タゴールとダーティントンの話 2
タゴールの、ダーティントンとの関わりは、ダーティントン事業の創始者であるエルムハースト夫妻(レナードとドロシー)と
知り合ったことに始まる。とはいえ、こう言ってしまうと、ほとんど真実を伝えていない、言い換えよう・・・すなわち、
のちにエルムハースト夫妻となる、レナード・エルムハーストとドロシー・ストレイトが各々、タゴールと出会った。
ニューヨークで。三人の、貴い結びつきは、ここに始まったのである。
やがてレナードとドロシーは愛をはぐくむようになり、数年後に二人は結婚した・・・
そして同時に英国ダーティントンで、新しいコンセプトを持つ学校事業が始まったのであった。
インド(ベンガル)人のタゴール、英国人であるレナード・エルムハースト、米国人のドロシー・ストレイトの三人は、
たがいに深い信頼でむすばれた。
ダーティントンでの新しいスタートのすべては、三人の愛と友情と信頼によって実現したのである。
1920年秋(註1)、米国ニューヨークにて、タゴールは初めてレナード・エルムハーストに出会う。
のちにレナードと結婚してドロシー・エルムハーストとなる、ドロシー・ストレイトの紹介であった。
ドロシーとは、米国屈指の大富豪ホイットニー家の娘である。タゴールがドロシーと出会ったころ、ドロシーの名は、ドロシー・ストレイト(註2)であった。
ドロシーは1911年に、コーネル大学出身のウィラード・ディッカーマン・ストレイトと結婚したのだが、1918年、第一次大戦に従軍した夫を失くしていた。
ドロシーはほっそりと背の高い女性であった。自立した精神をもち、親しみ深い人がらでもあって多くの友人に恵まれ、とても魅力的な女性であった。
(次回へつづく)
(註1)1920年10月28日から翌年の3月19日、タゴールは3回目の米国訪問をしている。
ニューヨークのアルゴンキン・ホテル(タイムズ・スクエアにも近い由緒あるホテル)に滞在。
当初、インドの大詩人に対しニューヨークの人びとは冷淡で、まったく招待もなかったようだ。
米国(とくにニューヨーク)は時あたかもローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)の幕開け。
ローリング・トゥエンティーズといえば、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を思い出す方も多かろう。
フィッツジェラルドもまた、作家が集まるアルゴンキン・ホテルの常連ではあったのだが・・・。
また、この米国訪問の前年(1919年)タゴールは、インド・パンジャーブで起きた暴虐に抗議して、
英国から授与されていた「サー」の称号を返還し、インド総督に公開書簡を送っている。
このようなこともあるいは、人びとの冷淡さと関連があったのかどうか・・・。
(註2)ドロシー・ストレイトすなわちドロシー・ペイン・ホイットニー (1887-1968)は1904年、17歳のとき、
父ウィリアム・コリンズ・ホイットニーの死去にともない、ホイットニー家の主要相続人の一人となった。
ドロシーは1911年に、ウィラード・ディッカーマン・ストレイトと結婚、ドロシー・ストレイトとなる。
余談だが、長兄ハリー・ペイン・ホイットニーの妻ガートルードはヴァンダービルト家の一員で、
美術に造詣が深く、ニューヨークのホイットニー美術館の創始者として知られる。
ホイットニー家、ヴァンダービルト家ともに、ニューヨークの大富豪である。