っていた。中村山の裾を上手に使って、よい借景を作っている。シェフが声をかけてくれた。ぼくにはこの人もまた懐かしい。彼はあきちゃんをよく知っているらしかった。
 誰それはどうしている。だれそれとだれそれとだれそれの、お母さんはわれわれ二人の母親と同い年とか、あきちゃん、よくおぼえている。「葉っぱのチーズ」「自家製の生ハム」「縄文焼き鍋」にワイン。生ハムが美味しく、特製のパンも旨かった。

 話は弾み、瞬く間に時が経ってしまった。
 あきちゃんのお母さんは帰り道を間違えて山の中に入ってしまい、滑落したらしい。捜索をしたが見つからず、7か月経って白骨となって発見されたという。ぼくの母も同じようなことがあった。ふらふらと、何を思ってか北浦の奥地に入ってしまい、その辺の叢に足を取られた。母の場合、運良く、人が近くを通った。それで発見されたのだった。
 もうこの年頃になると人の生き死になどに驚きもせず、無情感もない。粛々と人は交替していくだけである。
 また会おう、と言ってぼくは尾鷲小学校から下り、彼は泉方面に上ったのだった。

2000年12月25日の思い出

2019年05月14日 | 日記
 現在1999年から2003年まで書いた「僕のバリ日記」を校正している。ひとつひとつ読んでいると同じ体験をまたしているようで奇妙である。忘れているものもある。熱帯での日々は疲れるものだった。日本人のように速く歩くのはぼくに言わせれば御法度である。だいたい日本にいるときの60%くらいの少ない、遅い動きをする。仕事もそうで、イライラしてはいけない。注文しても時間はかかる。
 バリ島にいるときは結構好奇心をもって暮らしていた。植物、果物、絵画、舞踊、音楽、宗教、生活感、村落共同体、バリアン、プダンダ、いろいろなことを知った。そして考えた。
 1999年に尾鷲のある病院で「慢性膵炎」と診断され、それが伊勢の市民病院で「誤診」とわかるまで三年かかった。「慢性膵炎」というと治らない難病で食べる物から脂気をなくさなければならなかった。しかしおかげで体重は減り、学生時代のようになった。胃潰瘍だった。これはすぐに治った。優れた薬があるのだ。

 1999年から20年経っている。2019年。バリ島での仕事は終えてから四年になる。こんなことがあったことを思い出して懐かしさでいっぱいになった。昨日檀ふみが、一年分の日記を書き移した話をしていた。二度経験できる、というのがよくわかる気がした。


 2000年12月25日  バカス

 「バワの家に行こう」ということになった。バワはデンパサールに住んでいるから、てっきり車で二十分のところだと思っていたのだが、バワの家という限りは、バワの実家のことであることが行く前にわかった。クルンクン県にある。クタから車で北へ約一時間半。ギャニャールを通り、スマラプラから約5キロ、バカスという村である。

 たいへんな田舎であった。バカスの村の入り口に割れ門があり、そこからバカスの村なのだが、あたりは棚田とジャングルで割れ門から2~3分走ると人家が見え始める。大きな家ばかりである。

 仕事がないためバワやさらに若い世代はこの村を離れ、デンパサールやクタ、サヌールに出かけ、そこで仕事を見つける。バワは、このバカスの実家の跡継ぎであり、バワが実家へ帰るとなると、そこは本家なものだから、分家の親戚筋が集まってくるそうだ。
三百坪以上はあるだろう。そのうち百坪程は家の寺院になっており、三棟の一階建ての建物がある。各建物の扉はジャンクフルーツの木でできており、鳥や花の木彫りがほどこされている。宮殿をずっと小さくしたものだが、そこにバワのお父さんが一人で住んでいるのである。弟がすぐ近くにいるし、一人で住んでいるというより、親戚一同、近所の人一同と住んでいると言った方がよいかも知れない。

「お幾つですか?」と聞くと「八十三歳だ」と言う。「バリ暦でしょう。西暦では、お幾つですか」と聞くと七十三歳だという。笑わない人だった。

 バワの家から山側を眺めると、高い木にドリアンが実をつけている。ジャックフルーツ、ランブータン、パパイヤが見える。静かである。鶏の鳴き声が静けさを破る。

 僕は、十五分位で、挨拶をして帰るつもりだったが、とんでもない話で、バリのおもてなしをこれからしっかり受けることになった。今日は特別な客が来るということで、朝早くから、食事の用意するために、はるばるヌサドゥアからバワの妹達もお手伝いに来、従兄や近所の人たちも準備に集まっていたのだった。一同集まって食べる形式をムギブンと呼び、これがバリのナシチャンプルだという料理がでてきた。一つは、ジャックフルーツと豚の皮が主になったもの、クローブの葉とインゲン豆と豚の皮が主になったもの、若いバナナの木を主としたもの、アヒルのアヤンバンガンブンブバリ、サテなどなど。たいへんなご馳走である。これがまた美味しく、バリの米も美味しく、うまい、うまいと食べたのだった。これを作る為にみんな集まってくれたのである。

 食事の間、いろいろと話をし、その後、村を少し歩いた。ヌサ・インダーという赤い舌のような花の名を知り、道端の植物をあれこれと見た。五百メートル先がラフティングの出発地点である。そこがこの村の端である。この村の人口は三百人。一つの村に五つのバンジャール(自治会)がある。

 闘鶏をやっているというので見に行った。男たちは、軍鶏の品定めをして、金を賭けている。この闘鶏は村の寺院の改築費用捻出の為に行われているのだそうだ。
道端にパイナップルが生えている。ランブータンが生えている。三百人くらい生きてゆくのに十分な食糧がこの村にはあるように見える。僕は海育ちなので、このようななり物は珍しい。バリ島ではやっぱり魚は食べられないなと思う。魚を運ぶには気温が高すぎ、遠すぎる。

 「仕事をリタイヤしたら、ここに戻るのかい?」とバワに聞くと、「そうだ」と答える。
村を遠く離れた者も、バリでは実家の村に所属するため村のセレモニーの時は必ず村に戻ることになる。デンパサールの村組織には属さないのだ。村をいつまでも宗教的に行政的に支える仕組みになっている。

 甘いバリコーヒーをいただいて帰途に着く。クリスマスである。夜、グランブルーでは、スイスのグループ、オーストラリアのグループ、日本人達のグループで賑わっていた。
シェフのバワは大忙しだった。



あたらしい記憶ができない母

2019年05月10日 | 日記
「赤ちゃんで生まれてきてね、大人になって、また赤ちゃんになっていくんですよそれでいいんですよ」と医者がぼくの母に言っている。母は「なんでもこどもにしてもらって・・・」というと、「そういうもんなんですよ」と優しく言って、血圧と脈をとり、聴診器を胸と脇腹、背中に当てる。
 母はめっきり記憶ができなくなったが、トイレの行き方まで忘れたわけではなく、言葉もおぼえている。つまり新しい記憶ができないのである。急にガタンと記憶力が落ちたので、このままで大丈夫なのだろうかと思った。例えば、土曜日と日曜日はデイケアがない。この二日間で調子が狂う。今何時かわからなくなる。朝ご飯を食べたか、昼ご飯を食べたかも忘れる。いずれ、肢が悪かったことも、杖が必要であることも忘れてしまうのではないか、と心配する。
 一方で、若い時から便秘薬と睡眠薬がないとひと騒ぎしていたのが、ここ半年で飲まなくなった。薬が減ったのだから肝臓も腎臓にも負担は少なくなったことだろう。
 母の母親と母の妹が癌になったので、それを気にしていたが、癌にもならず93歳である。この八月で94歳になる。
 ぼくのほうから見れば、まだまだ生きるような気がする。周囲の人もそういう。食欲はあり、肉とマグロをガンガン食べている。
 九鬼の病院との行き来、毎度同じことを言う。「長いトンネルやなあ」「これは海かな「「九鬼はブリがよう獲れるやり」「ブリが獲れるんで九鬼の人間は威張っとった」
「もうじき九鬼に着くけど、九鬼のどこへいくん?」ときくと、「どこやろか? わからんよ」
「九鬼の病院やで」「病院? わたし、どこそ悪いんやろか」「まあ、定期検診みたいなもんさ」
 まだまだ九鬼行きは続きそうである。

通り道

2019年05月04日 | 日記
 今年の家の庭では木蓮が例年になく見事に咲き、山茶花もよく花をつけた。レンギョウ、万作はごく普通で、大手鞠が咲くとその後ろで藤が豪勢に咲いた。金魚鉢とメダカの水槽の上にはハナミズキの白い花が静かに、どちらかと言えば控えめに咲いている。今年も木瓜の花はうまく咲かない。どうしたものか。剪定の仕方を検索すことにしよう。
 体重が74キロ台になった。70キロを切れば、高血圧の薬も終えることができるだろう。体も軽く感じることだろう。
 まだ風邪は抜けきらず、この菌に2週間やられた。肋骨痛もずいぶんと楽に
なった。食欲が戻らない。
 今回の三重苦でつらつら考えたのだが、まず不快な歯を思いきってなんとかしなければならない。不快な食事とおさらばしたい。次にいずれ白内障になる、と眼科医に言われたので、手術をし、クリアなこの世がみたい。読まなければならない本もうんとある。耳は今のところ大丈夫である。前立腺も大丈夫そうである。
 こういうことをあまり考えたくないのだが、誰もが通る仕方のないことである。時に超人的な人もいるが。

ちょっとずつ

2019年05月02日 | 日記
 三重苦のうちの肋骨痛がだいぶんとよくなって、もう二、三日もすれば完治しそうである。風邪がしつこく、夕方になると熱が出始める。咳はなくなり関節系への影響も感じないほどでる。
脊柱管狭窄笙症の方は施術のしかたがほぼわかってきて、屈伸をやっている。これをすると脊柱管
の歪んで圧迫される部位が拡張され、圧迫度がどうやら小さくなるようである。突然走ったり、勢い込んで歩かない限りは大丈夫だろうと思う。
 ダイエットの方も続いている。食欲もないので好都合である。
 一番の青葉の季節である。明日あたり、楯ゲ崎に行き、目の前で照葉樹林の春を見たい。中に入って歩いてみようとも思っている。樹木の幹の文様をみれば樹木の名がわかるようになりたいが
まだまだである。
 ついに1999年からのブログをコピー&ペイスでワードに入れ込んだ。そしてそれらをone drive に入れた。これからまた少しずつレイアウト、校正をしてゆく。ちょっとずつやっていけばやれるのだ。こういう根気のいることもでぃるようになった。昔はできなかったと思う。
 勘定してみたら、二段組にしてブログを全部本にしたとすると、800ページほどのものが十冊できる。
 毎日ちょこっと書くことも積もればすごいものである。

脊柱菅狭窄症に挑んでみる

2019年04月29日 | 日記
 ぼくはあるスクロール式のホームページを見ていた。「脊柱管狭窄症。5分でなおすトレーニング」というDVDを売るために延々と読ませて、最後は買わせたいらしい。脊柱管狭窄症について、症状についてはぼくの症状にはまっている。治療法についてはいろいろあるらしく、薬、手術派、秘術派、整体、カイロプラクティックいろいろとある。要するに椎間板ヘルニア同様に欧米ではない「病名」である。ぼくはスマホで最後の買わせる段階まで読んでいたときだった。岡田さんかr電話がかかった。「ブログを見たで」と。岡田さんは自然形体療法という技術を自分でも施術され、経験したことから相当に京都のその先生というか自然形体を信頼している。電話をかけてくれたらしい。「見てみないとわからない」と先生は当然そういう。それに彼の心配はぼくを京都に何度も通わせることになってしまわないかということである。ここにも行ってみようか、と思ってもいたので、その時はよろしく頼むと言って、電話を切った。

 椅子から立ち上がるのでさえ、大腿四頭筋やらふくらはぎ、腰回りの筋肉が硬直していて、痛い。そしてついにスマホ画面はDVDの広告の最後に来た。ほんの一瞬、エクササイズの方法の一部を紹介したのだった。あっ、そうだった。忘れていた。講習を終えてからもう5年が経っている。ぼくはその一瞬の映像ですべてわかってしまった。

 二週間前の最初の発症では坂道、階段を早く歩いたときに起こった。筋肉が固まってしまって前に進むには痛いのである。しばらくうずくまった。うずくまると楽だったからである。
 基本中の基本だった。痛むポイントから楽な方へ、息を吐きながら動かし、最後には息を吐き切る。
 これを自分の場合に当てはめてみるとうずくまるということは腰を丸めるわけで、背を反らすのと反対である。映像でやっていた屈伸は、背を反らす、または立ったままだと脊柱管の神経が圧迫される状態にあり、屈伸をして腰を曲げ、床に手をつけようとすると、脊柱管そのものが拡張するはずである。
 そうだ、その手がある。オレとしたことが・・・・。

 「すまんけど、ここの部分を両手を重ねてリズムよく押してくれ」と細君に頼んだ。
 ぼくは屈伸して手を伸ばすが、手は床には届かない。どう見ても、指先から床までまだ20センチはある。ぼくはリズムをつけて一生懸命に指先が床に届くようにする。たぶんあのDVDはひたすらこれを5分やれと言っているのだ。もっと簡単な方法がある。細君に腰を押してもらうのだ。自力と他力を使えば早い。イチ、二ー、サン、シー と十まで行くと指が付くようなった。
 再度、十回、床への指つけ運動をした。

「もうええよ、ありがとう」
 すると、いままでこわばっていた筋肉が緩み、二週間前の自分に戻っている。


 そうか、毎日のようにこの屈伸をするか、と思い、今日もした。「痛み」は「怒り」からくるものがあるという理論にも気になっている。作家の夏樹静子がこれで苦しんだ。このことをさらに探っていくと、痛みをコントロールする場所は脳の中の「側坐核」という部位の機能低下という脳の問題になるのである。
 ぼくは「いまさらどうにもならない怒り」と「今からならなんとかなる怒り」にメモ書きして、「くそこの野郎」などと思いながら、どちらかに分類する。

 毎日行うことは、
  1.今やっている 飲食を半分にすることで、やせること
  2.必ず屈伸運動をする。
  3. 仰向け、横膝倒し
  4.仰向け かかと伸ばし
  5.仰向け 脚上げ下げ
  6.座位 足首内外ひねり&上げ下げ 
  7.股開き(これは排尿をコントロールするため)

 当面のやることを整理して今日からする。つまり医者には行かない。京都も行きたいがやはり遠い。たぶんこれが一番の自分でできることだ。

バテた

2019年04月25日 | 日記
 わずか1時間ほど身体を動かしただけで、汗だくになり、筋肉はこれ以上使えない状態となった。この体調はもう3週間続いている。これに喉の痛みも伴ってさんざんである。昨日書いた「空気」というタイトルの文を書いた保存しておいたはずであった。それが消えてしまっていて、ショックをうけた。同じ文をもう一度書こうかと思いもしたが、バテていたので、もう無理であった。
 ということで今日はお休みします。

善意の交換

2019年04月20日 | 日記
 ぽっかりと穴があいたような土曜日で、潮見表を見たら、なんと満月の大潮。これは海に行かないかん、と10時半にはぼくは行野浦の磯にいた。その磯ではいつも行野のおばさんがひじきを採っていたのに、よると年波で諦めたのか、業者らしき男性が鎌をもってヒジキを刈っている。二艘の船と五人の男たち。

 ぼくの目当ては「カメノテ」で、しかもドライバーをもって来たので、今日の夕食分だけ採ればいいわけで、サクサクとカメノテを採った。磯で海を見るという一年の中での習慣のひとつを実行したのだった。これを「保守」というのか、などと思い、内心で苦笑いした。
 ぼくは革新の革新、また革新というやつであるが、革新と普通いわれる革新をあんまり好きではない。
 すると、人生の大先輩美也さんより電話がかかり、コンピュータを買い換えると言う。すぐに貝とりをやめ、美也さんの家に駆けつけ、パソコンの買い物に付き合ったのだった。昼からGet started としようと、「なつぞら」を見て、また再び美也さん邸へ。春の花々が前の庭でなんだか幼稚園児のように咲いている。可愛らしいという比喩だ。
 美也さんもこのブログを見ているだろうから言っておくけど、ヨシヤで文字変換したって、美也は出てこないのである。名前は美しいのに難しい、困り者の名前なのである。

 二人で、パソコンセットアップ、使いなれていたソフト、プリンターをインストール。そうこうしていたら4時半になったので、あわてて、母親の食べ物を買いに行ったのだった。人の役に立てるというのは気分のよいものだと思ったのだった。美也さんには一昨年、草刈り機の刃替え、まったくわからず、お世話になったのだった。まあ、善意の交換ということだろう。ぼくはビールを持っていこうと思っていたのだが。

ホルモンのせい?

2019年04月14日 | 日記
 桜が終わると山が膨らみ、モコモコとしてくる。昔は日の光が明るくなってくる二月が好きだったが、この二十年は五月の青葉の壮観さが好きだ。照葉樹林の葉は本当に光に照る。照葉樹林の林に入るとその照りかたも驚きである。
 今年も楯ケ崎を歩こう思っている。ずいぶんくたびれた脚だが、ゆっくりなら歩けるだろう。
 運動が大好き立った頃から50年は経っている。
 幾つか行ってみたい世界の町がある。町歩きをするのも脚力が必要で、すぐに歩くのが面倒になるのではないかと思う。坂の多いリスボンの路地を歩いたり、ブエノスアイレスのタンゴを見るところまでブラブラ歩いていくのが億劫になってきたらもう終わりだ。
 自分んおためにすることは結構怠け、他人のためのことを結構生真面目にやっている。母もその一人である。それで自分は運動後不足であり、太ってきて、脚の筋肉とのバランスが崩れたのだと思う。今でも急に早足で歩く、速く坂道を歩くと突っ張ってくる。
 やれやれ自分の体調のコントロールは難儀なものだ。30才まではいくら食べても太らなかった。多分実際のエネルギー消費よりも食べるカロリーの方が多かったと思う。けど太らなかったみはなぜか。逆に言えば、食べ過ぎは本当に太る原因なのか、と疑問に思う。いっぱいタベテモ太らない女性も知っているし、ぼくの息子はぼくの2倍ほど食っても太らない。
 何か太るホルモンのスイッチがあって、ぼくは35歳くらいn時に押してしまった。息子はまだ運良く押していない。なにかしらのホルモンの作用のような気がしてならない。
 遺伝的な体質ということもあるだろう。そう考えるとホルモンが一番の犯人で見えないからわかりにくい。糖分の90%は脳で使ってしまう。脂質はエネルギーとあるから必要で、最もじゅうようなのがたんぱく質だが、これにはいろいろと種類があり、確か酵素とてたんぱく質だったと思う。このたんぱく質とホルモン、脳とホルモン、なんだか、脳、たんぱく質、ホルモンの三角関係が怪しい。肥満ホルモンというのがあるのではないか。それが放出されればちょっと食っても太り始める。よく言えば、食べたものを体に溜め込む。そして飢饉に備える。飢饉があった頃の記憶が蘇る。そういうことなのかもしれんぞ、などとこれを書きながら思っている。
 


 
 

年は変わるさかよう覚えん

2019年04月12日 | 日記
 今日は母親を病院に連れて行った。車中、「あんたの夫の名前をおぼえとる?」ときくち、「のぼる」とすぐに答えた。「じゃあ、あんたの娘は?」「娘らあおったんやろか」「じゃああんたの弟の名前は?ときくと、「ジュンイチ」と答える。「それはオレやがな」と笑ってしまう。
 九鬼までいく道路も初めてみるがごとくに、「長いトンネルなあ」と言い、海を見ては「これは海かな、池かな」と訊いてくる。前にも同じ会話を何度もしている。
 病院も初めてのような態度になる。何のために病院にきているのか、という自覚もなく、腎臓と高血圧と認知症と便秘の薬を飲んでいる自覚もない。
 薬を一包化してもらっているので、今日は便秘薬だけは別にしてもらうことにした。6年前までは便がでないと気になって、すぐに便秘薬を飲んでいた。睡眠導入剤がないと気になって眠れなかったのに、今はもう気にならないので、お医者さんに睡眠薬をはずしてもらい、今日は便秘薬を外してもらい、やがて使うのをホントに便秘のときに使おうと思っている。
 お医者さんはCTを撮るというので、撮るにまかせた。このクリニックに設備があるのだから、母の脳の様子でも見てみるかと思い快諾した。母の脳は6年前と比べると萎縮はしていなかった。脳梗塞はなかった。ただ黒い影が増していた。「これは何ですか」と訊くと、「う~ん、まあ細胞の老化ですかね」「へえ、細胞の老化?皮膚の老化みたいなもんですか」「まあ、そんなもんです」「総合病院でMRI」を撮ってもいいのですが」「それはやめてくだださい」とお断りした。母をまた車に乗せて、デイケアの施設へいく。週3回通っている。ケアマネージャーのHさんに報告をし、これから昼食後、薬をのましてほしいと頼んだ。あとの4日はぼくがすることにした。これまでは母のテーブルの上に毎日置いていたものが、それでも飲むのを忘れるようになったのだった。
 アルブミンは十分にあり栄養状態は非常によかったので、Hさんに「肉、マグロ、肉、マグロの毎日やでな、これやったら100まではいくな」と言ったら、そばにいた老男性が「きょうびらあ、100歳らあいっぱいおるで。肉、マグロやっら120までいくんやないかい」と笑って言った。「ホントやなあ。その覚悟せんなんかいな」とぼくは言って、「ところでおじさんは何歳」と聞いたら笑って「忘れた。年は毎年変わるさかおぼえるのが難しんさ」と言った。

ああ、有名病院は!

2019年04月11日 | 日記
 今日は付き添いで伊勢赤十字病院に言った。14時30分に来てほしいということだった。待ちに待った。ようやく、18時に声が掛かった。なんだ、これは? 3時間半も待たせるのか。ぼくは確認した。こういうことは常なのかと。いつも1時間くらいだという。ぼくは名古屋大学、関東逓信病院などいくつかの病院への付き添いをしたことがある。3時間半待たせるところなんてなかった。
 腹の中は怒りいっぱいのはずだったが、3時間半付き添った人たちとゆっくり話ができたので、機嫌良く診察室に入ったのだった。
 こころもちよかったのか、若い医師は機嫌よく、後遺障害診断書についての話に応じてくれた。どう書くかはいわばセンスである。患者はうまく自分の状態が言えない。医者は何を聞けばいいのかわからない。客観的数値だけは言える。だから、ぼくが、患者に質問をする。「買い物はどうしてるの?」「風呂は入れるの?」「就労はできるの?」 そんなとことから、互いに言っておかなければならないことと、医者が書かなければならないことが浮かび上がってくる。医者はピンと来て、パソコンに打ち込む。「就労は難しい」と彼は打ち込む。
 お互いの機嫌がよかったからできたことだ。憤りでいっぱいならば、これでは済まなかった。
 後遺障害の検査をリハビリテーションで行って、ぼくは右手左手の後遺障害の度合いと首の後遺障害を数値として確認して、今日は良かったと思ったのだった。これがただたんなる診察の話だったら、医者の机を蹴り飛ばしていたように思う。

コピペで思うこと

2019年04月10日 | 日記
 1999年から始めた「ぼくのバリ日記」2002年から「ちょっとバリ気分」というメルマガを経て、2003年からヤプログでブログを始めた。15年からヤプログからGooに舞台を替えて今日に至っている。日記ではない。日記めいたこともあるが主に言えば、感想文であり、発言である。今日で2012年までコピペをWord にした。二段組にしてコピペしてもすでに、1500ページある。1999年から始めた「バリ日記」を含めると2000ページになる。メルマガの時期もあるのでこれもコピペしようと思っている。
 コピペしていてもタイトルや文の一部分が見える。そうか、娘は2010年の12月に結婚し、息子はその翌年に結婚し、2012年には孫が二人いる。なべちゃんがバリ島まで驚かしの再会の旅に来てくれた。2011年には東日本大震災が起き、細君の家は破壊され、両親は津波に呑み込まれて亡くなったのだった。2002年、2005年とバリ島で爆弾テロ被害にあった。ぼくにとってはこれが人生を変える事件でもあった。
 この分でいくとコピペが終わるまであと2週間はかかる。
 それが終わったら、校正に入ろうと思っている。これが難儀だ。
 ちゃんと校正してブログにアップしておけばしないで済むものを。
 また、全ブログから書籍へのフォーマットに一発で変換してくれるアプリがあればいいのだが、
作ってみようかと思う。そうすれば、パソコンやスマホに電子データで、それを書籍化することも簡単にできる。いちいち一つ一つをコピーして貼り付ける作業が短縮化されてよいだろう。
 振り返っていると今になってわかることもある。無謀すぎた、衝動的過ぎた、早すぎた、自信過剰だった、反省点がいろいろある。
 1975年から1997年までは時々日記を書く程度で、まだウインドウズ95が出るまではパソコンもつかわなかったし、ワープロも簡単に持ち運べるものでもなかった。
 最初のワープロが500万円して、その機種の更新機種が250万円だったのをおぼえている。それだけかかっても必要だったのだ。
 

日曜日

2019年04月07日 | 日記
 金魚の水槽の水替えをすると一浴槽で1時間15分かかる。温かくなってきたので、昨日と今日、2浴槽の水替えをした。それと苔取りなどの掃除である。
 1つの水槽に4匹。白鵬グループと稀勢の里のグループに分けて、四股名をつけていたが、稀勢の里が引退してしまったのなんとなく変な感じで眺めている。8匹とも大きくなった。網で掬い一時鉢に避難させておおく。このとき手先に網の中の金魚たちのずっしりした重さがわかる。2年半ほどの間のことだ。

 金魚ひとつとっても、コメリには専門の棚がある。様々な餌はもちろんのことカルキ抜き剤、苔防止、卵を産ませる人工藻、水槽に置く隠れ宿みたいなもの、水槽に酸素を送るものやヒーターまでもある。病気のための薬さえある。金魚は生きていくために絶対に必要な物ではないが、ささやかな癒し系の楽しみでもあり、観賞にも耐え得る。
 今年の夏はは孫娘が川魚のこどもを50匹取ってくれるというので、曽根の池に放し飼いしようと思っている。もう少し大きくなれば、何のこどもかわかるようになるだろう。この孫娘は根気よく小さな昔つかった金魚掬いのようなサイズのもので、じっと魚が入ってくるのを待ち、うまく掬うようになっていた。今年の50匹はクリアするだろう。
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過去のブログをコピペ

2019年04月03日 | 日記
2005年の4月からブログを始めた。Yaplog というブログだった。。それが2015年に調子が悪くなった。ウイルスが入ったのかいたずらコメントが膨大に来るようになった。それでブログを Goo に引っ越した。

 毎日 ヤプログで書いたものをコピペしている。一日一時間ほどする。今日で2007年が終わり、明日から2008年である。2015年まではまだまだ遠い。

 2005年から2007年のものをコピペしていると、まずは、立ち直るためになんだかだとやっていた時期でバリ島に通い、爆弾テロで店は休まざるをえなくなり、「田舎暮らし支援サイト」を立ち上げ、身体や力の伝え方の理論を考え、体験したり、研究したり、ようやくにぼくのエステ理論が完成に向かう頃である。別にエステが好きだったわけではなく、BBTの事務所、雑貨屋、グランブルーレストラン、エステ・デエ・マッサがレギャンにあり、そこが2度の爆弾テロによって、閉鎖を余儀なくされ、サヌールに引っ越したのはエステ部門だけであった。エステサロンでは飯も食えないので、僕は学校にしたのだった。すると教科書が必要で、しかも自分の性格がら、付加価値の高いテキストにしたく、どこでも習えない、優れたものにしたかった。
 僕はもう引退したが、卒業生は二百人ほどいた。今でもみなさん店をやっているようだ。

 ゴールデンキャンドル、ラテン語名 カシア・アラタ  日本ではハネセンナというマメ科の葉を採集して、洗って煎って、日本に運び、エステの商社に卸すこともした。便秘茶としてである。真似がでるまでは注文の量も多かった。おかげで、これでしのげたと思う。そういう時期だった。名古屋港によく荷物を受け取りに行ったものだ。

 日本は一度失敗した者には制度的に立ち直りを許さないところがある。まず銀行は相手にしてくれない。クレジット会社でもそうだ。この点が起業しにくい国柄となり、30年停滞している原因のひとつでもあると思う。このことはいつも思っていることだ。

 ヤプログだけで相当な量がある。二段組の本にしたとすると、2005年から2007年まで200ページほどの本になる量だ。一日一日の文は短いものの、貯まればすごいものだ。 

令日

2019年04月02日 | 日記
 1日、2日とやけに冷たい空気で桜も身をすくめているようだ。4月はこんなに冷えただろうか。思い出せない。今年の花粉はどうも強烈のようだ。外へでるのも億劫になる。

 ヒラメ釣りを前に録画しておいたので、それをのんびりと観ることにした。細君は娘たちを津駅まで送っていき、ぼくは母親急な電話に備える。
 房総半島には2月になるとイワシがやってきて、イワシを追って寒ヒラメが大原沖に入って来るらしい。寒ヒラメはキロ5000円はするそうだ。餌はイワシである。親バリと孫バリでひっかける。ヒラメの血抜き、捌きかたも紹介してくれる。3kg級を釣っていた。羨む限りである。

 続いて、石垣島でのリーフ(珊瑚礁)フィッシングを観た。沖縄に行くと魚があんまり美味しいと思ったことがないが、「ミーバイ」という魚メニューはよく見た。ミーバイとは何か知ることができるだろうと、楽しみにして観た。釣り人が釣った魚は全部メモしておくことにした。ルアーで釣るのである。以下釣った魚である。タマン、イソフエフキ、イシガキハタ(イシミーバイ)、シロブチハタ(ハヤーミーバイ)、バラハタ(ナカジューミーバイ)、スジアラ(アカジンミーバイ)、クロハタ(ジャコクェーミーバイ)、オジロバラハタ(ナガジューミーバイ) 要するにミーバイとはハタのことなのではないか。カサゴよりは味が落ちる。南の海の魚だから脂はないだろう。
 アマチュアの釣りもすごいもんだ。最後は沖縄三大高級魚といわれるスジアラという、これもハタ系の魚を釣った。60cmのサイズだった。ミーバイはバーベキューで食べたら美味しいのかも知れない。薄造りもいいのかも知れない。
 沖縄にいくと食べる物に困った。何度も行っているうちにだんだんと美味しいものもみつけ始めた。海ブドウ、島ラッキョウがあり、11月になると美味しい巻き貝が出てくる。この貝は尾鷲にはいないが、引本や矢口にはいる。身の崎に刀のような爪がある。名前を忘れてしまった。4、5年前ブログ出てくるはずだ。
 案の定母親から電話がきて、母の不安を解消し、すでに5時を過ぎたもで、食べる物を持っていった。確か朝、薬をテーブルに置いたはずだったが、それがない。すでに飲んでしまったのか、ぼくが本当は置き忘れたのか、判然としない。こういうとき、自分の記憶力も当てにならないな、と思う。
 まっ、令日ではあった。