ベンガルのうた・内山眞理子 

内山眞理子の「ベンガルのうた」にようこそ。ここはエクタラ(歌びとバウルの一弦楽器)のひびく庭。どうぞ遊びにきてください。

タゴール『ギーターンジャリ』とラッセル

2019-06-29 | Weblog


ギーターンジャリ
バートランド・ラッセル



前々回の「マラバー洞窟のエコー」とともにお読みくださればと思います。
タゴールの英語散文詩集『歌の捧げもの』は、
ベンガル語原文『ギーターンジャリ』を詩人じしんが英訳したものです。
これについては何度もふれてきましたが、ご存知ないかたのために今いちど。


さて、この英語散文詩集『歌の捧げもの』は、1912年11月1日に
インド協会(ハヴェル、ローセンスタインなどロンドン在住の
オリエント通らが創立メンバー)より出版されました。
750部出版され、かのバートランド・ラッセルへも。

本が届くとほとんど時を経ずしてラッセルは本を読んだようです。
そして1912年11月半ばにラッセルが何と言ったか・・・

「私は本を、このうえない関心をもって読みました。
これまで読んだどんな英詩にもみあたらない、
質的に異なる詩篇でした。もし私がインドを知っていたら、
その質的なちがいを言葉で示しえたかもしれませんが。
いま言えるのはこれだけです、つまり英文学にはない、
それじしんの価値をもった詩であると感じます。
これらの詩篇を原文で読むことができたならと私は思いました。
ロビンソン著 RABINDRANATH TAGORE
 England and the USA 1912-13 の章より引用


ラッセルの言葉は曖昧なものをふくんでいるとしても、
たしかに的を射ていると思います。
また英訳散文詩集『歌の捧げもの』は、じっさい
ベンガル語原文詩集『ギーターンジャリ』とかなり趣がちがっており、
20世紀最後の10年には、なぜこのような違いが生まれたのか、
さまざまに論じられるようになりました(下記注)ラッセルの言葉は、
このような動きを予言するものであったと言えるかもしれません。

(注)主たる論者は、アマルティア・セン(母語はベンガル語、ノーベル経済学賞受賞)、
ウィリアム・ラディス William Radice(詩人、タゴール研究学者、欧米では
タゴール作品の英訳で知られる) ほか。 アマルティア・センの論考については、
当ブログ「夕陽妄語 タゴール再見」もお読みいただければと思います。


 
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イースト(東洋)とウェスト(西欧)1912年

2019-06-28 | Weblog

イースト(東洋)
ウェスト(西欧)1912年


「かれ(タゴール)によって世界の人びとは、インド文化の
奥深さ、豊かさを知るようになった」
とは、インド哲学者中村元さんの言葉です。

1912年6月半ば、タゴールは
ベンガル語原文詩集『ギーターンジャリ』をみずから英訳して
ノートにつづった散文詩集 『歌の捧げもの』をたずさえて
ロンドンを訪れたのでした。

すでにご紹介したように6月下旬から7月上旬にかけて、
主に画家ローセンスタインを介してあわただしく、
さまざまな人びととの出あいを果たします。それはまるで
ウェスト(西欧)にとって、イースト(東洋)の精神と
リアルタイムで遭遇した体験だったのかもしれません。

歴史が示すように17世紀初め、カルカッタでイースト(東洋)は
ウェスト(西欧)に出あい、その後300年たって今度は、
西欧が東洋に出あうことになったのです。カルカッタで生まれた
ひとりの詩人によって。

1912年の夏、最初に詩人タゴールを理解したのは、ロンドンにいた
詩人たちでした。W.B.イェイツ、アーネスト・リース、エズラ・パウンド、
ロバート・ブリッジズ、サン=ジョン・ペルス、そしてスタージ・ムーア。
かれらはタゴールの詩に感動し、その人間性に共感したのです。
スタージ・ムーア Thomas Sturge Moore (1870-1944)はW.B.イェイツの友人で、
1913年にタゴールをノーベル文学賞に推薦した人物です。


 
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マラバー洞窟のエコー

2019-06-25 | Weblog
 
 
 
マラバー洞窟のエコー
 
 
 
 
『インドへの道』は E.M.フォースター (1879-1970) の長編小説です。
本をお読みになった方も、映画をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 
小説では、インドを突然おとずれた西欧のひとりの女性がインドに
ひどい戸惑いをおぼえることになるのですが、そこから来る心理的錯乱を、
マラバー洞窟の闇が象徴するかのようでした。
 
 
ということで、ここからタゴールの話にうつります。
今回は、
Andrew Robinson & Krishna Dutta 共著
RABINDRANATH TAGORE
~The myriad-minded man~
よりのご紹介になります(1997年初版)
「英国と米国 (1912-13)」の章から。
 
1912年夏に英国を訪れたラビンドラナート・タゴールは、
ロンドンでいろいろな人たちに会います。
直接的にも間接的にもローセンスタインの
ゆきとどいた配慮が実をむすんだにちがいありません。
驚くほど多くの人びとに会い、
時間をかけて語り合っている様子がうかがえます。
 
で、ここに登場するのが、バートランド・ラッセル (1872-1970) 。
英国の哲学者にして無神論者、現実的な平和主義者ラッセルと、
タゴールは1912年7月に初めて出会っています。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレジで、2人を引き合わせたのは、
E.M.フォースターの親友にして哲学者 G.L.ディキンソン ((1862-1932) でした。
陽のかげりはじめた七月の夕べ、緑のおいしげる大学の庭園にすわって、
タゴールは数篇の歌をうたったとのことです。
 
ラッセルとタゴールの出会いは、ラッセルの主張では3回だそうですが、
まちがいなく4回出会っていると上記書籍の著者ロビンソンは述べています。
二人は1912年、1913年(2回)、そして1926年に出会ったと。
 
英国のバートランド・ラッセルとの出会いは、要するに、
不完全燃焼におわったということのようです。
ラッセルとタゴールの出会いは、
あたかもマラバー洞窟のエコーを思わせるものだった、
と上記著者は淡々と述べています。
英国で、不十分な出会いというのは幾つもあったが、
そのうち不協和音を最大にひびかせたのが、
タゴールとバートランド・ラッセル、
そして
タゴールとバーナード・ショーの出会いだった、と。
 
 
最後に余談を二つ。
余談1) ウィーン出身の言語哲学者ヴィトゲンシュタイン (1889-1851)は、
バートランド・ラッセルのもとで学んでいますが、若い頃、タゴールの詩を
愛読したといいます。
 
余談2) タゴールをラッセルのもとに案内したディキンソンには姉と妹
(あるいは姉2人?)がいました。E.M.フォースターの名作『ハワーズ・エンド』に
登場する、愛すべき姉妹マーガレットとヘレンは、このディキンソンの姉と妹から
インスピレーションを受けたとE.M.フォースターは明かしています。
 
 
 
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タゴール英国デビューの舞台裏

2019-06-22 | Weblog


タゴールの英国デビューの舞台裏
ウィリアム・ローセンスタイン
1912年 (前回のつづき)



前回、タゴールの紹介のために尽力した、
ウィリアム・ローセンスタインのことを記しました。
タゴールの英国デビューの産みの親は
ウィリアム・ローセンスタイン。それも、想像をはるかに超えて
力強く、持続してサポートしつづけたのです。
けれどローセンスタインは、
タゴールが20世紀の初めにスタートさせたシャンティニケトンの
学校についてはほとんど知らなかったと思われます。

ここで、ひとりのベンガル人にふれなければなりません。
前々回の当ブログ「トンプソンの記録から1912年」に
わずかに登場した「アジット」という人物です。
ベンガル語よみでは「オジット」となります。

Ajit Kumar Chakravarty (1886-1918)。

この青年は1910年から11年にかけて、
自ら英訳したタゴール詩をロンドンの雑誌に寄稿するなど、
タゴール詩のすばらしさの紹介に力を尽くしています。
アジットはファリドプル(現在バングラデシュ)の出身で、
タゴールの始めた学校で教えていました。



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タゴールの英語散文詩集『歌の捧げもの』とローセンスタイン

2019-06-21 | Weblog


タゴールの
英語散文詩集
『歌の捧げもの』
ウィリアム・ローセンスタイン



『歌の捧げもの』は、ウィリアム・ローセンスタインに
捧げられています。
ローセンスタインは著名人の肖像画を数多く描いた画家で、
1912年、ハムステッドに滞在するタゴールの素描も
とても美しいものです。

それはともかく1912年、ローセンスタインがどれほど
詩人タゴールのプロデュースに尽力したか、それを
思うたびに心の中に感動がわきおこります。
その惜しみない尽力が、翌年タゴールの、
ノーベル文学賞受賞に結びついたのですから。

ローセンスタインがハムステッドの自宅に、
タゴールとイェイツを招いたのが1912年6月27日。
ふたたびローセンスタインの家で、
タゴールの詩篇をイェイツの朗読で聴くという、
ディナーと朗読の会が開催されたのが7月7日。
さらにその3日後の7月10日には、
ロンドンの中心にあったトゥロカデロ・レストラン(クラブ)で
インド協会(India Society)による
タゴールの歓迎会が開かれたのです。

こうして舞台裏の中心には常にローセンスタインがいて、
当時の英国ではまだほとんど知られていなかった
詩人タゴールを、もっとも効果的な方法で、ロンドンの
著名人たちに印象づけたことは間違いのないところでしょう。

7月10日の歓迎会には約70名の出席者がいて、
「SFの父」とも呼ばれるH.G.ウェルズ(1866-1946)もそのひとり。
興味深いことに、出席者のなかには
当時の著名な音楽関係者も。
民謡収集家として名高いセシル・シャープ(1859-1924)、
作曲家レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)、
音楽学者A.H.F.ストラングウェイズ(1859-1948)ほか。
音楽学者ストラングウェイズはその後、みずから
タゴール文学のエージェントとなって、欧州における
タゴール文学の普及に協力したそうです。  

ところでインド協会 India Society とは、1910年3月に
ロンドンでスタートした協会で、インド美術に造詣のふかい人びと、
つまりオリエント学者や、南アジアの美術研究家、蒐集家などが
あつまって結成されました。中心メンバーは、
インドに滞在し、現地をよく知る、
ウィリアム・ローセンスタインとE.B. ハヴェル。
そしてスリランカ(セイロン)出身のインド文化史家
クーマラスワーミー(後にボストン美術館アジア部長)、
アイルランドの詩人 T.W.ロールストン、 
イスラム美術のT.W. アーノルドほか。 

1910年といえば、ヴィクトリア女王の息子、
エドワード7世の治世、最後の年でした。





 
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トムプソンの記録から 1912年

2019-06-14 | Weblog
 
 
エドワード・トムプソンの記録から
タゴール
ノーベル賞受賞の前年 1912年
 
 
 
前回につづいて、エドワード・トムプソンの記録からご紹介します。
これはタゴールとの対話をもとにトムプソンが記録したもので、
下記に収録されています。
 
R. Tagore Poet and Dramatist 
written by Edward John Thompson
 
じつは手元にあるはずの上記書籍がみつかりません。
それで、
昭和36年5月6日【タゴール記念会】発行の
『タゴール生誕百年祭記念論文集』から、引用させていただきます。
 
申し遅れましたが前回も同様で、山口清氏による、このエッセイには、
英訳詩集「ギーターンジャリ」について
というタイトルが付けられています。
ご関心のある方はぜひ、全文をお読みになってください。
  
 
「私(詩人タゴール)はシライドホ(現在バングラデシュ)
行き(1912年3月と4月)、ただ暇をつぶすために、
『ギーターンジャリ』の歌を(ベンガル語から英語に)訳した。
なぜならそれは、私にとって非常にいとしいものだった。私は
もう一度それを読みかえす喜びを持ちたいと思った。
たしかに私の訳は、学校生徒の練習に
過ぎないように思われた。それで私はその訳を
アジットに見せた。彼は申し分ないと言った。
またわたしは(英国へ行く)汽船の上でも訳を続けた。
それは私に大きな喜びを与えた。
私はロンドンに着き(6月16日)、或るホテルに泊まった。
ここで私は大きな失望を経験した。
すべての人が幽霊のように見えた。
朝食の後にホテルは何時もからになっていた。
私は混み合っている街を眺めた。
失望して帰国しようと考えた。
この国の人間を知ること、或いは他の場所の心に
入って行くことは不可能であった。
その時
ローゼンスタインに会ってみようという考えが浮かんだ。
私はオボニンドラナート(画家、詩人の甥)の家で
彼に会ったことがある。しかし
私が詩人であることを誰も彼に告げてはいなかった。
彼は私をタゴール家の一員として知ったに過ぎない。
私は彼の電話番号を調べ、彼を呼んだ。
彼はただちにやって来た。そして私に
前の宿よりもましな宿を見つけてくれた。
ハムステッドの、あの「健康の谷」という
馬鹿げた名のところに家を見つけてくれた。
 
(文中のカッコ内、小さめ文字は引用者。引用を終了)
 
 
健康の谷(2017年初夏・内山眞理子撮影)
 
1912年夏にタゴールが滞在した家(ハムステッド・ヒースのすぐそば)
 
 
こうして詩人タゴールは肖像画家ローセンスタインを介して、
ハムステッドにあるローセンスタインの家で、
イェイツに出会いました(6月27日)。
それからまもなく、
7月7日にローセンスタインの家で朗読会。
つづいて7月10日に、
ピカデリー・サーカスの、名だたるレストラン(クラブ)にて
インディア・ソサイティによる歓迎会と朗読会が催されたのです。
 
7日も10日も朗読者はイェイツ、朗読された詩はタゴールの詩でした。
もちろん英語散文詩集『歌の捧げもの』 Song Offerings から、
イェイツが択んだ幾つかの詩篇だったにちがいありません。
Andrew Robinson の著書 
R.TAGORE, The myriad-minded man によれば、
7月7日の夕べ、数篇の短い詩が朗読され、
7月10日には3詩篇が朗読された、と記されています。
 
レストランの名はTrocadero Restraunt、発音はトゥロケイディーロ?
レストランには、そうそうたる人びとが集まって、
社交的で華やかな雰囲気だったことでしょう。
出席者70人のなかに、アイルランドのジャンヌ・ダルクとも
呼ばれる、際立って美しいモード・ゴン(1866-1953) も。
イェイツがその生涯をかけて憧れ愛しつづけた、
アイルランドの美しき革命家(とはいえ、モード・ゴン自身は英国の人)。
諦めきれないイェイツは、何度かプロポーズしたけれど、
モード・ゴンの心を射止めることはできなかったようです。
 
 
 
 
 
 
 
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エドワード・トムプソンの記録から タゴールのノーベル賞

2019-06-11 | Weblog


エドワード・トムプソンの記録から
タゴールのノーベル賞
1913年11月


エドワード・ジョン・トムプソン(1886-1946)は文学者、小説家、翻訳家で、
『詩人および劇作家としてのタゴール』 R.Tagore, Poet and Dramatist
の著者として知られています。
1910年にインドへ渡り、ベンガルのバンクラ県で英文学を教え、
やがてタゴールと親しくなった英国人のひとりです。
トムプソンは、1913年11月に、たまたま
シャンティニケトン(タゴールの学校の所在地)に滞在していて、
タゴールがノーベル文学賞を受賞したときの様子を記録しています。

私がシャンティニケトンに滞在していた11月第一週のある夕、
とつぜん騒ぎが起こり、教師たちが電報の束をもって走って来た。
大きな知らせがあります。タゴール先生がノーベル賞を
獲得されました。・・・・・・
その時は私たちのすべてにとって大きな幸福の時であった。
生徒たちはノーベル賞が何であるかを知らなかったけれども、
彼らのグルデヴ(偉大なる師)が何時もやっているように、
何か素晴らしいことをやったと理解した。彼らは列をつくって
学校歌「われらのシャンティニケトン」を歌いながら学校のまわりを
行進した。

当時の様子が、目にうかぶようですね。
次回もトムプソンの記録からご紹介する予定です。



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タゴール詩集『歌の捧げもの』オンデマンド本

2019-06-04 | Weblog


 ラビンドラナート・タゴール詩集
『歌の捧げもの』
オンデマンド本のご案内


もうすぐ発売になります。
 



*お詫び(2020年2月1日記):
このオンデマンド本は昨年12月に販売を終了しております。電子書籍は今までどおりお読みいただけます。キンドル・リーダーより、タブレットで読むのが快適かもしれません。



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