ベンガルのうた・内山眞理子 

内山眞理子の「ベンガルのうた」にようこそ。ここはエクタラ(歌びとバウルの一弦楽器)のひびく庭。どうぞ遊びにきてください。

わたしに歌えといわないで タゴール 愛国歌

2013-11-26 | Weblog

 

 

わたしに歌えといわないで

自らの国 Swadesh 二十二番歌

 

わたしに歌えといわないで。

わたしに歌えといわないで。

これはただ愉快な遊び、娯楽の市、空虚な偽善なのか。

わたしに歌えといわないで。

これこそあふれる涙、絶望のため息、汚名の話、貧者の希望、

これは胸を抉る悲しみに 深くしずむ心の痛み。

これはただ愉快な遊び、娯楽の市、空虚な偽善なのか。

われら称賛が欲しくて来たのか、言葉を編み拍手喝采のために。

嘘の話をし、空虚な称賛を受けとり、偽りの仕事で夜をすごす。

いま目を覚ますのは誰か、仕事をするのは誰か、

母の汚名をすすごうと心から泣き、

母の足もとに心のあらゆる願いを託すのは誰か。

・・・

 

内山眞理子抄

 

 

 

 

 

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わたしの精進は タゴール 愛国歌

2013-11-25 | Weblog

 

 

わたしの精進は

Swadesh 四十六番歌

 

 

わたしの精進(サーダナ)は騒乱の背に乗っかることでしょうか。

本物は熱狂にさらされると駄目になる。

言葉だけでは借りを返せない、

体力ではつなぎ目を塞げない

大いそぎで継ぎ接ぎした混乱が 

どんな実を結ぶでしょうか。

いったいだれが運命の神を

いたずらに急かすのでしょうか。

・・・

 

抄訳

 

 

*1912年1月17日、シャンティニケトンにて。英国統治下のインドで反英非協力運動が熱狂的に高まる中、タゴールの考えと姿勢をあらわした一歌。

 

 

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この国に生まれて タゴール 愛国歌

2013-11-22 | Weblog

 

 

この国に生まれて

Swadesh 二十四番歌

 

 

この国に生まれてこそ 実り多き生(よ)。

母よ、この実り多き生は、愛するあなたゆえ。

女王のような財宝があなたにあるのか わたしは知らない

わたしはただ知る、あなたのもと わが身ふかき寛ぎを。

どこかの森で花がひらき かぐわしき花の香で魅了する

どこかで空に月が出て甘美にほほえみかける。

生まれてはじめて目をひらき あなたの光につつまれた

その優しき光を目にとどめて最期の目を閉じよう。

 

内山眞理子試訳

 

 

 

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タゴールの歌 その4

2013-11-08 | Weblog

 

 

タゴールの歌 その4

 

 

詩人タゴールにとって音楽は、幼いころから慣れ親しんだ喜びであった。

詩人が生まれたジョラシャンコの生家はつねに音楽があふれていた。

生家は、大規模なジョイント・ファミリーで、

屋敷にはしばしば高名な音楽家が招かれ、

音楽家たちが何日も滞在するのは珍しいことではなかった。

家族のメンバーたちは特にインド古典歌曲を好み、

詩人の兄たち(詩人は第14番子で第八男)は音楽の師匠について

歌の練習をしたり、楽器を鳴らして作曲をしたものであった。

タゴールはそういう音楽環境の中に育った。

この大家族(住み込みの使用人も含めて、ゆうに100人以上の

人びとが共に暮らしていた)にとって音楽は、

一族をたばねる喜びでもあったにちがいない。

 

タゴール自身、兄たちの影響を受けて、13歳頃から作曲の勉強をはじめたという。

タゴールによる『バヌーシンホ・タクルの讃歌集 Bhanusingha Thakurer Padabali』

収録歌の多くは、10代の終わり頃の作品で、

歌詩はそこはかとなく神秘的で官能的だ。

 

ここでタゴール自身による『わが回想』(英語から山室静訳)より

関連部分を抜粋引用させていただくことにしよう。

 

ある日の午後、雲が厚くたまっていた。・・・(中略)・・・

私は、奥の部屋の自分のベッドにうつぶせにころがって、

石盤の上にマイティリ詩を真似て Gahana Kusuma Kunjamajhe と書いた。

私はその詩がひどく気に入って、それをさっそく出あった最初の人に

よんできかせたくなった・・・

友人に、私は少し前に言っておいた。

「アディ・ブラフマ協会の書庫をかき廻しているうちに、ぼろぼろに

なった古原稿を見つけたので、私はそこからバヌーシンホという名の

古いヴィシュヌ派の詩人の作を幾つかコピイしたよ」と。

その後で私の模倣詩の若干を彼に読んできかせたのだ。友人はひどく感動して、

「こんなのはヴィディヤーパティやチャンディダースでも書きえなかったね」と、

うっとりして叫んだ。・・・(中略)・・・

その古い詩人が書いたのは母語によってではなく、

別の詩人たちの手の中で変化している人工的な言語だった・・・・・・

しかしその感情においては、人工的なものは何もなかった。」(引用終わり)

 

 

 

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タゴールの歌 その3 続編

2013-11-07 | Weblog

 

 

タゴールの歌 その3 続編

 

 

前回、タゴールの歌との関連で、

映画監督リッティク・ゴトクの作品をとりあげました。

同監督の最高傑作と評判の高い「雲のかげ星宿る」をさらにご紹介してみます。

 

1947年、インド分離独立の混乱時に東ベンガル(当時、東パキスタン)から

続々と避難民がコルカタへと押し寄せた。やがてコルカタ近郊に、

難民コロニーができる。

何もかも故郷に捨ておき、命からがらコルカタまで来た人びとの

暮らし向きはあまりに厳しい。そんな一家族の物語である。

豊かな教養もあり、文化的プライドもあるゆえに、この家族にとって

生き残るための苦悩はいっそう耐えがたいものとなっている。

主人公は一家の長女、ニータである。

難民コロニーの子供たちを教える父も、

歌い手になる夢ばかり追う兄も頼りにならない。

家族の者たちはみな何かにつけて慈しみ深く優しい長女ニータを当てにする。

こうしてニータは、しだいに家族の犠牲という立場に追いやられてゆく。

こうして、皮肉にも人一倍純粋なニータを、あらゆる悲しみと不条理がおそう。

映画は悲劇的で、観客は知らず知らずのうちに心のどこかで祈るはずだ、

ニータを救ってあげて・・・と。

詳細は省かざるをえないが、目に見える形での救いは用意されない。

しかし、だからこそ、奥深い心のなかで観客は出あうのだ、

タゴールの歌という救いに。

リッティク・ゴトクは作品の中で、タゴールの歌をそのように登場させたのである。

 

 

 

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タゴールの歌 その3

2013-11-06 | Weblog

 

 

タゴールの歌 その3

 

 

タゴールの歌は映画にもたびたび登場している。

リッティク・ゴトク(1925-1976 Ritwik Ghatak) の映画でも、

サタジット・レイ(1921-1992) の映画でも。

 

リッティク・ゴトクの「雲のかげ星宿る Meghe Dhaka Tara」

「E-フラット Komal Gandhar」そして「黄金の河 Subarnarekha」、

この三本の映画は、1947年のインド分離独立によって東西二つの国に

引き裂かれたベンガルの苦悩を描く三大悲劇として知られる。

これら三作にはタゴールの歌が効果的につかわれている。

いや、むしろ、無くてはならない歌として

重要な役割をはたしているのである。

たとえば「黄金の河」では、

タゴールの歌「きょうの日 稲田に 光と影のかくれんぼ」

(ベンガル語本「ギーターンジャリ」8番歌)が繰り返し登場する。

歌が主軸となって物語がひとすじの河のように流れ、

人と人とのかけがえのない結びつきを暗示する。

最も苦しいときに人びとはタゴールの歌をうたい希望をとりもどす・・・

リッティク・ゴトクの映画を観ていると、そんなことも思われてくるのである。

 

リッティク・ゴトクについては下記もご参考に:

Harvard Film Archive

Politics and Melodrama : The Partition Cinema of Ritwik Ghatak

 

 (次回につづく) 

 

 

 

 

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タゴールの歌 その2

2013-11-04 | Weblog

 

 

タゴールの歌 その2

 

映画「大地のうた」三部作で知られるベンガルの映画監督サタジット・レイの

祖父と父はタゴールの親しい友人であったが、タゴール歌のすぐれた歌い手でもあった。

またレイの母も妻も、師に付いてきちんとタゴール歌を学んでおり、レイは幼い頃から常に

タゴール歌にかこまれて暮らした。レイ自身、映画のために作曲もしている。そういうレイが、

タゴールの歌について書いた興味深い記事があるので、ここに抜粋してご紹介したい。

 

・・・・ベンガル以外では、多岐にわたるタゴールの作品のうちで最も知られていないのが、

ロビンドロ・ションギット(タゴールの歌)であろう。しかし当地ベンガルで最もよく知られているのが、

実はこの、ロビンドロ・ションギットなのである。これはもうベンガル人であることの精髄と言っても

いいほどのもので、タゴール自身、歌こそ最も長く生きつづけるだろうと考えていた。

・・・・・・

ラビンドラナートは、北インド古典音楽の伝統、さらにそこから始まったキルトン、そして同時に

土から香り立つような民衆の音楽を作品にとりいれている。また幾つかの西欧の旋律を含め、

南インドやその他の地域の音楽など、そういったすべての音楽から影響を受けた。

・・・・・・

ラビンドラナートはジョラシャンコ(オールド・コルカタ)の生家で、インド古典音楽が

ひびく家庭環境のなかで育った。また自ら好んで、この伝統に基づく歌をつくった。

しかし、古典音楽のラーガのきまりを忠実に守ろうとしたのではなかった。

その意味でラビンドラナートは反逆者であったともいえるだろう。

だが、そうやってタゴールは、新しいものを作り出そうとしたのだった。

伝統から自由であることで、歌が、文学のもつリリカルな魅力をそのまま保つことにもなった。

タゴールが最終的に目指したのは、言葉、音調、旋律、リズムの完璧な調和だったのだから。

 

 

 

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タゴールの歌 その1

2013-11-03 | Weblog

 

 

タゴールの歌について その1

 

 

タゴールの歌はれっきとした一つのジャンルである。

ベンガル語で「ロビンドロ・ションギット」という。

誰もが言う、そう呼ぶしかない音楽なのだ、と。

それまでの音楽の、どれにも括ることのできない、独特の音楽なのだと。

 

「ロビンドロ」とはロビンドロナト・タクル(ベンガル語読み)の「ロビンドロ」であり、「ションギット」とは歌である。

ベンガル以外のインド文化圏ではラビンドラ・サンギータとなり、タゴールの歌は2,000曲近いとも言われる。 

 

ベンガルは固有の豊かな音楽伝統をもつ。放浪の吟遊詩人バウルの歌、神の名を称える

キルトン(キールタン)やシャーマ・ションギット(サンギータ)など、とくにそのためのトレーニングを

受けなくても人びとは自由にうたってきた。

そしてベンガルの音楽の特徴は、言葉が重要な役割をもつということだった。

リズム、旋律、音調、音の装飾にもベンガルらしさがあるが、言葉(歌詩)が

ひときわ輝きをみせるのがベンガルという土地の伝統であった。

そういう背景のなかにタゴールの歌は生まれたのである。

 

(つづく)

 

  

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愛の悲しみ タゴール

2013-11-01 | Weblog

 

 

愛の悲しみ

タゴール

 

どこからか愛の悲しみがひびくよ

どこからか愛の悲しみがひびくよ

やがてわが心の友が

暗闇ふかき 心の庭にやって来る。

 

きみのあらゆる貧しさを遠ざけて

心よ 喜びに目ざめよ。

きみのあらゆる貧しさを遠ざけて

心よ 喜びに目ざめよ。

さあ、ありったけのきみのランプに灯をともせ

ありったけのランプに灯をともせ

そして狂おしく呼びかけよ「来てください、最愛の人」と。

 

どこからか愛の悲しみがひびくよ

やがてわが心の友が

暗闇ふかき 心の庭にやって来る

どこからか愛の悲しみがひびくよ。

 

内山眞理子試訳

 

 

*1908年冬、タゴール47歳の時に、マグ月の祭りのためにつくった歌。

*アディティ・モフシンさんの歌: http://www.youtube.com/watch?v=BRXuvEGUDVA

 

 

 

 

 

 

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