2016/4/1
「東海道53次歩き旅(12回目)興津宿~吉原宿(1泊2日)二日目」 東海道53次歩き旅
(旅行記録の前に、一言)
3月は旅行を3回したので、まだ記録をまとめきれていない。奄美大島・加計呂麻島への(3月6日~10日)旅行記録をほとんど省略したままで、4月に入ってしまった。3月は(2泊3日と1泊2日)2度、「東海道53次歩き旅」をした。その記録も、一日分だけ記録をまとめられず、遅れてしまっている。そのまとめが、本日(4月1日)になってしまった。
記録といえども、「書くという行為」はそれなりに時間がかかる。少しでも読み手(このブログを訪問してくれる人)が退屈しないように・・・と、(文才はないのだが)文章を考えながら書く努力はしているつもり。最近、一日15人前後の人が、このブログを訪問してくれている。ありがたく、感謝している。このブログはフェイスブックなどとつなげていないので、目立たないブログ。でも、私自身は満足している。もうかれこれブログを始めて10年になる。マイペースだが、継続していきたい。
ここから記録です。
3月26日午前8時に(昨日歩いた東海道の)地点に立つことができた。というのは、蒲原宿には(こちらが希望する浴場付き)ビジネスホテルがなかったので、列車に乗って移動していたしだいです。という事情があって、スタート地点にたつ時間が(午前7時ごろに立ちたかったのだが)遅くなってしまった。
蒲原宿の本陣跡などを見ながら、東海道を歩き出した。家並みはそこそこ魅力的な建物があり、所々で足を止めた。古い建物を見ることは楽しい。残念ながら、古い建物は連続して残されていなかった。
古くは「神原」とも呼ばれていたらしい。同じ場所なのに、漢字が違ったり、読み方が違ったりすることが、(日本の地名には)時々ある。中国でもあるようだ。たぶん権力者が変わると、地名が変わることが多いのであろう。また、その漢字・読み方は「縁起が悪い」などの理由で、変えられるケースもある。神原から蒲原に変化したいきさつについては、調べていない。(どなたか教えてください。)
とにかく「蒲原」は鎌倉時代から宿(宿駅)であった。富士川の渡しを控える宿として賑わっていた。「大井川」では島田宿が、「富士川」では蒲原宿がそれぞれ賑わっていた。大きな川があると、その近くの宿が栄えることになる。京から江戸へ向かう者にとって、富士川の激流で「渡し」がストップすると、蒲原宿に滞在することになったようだ。また、江戸から京へ向かう者にとって、吉原宿が滞在宿になっていた。蒲原宿・吉原宿の繁栄は「富士川」さまさまだったわけである。富士川の「渡し舟」はよくストップしたらしい。急流だからであろう。
富士川の流れを橋の上から見たが、水が合流して流れている箇所は「ものすごい流れ」であった。富士川の流れは(現在でも)恐ろしい!
蒲原宿とおさらばした後に、「義経硯水の碑」なるものを見に行くことにした。鎌倉時代ごろの話であるが、義経が「浄瑠璃姫」という恋人に手紙を書いている。その時、この地の清水で書いたということになっている。その話に興味があったので、その碑を見に行ってきたしだいである。しかし、この時東海道から離れてしまったので、迷ってしまった。東海道から大きくずれていることに気づいた。あせって、あせって「東海道」にもどった。かなり時間をロスしてしまった。(今日は帰る日なので、あせった。)
間違った原因は、「つい分かれ道では、広い道を選んでしまう」ことにあった。反省、反省。
「旧東海道は狭い道なのだ!」と自分に改めて言い聞かせた。
「義経硯水の碑」見学後、東海道に苦労して戻り、しばらく行くと、富士山がかすんで見えた。東名高速道路を跨いで架けられた橋(新坂橋)を渡っている時に見えた。
「おっ、今日は見えるんだ!」と、かすんではいたが(昨日は見えなかったので)感激した。
富士川が近づきつつあった頃、「岩淵の一里塚」が目に入った。江戸時代の一里塚が枯れずに残っていたのだ。それも東海道を挟んで左右二つの一里塚が見事に残っていたのだ。この両塚の木は榎だった。一里塚に感動するのは久しぶりであった。一里塚に関しては「跡」がほとんどで、木を植えなおしたらしい塚はたまにある。岩淵(村の名)の一里塚(両塚)は古木で、歴史を感じさせてくれるパワーもあった。二つのうち一箇所は、枝振りが弱くなっていたが、枯れてはいなかった。「岩淵の一里塚」が(京都からこの地までの東海道では)、東海道№1の「現存一里塚」でしょう。
富士川に到着した。川幅が広く、大河であった。その上、激流箇所があった。ちょっと見ると穏やかそうだが、よく見ると恐ろしいところが目についた。大雨で水量が増したら、(江戸時代は)渡し舟を出せないだろうと想像した。
大井川と比較して川を見るようになっていた。大井川は「渡し舟」も禁止した川である。富士川は渡し舟が許可されていたが、激流の日はストップせざるを得ないだろう。天竜川も激流の川なので、東海道は「天竜川」「大井川」「富士川」を越えるのが難儀だったようだ。もっとも、雨が降らないシーズンなら、それほど苦労はしなかったであろうが。参勤交代の時期は、各藩自身で決められない。幕府が決めることなので、雨が多い季節を割り当てられたら、苦労が多かったであろう。それに莫大な費用がかかることになる。そのために借金した藩も多かったようだ。そんなことを想像しながら、東海道における「難儀な川」を3つとも(私自身)渡り終えた。
富士川を渡り、しばらくすると、「吉原宿中心部」に到着した。そこは商店街が並ぶ街そのもの。本陣跡や脇本陣跡など、さっぱり分からない宿だった。歴史的な建物は何もなく、現在では「味も素っ気もない宿」だと思った。
見学するところもなかったので、JR吉原駅に午後1時半頃到着できた。
午後2時51分発の列車に乗ればいいので、余裕ができた。そこで、次の駅、東田子の浦駅まで出かけてみた。和歌などで詠い込まれる「田子の浦」の海岸と富士山を見たいと思ったからである。
しかし、この日の(午前は蒲原宿からはかすかに見えていたのに・・・)午後、田子の浦からは、「富士山」は見えなかった。残念!
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ(山部赤人)
この日、家に到着した時刻は、午後10時半だった。この続きの歩き旅は夏だろうか、冬になるのだろうか? しばらく休憩です。

午前中 蒲原宿近くから、ぼんやりと富士山が見えた。

この地下道が「旧東海道」 この上は東名高速道

岩淵の一里塚の一つ もう一つも現存している。すごい!
江戸時代の一里塚がそのまま残っていたので、感動しました。

富士川 真ん中の雲の後ろに富士山が・・・
この雲がなければ、見えたのに・・・。富士山の左側稜線がちらりと私には見えるのですが、分かるかなあ?

(江戸から歩いてきた人にとって、ほとんどは右に富士山が見えているのだが)この位置から富士山が「左に見える」ということで、名勝になっていた。私が歩いていた時は、ここから富士山は見えなかった。雲の所為でしょうね。

田子の浦 石の多い海岸だった。
3月は旅行を3回したので、まだ記録をまとめきれていない。奄美大島・加計呂麻島への(3月6日~10日)旅行記録をほとんど省略したままで、4月に入ってしまった。3月は(2泊3日と1泊2日)2度、「東海道53次歩き旅」をした。その記録も、一日分だけ記録をまとめられず、遅れてしまっている。そのまとめが、本日(4月1日)になってしまった。
記録といえども、「書くという行為」はそれなりに時間がかかる。少しでも読み手(このブログを訪問してくれる人)が退屈しないように・・・と、(文才はないのだが)文章を考えながら書く努力はしているつもり。最近、一日15人前後の人が、このブログを訪問してくれている。ありがたく、感謝している。このブログはフェイスブックなどとつなげていないので、目立たないブログ。でも、私自身は満足している。もうかれこれブログを始めて10年になる。マイペースだが、継続していきたい。
ここから記録です。
3月26日午前8時に(昨日歩いた東海道の)地点に立つことができた。というのは、蒲原宿には(こちらが希望する浴場付き)ビジネスホテルがなかったので、列車に乗って移動していたしだいです。という事情があって、スタート地点にたつ時間が(午前7時ごろに立ちたかったのだが)遅くなってしまった。
蒲原宿の本陣跡などを見ながら、東海道を歩き出した。家並みはそこそこ魅力的な建物があり、所々で足を止めた。古い建物を見ることは楽しい。残念ながら、古い建物は連続して残されていなかった。
古くは「神原」とも呼ばれていたらしい。同じ場所なのに、漢字が違ったり、読み方が違ったりすることが、(日本の地名には)時々ある。中国でもあるようだ。たぶん権力者が変わると、地名が変わることが多いのであろう。また、その漢字・読み方は「縁起が悪い」などの理由で、変えられるケースもある。神原から蒲原に変化したいきさつについては、調べていない。(どなたか教えてください。)
とにかく「蒲原」は鎌倉時代から宿(宿駅)であった。富士川の渡しを控える宿として賑わっていた。「大井川」では島田宿が、「富士川」では蒲原宿がそれぞれ賑わっていた。大きな川があると、その近くの宿が栄えることになる。京から江戸へ向かう者にとって、富士川の激流で「渡し」がストップすると、蒲原宿に滞在することになったようだ。また、江戸から京へ向かう者にとって、吉原宿が滞在宿になっていた。蒲原宿・吉原宿の繁栄は「富士川」さまさまだったわけである。富士川の「渡し舟」はよくストップしたらしい。急流だからであろう。
富士川の流れを橋の上から見たが、水が合流して流れている箇所は「ものすごい流れ」であった。富士川の流れは(現在でも)恐ろしい!
蒲原宿とおさらばした後に、「義経硯水の碑」なるものを見に行くことにした。鎌倉時代ごろの話であるが、義経が「浄瑠璃姫」という恋人に手紙を書いている。その時、この地の清水で書いたということになっている。その話に興味があったので、その碑を見に行ってきたしだいである。しかし、この時東海道から離れてしまったので、迷ってしまった。東海道から大きくずれていることに気づいた。あせって、あせって「東海道」にもどった。かなり時間をロスしてしまった。(今日は帰る日なので、あせった。)
間違った原因は、「つい分かれ道では、広い道を選んでしまう」ことにあった。反省、反省。
「旧東海道は狭い道なのだ!」と自分に改めて言い聞かせた。
「義経硯水の碑」見学後、東海道に苦労して戻り、しばらく行くと、富士山がかすんで見えた。東名高速道路を跨いで架けられた橋(新坂橋)を渡っている時に見えた。
「おっ、今日は見えるんだ!」と、かすんではいたが(昨日は見えなかったので)感激した。
富士川が近づきつつあった頃、「岩淵の一里塚」が目に入った。江戸時代の一里塚が枯れずに残っていたのだ。それも東海道を挟んで左右二つの一里塚が見事に残っていたのだ。この両塚の木は榎だった。一里塚に感動するのは久しぶりであった。一里塚に関しては「跡」がほとんどで、木を植えなおしたらしい塚はたまにある。岩淵(村の名)の一里塚(両塚)は古木で、歴史を感じさせてくれるパワーもあった。二つのうち一箇所は、枝振りが弱くなっていたが、枯れてはいなかった。「岩淵の一里塚」が(京都からこの地までの東海道では)、東海道№1の「現存一里塚」でしょう。
富士川に到着した。川幅が広く、大河であった。その上、激流箇所があった。ちょっと見ると穏やかそうだが、よく見ると恐ろしいところが目についた。大雨で水量が増したら、(江戸時代は)渡し舟を出せないだろうと想像した。
大井川と比較して川を見るようになっていた。大井川は「渡し舟」も禁止した川である。富士川は渡し舟が許可されていたが、激流の日はストップせざるを得ないだろう。天竜川も激流の川なので、東海道は「天竜川」「大井川」「富士川」を越えるのが難儀だったようだ。もっとも、雨が降らないシーズンなら、それほど苦労はしなかったであろうが。参勤交代の時期は、各藩自身で決められない。幕府が決めることなので、雨が多い季節を割り当てられたら、苦労が多かったであろう。それに莫大な費用がかかることになる。そのために借金した藩も多かったようだ。そんなことを想像しながら、東海道における「難儀な川」を3つとも(私自身)渡り終えた。
富士川を渡り、しばらくすると、「吉原宿中心部」に到着した。そこは商店街が並ぶ街そのもの。本陣跡や脇本陣跡など、さっぱり分からない宿だった。歴史的な建物は何もなく、現在では「味も素っ気もない宿」だと思った。
見学するところもなかったので、JR吉原駅に午後1時半頃到着できた。
午後2時51分発の列車に乗ればいいので、余裕ができた。そこで、次の駅、東田子の浦駅まで出かけてみた。和歌などで詠い込まれる「田子の浦」の海岸と富士山を見たいと思ったからである。
しかし、この日の(午前は蒲原宿からはかすかに見えていたのに・・・)午後、田子の浦からは、「富士山」は見えなかった。残念!
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ(山部赤人)
この日、家に到着した時刻は、午後10時半だった。この続きの歩き旅は夏だろうか、冬になるのだろうか? しばらく休憩です。

午前中 蒲原宿近くから、ぼんやりと富士山が見えた。

この地下道が「旧東海道」 この上は東名高速道

岩淵の一里塚の一つ もう一つも現存している。すごい!
江戸時代の一里塚がそのまま残っていたので、感動しました。

富士川 真ん中の雲の後ろに富士山が・・・
この雲がなければ、見えたのに・・・。富士山の左側稜線がちらりと私には見えるのですが、分かるかなあ?

(江戸から歩いてきた人にとって、ほとんどは右に富士山が見えているのだが)この位置から富士山が「左に見える」ということで、名勝になっていた。私が歩いていた時は、ここから富士山は見えなかった。雲の所為でしょうね。

田子の浦 石の多い海岸だった。
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2016/3/27
「東海道53次歩き旅(12回目)興津宿~吉原宿(1泊2日)一日目」 東海道53次歩き旅
(3月30日、写真追加しています。)
3月25日、薩埵峠(さったとうげ)から富士山が見えるだろう・・・と(週間天気予報から晴れの日を予想して、出発数日前に宿泊ホテルを予約したうえで)東海道53次歩き旅(今回は12回目)に出かけたのだった。
天気予報どおり、晴れてくれたのだが・・・。しかし、薩埵峠からは(富士山に)雲がかかっていて見えなかった。
残念、残念。また「ふられてしまった」という心境。
思うようには行かないものだ。「薩埵峠から見る富士山に会える」日はいつになるのだろう。またチャンスがあれば・・・「三度目の挑戦」をしたいと思っている。さて、いつになることであろうか・・・?
そうそう、何事も(計画したとおり)うまくいくものではない。それは、人生と同じだ。
(ここから続きです。)
今回の歩き旅も、いつものように早朝5時に起床して、家を出た。今回は一泊の予定だったので、歩く総時間は限られてくる。半日+半日。片道だけで(家を出てから)約8時間かかる。歩き始める時刻は午後1時ごろになる。当然、帰りもほぼ同じ時間かかることになる。
「東海道歩き旅」も遠くまでやってきたものだ。青春18切符利用なので、到着まで時間がかかるということは覚悟していたが・・・。それにしても「スタートした日」に東海道を歩ける時間・距離はだんだん少なくなってきた。正午までに「東海道歩き旅」をスタートできれば、それなりに歩けていたが、いよいよ少なくなってきた。
見学時間や写真タイムをできるだけ少なくして、歩ける時間を多く取るように工夫するようになってきた。しかし、1泊2日では厳しい。
(13回目以後は、やはり2泊3日にしよう、と反省した。ホテル代が高くつくが・・・仕方がない。年金生活での小遣いを節約して、ホテル代貯金をしていこう。)
興津(おきつ)駅に到着後、すぐに(駅の近くの)東海道を歩き出した。次の由比(ゆい)宿へ。ちょうど宿と宿の中間部付近が「薩埵峠」だった。
冒頭部に書いたように、残念ながら、薩埵峠から富士山は見えなかった。
薩埵峠で遅めの(早朝コンビニで購入してリュックにしまっておいた)昼食をとり、由比宿を目指した。峠からはだらだらとした長い下り道であった。
由比は「日本一の桜えびの町」らしく、あちらこちらに桜えび店があり、宣伝の看板も多く掲げられていた。
由比宿には「望獄亭」という建物があった。茶屋「藤屋」の離れ座敷とのこと。幕末(先述の)山岡鉄舟が官軍に追われ、命を狙われた時に「清水次郎長」の手引きによって、救われたと書いたが・・・。その救命の場所が、この「望獄亭」。床下から海(太平洋)に逃れたとのことである。当時多くの人が通った薩埵峠を避けて、駿府(静岡)に到着できたわけである。
その望獄亭の建物を一枚カメラに収め、東海道を急いだ。
由比宿中心部には、「本陣跡」があり、その敷地に「東海道広重美術館」があった。早速入館して、「歌川(安藤)広重・浮世絵」の世界を勉強する機会を持てた。浮世絵について、ほとんど知識のない私だったが、広重美術館でいろいろ学べた。「東海道五十三次の浮世絵」で、超人気絵師になったようである。とくに「薩埵峠」の絵が、広重美術館内での展示では強調されていた。
本陣跡の向かいには「由比正雪」の生家が残されて、現在も染物屋(土産店)を営んでいた。由比(由井)正雪なる人物について、名前だけしか知らなかったが、「正雪は幕府転覆を計画したが、露見し府中(静岡市)で自刃した。慶安4年(1651年)の慶安事件の首謀者」との説明を読んで、少し学べた。1651年といえば・・・徳川家光か、その後の将軍の時代だろうか・・・? 由比正雪をどう評価するか・・・私にはまだわからない。
幕府に反抗した人物こそ、評価できるかもしれない・・・。
「いつの時代も権力者に反抗した人物」こそ歴史的評価が高くなっていることが多い。
その人の人生の評価は、どんな人物であっても短絡的に下すのはよくない。
由比宿を通過後、蒲原(かんばら)宿までがんばって歩いて一日を終えた。
予約しておいたホテルの湯船で疲れた足をよく揉んで寝た。

富士山は霞か雲がかかって、見えなかった。残念。

雲がなければ、(写真のような)眺望の峠だったのに・・・

安藤(歌川)広重の浮世絵 東海道五十三次・薩埵峠

ものすごい崖だ。
直下には「東名高速道路」・「国道1号線」・「JR東海道本線」が走っている。ここで崖崩れが起こったら、日本の大動脈が止まるだろう。崖崩れ防止の工事が何年も前から延々と行われている。
(これより追加写真です)

由比宿へはこの「桜えび」をくぐっていく。

由比本陣跡 公園になっており、東海道広重美術館があった。

美術館入り口

由比正雪の生まれた家
「正雪紺屋」 染物がお土産として売られていた。記念に「東海道五十三次の手ぬぐい」を購入した。早速、帰宅後、部屋の壁に飾った。

東海道 由比宿本陣前の道
左の屋敷跡が本陣跡 その向かい(電柱手前の建物)が「正雪紺屋」(昔のままの家だった。染物用の大きな壷が複数保存されていた。)
3月25日、薩埵峠(さったとうげ)から富士山が見えるだろう・・・と(週間天気予報から晴れの日を予想して、出発数日前に宿泊ホテルを予約したうえで)東海道53次歩き旅(今回は12回目)に出かけたのだった。
天気予報どおり、晴れてくれたのだが・・・。しかし、薩埵峠からは(富士山に)雲がかかっていて見えなかった。
残念、残念。また「ふられてしまった」という心境。
思うようには行かないものだ。「薩埵峠から見る富士山に会える」日はいつになるのだろう。またチャンスがあれば・・・「三度目の挑戦」をしたいと思っている。さて、いつになることであろうか・・・?
そうそう、何事も(計画したとおり)うまくいくものではない。それは、人生と同じだ。
(ここから続きです。)
今回の歩き旅も、いつものように早朝5時に起床して、家を出た。今回は一泊の予定だったので、歩く総時間は限られてくる。半日+半日。片道だけで(家を出てから)約8時間かかる。歩き始める時刻は午後1時ごろになる。当然、帰りもほぼ同じ時間かかることになる。
「東海道歩き旅」も遠くまでやってきたものだ。青春18切符利用なので、到着まで時間がかかるということは覚悟していたが・・・。それにしても「スタートした日」に東海道を歩ける時間・距離はだんだん少なくなってきた。正午までに「東海道歩き旅」をスタートできれば、それなりに歩けていたが、いよいよ少なくなってきた。
見学時間や写真タイムをできるだけ少なくして、歩ける時間を多く取るように工夫するようになってきた。しかし、1泊2日では厳しい。
(13回目以後は、やはり2泊3日にしよう、と反省した。ホテル代が高くつくが・・・仕方がない。年金生活での小遣いを節約して、ホテル代貯金をしていこう。)
興津(おきつ)駅に到着後、すぐに(駅の近くの)東海道を歩き出した。次の由比(ゆい)宿へ。ちょうど宿と宿の中間部付近が「薩埵峠」だった。
冒頭部に書いたように、残念ながら、薩埵峠から富士山は見えなかった。
薩埵峠で遅めの(早朝コンビニで購入してリュックにしまっておいた)昼食をとり、由比宿を目指した。峠からはだらだらとした長い下り道であった。
由比は「日本一の桜えびの町」らしく、あちらこちらに桜えび店があり、宣伝の看板も多く掲げられていた。
由比宿には「望獄亭」という建物があった。茶屋「藤屋」の離れ座敷とのこと。幕末(先述の)山岡鉄舟が官軍に追われ、命を狙われた時に「清水次郎長」の手引きによって、救われたと書いたが・・・。その救命の場所が、この「望獄亭」。床下から海(太平洋)に逃れたとのことである。当時多くの人が通った薩埵峠を避けて、駿府(静岡)に到着できたわけである。
その望獄亭の建物を一枚カメラに収め、東海道を急いだ。
由比宿中心部には、「本陣跡」があり、その敷地に「東海道広重美術館」があった。早速入館して、「歌川(安藤)広重・浮世絵」の世界を勉強する機会を持てた。浮世絵について、ほとんど知識のない私だったが、広重美術館でいろいろ学べた。「東海道五十三次の浮世絵」で、超人気絵師になったようである。とくに「薩埵峠」の絵が、広重美術館内での展示では強調されていた。
本陣跡の向かいには「由比正雪」の生家が残されて、現在も染物屋(土産店)を営んでいた。由比(由井)正雪なる人物について、名前だけしか知らなかったが、「正雪は幕府転覆を計画したが、露見し府中(静岡市)で自刃した。慶安4年(1651年)の慶安事件の首謀者」との説明を読んで、少し学べた。1651年といえば・・・徳川家光か、その後の将軍の時代だろうか・・・? 由比正雪をどう評価するか・・・私にはまだわからない。
幕府に反抗した人物こそ、評価できるかもしれない・・・。
「いつの時代も権力者に反抗した人物」こそ歴史的評価が高くなっていることが多い。
その人の人生の評価は、どんな人物であっても短絡的に下すのはよくない。
由比宿を通過後、蒲原(かんばら)宿までがんばって歩いて一日を終えた。
予約しておいたホテルの湯船で疲れた足をよく揉んで寝た。

富士山は霞か雲がかかって、見えなかった。残念。

雲がなければ、(写真のような)眺望の峠だったのに・・・

安藤(歌川)広重の浮世絵 東海道五十三次・薩埵峠

ものすごい崖だ。
直下には「東名高速道路」・「国道1号線」・「JR東海道本線」が走っている。ここで崖崩れが起こったら、日本の大動脈が止まるだろう。崖崩れ防止の工事が何年も前から延々と行われている。
(これより追加写真です)

由比宿へはこの「桜えび」をくぐっていく。

由比本陣跡 公園になっており、東海道広重美術館があった。

美術館入り口

由比正雪の生まれた家
「正雪紺屋」 染物がお土産として売られていた。記念に「東海道五十三次の手ぬぐい」を購入した。早速、帰宅後、部屋の壁に飾った。

東海道 由比宿本陣前の道
左の屋敷跡が本陣跡 その向かい(電柱手前の建物)が「正雪紺屋」(昔のままの家だった。染物用の大きな壷が複数保存されていた。)
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2016/3/23
「東海道53次歩き旅 ⑪島田宿~興津宿(2泊3日)三日目」 東海道53次歩き旅
いよいよ最終日(午後には大阪へ帰らねばならない)。府中宿から興津(おきつ)宿まで歩き、興津駅から帰る計画なので、ホテルを午前6時40分に出た。(府中宿中心部=)静岡市内の繁華街を歩いている人はまだ少なかった。
15代将軍・徳川慶喜氏が駿府(改め静岡)で過ごした屋敷跡へ寄り道してみた。東海道からほんの少し離れているだけの場所だったので、それほど時間はかからなかった。
徳川慶喜氏は江戸城明渡し後、水戸で謹慎。その後、静岡へ移動させられている。静岡で約20年間暮らした後、東京へ戻っている。静岡滞在中の屋敷跡を見てみた。現在、その屋敷跡は「浮月楼」という料亭の敷地になっていた。
大正2年(1913年)に感冒(急性肺炎併発)で亡くなっている。享年77歳。15人の将軍の中で、最も長生きした人である。
「徳川慶喜公屋敷跡」をカメラで撮り、東海道へ戻った。
東海道(静岡市内中心部)を歩いていると、「西郷隆盛・山岡鉄舟会見碑」が人通りの多い目立つ位置に建てられていた。そこは、松坂屋源兵衛という人の邸宅跡であった。慶応4年(1868年)に、この屋敷で西郷隆盛(東征軍参謀)と山岡鉄舟(幕臣で、勝海舟の意を受けた)が会見している。この会見で、江戸幕府側の意向を伝えている。幕臣・鉄舟は「江戸無血開城と将軍徳川慶喜の助命」を要請した。
会見した4日後、江戸薩摩藩邸で「西郷・勝の会見」が行われ、鉄舟の要請どおりになっている。鉄舟が「根回し」をした場所(松坂屋源兵衛屋敷跡)に「会見碑」が建てられていたのであった。
「根回し」は日本の政治には必要なんだなあ、と改めて意識させられた。もっとも、私の人生、そういうことは苦手だった。
「ストレートに直接要求することが多くて、私の意見が通らなかったなあ・・・」と、(ちらっと)人生を振り返った。
「まあ、それも良し」と、満足しているが・・・。
府中宿(静岡市中心部)を去り、江尻宿へ。清水港が近い東海道を歩いていった。江尻宿の手前には、「都田吉兵衛供養塔」なるものがあった。誰だろうと思って、ガイドの説明を読む。「都田吉兵衛」とは、通称「都鳥」と呼ばれた宿敵で、清水次郎長一家「森の石松」の仇でもあった。清水次郎長は(森の石松の仇である)都鳥を討ったことによって、いよいよ東海道一の大親分になった。この供養塔のある場所で、都鳥(=都田吉兵衛)は清水一家に討たれたのだった。幕末、文久元年(1861年)のことである。
幕末から明治にかけて活躍した、東海道一の大親分「清水次郎長」。清水次郎長は、先述の「山岡鉄舟」が命を狙われた時に助けている。
その時、助けられた鉄舟は西郷隆盛と駿府で「会見」できたとのことである。江戸幕府側の代理人の命を狙う一派もいたのだ。清水次郎長が鉄舟を護っていなかったら、歴史は変わっていたかもしれない。
碑や供養塔が建てられているいきさつを知ることで、歴史がおもしろくなる。これも「歩き旅の楽しみ」です。
清水次郎長はこの働きにより、(明治維新後)厚い待遇を受けている。任侠道の大親分のイメージが強い人物だが、「三保の新田開発」「富士山麓の開墾」「英語塾の開設」など、地元の人ために尽力している。現在のヤクザ・暴力団とは「月とスッポン」だ。
清水次郎長の宿敵「都鳥」の供養塔から少し歩くと、追分道標(『是より志三づ道』と書かれた清水湊への追分)があった。その横には、「追分羊羹」を売る店があった。なんと、創業元禄8年(1695年)の老舗だった。お土産に買って帰ろうと、店に入って購入した。帰宅後、すぐに食してみた。元禄時代を味覚で味わえた。「蒸し羊羹のような製法かな?」と感じた。
江尻宿周辺から、富士山が見えていた。真っ白な富士山だった。富士山を東海道53次歩き旅で「ずっと見ながら歩く」経験は初めてだったので、気持ちが浮き浮きした。富士山へは3度登っているが、その時とはまったく違った気分になった。街中から見る富士山は、電線などが邪魔になって「あの線がなければな・・・」と何度も思った。しかし、その地域で生活している市民にとって、電線は大切なものだ。
江尻宿に到着したが、特筆すべき建物などはなかった。江尻城なるものは、関ヶ原後、廃城となっていた。現在、「城跡」は学校の敷地になっていた。何もなかった。
帰りの電車のことを考えて、興津宿へ急いだ。途中、「清見寺」や「坐漁荘」などがあったが、急ぐので正面だけを見て、見学はしなかった。
興津駅に到着したのが午後1時であった。数分後、列車が来た。これに乗れれば、午後8時ごろに帰宅できる予定。それほど遅くならずに帰れそうだと喜んだ。
ところがところが・・・。豊橋までは順調に運行していたのに・・・。
東海道本線大阪京都間で、人身事故とのアナウンス。事故の影響で、帰宅は10時半になってしまった。米原駅からの新快速が「運休」になってしまい、鈍行で帰る羽目になってしまったから。事故の影響なので、仕方がないが・・・しんどかった。
まあ、こういう日もあるものだ。
最終日の歩行距離は約21km。3日間で、合計約61km歩いた旅だった。
今回の歩き旅の記録はここまでで終了です。
(話は変わって)この続きの歩き旅にまた出ます。3月25日(金)に、今度は一泊するだけで出かけます。天気予報から予想して、「薩埵(さった)峠から、きっと富士山が見えるだろう」と期待して、急遽出かけることにしました。薩埵峠は「東海道で一番すばらしい眺めの峠」だと言われている場所です。晴れた日に峠を通過したいのです。
この峠から見る富士山は、超有名ですばらしいそうです。東海道五十三次の浮世絵でも有名です。
(以前、薩埵峠に一度行っているのですが、その時は富士山はまったく見えませんでした。3月25日の午後は見えるかな?)

徳川慶喜公屋敷跡

浮月楼

西郷・山岡会見碑

おおっ! 富士山だ

「都鳥」供養塔

東海道中、どこから見ても電線が・・・

「追分羊羹」店舗 その横に「追分道標」

清見寺へ向かう門 すぐ横はJR東海道本線の線路

JR興津駅ホームから 富士山がほんの少し見えた。
15代将軍・徳川慶喜氏が駿府(改め静岡)で過ごした屋敷跡へ寄り道してみた。東海道からほんの少し離れているだけの場所だったので、それほど時間はかからなかった。
徳川慶喜氏は江戸城明渡し後、水戸で謹慎。その後、静岡へ移動させられている。静岡で約20年間暮らした後、東京へ戻っている。静岡滞在中の屋敷跡を見てみた。現在、その屋敷跡は「浮月楼」という料亭の敷地になっていた。
大正2年(1913年)に感冒(急性肺炎併発)で亡くなっている。享年77歳。15人の将軍の中で、最も長生きした人である。
「徳川慶喜公屋敷跡」をカメラで撮り、東海道へ戻った。
東海道(静岡市内中心部)を歩いていると、「西郷隆盛・山岡鉄舟会見碑」が人通りの多い目立つ位置に建てられていた。そこは、松坂屋源兵衛という人の邸宅跡であった。慶応4年(1868年)に、この屋敷で西郷隆盛(東征軍参謀)と山岡鉄舟(幕臣で、勝海舟の意を受けた)が会見している。この会見で、江戸幕府側の意向を伝えている。幕臣・鉄舟は「江戸無血開城と将軍徳川慶喜の助命」を要請した。
会見した4日後、江戸薩摩藩邸で「西郷・勝の会見」が行われ、鉄舟の要請どおりになっている。鉄舟が「根回し」をした場所(松坂屋源兵衛屋敷跡)に「会見碑」が建てられていたのであった。
「根回し」は日本の政治には必要なんだなあ、と改めて意識させられた。もっとも、私の人生、そういうことは苦手だった。
「ストレートに直接要求することが多くて、私の意見が通らなかったなあ・・・」と、(ちらっと)人生を振り返った。
「まあ、それも良し」と、満足しているが・・・。
府中宿(静岡市中心部)を去り、江尻宿へ。清水港が近い東海道を歩いていった。江尻宿の手前には、「都田吉兵衛供養塔」なるものがあった。誰だろうと思って、ガイドの説明を読む。「都田吉兵衛」とは、通称「都鳥」と呼ばれた宿敵で、清水次郎長一家「森の石松」の仇でもあった。清水次郎長は(森の石松の仇である)都鳥を討ったことによって、いよいよ東海道一の大親分になった。この供養塔のある場所で、都鳥(=都田吉兵衛)は清水一家に討たれたのだった。幕末、文久元年(1861年)のことである。
幕末から明治にかけて活躍した、東海道一の大親分「清水次郎長」。清水次郎長は、先述の「山岡鉄舟」が命を狙われた時に助けている。
その時、助けられた鉄舟は西郷隆盛と駿府で「会見」できたとのことである。江戸幕府側の代理人の命を狙う一派もいたのだ。清水次郎長が鉄舟を護っていなかったら、歴史は変わっていたかもしれない。
碑や供養塔が建てられているいきさつを知ることで、歴史がおもしろくなる。これも「歩き旅の楽しみ」です。
清水次郎長はこの働きにより、(明治維新後)厚い待遇を受けている。任侠道の大親分のイメージが強い人物だが、「三保の新田開発」「富士山麓の開墾」「英語塾の開設」など、地元の人ために尽力している。現在のヤクザ・暴力団とは「月とスッポン」だ。
清水次郎長の宿敵「都鳥」の供養塔から少し歩くと、追分道標(『是より志三づ道』と書かれた清水湊への追分)があった。その横には、「追分羊羹」を売る店があった。なんと、創業元禄8年(1695年)の老舗だった。お土産に買って帰ろうと、店に入って購入した。帰宅後、すぐに食してみた。元禄時代を味覚で味わえた。「蒸し羊羹のような製法かな?」と感じた。
江尻宿周辺から、富士山が見えていた。真っ白な富士山だった。富士山を東海道53次歩き旅で「ずっと見ながら歩く」経験は初めてだったので、気持ちが浮き浮きした。富士山へは3度登っているが、その時とはまったく違った気分になった。街中から見る富士山は、電線などが邪魔になって「あの線がなければな・・・」と何度も思った。しかし、その地域で生活している市民にとって、電線は大切なものだ。
江尻宿に到着したが、特筆すべき建物などはなかった。江尻城なるものは、関ヶ原後、廃城となっていた。現在、「城跡」は学校の敷地になっていた。何もなかった。
帰りの電車のことを考えて、興津宿へ急いだ。途中、「清見寺」や「坐漁荘」などがあったが、急ぐので正面だけを見て、見学はしなかった。
興津駅に到着したのが午後1時であった。数分後、列車が来た。これに乗れれば、午後8時ごろに帰宅できる予定。それほど遅くならずに帰れそうだと喜んだ。
ところがところが・・・。豊橋までは順調に運行していたのに・・・。
東海道本線大阪京都間で、人身事故とのアナウンス。事故の影響で、帰宅は10時半になってしまった。米原駅からの新快速が「運休」になってしまい、鈍行で帰る羽目になってしまったから。事故の影響なので、仕方がないが・・・しんどかった。
まあ、こういう日もあるものだ。
最終日の歩行距離は約21km。3日間で、合計約61km歩いた旅だった。
今回の歩き旅の記録はここまでで終了です。
(話は変わって)この続きの歩き旅にまた出ます。3月25日(金)に、今度は一泊するだけで出かけます。天気予報から予想して、「薩埵(さった)峠から、きっと富士山が見えるだろう」と期待して、急遽出かけることにしました。薩埵峠は「東海道で一番すばらしい眺めの峠」だと言われている場所です。晴れた日に峠を通過したいのです。
この峠から見る富士山は、超有名ですばらしいそうです。東海道五十三次の浮世絵でも有名です。
(以前、薩埵峠に一度行っているのですが、その時は富士山はまったく見えませんでした。3月25日の午後は見えるかな?)

徳川慶喜公屋敷跡

浮月楼

西郷・山岡会見碑

おおっ! 富士山だ

「都鳥」供養塔

東海道中、どこから見ても電線が・・・

「追分羊羹」店舗 その横に「追分道標」

清見寺へ向かう門 すぐ横はJR東海道本線の線路

JR興津駅ホームから 富士山がほんの少し見えた。
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2016/3/22
「東海道53次歩き旅 ⑪島田宿~興津宿(2泊3日)二日目続き」 東海道53次歩き旅
(ここから続きです。)
宇津ノ谷峠を過ぎて、下っていったところに家並みがあった。それほど多くの家ではなかったが、物騒な峠を越えたところにあったので、ほっと安心できた。人が住んでいるところにくると、いつの時代も安心できるものである。
その家々の中に、「お羽織屋(石川家)」という家があった。
この東海道に面した古い家について紹介しておこう。
石川家が「お羽織屋」と呼ばれるのは、豊臣秀吉と関係していたからであった。江戸時代よりも少し前の話になる。
東海道は江戸時代に認定された街道のはずだが・・・。関西から関東へ向かう道として、宇津ノ谷峠越えの道を(新しく)造ったのは豊臣秀吉だったのだ。
秀吉が1589年に小田原攻めの際、大軍を通すために、峠に「新道」を開削したわけである。この「新道」が、江戸時代になってから東海道になった。小田原を攻めるためには旧道では大軍を動かせなかったらしい。「新道」とはいえ、(私も歩いてみた)峠道にはまだまだ薄暗いところがあり、今でも物騒な道である。
1590年、豊臣秀吉がいよいよ小田原攻めのため、「新道」を通った時に、「石川家」に立ち寄り馬の沓(馬用のわらじ)を所望したところ、石川家の主人は三足しか渡さなかった。その訳を問われた主人は、「四は縁起が悪い。残りの一足はここに置き、勝利を祈願します」と答えた。秀吉は大いに気を良くしたのだった。
小田原攻めに勝利した帰路、羽織を石川家主人に与えている。
その羽織が今も石川家には保存されていた。石川家は「お羽織屋」:と呼ばれるようになった歴史が分かる。入館料が必要だが、羽織を目で見ることができた。400年以上も経過している羽織だった。江戸時代になり、参勤交代で「お羽織屋」の羽織を手に取った大名は無茶苦茶多かったらしい。多くの大名が手にとって鑑賞したらしく、羽織の繊維がすれてすれて・・・ボロボロになってしまったらしい。それを、東京の博物館が修復したという話だった。現在、石川家に飾られている羽織は修復後の羽織である。
この羽織の説明は、石川家主らしき超高齢の「おばあさん」がしてくださった。超高齢ながら、解説ぶりはしっかりしていて、よくわかった。主らしき「おばあさん」と大坂夏の陣などの話題を交えながら、お話させていただき、楽しく過ごせた。
「お羽織屋」を過ぎると、いよいよ丸子(鞠子)宿が近い。
丸子(まりこ)宿には、とろろ汁で有名な「丁子屋(ちょうじや)」があった。創業慶長元年(1596年)だから、その歴史がすごい! 建物もそのまま残っているのだ。修復を繰り返しただろうが、東海道53次の浮世絵に描かれたとろろ汁店が、今も営業中だったのだ。この店の歴史はすごい!
堺市にある(くるみ餅店)「かん袋」は、歴史あるお菓子屋であるが、その当時の建物は残っていない。豊臣秀吉が名付けた「ずんだもちの菓子」=「くるみ餅」。その味は、安土桃山時代から一子相伝で現代に引き継がれている。この歴史もすごいが、丁子屋の「とろろ汁」は建物が残っているという点で、なお魅力的である。
ちょっと遅めの昼食であったが、さっそくいただいた。
丁子屋の中は増築、増築で、広い店であった。東海道に面した建物だけを見ていたら、「狭い店だなあ」と思ったが、中に入って驚いた。
人、人、人・・・午後2時ごろだったにもかかわらず、満員に近かった。10グループ・家族などが、とろろ汁(定食)などを召し上がっていた。一番高価なコースメニューは5000円ほどだった。私は夕飯のことを考えて、一番少ない量の「とろろ汁」を注文した。
自然薯のとろろ汁を、麦混じりのご飯にたっぷりとかけて食べた。
おいしかった! 歴史の味もした。とろろ汁は、松尾芭蕉も召し上がっている。
この丁子屋の前庭に、芭蕉の句があった。
『梅若菜 丸子の宿の とろろ汁』
丸子宿の次は府中宿。静岡県の県庁所在地、静岡市。
歩き旅二日目の宿泊予定地。夕方に、やっとたどり着いた。
まだ暗くなっていなかったので、徳川家康が晩年に過ごした城=駿府城(跡)へ行ってみた。天守閣などはなく、石垣だけが残っていた。城跡は公園になっており、自由に入ることができた。ざっと見て回って、ビジネスホテルに到着。
二日目は、約24km歩いていた。風呂に入って、疲れた足を自分自身でしっかりとマッサージしておいた。

宇津ノ谷峠に近い東海道の家並み

写真右手の大きな家が「お羽織屋」(石川家)

東海道に面している丁子屋

浮世絵にも描かれている丁子屋。そっくりだった。

丁子屋入口 その近くに芭蕉句碑があった

これが名物「とろろ汁」

駿府城の石垣(意外に低かった)
大阪城の石垣と比べてしまうので、感動はしなかった。
宇津ノ谷峠を過ぎて、下っていったところに家並みがあった。それほど多くの家ではなかったが、物騒な峠を越えたところにあったので、ほっと安心できた。人が住んでいるところにくると、いつの時代も安心できるものである。
その家々の中に、「お羽織屋(石川家)」という家があった。
この東海道に面した古い家について紹介しておこう。
石川家が「お羽織屋」と呼ばれるのは、豊臣秀吉と関係していたからであった。江戸時代よりも少し前の話になる。
東海道は江戸時代に認定された街道のはずだが・・・。関西から関東へ向かう道として、宇津ノ谷峠越えの道を(新しく)造ったのは豊臣秀吉だったのだ。
秀吉が1589年に小田原攻めの際、大軍を通すために、峠に「新道」を開削したわけである。この「新道」が、江戸時代になってから東海道になった。小田原を攻めるためには旧道では大軍を動かせなかったらしい。「新道」とはいえ、(私も歩いてみた)峠道にはまだまだ薄暗いところがあり、今でも物騒な道である。
1590年、豊臣秀吉がいよいよ小田原攻めのため、「新道」を通った時に、「石川家」に立ち寄り馬の沓(馬用のわらじ)を所望したところ、石川家の主人は三足しか渡さなかった。その訳を問われた主人は、「四は縁起が悪い。残りの一足はここに置き、勝利を祈願します」と答えた。秀吉は大いに気を良くしたのだった。
小田原攻めに勝利した帰路、羽織を石川家主人に与えている。
その羽織が今も石川家には保存されていた。石川家は「お羽織屋」:と呼ばれるようになった歴史が分かる。入館料が必要だが、羽織を目で見ることができた。400年以上も経過している羽織だった。江戸時代になり、参勤交代で「お羽織屋」の羽織を手に取った大名は無茶苦茶多かったらしい。多くの大名が手にとって鑑賞したらしく、羽織の繊維がすれてすれて・・・ボロボロになってしまったらしい。それを、東京の博物館が修復したという話だった。現在、石川家に飾られている羽織は修復後の羽織である。
この羽織の説明は、石川家主らしき超高齢の「おばあさん」がしてくださった。超高齢ながら、解説ぶりはしっかりしていて、よくわかった。主らしき「おばあさん」と大坂夏の陣などの話題を交えながら、お話させていただき、楽しく過ごせた。
「お羽織屋」を過ぎると、いよいよ丸子(鞠子)宿が近い。
丸子(まりこ)宿には、とろろ汁で有名な「丁子屋(ちょうじや)」があった。創業慶長元年(1596年)だから、その歴史がすごい! 建物もそのまま残っているのだ。修復を繰り返しただろうが、東海道53次の浮世絵に描かれたとろろ汁店が、今も営業中だったのだ。この店の歴史はすごい!
堺市にある(くるみ餅店)「かん袋」は、歴史あるお菓子屋であるが、その当時の建物は残っていない。豊臣秀吉が名付けた「ずんだもちの菓子」=「くるみ餅」。その味は、安土桃山時代から一子相伝で現代に引き継がれている。この歴史もすごいが、丁子屋の「とろろ汁」は建物が残っているという点で、なお魅力的である。
ちょっと遅めの昼食であったが、さっそくいただいた。
丁子屋の中は増築、増築で、広い店であった。東海道に面した建物だけを見ていたら、「狭い店だなあ」と思ったが、中に入って驚いた。
人、人、人・・・午後2時ごろだったにもかかわらず、満員に近かった。10グループ・家族などが、とろろ汁(定食)などを召し上がっていた。一番高価なコースメニューは5000円ほどだった。私は夕飯のことを考えて、一番少ない量の「とろろ汁」を注文した。
自然薯のとろろ汁を、麦混じりのご飯にたっぷりとかけて食べた。
おいしかった! 歴史の味もした。とろろ汁は、松尾芭蕉も召し上がっている。
この丁子屋の前庭に、芭蕉の句があった。
『梅若菜 丸子の宿の とろろ汁』
丸子宿の次は府中宿。静岡県の県庁所在地、静岡市。
歩き旅二日目の宿泊予定地。夕方に、やっとたどり着いた。
まだ暗くなっていなかったので、徳川家康が晩年に過ごした城=駿府城(跡)へ行ってみた。天守閣などはなく、石垣だけが残っていた。城跡は公園になっており、自由に入ることができた。ざっと見て回って、ビジネスホテルに到着。
二日目は、約24km歩いていた。風呂に入って、疲れた足を自分自身でしっかりとマッサージしておいた。

宇津ノ谷峠に近い東海道の家並み

写真右手の大きな家が「お羽織屋」(石川家)

東海道に面している丁子屋

浮世絵にも描かれている丁子屋。そっくりだった。

丁子屋入口 その近くに芭蕉句碑があった

これが名物「とろろ汁」

駿府城の石垣(意外に低かった)
大阪城の石垣と比べてしまうので、感動はしなかった。
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2016/3/21
「東海道53次歩き旅 ⑪島田宿~興津宿(2泊3日)二日目」 東海道53次歩き旅
歩き旅2日目。
藤枝宿のビジネスホテルでの宿泊客は私一人だけであった。宿泊料金が安くても、なかなかおいしい食事を出してくれた。夕食、朝食共に残さずにすべていただいた。朝食を(こちらの希望で)6時半に食べることができたので、7時過ぎに歩き旅をスタートすることができた。
昨日(3月15日)の歩行距離は、寄り道をしたこともあって、約17kmであった。(ちなみに、歩数データ=29253歩)
歩き旅初日はJRに乗っている時間が長かった。島田駅に到着したのは12時ごろであった。(いつもように)早朝の堺市駅5時51分のJR快速に乗った。大阪駅・米原駅・大垣駅・豊橋駅・浜松駅で乗り継いで、やっと島田駅に到着できた。乗り継ぎ時間を入れて6時間ほど乗っていたことになる。座っている時間が長かったので、歩きたくてうずうずしていた。さあ、いよいよ歩くぞ! 駅を出て、すぐに、歩き旅がスタートした。
初日は、半日の歩き行程だった。そのわりには、17kmだったので、かなりの距離を歩いたことになる。
さて、二日目の今日は、藤枝宿から岡部宿 → 丸子(鞠子)宿 → 府中宿へ。 行程約25km歩く予定。(休憩や見学時間を含めて)時速3kmの歩行なら、約8時間の歩き旅になる。私の東海道歩き旅は、いつもそれぐらいのペースである。
お寺や名所旧跡などの見学をしないで、ただ歩くだけなら、時速4km以上で歩けるが、あまり早く歩くと味気ない。建物・町並み・畑・植物・景色などを楽しめない。
歩き旅には人それぞれにそれなりの楽しみ方がある。(江戸時代の旅人は、一日平均40kmほど歩いているが、そのペースだと、ゆっくり楽しめなかったにちがいない。)
私はゆっくりと「時速3kmのペースで」歩き旅を楽しんでいる。街道近くの畑の野菜を見ることも楽しい。
岡部宿には大きな旅籠が残されていた。その建物は、「大旅籠柏屋」で、江戸時代の建物が保存されていた。国登録有形文化財であり、歴史資料館として公開されていた。
内部を(通り抜けるだけで)見学するなら、無料だった。
この大旅籠・柏屋の建物は、大修理が行われていた。その修理の様子がビデオに残されており、その様子を見ることができた。
古民家などの建物修理に関心がある私なので、ビデオ映像をしっかり見た。その情報によると、柏屋は解体修理されていたのだ。さらに驚いたことに、元あった位置から、建物ごと5メートルほど移動させていたのだ。ジャッキを使って、建物全体を浮かせて旧東海道から後ろに下げていた。ゆっくりゆっくりと建物全体を移動させる映像は感動的であった。「えっ、こんなことできるの?」と驚いた。比較的新しい家なら移動した話は聞いたことはあったが、江戸時代の巨大古民家をジャッキで上げて移動させるシーンを見るのは(ビデオでも)初めてだったので、ひきつけられた。
木造建築物だから、移動可能なのであろう。それにしても、大きな旅籠(写真参照)の移動だった。
岡部宿を過ぎて、平坦な道が続いていたが、登りの道が始まった。丸子(「鞠子」と書いた時代もあったようだ)宿に向かうまでに、峠道を通過しなければならない。その峠は、「宇津ノ谷(うつのや)峠」と言われており、昔は物騒な峠だったようである。歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』で殺人が起こる場所となっているようだ。昔の話とはいえ、殺人の起こった峠だから、あまりいい気がしないものである。
現代人の男の私が(一人だけで初めて)実際に地図を頼りに歩いてみて感じたこと。
「えっ、このけもの道のような細い道が東海道?」
「なんとなくさびしい峠だなあ・・・」
「登り切ったところの峠の表示はたったこれだけか・・・」(幅5センチほどの小さな板切れが木に打ち付けられているだけだった。)
「この峠は、馬に乗ったままや籠で越えるのは無理だろう」
「ここなら人が殺されても発見されにくいだろう」など。
やはり今も「物騒な雰囲気の峠」だ。二人連れでの峠越えならどうってことはないだろうが・・・。一人だと・・・薄暗く細い道のところでは・・・なんとなく不気味だ。
今まで歩いてきた旧東海道の中では、一番辺鄙な道でした。
(この続きは、3月22日のブログです。)

大旅籠・柏屋(江戸時代の建物を岡部町が修復保存・公開)

道路拡幅のため、5メートルほど移動させている。柏屋入口

急坂の細い道が続いていた。登り切った所が「峠」だった。

峠に到着したが、この表示があるだけ。何もない峠。

江戸から京へ向かう峠道入り口(私の場合、ここに到着した)
江戸時代は京(皇居あった)方面へ向かうのが、「上り」。
大阪・京都近辺を「上方」と呼んだ。「上方落語」という言葉はいまだに残っているし、ほぼ永遠に使われ続けるであろう。皇居の位置が変わっても「下方落語」とは言わない。
灘や伏見などの上方のお酒はおいしい酒で、上等なものであった。上方から江戸へ下ってくるもの(特にお酒)は菓子類などでも上等で、高価なものであった。だから「下り酒」「くだりもの」は評価が高く、江戸市民たちに喜ばれた。しかし、江戸近辺で造られたお酒はまずかった。江戸近辺醸造のまずくておいしくない酒をプレゼントする時には、「下り酒ではありませんが・・・」という意味で、「上方から下ってきた、おいしくて高価なものではありませんが」=「くだらないものですが」という言葉を添えるようになった。
このセンスは日本人らしい謙虚さに通じている気がする。こういうセンスは外国では通じにくいだろう。外国人にプレゼントする時には、「くだらないものですが・・・」なんて、言わないほうが良い。
要するに、「自慢して言う」ほうが気持ちが伝わりやすいとのことである。
現在、(日本では)プレゼントする品が実質結構高価なものでも、謙遜して「くだらないものですが・・・」と接頭語的に言葉を添えて渡すことが多い。
「これは高価なもので、探し出すのに苦労した貴重なものです」なんて、言って渡す日本人はいない。外国人になら、この方が心が伝わりやすいらしいが・・・。
話が、脱線しました。
江戸時代、京から江戸に向かって歩くのは「下り」ですね。
(現在は、首都・皇居が東京にあるので、江戸時代とは逆になった。明治以後、東京(江戸)へ向かうことが「上り」になった。)
さて、私の歩き旅は、下っているのか? 上っているのか?
当然、「江戸時代の旅人」気分での歩きだから・・・「下っている」。
藤枝宿のビジネスホテルでの宿泊客は私一人だけであった。宿泊料金が安くても、なかなかおいしい食事を出してくれた。夕食、朝食共に残さずにすべていただいた。朝食を(こちらの希望で)6時半に食べることができたので、7時過ぎに歩き旅をスタートすることができた。
昨日(3月15日)の歩行距離は、寄り道をしたこともあって、約17kmであった。(ちなみに、歩数データ=29253歩)
歩き旅初日はJRに乗っている時間が長かった。島田駅に到着したのは12時ごろであった。(いつもように)早朝の堺市駅5時51分のJR快速に乗った。大阪駅・米原駅・大垣駅・豊橋駅・浜松駅で乗り継いで、やっと島田駅に到着できた。乗り継ぎ時間を入れて6時間ほど乗っていたことになる。座っている時間が長かったので、歩きたくてうずうずしていた。さあ、いよいよ歩くぞ! 駅を出て、すぐに、歩き旅がスタートした。
初日は、半日の歩き行程だった。そのわりには、17kmだったので、かなりの距離を歩いたことになる。
さて、二日目の今日は、藤枝宿から岡部宿 → 丸子(鞠子)宿 → 府中宿へ。 行程約25km歩く予定。(休憩や見学時間を含めて)時速3kmの歩行なら、約8時間の歩き旅になる。私の東海道歩き旅は、いつもそれぐらいのペースである。
お寺や名所旧跡などの見学をしないで、ただ歩くだけなら、時速4km以上で歩けるが、あまり早く歩くと味気ない。建物・町並み・畑・植物・景色などを楽しめない。
歩き旅には人それぞれにそれなりの楽しみ方がある。(江戸時代の旅人は、一日平均40kmほど歩いているが、そのペースだと、ゆっくり楽しめなかったにちがいない。)
私はゆっくりと「時速3kmのペースで」歩き旅を楽しんでいる。街道近くの畑の野菜を見ることも楽しい。
岡部宿には大きな旅籠が残されていた。その建物は、「大旅籠柏屋」で、江戸時代の建物が保存されていた。国登録有形文化財であり、歴史資料館として公開されていた。
内部を(通り抜けるだけで)見学するなら、無料だった。
この大旅籠・柏屋の建物は、大修理が行われていた。その修理の様子がビデオに残されており、その様子を見ることができた。
古民家などの建物修理に関心がある私なので、ビデオ映像をしっかり見た。その情報によると、柏屋は解体修理されていたのだ。さらに驚いたことに、元あった位置から、建物ごと5メートルほど移動させていたのだ。ジャッキを使って、建物全体を浮かせて旧東海道から後ろに下げていた。ゆっくりゆっくりと建物全体を移動させる映像は感動的であった。「えっ、こんなことできるの?」と驚いた。比較的新しい家なら移動した話は聞いたことはあったが、江戸時代の巨大古民家をジャッキで上げて移動させるシーンを見るのは(ビデオでも)初めてだったので、ひきつけられた。
木造建築物だから、移動可能なのであろう。それにしても、大きな旅籠(写真参照)の移動だった。
岡部宿を過ぎて、平坦な道が続いていたが、登りの道が始まった。丸子(「鞠子」と書いた時代もあったようだ)宿に向かうまでに、峠道を通過しなければならない。その峠は、「宇津ノ谷(うつのや)峠」と言われており、昔は物騒な峠だったようである。歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』で殺人が起こる場所となっているようだ。昔の話とはいえ、殺人の起こった峠だから、あまりいい気がしないものである。
現代人の男の私が(一人だけで初めて)実際に地図を頼りに歩いてみて感じたこと。
「えっ、このけもの道のような細い道が東海道?」
「なんとなくさびしい峠だなあ・・・」
「登り切ったところの峠の表示はたったこれだけか・・・」(幅5センチほどの小さな板切れが木に打ち付けられているだけだった。)
「この峠は、馬に乗ったままや籠で越えるのは無理だろう」
「ここなら人が殺されても発見されにくいだろう」など。
やはり今も「物騒な雰囲気の峠」だ。二人連れでの峠越えならどうってことはないだろうが・・・。一人だと・・・薄暗く細い道のところでは・・・なんとなく不気味だ。
今まで歩いてきた旧東海道の中では、一番辺鄙な道でした。
(この続きは、3月22日のブログです。)

大旅籠・柏屋(江戸時代の建物を岡部町が修復保存・公開)

道路拡幅のため、5メートルほど移動させている。柏屋入口

急坂の細い道が続いていた。登り切った所が「峠」だった。

峠に到着したが、この表示があるだけ。何もない峠。

江戸から京へ向かう峠道入り口(私の場合、ここに到着した)
江戸時代は京(皇居あった)方面へ向かうのが、「上り」。
大阪・京都近辺を「上方」と呼んだ。「上方落語」という言葉はいまだに残っているし、ほぼ永遠に使われ続けるであろう。皇居の位置が変わっても「下方落語」とは言わない。
灘や伏見などの上方のお酒はおいしい酒で、上等なものであった。上方から江戸へ下ってくるもの(特にお酒)は菓子類などでも上等で、高価なものであった。だから「下り酒」「くだりもの」は評価が高く、江戸市民たちに喜ばれた。しかし、江戸近辺で造られたお酒はまずかった。江戸近辺醸造のまずくておいしくない酒をプレゼントする時には、「下り酒ではありませんが・・・」という意味で、「上方から下ってきた、おいしくて高価なものではありませんが」=「くだらないものですが」という言葉を添えるようになった。
このセンスは日本人らしい謙虚さに通じている気がする。こういうセンスは外国では通じにくいだろう。外国人にプレゼントする時には、「くだらないものですが・・・」なんて、言わないほうが良い。
要するに、「自慢して言う」ほうが気持ちが伝わりやすいとのことである。
現在、(日本では)プレゼントする品が実質結構高価なものでも、謙遜して「くだらないものですが・・・」と接頭語的に言葉を添えて渡すことが多い。
「これは高価なもので、探し出すのに苦労した貴重なものです」なんて、言って渡す日本人はいない。外国人になら、この方が心が伝わりやすいらしいが・・・。
話が、脱線しました。
江戸時代、京から江戸に向かって歩くのは「下り」ですね。
(現在は、首都・皇居が東京にあるので、江戸時代とは逆になった。明治以後、東京(江戸)へ向かうことが「上り」になった。)
さて、私の歩き旅は、下っているのか? 上っているのか?
当然、「江戸時代の旅人」気分での歩きだから・・・「下っている」。
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