ベンガルのうた・内山眞理子 

内山眞理子の「ベンガルのうた」にようこそ。ここはエクタラ(歌びとバウルの一弦楽器)のひびく庭。どうぞ遊びにきてください。

よろこびは天地万物を タゴールの歌

2012-10-27 | Weblog

 

 

よろこびは天地万物を

 

 

よろこびは天地万物をめぐり流れ、

アムリタの露は昼も夜も無窮の空に満ちあふれる。

太陽と月は両の手のひら一杯に(アムリタを)飲みほし

きらきらと輝く光は尽きることがない

地上は生命と輝きにつねに満ちあふれている。

 ……

 

 

内山眞理子試訳(第一連のみ)

   

                                       

タゴール歌詩集 Gitabitan(歌のひろごり) より。

YouYubeでバングラデシュのタゴール歌手 Aditi Mohsin の歌を

ご試聴くださいませ。検索ワード:

Ananda Dhara Boiche Bhubone

 

 

 

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最初の悲しみ タゴールの散文詩

2012-10-25 | Weblog

 

最初の悲しみ

 

森の木陰をかよう小道は、いま草におおわれている。

ひとけのないその道で、背後からふいにだれかが声をかけてきた。

「わたしのことをおわかりになりますね」

ふりむいて、そのひとの顔を見た。

「ええ、おぼえています。だが、あなたの名をきちんと声に出せない」

するとそのひとは言った。

「わたしは、もうずいぶん昔の、あなたの若き日の悲しみです」

目のふちにうっすらと涙があった、それは月の光がひとすじ

湖水にうつるのを思わせた。

私はそこに立ちすくんで言った。

「あの日、あなたはスラボン月(雨季)の雨雲のように暗かった。

だが今はアッシン月(秋季、収穫季)の黄金像のよう。

あの日の涙はすべて消え去ったのですか」

答えずに、そのひとは微笑んだ。すべてはその微笑みの

なかにあるのだと私は思い知った。

暗い雨雲は去り、そのひとは、秋に咲くシウリの微笑みを学びとったのだ。

「あなたは、私の若き日をいまもなお、しまっておられるというわけですか」

と私は訊いた。

そのひとは言った。「これをごらんなさい、この花の首飾りを」

春の花飾りは、一枚の花弁すら失われていなかった。

私は言った。「私のは、もはや枯れてしまいました。

だが、あなたの首にある、私の若き日々はすこしも色あせていない」

そのひとはその花飾りをそっと私の首にかけてくれた。そして言った。

「おぼえていますか、あの日あなたは、

慰めはいらない、悲しみがほしいと言いました」

私は赤面して言った。

「そうでした。しかし歳月が経つうちに忘れてしまった」

その人は言った。

「あなたの心の奥にすむ祝福の主は、わすれませんでした。

わたしはひとり、木陰で待っていたのです。

あなたの心の奥に、わたしを迎え入れてください」

私はそのひとの手をとって言った。

「あなたは何とふしぎなすがたなんだ」

すると、そのひとは言った。

「過ぎ去った悲しみは、いま、静かな祝福となりました」

 

 

Lipika (ささやかな書き綴り、1922年) 所収

Pratham Shok (最初の悲しみ)、原文ベンガル語。

 

*訳者から:原文ベンガル語で「25歳」とあるのを、英語版にならって「若き日」と訳出しました。

  

 

 

 

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タゴールとドロシー・エルムハースト

2012-10-22 | Weblog

画像中央にドロシー・エルムハースト。白い顎鬚がタゴール。ダーティントンにて。

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タゴールとダーティントンの話 3

2012-10-20 | Weblog

 

 

タゴールとダーティントンの話 3

 

レナード・エルムハーストは、正式名 Leonard Knight Elmhirst (1893-1974) という。

エルムハーストは英国ヨークシャーで生まれた。ケンブリッジ大学で歴史を学んだのち、

1年ほどインドで奉仕活動に従事した。その活動終了の1919年に、ほとんど無一文で渡米する。

ニューヨーク州イサカにあるコーネル大学で農業経済学を専攻したが、優秀であったのだろう、

また、学費を切り詰める必要もあったのではなかろうか、レナードは4年のコースを2年で卒業した。

レナード・エルムハーストは、コーネル大学コスモポリタン・クラブの長として、博愛的見地から、

困窮学生のための学資援助活動にかかわっていた。

その活動のなかでレナードは、ドロシー・ストレイトと出会ったのである。

ドロシーにとって、コーネル大学の学生たちのための支援は、亡き夫ウィラードの遺言を実行する

ことでもあった。

 

こうして1920年の秋、まだコーネル大学の学生であったレナードは、訪米中のタゴールに出会う。

前述したように、ドロシー・ストレイトの紹介による。このとき、レナードは27歳、詩人はもうじき60歳を

むかえるという年齢であった。

 

詩人の語る、インド農村改善運動の理想に深く共感し共鳴したレナードは、翌年コーネル大学卒業後

すぐにインドへおもむく。

レナードはタゴールの秘書となり、つづいて1922年から25年まで、インド西ベンガル州ビルブム県

シュリニケトン(レナードの渡印当時はシュルル村であった)における農村復興のための教育、農村

改善センターの設立と運営に協力した。

この間、ドロシー・ストレイトは、シュリニケトンのこの事業に、資金援助をつづけた。

やがてその教育施設すなわち農村復興学部が軌道にのり、レナードは1925年2月に英国へもどる。

レナードは、タゴール精神に基づく学校を、英国にも創設したいと考えていた。

レナードに宛てた、つぎのようなタゴールの手紙がのこる。

 

「あなたは結婚なさって、ご自分の教育施設を英国に創立なさるべきです。

どこかよい土地・・・できればデヴォン州あたりに。自然の美にじかにふれる喜びを、

育ちざかりの子どもたちに・・・」

 

タゴールはすでに、レナード・エルムハーストとドロシー・ストレイトが愛し合っていることを

知っていたのであろう。この手紙に感じられるのは、愛し合う二人の門出への祝福である。

 

ついにレナード・エルムハーストはデヴォン州ダーティントンを発見する。

最上の土地であった。もちろん環境はベンガルとは全く違っていたが、目指すところは

同じであった。

レナードは1925年4月、ホイットニー一族が住んでいたニューヨーク州ロングアイランド、

ウェストベリーにて、ドロシーと結婚した。

この日、レナードは、故郷ヨークシャーに住む法律家の伯父(叔父)に電報を打っている。

「結婚した、購入へ進め」

購入とは、すなわち、ダーティントンホールとダーティントン地所を買い取ることであった。

 

ドロシーは同年5月に初めてダーティントンにやって来た。

つづいて6月、夫妻はダーティントンのふもとトートネスの町に移り、9月までダーティントン

購入の具体的手続きと事業の準備に追われた。

こうして夫妻は、翌年(1926年)、本格的にダーティントンホール事業に着手した。

インド、シャンティニケトン(教育文化センター)とシュリニケトン(農村復興教育センター)の

二つに結実するタゴールの理想をそのまま英国に育むという事業の船出であった。

 

なおタゴールは、1926年8月、1928年9月、1930年6~7月の、合計三回、ダーティントンを

訪れている。

タゴールの『人間の宗教』 The Religion of Man は、1930年5月に行った、オックスフォード大学での

講演録であるが、これはドロシー・エルムハーストに捧げられている。

 

 

上中央の写真におさまっている二人がドロシーとレナード。

ダーティントンの庭で撮影?・・・写真が小さいがお許しあれ。

写真の下に並ぶ人物画は、タゴールの描いた絵です

 

 

 

 

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タゴールとダーティントンの話 2

2012-10-07 | Weblog

 

 

タゴールとダーティントンの話 2

 

 

タゴールの、ダーティントンとの関わりは、ダーティントン事業の創始者であるエルムハースト夫妻(レナードとドロシー)と

知り合ったことに始まる。とはいえ、こう言ってしまうと、ほとんど真実を伝えていない、言い換えよう・・・すなわち、

のちにエルムハースト夫妻となる、レナード・エルムハーストとドロシー・ストレイトが各々、タゴールと出会った。

ニューヨークで。三人の、貴い結びつきは、ここに始まったのである。

 

やがてレナードとドロシーは愛をはぐくむようになり、数年後に二人は結婚した・・・

そして同時に英国ダーティントンで、新しいコンセプトを持つ学校事業が始まったのであった。

 

インド(ベンガル)人のタゴール、英国人であるレナード・エルムハースト、米国人のドロシー・ストレイトの三人は、

たがいに深い信頼でむすばれた。

ダーティントンでの新しいスタートのすべては、三人の愛と友情と信頼によって実現したのである。

 

1920年秋(註1)、米国ニューヨークにて、タゴールは初めてレナード・エルムハーストに出会う。

のちにレナードと結婚してドロシー・エルムハーストとなる、ドロシー・ストレイトの紹介であった。

 

ドロシーとは、米国屈指の大富豪ホイットニー家の娘である。タゴールがドロシーと出会ったころ、ドロシーの名は、ドロシー・ストレイト(註2)であった。

ドロシーは1911年に、コーネル大学出身のウィラード・ディッカーマン・ストレイトと結婚したのだが、1918年、第一次大戦に従軍した夫を失くしていた。

ドロシーはほっそりと背の高い女性であった。自立した精神をもち、親しみ深い人がらでもあって多くの友人に恵まれ、とても魅力的な女性であった。

 

(次回へつづく)

 

 

(註1)1920年10月28日から翌年の3月19日、タゴールは3回目の米国訪問をしている。

ニューヨークのアルゴンキン・ホテル(タイムズ・スクエアにも近い由緒あるホテル)に滞在。

当初、インドの大詩人に対しニューヨークの人びとは冷淡で、まったく招待もなかったようだ。

米国(とくにニューヨーク)は時あたかもローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)の幕開け。

ローリング・トゥエンティーズといえば、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を思い出す方も多かろう。

フィッツジェラルドもまた、作家が集まるアルゴンキン・ホテルの常連ではあったのだが・・・。

 

また、この米国訪問の前年(1919年)タゴールは、インド・パンジャーブで起きた暴虐に抗議して、

英国から授与されていた「サー」の称号を返還し、インド総督に公開書簡を送っている。

このようなこともあるいは、人びとの冷淡さと関連があったのかどうか・・・。

 

(註2)ドロシー・ストレイトすなわちドロシー・ペイン・ホイットニー (1887-1968)は1904年、17歳のとき、

父ウィリアム・コリンズ・ホイットニーの死去にともない、ホイットニー家の主要相続人の一人となった。

ドロシーは1911年に、ウィラード・ディッカーマン・ストレイトと結婚、ドロシー・ストレイトとなる。

余談だが、長兄ハリー・ペイン・ホイットニーの妻ガートルードはヴァンダービルト家の一員で、

美術に造詣が深く、ニューヨークのホイットニー美術館の創始者として知られる。

ホイットニー家、ヴァンダービルト家ともに、ニューヨークの大富豪である。

 

 

 

 

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タゴールとダーティントンの話 1

2012-10-03 | Weblog

 

タゴールとダーティントンの話 1 

 

 

かつて、英国デヴォン州ダーティントンに、中世貴族の古い館があった。

古い城と呼ぶこともできるその館は、ダーティントンホールと呼ばれてきた。

 

ダートムーアという荒涼として広大な丘陵地帯を北西にひかえ、そのムーアから

流れて来るダート川にそって、ダーティントンの地所はゆるやかに起伏しながら

しだいに低くなってゆき、やがて古くからの鉄道駅トートネス(トットネスとも)の

町へいたる。

トートネスはロンドンの南西に位置し、エクセターとプリマスの、ほぼ中ほどにある。

ロンドンから鉄道で四時間弱の距離である。

 

ダーティントンの敷地は広く、その一帯に教育文化施設、大学、酪農や園芸などの

さまざまな農場、アーツ&クラフト運動とも連携する手工芸の工房などが点在する。

ダート川はこのあたりではまだ高原のせせらぎのように控え目で美しく、川にそって

どこまでも遊歩道があり、人びとが散策しているのを眺めることができる。

 

ダーティントンホールは、この地所の中心的存在である。

同時にまた、一粒の麦としてのタゴール精神が具現されてきた場所として、

象徴的なひびきも合わせもっている。

 

真実 truth と善き心 goodness のための新しい気付き new way of consciousness を

目指して、ここでは今なお、大自然の調和のなかに種々さまざまなプロジェクトや催しが

提供され、多くの人びとを惹きつけてやまないのである。

(つづく)

 

画像はダーティントンホール。

 

*「タゴールとダーティントンの話」は『野の風』第22号(2012年9月発行)より

数回に分け転載の予定です。

 

 

 

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