ベンガルのうた・内山眞理子 

内山眞理子の「ベンガルのうた」にようこそ。ここはエクタラ(歌びとバウルの一弦楽器)のひびく庭。どうぞ遊びにきてください。

タゴールとダーティントンの話 2

2012-10-07 | Weblog

 

 

タゴールとダーティントンの話 2

 

 

タゴールの、ダーティントンとの関わりは、ダーティントン事業の創始者であるエルムハースト夫妻(レナードとドロシー)と

知り合ったことに始まる。とはいえ、こう言ってしまうと、ほとんど真実を伝えていない、言い換えよう・・・すなわち、

のちにエルムハースト夫妻となる、レナード・エルムハーストとドロシー・ストレイトが各々、タゴールと出会った。

ニューヨークで。三人の、貴い結びつきは、ここに始まったのである。

 

やがてレナードとドロシーは愛をはぐくむようになり、数年後に二人は結婚した・・・

そして同時に英国ダーティントンで、新しいコンセプトを持つ学校事業が始まったのであった。

 

インド(ベンガル)人のタゴール、英国人であるレナード・エルムハースト、米国人のドロシー・ストレイトの三人は、

たがいに深い信頼でむすばれた。

ダーティントンでの新しいスタートのすべては、三人の愛と友情と信頼によって実現したのである。

 

1920年秋(註1)、米国ニューヨークにて、タゴールは初めてレナード・エルムハーストに出会う。

のちにレナードと結婚してドロシー・エルムハーストとなる、ドロシー・ストレイトの紹介であった。

 

ドロシーとは、米国屈指の大富豪ホイットニー家の娘である。タゴールがドロシーと出会ったころ、ドロシーの名は、ドロシー・ストレイト(註2)であった。

ドロシーは1911年に、コーネル大学出身のウィラード・ディッカーマン・ストレイトと結婚したのだが、1918年、第一次大戦に従軍した夫を失くしていた。

ドロシーはほっそりと背の高い女性であった。自立した精神をもち、親しみ深い人がらでもあって多くの友人に恵まれ、とても魅力的な女性であった。

 

(次回へつづく)

 

 

(註1)1920年10月28日から翌年の3月19日、タゴールは3回目の米国訪問をしている。

ニューヨークのアルゴンキン・ホテル(タイムズ・スクエアにも近い由緒あるホテル)に滞在。

当初、インドの大詩人に対しニューヨークの人びとは冷淡で、まったく招待もなかったようだ。

米国(とくにニューヨーク)は時あたかもローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)の幕開け。

ローリング・トゥエンティーズといえば、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を思い出す方も多かろう。

フィッツジェラルドもまた、作家が集まるアルゴンキン・ホテルの常連ではあったのだが・・・。

 

また、この米国訪問の前年(1919年)タゴールは、インド・パンジャーブで起きた暴虐に抗議して、

英国から授与されていた「サー」の称号を返還し、インド総督に公開書簡を送っている。

このようなこともあるいは、人びとの冷淡さと関連があったのかどうか・・・。

 

(註2)ドロシー・ストレイトすなわちドロシー・ペイン・ホイットニー (1887-1968)は1904年、17歳のとき、

父ウィリアム・コリンズ・ホイットニーの死去にともない、ホイットニー家の主要相続人の一人となった。

ドロシーは1911年に、ウィラード・ディッカーマン・ストレイトと結婚、ドロシー・ストレイトとなる。

余談だが、長兄ハリー・ペイン・ホイットニーの妻ガートルードはヴァンダービルト家の一員で、

美術に造詣が深く、ニューヨークのホイットニー美術館の創始者として知られる。

ホイットニー家、ヴァンダービルト家ともに、ニューヨークの大富豪である。

 

 

 

 

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