初来日のタゴールと成瀬仁蔵
1916年、初来日したタゴールは、約三カ月間を日本で過ごしています。
アジア初のノーベル賞受賞者というのも当然あったでしょうが、一般には、ブッダの誕生した国の詩人、というイメージが先行していたかもしれません。詩人の美しく気高い風貌も、そのようなイメージに拍車をかけたはずです。
最初は詩人が面食らうほど熱狂的に歓迎されたようで、神戸港に到着した5月29日の日記から引用しますと、
・・・インドを発つときにはベンガル湾で台風に遭遇したが、日本に着くや今度はこの人間台風に出あわなければならなかった・・・。
しかしやがてこの熱狂は急速に冷めていきます。
6月半ばに行われた東京帝国大学での講演「インドから日本へのメッセージ」や7月初めに行われた慶應義塾大学での講演「日本の精神」で、日本の帝国主義政策を批判して警鐘をならし、そのためにタゴールは不評をかいました。とくに日本政府に。
「世界」は第一次世界大戦の真っただ中でした。
西洋文明をいちはやく取り入れたとの自負もあった日本は、このとき戦争による好景気でさらに近代化、資本主義化への道をまっしぐらに突き進んでいたわけで、インド詩人の警鐘ははなはだ迷惑でおもしろくなかったのです。
ブッダの国の詩人というタゴールのイメージは、時を経ずして、厳しく叱る批評家というイメージへと変わっていきました。
そのいっぽうで、7月2日の宵から夜にかけて、タゴールは日本女子大学校で講演をおこなっています。
同日は日なかに慶應義塾大学で講演をして、その後ただちに三田から目白台へ自動車で移動・・・「雑司ヶ谷の森に入る夕陽が校庭の桜並木へあかあかと影を落とす頃(タゴールの)自動車は入って来た。」と、タゴールを迎え待つ人びとの記録がのこっています。
タゴールはこの夜、同大学校の成瀬講堂で講演、いえ、正確にいえば詩の朗読をしました。
「・・・わたしは瞑想にひたる詩人でありますから、多くの人の前で語るのを好みません・・・長い話をしないで、わたしの書いた本の一節をみなさんの前で読むことにしようと思います」といって、数篇のベンガル語詩を朗読したということです。
私の想像ではありますが、この夜のタゴールは、異国にありながら完全にホームグラウンドにもどったかのような、とても寛いだ気分でした。ホームすなわち心地よい「家」であり「家庭」という感覚ですね。
ところで、この年、1916年に発表された Ghore Baire(直訳では「家で外で」、邦訳題は「家と世界」)という小説があります。ストーリーは端折りますが、「家」と「世界」の両方に生きる人間はそのために葛藤し苦悩するというテーマだったと思います。
タゴールにとって日本女子大学校との出会いは、けっして外の「世界」との出会いではなく、むしろ「家」という連なりのなかに実現したものでした。言葉をかえて言えば7月2日の夜、タゴールはあえて外の「世界」を遠ざけて「家」を択んだかのよう。外を覆うものを取り去ることによって、詩人という真の姿で人びとと出会ったということになります。
この夜の朗読を経て、その後、さらに軽井沢に約一週間滞在して、学生たちに瞑想の講義や指導をしましたが、その講義録「瞑想」をよむと、その瞑想スタイルはコルカタのタゴール家で日常的におこなわれていたものであるらしいこと、さらにタゴールが始めたシャンティニケトンの学校で日課になっている瞑想であることがわかります。
いまからちょうど100年前、タゴールと日本女子大学校との出会いは、やはり特別なものだったと思います。そしてそのような出会いが実現したのは、ひとえに、日本女子大学校創始者である成瀬仁蔵の人間性と求道の精神ゆえだったと、私は考えています。
*上記の内容は、7月に開催された会員制の講話会でお話ししたものです。タゴール初来日100年を記念しての講話会でした。なおこのときタゴールの母語であるベンガル語本『ギーターンジャリ』から一篇を、コルカタ出身の方にベンガル語で朗読していただきました。