ベンガルのうた・内山眞理子 

内山眞理子の「ベンガルのうた」にようこそ。ここはエクタラ(歌びとバウルの一弦楽器)のひびく庭。どうぞ遊びにきてください。

瞑想 Meditation by Tagore 9

2016-04-30 | Weblog

 

瞑想 その9

Meditation

taught by Tagore

in the summer of 1916

 

 

こうして最初の祈りは、「神」を Pita ピタ (父)として

実感するということになります。

あなたは、

星ぼしやさまざまな世界という無限の世界を創造したまう、

あなたは、わたしを超越したまう、

けれどもひとつだけ、親愛の心であなたが

Pita ピタ (父)であるということをわたしは知っています。

 

赤ちゃんはお母さんがなさることを何もかも

知っているわけではありませんが、それでも、

その人がお母さんであることを知っています。

そのように、

わたしは「神」についてほかのことは知らないが、

あなたがわが父である、ということを知っています。

あなたがわが父である、というこの考えとともに、

わたしのすべての意識が火のように燃えつづけますように。

そして、

宇宙すべてをおさめる「至高の人格」がわが「父」である、

との思いが日々、あらゆる考えの中心にありますように。

 

Pita no bodhi.  ピタ ノー ボーディ。

あなたがわが父である、という大いなる真実の光のなかに、

わたしを目ざめさせてください。

はだかの赤ちゃんのように、わたしのすべての考えが

あなたの腕のなかで抱かれていますように、一日じゅう

あなたの優しさと保護のなかで。

 

そのあとさらに Namah ナマッハ とつづきます。

わが自己のすべてを明けわたすことが真実となりますように。

これが人間の愛の最高の喜びなのです。

Namaste ナマステー、すなわち、あなたに namah ナマッハ

・・・・・・これが真実のものになりますように。

わたしは無限の「わたしがいる」につながっています、ですから

わたしの真実の心構えはプライドでも、自己満足でもなく、

自己を明けわたす心構えにあるのです。

Namaste'stu. ナマステーストゥ。

 

わたしの学校の生徒たちが祈りと瞑想に用いる

テキストはこれで終わりというわけではありません。

この祈りの言葉は、わたしたちの最古の聖典であるヴェーダの

さまざまな場所からあつめたものです。それを忘れないで。

これらはどこか一か所に、言葉の連なりとして

そのまま見いだせるというものではありません

わたしの父親は、「神」の信仰にその生涯をささげましたけれども、

かれ自身がこれらの言葉を、無尽蔵の知恵の宝庫である

ヴェーダとウパニシャッドからあつめてきたのです。

 

つづく

 

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 8

2016-04-29 | Weblog

 

瞑想 その8

Meditation

taught by Tagore

 

 

たとえば王様と臣下の関係や、主人と使用人の関係、

あるいは法律を定める者と従う者の関係は、

個々の目的に特化される部分的な関係ということになります。

ここに、存在すべてが含まれることではありません。

 

しかし、人格としての「わたし」は、

 「無限の人格」と完ぺきな関係をもっています。

これは、ほかにはありえない完全なものです。

愛したということで、愛のなかにわたしたちの人格は

限りない満足を見いだし、さらにそれによって、

「無限の人格」との関係は愛の関係なのだと、わたしたちは知ります。

こうして人間は、「われらの父」と呼ぶことを学びとったのです、

「王」でもなく、「主人」でもなく、「父」と呼ぶことを。

 

いいかえますと、「その人」には何かわたしたちと共有するものがある、

この「永遠の人格」とこの限りある小さな人格との間には、

共通する何かがある、ということなのです。

しかし、それでも問いは残ります、

なぜ人間存在の個人的関係をあらわす「父」という言葉を

つかわなければならないのですか。ほかに言葉を発明してもよい

のではないですか。これではあまりに限定的で小さすぎませんか。

 

わたしたちのサンスクリット語で「父」という言葉は「母」をも

ふくみます。わたしたちはこの言葉を、

「父と母」を意味する双数形 ピタル Pitaru としてよく使うのです。

人間は「母」の腕のなかに生まれてきます。わたしたちは、

雨が雨雲から生まれるように生まれてきたのではありません。

大いなる事実として、わたしはわが父と母の腕のなかに

この人生を導かれてきたということなのです。

これは、人格がすでにここにあることを示しています。

ここに、わたしたちは「無限の人格」との関係を見いだすのです。

わたしたちは愛から生まれ、わたしたちの関係とは愛であると知ったうえで、

父と母は、「神」とわたしたちの永遠の関係を象徴しているのだと、

わたしたちは感じます。

わたしはこの真実を刹那刹那に感知しなければなりません。

わたしは永遠にわが「父」とつながっていることを知らなければなりません。

そうすることによってわたしは、ありふれた些末な物事を超えます、

すると全世界がわたしにとって意義をもってくるのです。

 

つづく

 

 

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 7

2016-04-27 | Weblog

 

瞑想 その7

Meditation

taught by Tagore

 

この世界を単に力学的な組み合わせとみなすなら、もはや

崇拝について問うまでもありません。しかし、

わたしたちは単に物理的、あるいは心理的存在ではないのです。

わたしたちは男性であり女性です。わたしたちが人間であるという、

この限りない意味を、この全世界のなかに見出さなければなりません。

 

わたしの体が存在することを、「科学」は普遍的法則で説明します。

それで、この体が、創造の営みのなかで孤立して存在するのではなく、

大いなる全体の一部として存在するのだとわたしは気づきます。

さらにわたしは気づきます、わが精神(こころ)でさえ、この世界で

起きているあらゆる事象との調和のなかで考えているのだと。

こうしてわが精神のたすけによって、この普遍的宇宙を支配する、

大いなる法則のすべてをわたしは見出すことができるのです。

 

しかし「科学」はわたしに、これ以上はすすめないと言います。

「科学」にとって、肉体と精神作用の法則は宇宙のなかに

その背景がありますが、人格には何ひとつ背景がないからです。

けれどもわたしたちはこれを受け入れられないと感じます。

なぜなら、この人格が、ほかのあらゆるものとはちがって、

真実と何の関係もないとしたら、これはいったいどういうことか。

いったいなぜ、どうやって、この世界にそれがあるのか。

わが人格という事実は、それを支えてくれる、

無限の人格という真実をもっているにちがいないのです。

わたしたちは、うちなる「わたし」を直ちに感知することによって、

ひとつの無限の「わたし」があるにちがいないという、

この大いなる発見に到達するのです。

 

すると問いがやってきます、わたしたちは

どのようにこの「普遍の人格」とつながるのですか。

「人間」は、心のうちの心でその答えを得ます、

すべてのつながりのなかでもっとも親密な関係、

すなわち愛の関係でつながるのです。

ほかの方法はありえません、

関係とはそれが愛のつながりであるときにのみ、

完全なものになるからです。

 

つづく

 

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 6

2016-04-26 | Weblog

 

瞑想  その6

Meditation

taught by Tagore

 

時に、わたしたちは祈りのなかで

じぶんを満足させる言葉を用いながらも、

言葉を精神(mind こころ)に完全に定着させないまま、

機械的に言葉を唱えていることがあります。

「Father 父」は、こういう言葉の一例です。

 

したがって、わたしたちの瞑想においては、

その言葉が何を意味しているのかを、より深く理解し、

そうすることによって、わたしたちの心(heart)を

その真実と一致させなければなりません。

 

この世界は法則という手段を通してあらわれると考えることもできます。

わたしたちは精神(こころ)のなかで世界観をもつことができますが、

それを力学と物質の世界としてとらえるなら、わたしたちと世界の関係は、

たんに科学的仕組みだけになってしまいます。

そしてこの場合、

わたしたちは人間のうちにある最上の真実を見うしないます。

人間とはどういう存在でしょうか。人とは人格的存在です。

法則はその問いに何もこたえてくれません。

法則とは、わたしたちの肉体の生理的機能についてであり、

わたしたちの精神(こころ)の心理的機能についてであり、

法則は、わたしたちという存在の機械的仕組みにすぎません。

そして、わたしたちの人間的本質となると、

それを説明するどんな法則もわたしたちは見出していないのです。

ですから「科学」は、わたしたち自身についての真実の、

まさにその根本を顧みることがありません。

世界全体が機械的仕組みになりますと、もはや「創造者」を

「父」とみなす・・・わたしたちインド人は「母」とも呼びかけたりしますが、

そのような考えが入りこむ余地すらなくなってしまうでしょう。

 

つづく

 

 

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 5

2016-04-25 | Weblog

 

 

瞑想  その5

Meditation

taught by Tagore

 

つづいて、

(インドの)わたしたちの学校で、生徒たちが日々の祈りにつかう

瞑想のべつの(聖句の)テキストがありますので、それをご紹介しましょう。

 

 Om pita no'si, pita no bodhi.   Namaste'stu.

Pita no'si.

 

あなたはわれらの父。

「pita no bodhi  ピタ ノー ボーディ」は、われらにbodha を、

すなわち自覚をさずけてください、

すなわち「あなたはわれらの父」ということに気づかせてください、

との意味になります。

 

Namaste'stu ナマステーストゥ。 

ここでつかわれる語彙(サンスクリット語の辞書形として)「namah ナマッハ」は、

「頭を下げる」とか「挨拶」という意味にちかいとはいえ、

英語に的確な語彙がみつかりません。この聖句は、

わたしの「ナマッ」をあなたにささげる、このことが真実となりますように、

との意味になります。

 

これが、わたしたちの学校で生徒がつかう、テキストの最初の部分です。

それではつぎに(この部分を)わたしがどう理解しているかをお話したいと思います。

 

Pita nosi ピタ ノーシ。テキストは、

「神」はわれらの「父」であるとの主張ではじまります。

けれども、この真実は、わたしたちの生命のなかで

いまだ実現されないものであり、それゆえわたしたちが

不完全さと苦難と罪悪を感じる原因でもあります。

だからこそ、これがわたしたちの意識のなかで実現されるように、

また実際にわたしたちがそうできるようにと、わたしたちは祈るのです。

つづいてこの句は Namaste ナマステー で終わります。

わたしの Namah ナマッハ を真実のものにしてください、と。

なぜなら Namah は真の心構えのことだからです。

わたしがこの大いなる真実 Pita no'si を十分に感知するとき、

わたしの生命は、それじしんの真実をこのNamah によってあらわします、

すなわち

素直な憧憬を感じつつ、それじしんの謙虚さで、その身を任せることで、

生命はそれじしんの真実をあらわす、ということです。

 

つづく

 

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 4

2016-04-23 | Weblog

 

瞑想  その4

Meditation

taught by Tagore

 

~その1、その2、その3からのつづきになります、

さかのぼってその1からお読みくださいすように~

 

すなわち以上がわたしたちのテキストになります。

わたしたちは精神(こころ)をそこに(テキストの聖句)におきます、

そしてこれを何度も繰りかえして唱えます、すると

わたしたちの精神(こころ)が落ちついてきて、

こころの乱れが消え去ります。もはや

わたしたちに影響をあたえてしまう損失も、怖れも苦痛もなく、

人びととの関係はごく自然でシンプルなものになって、

わたしたちは解き放たれます。

 

すなわちこれが瞑想です、瞑想とは

この真実のなかに飛びこむこと、

この真実に生き、動き、

この真実にわたしたちの存在をおくことなのです。

 

つづく

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 3

2016-04-21 | Weblog

 

瞑想 その3

 

Meditation

taught by Tagore

at Karuizawa Japan

 

つづいて、

Tat savitur varenyam bhargo devasya dhimahi.

 

「宇宙の創造者 the Creator of the Universe」

の崇敬すべきエネルギーをわたしは想念します。

「創造者 Creator」という言葉は、使いふるされて

意味するところが鈍くなってしまいました。しかし、それでも

あなたがたは自覚した直観力を、あらゆるものの広がりへと

もっていかなければなりません、そしてそのうえで「神」が、

その限りない創造力から、それはけっして単一の行動ではなく、

止まることのない刹那刹那の時のきざみに、この世界を創りあげていると、

そのようにいわなければなりません。

 

このことすべてが「創造者」の尽きせぬ意思をあらわします。

これは重力の法則とか、わたしが崇拝できない、あるいは

わたしたちの崇拝とは言えない、なにか抽象的な物事には

似ていません。しかし、このテキストは述べています、

力は「崇敬にあたいする」と。これは単なる抽象ではなく

至高の人格へとつながる、それゆえにわたしたちは崇拝すると。

 

それでは、この力の顕現というのはいったい何でしょうか。

それは一方で

「大地」であり、「虚空」であり、「星々の天界」です、

またその一方で、

わたしたちの意識なのです。

わたし自身と世界のあいだには、永遠のつながりがあります、

なぜならこの世界はもう一つの面をわたしの意識のなかに

もっているからです。もしも意識ある存在がないとしたら、

また、「至高の意識」がないとしたら、世界は成りたたないのです。

 

「神」の力はわたしの中で意識として生じて、外の世界へと

流れでていきます。ふつう、わたしたちはそれを分けて考えますが、

ほんとうのところ創造における両面は、おなじ源から発していて

密接に関わりあっています。

 

このように、この「瞑想」は、わが意識と

外の広い世界が一致することを示唆します。

ではこの「一致 Unity」とはどこにあるのでしょうか。

それは、「大いなる力」が

わたしの内に、そしてわたしの外の世界に、

「意識」の息吹をふきかける、その場所にあります。

 

このことを想念する瞑想とは、何かをわがものとすることではなく、

わたし自身を放棄することです、 そうすることで、あらゆる創造と

一つになることなのです。

 

つづく

 

 

 

 

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瞑想 Meditation by Tagore 2

2016-04-20 | Weblog

 

瞑想  その2

Meditation

taught by Tagore

 

~その1からお読みください~ 

 

わたしたちがインドでつかってきた瞑想のテキストを

皆さんにご紹介しましょう。

 

Om bhur bhuvah svah

tat savitur varenyam bhargo devasya dhimahi

dhiyo yo nah prachodayat.

 

最初の「オーム」 これは完全をあらわしています、

「無限」「完成」「永遠」の意味をもつ、まさに象徴的な言葉です。

この音そのもので完結して、あらゆる物事の全体性をあらわします。

あらゆる瞑想が「オーム」ではじまり「オーム」で終わります。

精神(こころ)が、限りなく完全であるという意識でみたされるように、

また狭隘な利己心の世界から解き放たれるようにと、用いられるのです。

 

つづいて bhur ル はこの地上という意味です。

bhuvah ブヴァハ は大気であり、空ということです。

svah スヴァは星々の宇宙を意味します。

つまり Bhur bhuvah svah は

大地、虚空、宇宙ということになります。

 

あなたがたの精神(こころ)をこの宇宙の中心に

すえなければなりません。あなたがたはこの「無限」のなかに

生まれてきたのです、単に地上のある特定場所に属している

だけではなく全世界に属していることを

真に理解しなければなりません。

 

つづく

 

 

 訳者注1:

ここに訳出した「瞑想 Meditation」(原文英語)は、

タゴール初来日の1916年夏に、軽井沢でおこなわれた

詩人による瞑想講義録です。

ですので訳文中の「皆さん」「あなたがた」とは、このとき一週間ちかく、

タゴールのみちびきにより瞑想のプラクティスをおこなった

学生たちということになります。

さらに「わたしたちが・・・」とは、1901年にタゴールが始めた

森の小さな学校のことだと思われます。

 

注2:

瞑想のテキストとして紹介されたこの聖句はガーヤトリー・マントラですね。

いまや世界中にヨーガや瞑想の愛好者が大勢いらっしゃるので、

この聖句を一度は耳にしたという方も多いのではないでしょうか。

ご参考までに、ガーヤトリーはヴェーダの韻律のひとつで、とくに

ガーヤトリー調でつくられた太陽神サヴィトリに捧げる讃歌が

もっとも神聖であるといわれます。

またガーヤトリーは神格化されて創造神ブラフマーの妻で、

四ヴェーダの母とされています。

 

 

 

 

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瞑想 Meditation by Rabindranath Tagore 1

2016-04-19 | Weblog

 

タゴールが語った「瞑想」 

その1

 

Meditation

taught by Rabindranath Tagore 

at Karuizawa of Japan

in the summer of 1916

 

“There are things that we get from outside

 and take to ourselves as posseions.

But with meditation, it is just the opposite.

It is entering into the very midst of some great truth,

so that, in the end, we are possessed by it.”

 

わたしたちが外から手に入れて自分の所有とする事物があります。

しかし、瞑想についていえば、この事とまったく逆です。瞑想とは、

ある大いなる真実の、そのまっただ中に飛びこむことであり、

その結果、わたしたちが真実によって所有されてしまうことなのです。

 

ここでいま対照的に、富とは何か、を考えてみることにしましょう。

貨幣は多大な労働にとってかわるものです。わたしは貨幣という

手段をつかうことにより人間と労働を切りはなし、それを

わが所有物とすることができます。外から手に入れて、

わが力にかえてしまうのです。

 

つぎに知識についてはどうでしょう。

ある種の知識は、わたしたちが他者から手に入れます。

また、わたしたちが観察や実験のなかで、

あるいは推理の過程で獲得する、そういう知識もあります。

 

これらはすべて、わたしとは別のところにあるものを取りあげ、

わがものとする営みです。これらの物事においては、

わたしたちの精神的、肉体的エネルギーの使われ方が

「瞑想」のときとまるっきり正反対になります。

 

最高の真実は、わたしたちがそこに飛びこむことでのみ、

感知できるのです。そしてわたしたちの意識が完全に

真実のなかに溶けこむとき、真実は単に獲得されたものではなく、

真実とまさに一体なのだとわたしたちは知ります。

 

このように瞑想をとおして、わたしたちの奥深い心は、

「至高の真実」と真のつながりをもち、わたしたちのすべての

行動、言葉、行いがまことのものになります。

 

つづく

 

 

訳者注:

ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)講演集

PERSONALITY (マクミラン社 1917年5月刊) 所収の

Meditation を訳出したものです。

訳者内山眞理子

 

 

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コルカタの仏教協会 3

2016-04-10 | Weblog

 

 

コルカタの仏教協会 3

インド宗教暴動のとき

 

もう20年以上も前になります、

1992年12月にインドで宗教暴動が起きました。

暴動はインド各地にひろがり1000人を超える人びとが

暴動の犠牲になりました。

 

コルカタでも激しい暴動があり、

24時間の外出禁止令(戒厳令)が発令されています。

 

運悪くちょうどこの時、コルカタに到着したのですが、

コルカタは非常事態下で空港からダウンタウンへ向かう

交通手段がまったく無い・・・これには困り果てました。

空港で指示をまつこと数時間、やがて

航空会社が一台の救急車を手配してくれ、

深夜、十数人の乗客たちとともに市内のホテルへ移動しました。

到着先は、宿泊料金が桁違いのスーパーデラックスホテル・・・

これにも弱りました・・・二種類もの luxury Tax (ぜいたく税)が

料金に加算されるので宿泊料金がやたら高額なのです。

 

それでも、 

二日ほど経ちますと、戒厳令は時間制外出禁止令へと変わり、

午前中の3時間くらいの外出が可能になり、

宿泊予約をしていたベンガル仏教協会へ行ってみました。

僧院のダルマパーラ比丘にお会いすると、

「予定通りコルカタに到着していたのですね、

すぐにこちらへ移りませんか、ここは安全ですよ」

と助言してくださいました。

 

早速その通りにしますと、すべてがうまく進みはじめて・・・

というより、少なくとも僧院の囲いのなかは、

静寂と平穏にあふれていたのです。

 

街じゅう、学校も官庁も商店もぴたりと門を閉じ、

すさまじい喧噪は消えて、まるで沈黙の鎧で

身をかためたようなコルカタは不気味でした。

 

行動予定は最小限にして、ベンガル仏教協会に

そのまま何日もお世話になりました。

このときばかりは、偶然いっしょになった

さまざまな宿泊客とゆっくりと語り合ったり、

ブッダの像が安置されているお堂で過ごしたり・・・

思いがけず、豊かな時をもちました。

 

コルカタのこの僧院には常に、近隣諸国の僧侶たちが訪れます。

タイ、ラオス、バングラデシュ、そしてトリプラ、メガラヤなどの

インド東部辺境地域のテーラワーダ仏教の僧侶たち、

それから、

チベット仏教系のシッキム、カリンポン、ダージリンの僧侶はじめ、

在家の仏教徒たちもよく利用しています。

 

ベンガル仏教協会のwebサイトです:

http://www.bengalbuddhist.com/OurActivities.html

各ページのヘッダーに掲げられている一文をご紹介します:

 

見えるものも見えないものも

遠くにすむものも近くにすむものも

生きとし生けるものすべてが

平安を見いだせますように。

 

 

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