『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 58 江島長兵衛と一族 島原に出陣す 

2018年09月05日 | 江島氏

軍法八陣略図  歌川貞秀


前回の続きです。

西川如見の著書「長崎夜話草・原城記事」において、「江島長兵衛」が12月20日の総攻撃において戦死したと記しています。そして、この記事の出典は村井昌弘の「耶蘇天誅記」と記しています。

「島原の乱」において、柳河藩の鎮圧軍に筑後江島氏が参戦した事実があったのかどうか、柳河藩に残る関係文書から探ってみました。


●「島原陣軍役人数并御道具付小帳」の江嶌長兵衛

まずは寛永14年12月1日付けの立花家文書「島原陣軍役人数并御道具付小帳」によると立花壱岐(惟与)組、総勢288人の中に「江嶌長兵衛」の名前がありました。
ちなみに立花壱岐守惟与とは十時摂津守連貞の長男で、由布美作守惟次の養子となり由布家を継いでいます。また立花姓を名乗る事を許されています。


立花壱岐組は寛永6年の記録によれば、

由布美作惟次  1500石
(番頭) 安東弥三右衛門 500石
(物頭) 熊谷半兵衛   397石
を含め総人数50人(50家)となっています。


寛永14年「島原陣軍役人数并御道具付小帳」によると立花壱岐組の陣立ては

由布美作    上下81人
安東弥三右衛門 上下30人 馬1匹 鉄砲13挺 槍2本
安東喜介    上下13人 馬1匹 鉄砲1挺  槍2本
安東善右衛門  上下5人  鉄砲1挺 槍1本
安東喜三兵衛  上下5人  鉄砲1挺 槍1本
(他家省略)

江嶌長兵衛   上下18人 馬1匹 鉄砲1挺 槍2本

とあります。
※嶌の文字は原文どおり

この時の立花壱岐組配下は全20家で総人数は288人です。

江嶌長兵衛の上下18人という編成は由布美作、安東弥三右衛門に次ぐ3番目の人数となります。



●「島原陣戦死並手負侍合戦注文」

一方、米多比家文書「島原陣戦死並手負侍合戦注文」寛永14年12月20日[有馬一揆之節戦兵覚]では
立花壱岐組の戦死傷者109名(壱岐組の3分の1以上)の名前が記されています。

【戦死】
由布孫左衛門
安東太郎左衛門

【手負】
立花壱岐
安東弥三右衛門
安東善右衛門 

組頭の立花壱岐、番頭の安東弥三右衛門ともに負傷しています。

戦死傷者名には江島長兵衛の名は見当たりませんでしたが、

★江嶋七兵衛家頼(家来)、手負 江上清之丞、平川平四郎、中間壱人

の記載が見られます。
おそらく江嶋七兵衛は江嶋彦右衛門に繋がる一族の一人と思われます。

柳河藩の島原の乱出陣に関しては幾つかの記録がありますが、「福岡県史、柳川藩初期上下」に掲載されている文書を見る限りでは、江島長兵衛の戦死記録は見当たりませんでした。しかし、享保八年藩士系図の江島家家譜によると、長兵衛の家系は途絶えており、原城の数度に渡る攻防戦の何れかで戦死したものと見て良いでしょう。




立花忠茂像(福厳寺蔵)


●江島長兵衛の陣借り

天草・今原の乱は寛永14年(1637)10月25日、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き、代官・林兵左衛門を殺害した事が発端となります。
江戸慕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永14年11月10日であり、板倉内膳正重昌を正使とし、目付石谷十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率いて出府しました。

熊本の細川光利、久留米侯世子有馬忠郷、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ち九州へと向かいました。幕府の正使板倉内重昌が原城に着陣したのは12月8日です。

柳河藩では12月1日にはすでに詳しい陣立てが決まっており、事件発生後、出陣を想定した準備が着々と行われていたことが良く分かります。


天草・島原の乱は、関ケ原以降、主家を失った浪人達が仕官への最後の機会として、鎧櫃や槍を担いで、全国から集まったようです。私も当初、江島長兵衛の参陣は単騎あるいは数名の従者を連れての「陣借り」か、と思ったのですが、記録を見ますと浪人身分とは思えぬ中々の編成です。

長兵衛を含め一族、家臣、中間と総勢18人、文禄・慶長の頃の与力時代を彷彿とさせます。これは立花壱岐組では番頭の安東弥三右衛門(500石)に次ぐ人数で、しかも長兵衛は騎乗を許されています。浪人で騎乗を許されるのは破格の扱いではないでしょうか。またこれだけの人数で参陣するには、俄仕立ての編成では無理かと思われます。

寛永14年(1637)は関ケ原、八院合戦(1600)以降、37年が経過していますが、この間も武門再興の機会を待って、不断の準備を行っていたようです。柳川の江島一族は一体どのような暮らしをしていたのでしょうか。

陣借りもそれなりの作法があり、簡単に軍に加わる事は出来ません。小野和泉守鎮幸も江嶋彦右衛門も故人となり、江島村の知行主であった安東氏の取り成しで、安東弥三右衛門が番頭を務める立花壱岐組の一党として正式に陣に加わる事が出来たのでしょう。文禄、慶長年間の彦右衛門をはじめ、江島一族の立花藩への奉公ぶりが評価されていたからでもあると思われます。

しかし長兵衛の命を賭けた奉公もむなしく、江島氏の武門再興は実現しませんでした。

立花藩は旧領復帰が決まった時、家臣の新規召し抱えについて、旧柳川藩時代の家臣と陸奥棚倉藩時代の家臣以外に召し抱える事を禁じました。旧領復帰と言っても約3万石を減らされており、家臣の俸禄の増大が藩財政に与える影響を宗茂自身が危惧していたようです。

柳河藩は島原の乱によって多数の家臣の犠牲者を出しました。また莫大な戦費の支出があったにも関わらず、幕府からの恩賞や加増も無く、これらの諸事情から新規の召し抱えは見送られたのだと思われます。

柳河藩の召し抱えのハードルは意外に高く、江島氏の武門再興はさらに70年の歳月を待たねばなりませんでした。


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