タゴールとダーティントンの話 3
レナード・エルムハーストは、正式名 Leonard Knight Elmhirst (1893-1974) という。
エルムハーストは英国ヨークシャーで生まれた。ケンブリッジ大学で歴史を学んだのち、
1年ほどインドで奉仕活動に従事した。その活動終了の1919年に、ほとんど無一文で渡米する。
ニューヨーク州イサカにあるコーネル大学で農業経済学を専攻したが、優秀であったのだろう、
また、学費を切り詰める必要もあったのではなかろうか、レナードは4年のコースを2年で卒業した。
レナード・エルムハーストは、コーネル大学コスモポリタン・クラブの長として、博愛的見地から、
困窮学生のための学資援助活動にかかわっていた。
その活動のなかでレナードは、ドロシー・ストレイトと出会ったのである。
ドロシーにとって、コーネル大学の学生たちのための支援は、亡き夫ウィラードの遺言を実行する
ことでもあった。
こうして1920年の秋、まだコーネル大学の学生であったレナードは、訪米中のタゴールに出会う。
前述したように、ドロシー・ストレイトの紹介による。このとき、レナードは27歳、詩人はもうじき60歳を
むかえるという年齢であった。
詩人の語る、インド農村改善運動の理想に深く共感し共鳴したレナードは、翌年コーネル大学卒業後
すぐにインドへおもむく。
レナードはタゴールの秘書となり、つづいて1922年から25年まで、インド西ベンガル州ビルブム県
シュリニケトン(レナードの渡印当時はシュルル村であった)における農村復興のための教育、農村
改善センターの設立と運営に協力した。
この間、ドロシー・ストレイトは、シュリニケトンのこの事業に、資金援助をつづけた。
やがてその教育施設すなわち農村復興学部が軌道にのり、レナードは1925年2月に英国へもどる。
レナードは、タゴール精神に基づく学校を、英国にも創設したいと考えていた。
レナードに宛てた、つぎのようなタゴールの手紙がのこる。
「あなたは結婚なさって、ご自分の教育施設を英国に創立なさるべきです。
どこかよい土地・・・できればデヴォン州あたりに。自然の美にじかにふれる喜びを、
育ちざかりの子どもたちに・・・」
タゴールはすでに、レナード・エルムハーストとドロシー・ストレイトが愛し合っていることを
知っていたのであろう。この手紙に感じられるのは、愛し合う二人の門出への祝福である。
ついにレナード・エルムハーストはデヴォン州ダーティントンを発見する。
最上の土地であった。もちろん環境はベンガルとは全く違っていたが、目指すところは
同じであった。
レナードは1925年4月、ホイットニー一族が住んでいたニューヨーク州ロングアイランド、
ウェストベリーにて、ドロシーと結婚した。
この日、レナードは、故郷ヨークシャーに住む法律家の伯父(叔父)に電報を打っている。
「結婚した、購入へ進め」
購入とは、すなわち、ダーティントンホールとダーティントン地所を買い取ることであった。
ドロシーは同年5月に初めてダーティントンにやって来た。
つづいて6月、夫妻はダーティントンのふもとトートネスの町に移り、9月までダーティントン
購入の具体的手続きと事業の準備に追われた。
こうして夫妻は、翌年(1926年)、本格的にダーティントンホール事業に着手した。
インド、シャンティニケトン(教育文化センター)とシュリニケトン(農村復興教育センター)の
二つに結実するタゴールの理想をそのまま英国に育むという事業の船出であった。
なおタゴールは、1926年8月、1928年9月、1930年6~7月の、合計三回、ダーティントンを
訪れている。
タゴールの『人間の宗教』 The Religion of Man は、1930年5月に行った、オックスフォード大学での
講演録であるが、これはドロシー・エルムハーストに捧げられている。
上中央の写真におさまっている二人がドロシーとレナード。
ダーティントンの庭で撮影?・・・写真が小さいがお許しあれ。
写真の下に並ぶ人物画は、タゴールの描いた絵です。