2016/10/21
「東海道53次歩き旅(13回目)吉原宿~小田原宿(2泊3日)三日目」 東海道53次歩き旅
ホテルの朝食時間が7時半からということだったので、朝食をキャンセルした。というのは、「JR小田原駅発午後2時までの列車」に乗りたかったからである。それよりも遅い列車だと、その日のうちに自宅にたどり着けるかどうかが怪しくなるからである。「秋の乗り放題パス」チケットは3日間が期限。つまり、本日の24時までが利用期限。だから、大阪駅には23時ごろまでに到着できる列車に乗りたい。
そのことを考えると、ホテル出発はできるかぎり早朝がいい。そこで、昨夜のうちにホテル代の精算もすませておいた。ホテルの主人が気を利かせてくれて(昨夜)のうちに朝食用のパンを袋に入れてくれた。
(ここから、続きです)
大阪駅への列車到着時刻を考えて、箱根のホテルを出たのは午前6時15分であった。
早朝から旧東海道(箱根旧街道)を歩く人は誰もいない。ちょっと薄暗い道が多かったので、一人歩きは心細かった。8時ごろなら誰かに出会うであろうが、誰とも出会わなかった。
江戸時代、関所破りで処刑された「お玉」を供養している「お玉観音堂」の傍まで来た。しかし、見学時間に余裕がなかったので、素通り。箱根宿と小田原宿との距離は約17㎞ある。宿場間距離としては、長い方だ。ゆっくりしていられない・・・。
いつもの歩き旅ペースでは、6時間足らずかかってしまうことになるので、見学場所・時間を少なくすることにした。
権現坂・天ヶ石(てんがいし)坂・白水坂・於玉坂などの坂道を上ったり下ったり。箱根は坂ばかりだ。とにかく全体的には、箱根から小田原まで「下り中心」の道だが、起伏があった。
7時30分。茅葺の家があったので、入ってみた。
なんと、有名な「甘酒茶屋」だったのだ。旧東海道を歩いている者にとって、茶屋の正面は見えなかった。車が通る道に面して玄関があった。(江戸時代なら逆だったであろう。私が歩いてきた東海道石畳道に面して、玄関があったに違いない。)
創業350年、甘酒と力餅が名物の茶屋だったのだ。早速、名物の甘酒と力餅を注文した。店には、旅行中の若者が一人で力餅を食べていた。
「おはようございます。お一人ですか?」と声をかけた。若者(男性)は「バイクで一人旅です」と明るい感じで応じてくれた。
お互いに、なんとなく人恋しかったようで、5分ほどであったが、会話をする機会になった。
若者は宮城県の人で、仙台からバイク旅行しているとのことであった。
私は「京都からスタートして、旧東海道を少しずつ歩き旅をしているんですよ。今回で13回目です。」と歩き旅に楽しさなどを語った。
バイク旅・歩き旅、どちらも「一人旅」という点では通じるものがあった。
若者がバイクで去った後、店主がノートを持ってこられた。
「歩き旅の方ですね。本日歩き旅、初めてのお客様ですので、このノートに名前など書いてくださいますか?」と声をかけられた。
「あっ、いいですよ。喜んで、書かせていただきます。」
ノートをよく見れば、「徒歩観光記念御芳名帳」であった。
記念になるので、心を込めて、(記入された方々同様に)名前と住所を丁寧に記入した。
(そうか、私は本日の歩き旅・初客だったのだ。早朝にホテルを出て、ラッキーだった)
お勘定をするときも、ラッキーだった。
「歩き旅の本日初めてのお客さんですので、甘酒はサービスさせていただいています。」とのことであった。
力餅代のみ支払って、店を出た。
思い出に残る「甘酒茶屋」になった。店内は、江戸時代の雰囲気が残っていた。
ゆっくり休憩したので、歩き旅を急いだ。
猿滑(さるすべり)坂・女転ばし坂(旅の女が落馬して死亡した坂)など、ヌルヌルと滑りやすそうで、急勾配の坂道が続いていた。日当たりが悪い坂は苔が張り付いていた。私は下りだったので、それほどしんどくはなかったが、小田原から箱根へ向かう登りの道なら大変だろう。
だらだらと石畳道を歩いたり、アスファルトの県道を歩いたりしていると、午前10時過ぎに早雲寺に到着した。「早雲」といえば、やはり北条早雲であった。北条氏五代の墓がある寺であった。
少し休憩して、小田原宿へ急いだ。
平坦な道になっていた。登山鉄道の線路に沿って歩く道もあった。坂道から解放されて、楽に歩くことができた。
12時20分小田原宿に到着。予想よりも早く到着できた。
本陣跡などを探してみたが、ほとんどの宿にある「石の碑」は見つからなかった。そういう碑を設置していない宿のようだった。旧東海道に関するものに力を入れていないらしい。東海道53次歩き旅をする者にとって、「愛想ない宿だなあ!」と、残念だった。ただ昔風の薬屋(創業は江戸時代)の建物だけが魅力的であった。記念にパチリ。
本陣跡付近をうろうろして「石碑」を探し回ったが、見つからなかった。明治天皇に関する碑はあったが、本陣や脇本陣などに関する碑はとうとう見つけられなかった。
再建された小田原城を遠くに眺めながら、小田原駅へ急いだ。妻への土産に「蒲鉾」を購入。 午後1時前の熱海行き快速に乗ることができた。数回乗り継いで大阪駅に到着し、関空快速に乗り換え、堺市駅に到着。
おかげで、帰宅時間は(ぎりぎり到着ではなく)余裕の午後10時台だった。
1日目=約18km、2日目=約25㎞、3日目=約18km
(自宅~堺市駅を含む)総歩き距離合計は約61㎞の旅を終えた。
次回は小田原宿から歩くことになる。たぶん平坦な道。いよいよ東京圏を歩くことになるだろう。残りは80㎞余りになった。
2017年の春には到達する予定。 完
箱根旧街道標識 左手「お玉が池」方面 正面の薄暗いトンネルのような道が旧東海道。小田原への道 この付近では、早朝ゆえに誰も歩いていなかった。
創業350年の甘酒茶屋 裏手が東海道石畳道だった。
店内は江戸時代の雰囲気だった
カメラの性能が悪く…
猿滑坂標識
苔で滑る急坂(気を付けて歩いた)
江戸より23里(約92㎞)の地
男女双体道祖神 (昔の)村境の位置におかれていた。
この付近が宿の中心地。本陣などがあったらしい。
この建物は魅力があった。小西薬局本店(営業中)
小田原城をちらちら見ながら駅へ急いだ。
そのことを考えると、ホテル出発はできるかぎり早朝がいい。そこで、昨夜のうちにホテル代の精算もすませておいた。ホテルの主人が気を利かせてくれて(昨夜)のうちに朝食用のパンを袋に入れてくれた。
(ここから、続きです)
大阪駅への列車到着時刻を考えて、箱根のホテルを出たのは午前6時15分であった。
早朝から旧東海道(箱根旧街道)を歩く人は誰もいない。ちょっと薄暗い道が多かったので、一人歩きは心細かった。8時ごろなら誰かに出会うであろうが、誰とも出会わなかった。
江戸時代、関所破りで処刑された「お玉」を供養している「お玉観音堂」の傍まで来た。しかし、見学時間に余裕がなかったので、素通り。箱根宿と小田原宿との距離は約17㎞ある。宿場間距離としては、長い方だ。ゆっくりしていられない・・・。
いつもの歩き旅ペースでは、6時間足らずかかってしまうことになるので、見学場所・時間を少なくすることにした。
権現坂・天ヶ石(てんがいし)坂・白水坂・於玉坂などの坂道を上ったり下ったり。箱根は坂ばかりだ。とにかく全体的には、箱根から小田原まで「下り中心」の道だが、起伏があった。
7時30分。茅葺の家があったので、入ってみた。
なんと、有名な「甘酒茶屋」だったのだ。旧東海道を歩いている者にとって、茶屋の正面は見えなかった。車が通る道に面して玄関があった。(江戸時代なら逆だったであろう。私が歩いてきた東海道石畳道に面して、玄関があったに違いない。)
創業350年、甘酒と力餅が名物の茶屋だったのだ。早速、名物の甘酒と力餅を注文した。店には、旅行中の若者が一人で力餅を食べていた。
「おはようございます。お一人ですか?」と声をかけた。若者(男性)は「バイクで一人旅です」と明るい感じで応じてくれた。
お互いに、なんとなく人恋しかったようで、5分ほどであったが、会話をする機会になった。
若者は宮城県の人で、仙台からバイク旅行しているとのことであった。
私は「京都からスタートして、旧東海道を少しずつ歩き旅をしているんですよ。今回で13回目です。」と歩き旅に楽しさなどを語った。
バイク旅・歩き旅、どちらも「一人旅」という点では通じるものがあった。
若者がバイクで去った後、店主がノートを持ってこられた。
「歩き旅の方ですね。本日歩き旅、初めてのお客様ですので、このノートに名前など書いてくださいますか?」と声をかけられた。
「あっ、いいですよ。喜んで、書かせていただきます。」
ノートをよく見れば、「徒歩観光記念御芳名帳」であった。
記念になるので、心を込めて、(記入された方々同様に)名前と住所を丁寧に記入した。
(そうか、私は本日の歩き旅・初客だったのだ。早朝にホテルを出て、ラッキーだった)
お勘定をするときも、ラッキーだった。
「歩き旅の本日初めてのお客さんですので、甘酒はサービスさせていただいています。」とのことであった。
力餅代のみ支払って、店を出た。
思い出に残る「甘酒茶屋」になった。店内は、江戸時代の雰囲気が残っていた。
ゆっくり休憩したので、歩き旅を急いだ。
猿滑(さるすべり)坂・女転ばし坂(旅の女が落馬して死亡した坂)など、ヌルヌルと滑りやすそうで、急勾配の坂道が続いていた。日当たりが悪い坂は苔が張り付いていた。私は下りだったので、それほどしんどくはなかったが、小田原から箱根へ向かう登りの道なら大変だろう。
だらだらと石畳道を歩いたり、アスファルトの県道を歩いたりしていると、午前10時過ぎに早雲寺に到着した。「早雲」といえば、やはり北条早雲であった。北条氏五代の墓がある寺であった。
少し休憩して、小田原宿へ急いだ。
平坦な道になっていた。登山鉄道の線路に沿って歩く道もあった。坂道から解放されて、楽に歩くことができた。
12時20分小田原宿に到着。予想よりも早く到着できた。
本陣跡などを探してみたが、ほとんどの宿にある「石の碑」は見つからなかった。そういう碑を設置していない宿のようだった。旧東海道に関するものに力を入れていないらしい。東海道53次歩き旅をする者にとって、「愛想ない宿だなあ!」と、残念だった。ただ昔風の薬屋(創業は江戸時代)の建物だけが魅力的であった。記念にパチリ。
本陣跡付近をうろうろして「石碑」を探し回ったが、見つからなかった。明治天皇に関する碑はあったが、本陣や脇本陣などに関する碑はとうとう見つけられなかった。
再建された小田原城を遠くに眺めながら、小田原駅へ急いだ。妻への土産に「蒲鉾」を購入。 午後1時前の熱海行き快速に乗ることができた。数回乗り継いで大阪駅に到着し、関空快速に乗り換え、堺市駅に到着。
おかげで、帰宅時間は(ぎりぎり到着ではなく)余裕の午後10時台だった。
1日目=約18km、2日目=約25㎞、3日目=約18km
(自宅~堺市駅を含む)総歩き距離合計は約61㎞の旅を終えた。
次回は小田原宿から歩くことになる。たぶん平坦な道。いよいよ東京圏を歩くことになるだろう。残りは80㎞余りになった。
2017年の春には到達する予定。 完
箱根旧街道標識 左手「お玉が池」方面 正面の薄暗いトンネルのような道が旧東海道。小田原への道 この付近では、早朝ゆえに誰も歩いていなかった。
創業350年の甘酒茶屋 裏手が東海道石畳道だった。
店内は江戸時代の雰囲気だった
カメラの性能が悪く…
猿滑坂標識
苔で滑る急坂(気を付けて歩いた)
江戸より23里(約92㎞)の地
男女双体道祖神 (昔の)村境の位置におかれていた。
この付近が宿の中心地。本陣などがあったらしい。
この建物は魅力があった。小西薬局本店(営業中)
小田原城をちらちら見ながら駅へ急いだ。
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2016/10/17
「東海道53次歩き旅(13回目)吉原宿~小田原宿(2泊3日)二日目後半」 東海道53次歩き旅
「箱根旧街道入口道標」を過ぎたあたりから、東海道は石畳道とアスファルトの道とが混ざるようになってきた。松並木の道も残っていた。国道1号線に沿うように旧東海道が石畳道として整備されていた。国道1号線そのものが旧東海道であったりして、石畳道は途切れ途切れになっていた。国道1号線を横断しなければならない個所もあり、車がビュンビュンの道をタイミングよく渡らなければならない。国道1号線はさすがに日本一の国道だ。車の通行量が多い。旧東海道を歩く人用の信号など設置していない「国道横断」個所が複数あった。「左右注意して横断してください」と掲示されていたが、車がビュンビュンなので、油断はできなかった。
江戸時代なら、こんな心配はなかったであろうが、現代は車の量が多い時代なので、「歩き旅」においては、気を付けて歩かなければならなかった。国道1号線は箱根周辺ではカーブが多い。だから車が見えにくい。時々だが、横断の危険さを意識させられた。
いよいよ箱根峠へ。坂道(石畳道)が連続するようになった。
臼転坂(臼が転がるほどの坂)・大時雨坂・小時雨坂・こわめし坂(急坂のため、背負った米が汗と熱でこわめしになったということから名付けられた)・上長坂(かみなりさか)と、坂の連続であった。
旧東海道の石畳道を歩いていけばコースを間違うはずがないので安心できた。結構長い石畳道であった。ところが、工事中で通行止めになっていた箇所があった。「まいったなあ!」と地図を見直した。国道1号線を歩くしか方法がなかった。歩道らしきものがない国道1号線を猛スピードで走っていく車にひかれないように国道の端を歩いた。怖かったですね。カーブが多くて、草が覆いかぶさっていて、端を安全に歩くことが難しかった。
芭蕉句碑(=霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き)の建てられていた富士見平。富士見平という場所は東海道の中でも富士山が美しく見えるところらしい。私も松尾芭蕉と同じく、この時間帯(昼頃)は、富士山に雲(または霧)がかかって見ることができなかった。今日の午前中は見えていたのに…。松尾芭蕉も残念な思いをしたようだ。句にその思いが表現されている。「面白き」なんて、表現しているところが、松尾芭蕉らしい。しかし、見たかったに違いない。私も富士見平からの富士山を実際に見てみたい! 「薩埵峠からの富士山を見てみたい」という思いは今もある。同じように、「富士見平」からの富士山も見てみたいものだ!
富士山は見えなかったが、お腹がすいていたので「富士見平」にある古いレストランで昼食をとった。このレストランにはマイッタ!
肉野菜定食を注文したのだが、(客が少ないにもかかわらず)40分ほど待たされた。大阪なら「こんなに客を待たせるレストランはすぐにつぶれてしまうだろう」と思った。10分程度待ったら食べられるだろうと思っていたので・・・イライラ、イライラ。早く昼食を終えて歩きたいのに!! 人間、「食事の待ち時間」の我慢の限界は30分だろう。と、私は思っているが、世間ではどうなんだろう?
40分経過したとき、やっと「肉野菜定食」を食べ始めることができた。大急ぎで腹の中へ…。もうこの店には入らないぞ! プンプン!
不思議なのは、結構古いレストランで、つぶれそうではないこと。こんなに客を待たせても、リピーターがいる様子なのだ。
私(関西人)がせっかちで、関東の人はせっかちではないのかな? はて?
歩き旅の遅れを取り戻そうと早足で歩きだした。箱根峠がだんだん近づくところに、「山中城跡」があった。箱根の観光名所の一箇所であり、駐車場も広かった。「歩き旅」をしている人は私ともう一人ぐらいかな? 観光客のほぼ全員、ドライブの途中らしい。
山中城は石垣を築かない山城で、北条方の出城。豊臣秀吉の攻撃に遭い、半日で落城したとのこと。たった半日で。
現在、その城跡が史跡公園となっていて、平日なのに観光客が多かった。
半日で落城した城跡を見学したくなって、時間をとった。遊歩道の一番奥まで行ってみた。天守閣はもちろんなかったが、城跡の台地から、富士山の頭だけが見えた。「山中城の天守閣からの富士山は、さぞ絶景であっただろう」と独り言。
近くにいた観光客が「何にも見えないわね」と言っているのが耳に入った。
そこで、その老夫婦のところへ近づいて、「富士山の頭だけがほんの少しだけ見えていますよ。」と指さした。
「えっ、あれが富士山ですか? ありがとうございます。教えていただかなかったら、わかりませんでした。」と感謝された。
富士山、見えるときは一瞬の時がある。
それを見ているのに、見えていない(認識できていない)ことは、結構あるものです。
人生、誰かに教えてもらうことも、場合によっては必要でしょう。
(ここから続きです)
山中城跡見学後、箱根峠を目指した。まだまだ上り坂が続いた。ある地点は一軒の農家庭先が「東海道」であった。「この庭の一部が本当に東海道?」と驚いた。幅50cmぐらいの道を20mほど歩いたら、幅2mぐらいの石畳道につながっていた。
坂道を登りきったところに、「箱根峠」の標識があった。
「やった!」
「箱根峠に到着したら、箱根関所まで約3㎞足らずだ。それも、下りになるはずだ」と、地図を確認した。下りは楽だろう、とホット一息ついた。
ところが、箱根峠付近はアスファルトの国道や県道が重なるように交差していて、箱根街道(東海道)がどの道なのか、わかりにくい。地図を見ても、さっぱりわからなかった。石畳道があれば、「東海道」に間違いはないのだが…。どこなんだろう? あれ? あれ?
勘を頼りに、近くにあるゴルフ場への道を歩き始めた。しかし、なんとなく、おかしいぞ? ちがうようだ。国道1号線から遠ざかっているらしい。国道1号線らしい道を探そう。と、歩き出したら、案内看板があったのだ。「挟石(はさみいし)坂」という標識が国道(または県道かな?)の端に建てられていた。「よかった、ここから東海道だ!」と感激。
坂を下ろうとして、のぞき込んだら、びっくり、びっくり!
「えっ、この無茶苦茶急な坂を降りるの?」
なにかにつまづいたら、落下して大けがをする坂だった。東海道を長い距離歩いてきた。今までの東海道には、こんなきつい下り坂はなかったので、驚いた。
「箱根八里は馬でも越すが・・・」と、歌われているが、この坂を馬は越せない! 人は馬から降りるはずだ、と私は思った。
挟石坂を下って行ったところに、箱根本陣跡(箱根ホテルの位置)があり、箱根関所があった。復元された関所は芦ノ湖湖畔にあった。十分に見学時間が取れたので、江戸時代の関所の様子を想像することができた。
日が暮れ始めたので、宿泊予定のホテルを探すことにした。有名な杉並木を通過して、しばらくの間ホテル目指して登っていった。そこは、旧東海道から少し離れた場所だったが、予約しておいたホテルに到着できた。
ホテルの窓から芦ノ湖が見えた。一人で宿泊しているのは私だけであった。他の客は二人連ればかりだった。
風呂に入って、疲れた足腰をよく揉んで、明日に備えた。
本日、東海道歩き旅の最難関「箱根峠越え」は突破した。今夜の心は爽快だった。
明日は小田原宿への下り道。
箱根への入口 いよいよ坂道が続きそうだ。富士山が左手に見られるのであろう。街道図には坂の名前が書かれていた。
箱根旧街道から眺めた富士山 午前中はくっきり見えていた。午後には・・・
箱根 石畳道 京からスタートした東海道歩き旅で、石畳道の総距離は一番長かった。江戸時代に造られた石畳道も一部あった。長い年月をかけて、石畳道が整備されていったようだ。
「雲助」の墓 箱根街道そのものにあった。雲助(くもすけ)とは、江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに 携わった人足のこと。蜘蛛助と書くこともある。(ほとんどはまじめな強力たちだったが、中には人気のない暗い所へ連れて行って悪いことをしたヤツがいたようだ。)
説明書きによると、この墓の「雲助」は、元武士だったようだが、酒で失敗し転落の人生を歩んだようだ。しかし、読み書きができる教養人で、読み書きができない多くの雲助仲間から慕われていたとのことである。死後、世話になった雲助仲間たちが墓を建てたと説明されていた。墓石から、かなり酒が好きだったことが分かる。珍しい墓石だったので、パチリ。
笹竹のトンネルのような箇所があった。この道も、東海道(箱根街道)の一部
この坂道を探すのに苦労しました。箱根峠に近い坂(箱根峠からは下り坂に)
無茶苦茶きつい下り坂だった。この階段のような坂は殿様も歩いたに違いない。
箱根関所 復元された建物 位置は江戸時代と同じで、芦ノ湖に面していた。
芦ノ湖
東海道・箱根 杉並木 元和4年(1618年)植栽の杉並木
江戸時代なら、こんな心配はなかったであろうが、現代は車の量が多い時代なので、「歩き旅」においては、気を付けて歩かなければならなかった。国道1号線は箱根周辺ではカーブが多い。だから車が見えにくい。時々だが、横断の危険さを意識させられた。
いよいよ箱根峠へ。坂道(石畳道)が連続するようになった。
臼転坂(臼が転がるほどの坂)・大時雨坂・小時雨坂・こわめし坂(急坂のため、背負った米が汗と熱でこわめしになったということから名付けられた)・上長坂(かみなりさか)と、坂の連続であった。
旧東海道の石畳道を歩いていけばコースを間違うはずがないので安心できた。結構長い石畳道であった。ところが、工事中で通行止めになっていた箇所があった。「まいったなあ!」と地図を見直した。国道1号線を歩くしか方法がなかった。歩道らしきものがない国道1号線を猛スピードで走っていく車にひかれないように国道の端を歩いた。怖かったですね。カーブが多くて、草が覆いかぶさっていて、端を安全に歩くことが難しかった。
芭蕉句碑(=霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き)の建てられていた富士見平。富士見平という場所は東海道の中でも富士山が美しく見えるところらしい。私も松尾芭蕉と同じく、この時間帯(昼頃)は、富士山に雲(または霧)がかかって見ることができなかった。今日の午前中は見えていたのに…。松尾芭蕉も残念な思いをしたようだ。句にその思いが表現されている。「面白き」なんて、表現しているところが、松尾芭蕉らしい。しかし、見たかったに違いない。私も富士見平からの富士山を実際に見てみたい! 「薩埵峠からの富士山を見てみたい」という思いは今もある。同じように、「富士見平」からの富士山も見てみたいものだ!
富士山は見えなかったが、お腹がすいていたので「富士見平」にある古いレストランで昼食をとった。このレストランにはマイッタ!
肉野菜定食を注文したのだが、(客が少ないにもかかわらず)40分ほど待たされた。大阪なら「こんなに客を待たせるレストランはすぐにつぶれてしまうだろう」と思った。10分程度待ったら食べられるだろうと思っていたので・・・イライラ、イライラ。早く昼食を終えて歩きたいのに!! 人間、「食事の待ち時間」の我慢の限界は30分だろう。と、私は思っているが、世間ではどうなんだろう?
40分経過したとき、やっと「肉野菜定食」を食べ始めることができた。大急ぎで腹の中へ…。もうこの店には入らないぞ! プンプン!
不思議なのは、結構古いレストランで、つぶれそうではないこと。こんなに客を待たせても、リピーターがいる様子なのだ。
私(関西人)がせっかちで、関東の人はせっかちではないのかな? はて?
歩き旅の遅れを取り戻そうと早足で歩きだした。箱根峠がだんだん近づくところに、「山中城跡」があった。箱根の観光名所の一箇所であり、駐車場も広かった。「歩き旅」をしている人は私ともう一人ぐらいかな? 観光客のほぼ全員、ドライブの途中らしい。
山中城は石垣を築かない山城で、北条方の出城。豊臣秀吉の攻撃に遭い、半日で落城したとのこと。たった半日で。
現在、その城跡が史跡公園となっていて、平日なのに観光客が多かった。
半日で落城した城跡を見学したくなって、時間をとった。遊歩道の一番奥まで行ってみた。天守閣はもちろんなかったが、城跡の台地から、富士山の頭だけが見えた。「山中城の天守閣からの富士山は、さぞ絶景であっただろう」と独り言。
近くにいた観光客が「何にも見えないわね」と言っているのが耳に入った。
そこで、その老夫婦のところへ近づいて、「富士山の頭だけがほんの少しだけ見えていますよ。」と指さした。
「えっ、あれが富士山ですか? ありがとうございます。教えていただかなかったら、わかりませんでした。」と感謝された。
富士山、見えるときは一瞬の時がある。
それを見ているのに、見えていない(認識できていない)ことは、結構あるものです。
人生、誰かに教えてもらうことも、場合によっては必要でしょう。
(ここから続きです)
山中城跡見学後、箱根峠を目指した。まだまだ上り坂が続いた。ある地点は一軒の農家庭先が「東海道」であった。「この庭の一部が本当に東海道?」と驚いた。幅50cmぐらいの道を20mほど歩いたら、幅2mぐらいの石畳道につながっていた。
坂道を登りきったところに、「箱根峠」の標識があった。
「やった!」
「箱根峠に到着したら、箱根関所まで約3㎞足らずだ。それも、下りになるはずだ」と、地図を確認した。下りは楽だろう、とホット一息ついた。
ところが、箱根峠付近はアスファルトの国道や県道が重なるように交差していて、箱根街道(東海道)がどの道なのか、わかりにくい。地図を見ても、さっぱりわからなかった。石畳道があれば、「東海道」に間違いはないのだが…。どこなんだろう? あれ? あれ?
勘を頼りに、近くにあるゴルフ場への道を歩き始めた。しかし、なんとなく、おかしいぞ? ちがうようだ。国道1号線から遠ざかっているらしい。国道1号線らしい道を探そう。と、歩き出したら、案内看板があったのだ。「挟石(はさみいし)坂」という標識が国道(または県道かな?)の端に建てられていた。「よかった、ここから東海道だ!」と感激。
坂を下ろうとして、のぞき込んだら、びっくり、びっくり!
「えっ、この無茶苦茶急な坂を降りるの?」
なにかにつまづいたら、落下して大けがをする坂だった。東海道を長い距離歩いてきた。今までの東海道には、こんなきつい下り坂はなかったので、驚いた。
「箱根八里は馬でも越すが・・・」と、歌われているが、この坂を馬は越せない! 人は馬から降りるはずだ、と私は思った。
挟石坂を下って行ったところに、箱根本陣跡(箱根ホテルの位置)があり、箱根関所があった。復元された関所は芦ノ湖湖畔にあった。十分に見学時間が取れたので、江戸時代の関所の様子を想像することができた。
日が暮れ始めたので、宿泊予定のホテルを探すことにした。有名な杉並木を通過して、しばらくの間ホテル目指して登っていった。そこは、旧東海道から少し離れた場所だったが、予約しておいたホテルに到着できた。
ホテルの窓から芦ノ湖が見えた。一人で宿泊しているのは私だけであった。他の客は二人連ればかりだった。
風呂に入って、疲れた足腰をよく揉んで、明日に備えた。
本日、東海道歩き旅の最難関「箱根峠越え」は突破した。今夜の心は爽快だった。
明日は小田原宿への下り道。
箱根への入口 いよいよ坂道が続きそうだ。富士山が左手に見られるのであろう。街道図には坂の名前が書かれていた。
箱根旧街道から眺めた富士山 午前中はくっきり見えていた。午後には・・・
箱根 石畳道 京からスタートした東海道歩き旅で、石畳道の総距離は一番長かった。江戸時代に造られた石畳道も一部あった。長い年月をかけて、石畳道が整備されていったようだ。
「雲助」の墓 箱根街道そのものにあった。雲助(くもすけ)とは、江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに 携わった人足のこと。蜘蛛助と書くこともある。(ほとんどはまじめな強力たちだったが、中には人気のない暗い所へ連れて行って悪いことをしたヤツがいたようだ。)
説明書きによると、この墓の「雲助」は、元武士だったようだが、酒で失敗し転落の人生を歩んだようだ。しかし、読み書きができる教養人で、読み書きができない多くの雲助仲間から慕われていたとのことである。死後、世話になった雲助仲間たちが墓を建てたと説明されていた。墓石から、かなり酒が好きだったことが分かる。珍しい墓石だったので、パチリ。
笹竹のトンネルのような箇所があった。この道も、東海道(箱根街道)の一部
この坂道を探すのに苦労しました。箱根峠に近い坂(箱根峠からは下り坂に)
無茶苦茶きつい下り坂だった。この階段のような坂は殿様も歩いたに違いない。
箱根関所 復元された建物 位置は江戸時代と同じで、芦ノ湖に面していた。
芦ノ湖
東海道・箱根 杉並木 元和4年(1618年)植栽の杉並木
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2016/10/17
「東海道53次歩き旅(13回目)吉原宿~小田原宿(2泊3日)二日目前半」 東海道53次歩き旅
10月12日(火)朝食を済ませた後、歩き旅を開始。6㎞ほど先の三島宿を目指した。見学時間を入れて、今日は(いつものペースの)時速3㎞で歩く予定。時速4㎞では「見学する余裕のない」歩き旅になってしまう。見学しながらの旅こそ、歩き旅の醍醐味である。
沼津宿からスタートして「沼津日枝の一里塚(江戸・日本橋から30里目)の跡」があった。その地の近くに「玉砥石」が置かれていた。モニュメントではなく、実際に玉磨きに使っていた砥石とのことだった。古墳時代に使われていた砥石との説明書きがあった。玉(=原石が美しい勾玉や宝石)にするために砥石を使ったようである。岩のような砥石には溝の部分があり、その溝をうまく利用して磨いている。砥石にその磨き跡が残っていた。
私は包丁を時々砥石で研ぐ。砥石にはいろいろあって、磨きのプロは砥石にこだわる。高価な砥石なら、何百万円もするようだ。もっとも、私の使っている砥石は安価である。包丁を研ぐときに砥石に世話になっているので、「古墳時代に使われていた砥石」を目にした時、感動しましたね。「おおっ、これが古墳時代に使われていた砥石なのだ!」と。
玉砥石に感動する旅人は少ないだろう。歩き旅での「感動の出会い」は、人それぞれ。
三島宿に到着するまでのコースから、富士山が見えた。「今日は見えるんだ! 3日間とも見られないかも・・・と、思っていたが・・・よかった。やっぱり富士山は見える方がいい」と満足して眺めた。
三島宿中心地(樋口本陣跡)に到着したのは、午前9時前であった。ホテルをスタートしたのは午前7時だったので、予定通りの「時速3㎞」の歩行であった。見学時間を入れての歩き旅としては、「マイペース」であった。三島市の中心には「三嶋神社」がある。大きな神社である。その前は東海道であった。参勤交代ではどの大名も参拝したことであろう。
三島宿の「東見付跡」(宿の東の出入り口)を過ぎると、箱根旧街道入口道標があった。いよいよ箱根峠➡箱根関所への歩き旅の佳境だ。
「箱根八里(約32㎞)は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川・・・」という歌が、心に響き始めていた。いよいよ箱根越えだ!
古墳時代・玉を磨いた砥石 縦にいくつかの溝がある
富士山 くっきり(送電線が邪魔だが)
一里塚
本陣跡(この掲示物だけだった)
沼津宿からスタートして「沼津日枝の一里塚(江戸・日本橋から30里目)の跡」があった。その地の近くに「玉砥石」が置かれていた。モニュメントではなく、実際に玉磨きに使っていた砥石とのことだった。古墳時代に使われていた砥石との説明書きがあった。玉(=原石が美しい勾玉や宝石)にするために砥石を使ったようである。岩のような砥石には溝の部分があり、その溝をうまく利用して磨いている。砥石にその磨き跡が残っていた。
私は包丁を時々砥石で研ぐ。砥石にはいろいろあって、磨きのプロは砥石にこだわる。高価な砥石なら、何百万円もするようだ。もっとも、私の使っている砥石は安価である。包丁を研ぐときに砥石に世話になっているので、「古墳時代に使われていた砥石」を目にした時、感動しましたね。「おおっ、これが古墳時代に使われていた砥石なのだ!」と。
玉砥石に感動する旅人は少ないだろう。歩き旅での「感動の出会い」は、人それぞれ。
三島宿に到着するまでのコースから、富士山が見えた。「今日は見えるんだ! 3日間とも見られないかも・・・と、思っていたが・・・よかった。やっぱり富士山は見える方がいい」と満足して眺めた。
三島宿中心地(樋口本陣跡)に到着したのは、午前9時前であった。ホテルをスタートしたのは午前7時だったので、予定通りの「時速3㎞」の歩行であった。見学時間を入れての歩き旅としては、「マイペース」であった。三島市の中心には「三嶋神社」がある。大きな神社である。その前は東海道であった。参勤交代ではどの大名も参拝したことであろう。
三島宿の「東見付跡」(宿の東の出入り口)を過ぎると、箱根旧街道入口道標があった。いよいよ箱根峠➡箱根関所への歩き旅の佳境だ。
「箱根八里(約32㎞)は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川・・・」という歌が、心に響き始めていた。いよいよ箱根越えだ!
古墳時代・玉を磨いた砥石 縦にいくつかの溝がある
富士山 くっきり(送電線が邪魔だが)
一里塚
本陣跡(この掲示物だけだった)
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2016/10/13
「東海道53次歩き旅(13回目)吉原宿~小田原宿(2泊3日)一日目」 東海道53次歩き旅
歩き旅記録をまとめる前に一言。
10月13日午後10時過ぎ、足に豆ができましたが、無事帰宅しました。疲れましたね。
3日間で、60㎞以上歩きました。今回の箱根峠越えは一番きつかったです。やはり箱根の関所は(江戸時代には)重要な検問所だったのだと認識できました。
(今夜は疲れているので、後日ぼちぼちとまとめます。)
ここからが歩き旅の記録です。
10月11日(火)、東海道53次歩き旅(13回目)をスタート。いつものように早朝5時に起床して、家を出た。今回は箱根峠を越えるので、二泊することにした。
吉原宿まで到達しているので、その続きの東海道を歩くコース。
吉原宿➡原宿➡沼津宿(一泊目)➡三島宿➡箱根宿(二泊目)➡小田原宿
小田原駅からJR東海道線の普通列車(快速も利用)で帰ってきた。何度も列車を乗り継がねばならず、帰りは行き以上に長く乗ったので(遠くなったので)疲れました。
一日目に歩くことができる時間は限られている。吉原駅に到着できたのは、午後1時15分であった。駅から東海道へ出て、「歩き旅」を再スタートしたのは午後1時30分であった。
秋分の日が過ぎ、日没が早くなってきた。午後5時ごろには沼津に予約してあるビジネスホテルに到着したい。そのためには約16kmの行程を3時間半で歩く必要があった。時速4㎞では遅いことになる。もう少し早く歩かなければ、5時には到着できないから。
時速5㎞の歩行を続けることはたいへんである。休憩を少し入れながら、見学時間はごくわずかにすることにした。
「東海道歩き旅」の再スタート地点はずいぶん遠くなったものだ。江戸が近づいてきた証拠である。普通と快速列車だけの利用で「吉原駅」までは時間がかかった。
早朝5時51分の堺市駅発の列車に乗った。数回乗り継いで「吉原駅」に到着。列車の中での思いは「早く歩きたいなあ!」だった。それにしても、遠くまでやってきたものだ。秋の青春18切符(正式名・秋の乗り放題パス=7710円で3日間乗り放題)利用なので、到着まで時間がかかるということは覚悟していた。
それにしても「スタートした日」に東海道を歩ける時間・距離はかなり少なくなってきた。日没までにはホテルに入りたい。以前、名古屋市内のホテル探しで夜だったために苦労したから。(ちなみに、私はスマホを持っていない。紙の地図利用で毎回ホテルを探している。スマホの地図利用なら便利だろうが…、私は使わない。携帯はガラケーのままの生活を続けている。)
(*ここから続きです)
吉原駅から出たとき、「懐かしいなあ!」と思った。春、3月26日に東海道歩き旅をこの宿で終えてから、約6か月余り経っていたからであろう。青春18切符が使える夏休みは「東海道歩き旅」を休止していた。久しぶりの歩き旅。それにしても長い長い鈍行列車乗車時間であった。
「さあ、歩くぞ! それも早歩きだ!」と気合を入れた。とりあえず、吉原宿の次の宿場、「原宿」を目指した。
吉原宿と沼津宿の間に、東海道53次の「原宿」がある。江戸時代の初めごろに、「原町」の地に宿場ができ、宿場町となった「原宿」。
「原宿」は東西2.2㎞もある長い宿であった。現在、その名残の建物はまったくなかった。見学する建物もなく、ひたすら時間を気にしながら速足で歩いた。「東木戸跡」の碑をカメラに収めた。
JR原駅周辺からの富士山の眺めは素晴らしいようだが、この日は富士山がまったく見えなかった。残念。富士山は「あえて見にいこうと出かければ、残念ながら見られない」ことが多い山だ。富士山眺望は、明日に期待することにした。
沼津宿に到着。見学すべき建物は何もなく、本陣や脇本陣などの「跡」の碑ばかりであった。沼津城跡は公園になっていた。
日没までにはホテルに到着できなかったが、日没直後らしく、沼津の町は真っ暗ではなかったので、うろうろせずに予約していたビジネスホテルを探すことができた。ホテルに荷物を置いて、ホテル近くのレストランで夕食。疲れた足を風呂に入って、しっかりもんだ。ほとんど休まずの、約4時間の歩行だった。さて、明日は早朝から夕方まで歩けるぞ!
吉原宿と沼津宿の間に、東海道53次の「原宿」がある。ここ「原町」の地に東海道の宿場ができ、宿場町として栄えていった。 東京の「原宿」と関係があるだろうと、勘違いした私。調べてみたら、特に関係がありませんでした。(昨日、東京・原宿の地名の由来について、このブログに記入した内容は、私の勘違いで間違いでした。)
「原宿」は東西2.2㎞もある長い宿であった。現在、その名残の建物はまったくなかった。見学する建物もなく、ひたすら時間を気にしながら速足で歩いた。「東木戸跡」の碑をカメラに収めた。
沼津宿に到着。日没直後、やや明るいうちにホテルに入れた。
見学すべき建物は何もなく、「跡」の碑ばかりであった。沼津城跡は公園になっていた。
10月13日午後10時過ぎ、足に豆ができましたが、無事帰宅しました。疲れましたね。
3日間で、60㎞以上歩きました。今回の箱根峠越えは一番きつかったです。やはり箱根の関所は(江戸時代には)重要な検問所だったのだと認識できました。
(今夜は疲れているので、後日ぼちぼちとまとめます。)
ここからが歩き旅の記録です。
10月11日(火)、東海道53次歩き旅(13回目)をスタート。いつものように早朝5時に起床して、家を出た。今回は箱根峠を越えるので、二泊することにした。
吉原宿まで到達しているので、その続きの東海道を歩くコース。
吉原宿➡原宿➡沼津宿(一泊目)➡三島宿➡箱根宿(二泊目)➡小田原宿
小田原駅からJR東海道線の普通列車(快速も利用)で帰ってきた。何度も列車を乗り継がねばならず、帰りは行き以上に長く乗ったので(遠くなったので)疲れました。
一日目に歩くことができる時間は限られている。吉原駅に到着できたのは、午後1時15分であった。駅から東海道へ出て、「歩き旅」を再スタートしたのは午後1時30分であった。
秋分の日が過ぎ、日没が早くなってきた。午後5時ごろには沼津に予約してあるビジネスホテルに到着したい。そのためには約16kmの行程を3時間半で歩く必要があった。時速4㎞では遅いことになる。もう少し早く歩かなければ、5時には到着できないから。
時速5㎞の歩行を続けることはたいへんである。休憩を少し入れながら、見学時間はごくわずかにすることにした。
「東海道歩き旅」の再スタート地点はずいぶん遠くなったものだ。江戸が近づいてきた証拠である。普通と快速列車だけの利用で「吉原駅」までは時間がかかった。
早朝5時51分の堺市駅発の列車に乗った。数回乗り継いで「吉原駅」に到着。列車の中での思いは「早く歩きたいなあ!」だった。それにしても、遠くまでやってきたものだ。秋の青春18切符(正式名・秋の乗り放題パス=7710円で3日間乗り放題)利用なので、到着まで時間がかかるということは覚悟していた。
それにしても「スタートした日」に東海道を歩ける時間・距離はかなり少なくなってきた。日没までにはホテルに入りたい。以前、名古屋市内のホテル探しで夜だったために苦労したから。(ちなみに、私はスマホを持っていない。紙の地図利用で毎回ホテルを探している。スマホの地図利用なら便利だろうが…、私は使わない。携帯はガラケーのままの生活を続けている。)
(*ここから続きです)
吉原駅から出たとき、「懐かしいなあ!」と思った。春、3月26日に東海道歩き旅をこの宿で終えてから、約6か月余り経っていたからであろう。青春18切符が使える夏休みは「東海道歩き旅」を休止していた。久しぶりの歩き旅。それにしても長い長い鈍行列車乗車時間であった。
「さあ、歩くぞ! それも早歩きだ!」と気合を入れた。とりあえず、吉原宿の次の宿場、「原宿」を目指した。
吉原宿と沼津宿の間に、東海道53次の「原宿」がある。江戸時代の初めごろに、「原町」の地に宿場ができ、宿場町となった「原宿」。
「原宿」は東西2.2㎞もある長い宿であった。現在、その名残の建物はまったくなかった。見学する建物もなく、ひたすら時間を気にしながら速足で歩いた。「東木戸跡」の碑をカメラに収めた。
JR原駅周辺からの富士山の眺めは素晴らしいようだが、この日は富士山がまったく見えなかった。残念。富士山は「あえて見にいこうと出かければ、残念ながら見られない」ことが多い山だ。富士山眺望は、明日に期待することにした。
沼津宿に到着。見学すべき建物は何もなく、本陣や脇本陣などの「跡」の碑ばかりであった。沼津城跡は公園になっていた。
日没までにはホテルに到着できなかったが、日没直後らしく、沼津の町は真っ暗ではなかったので、うろうろせずに予約していたビジネスホテルを探すことができた。ホテルに荷物を置いて、ホテル近くのレストランで夕食。疲れた足を風呂に入って、しっかりもんだ。ほとんど休まずの、約4時間の歩行だった。さて、明日は早朝から夕方まで歩けるぞ!
吉原宿と沼津宿の間に、東海道53次の「原宿」がある。ここ「原町」の地に東海道の宿場ができ、宿場町として栄えていった。 東京の「原宿」と関係があるだろうと、勘違いした私。調べてみたら、特に関係がありませんでした。(昨日、東京・原宿の地名の由来について、このブログに記入した内容は、私の勘違いで間違いでした。)
「原宿」は東西2.2㎞もある長い宿であった。現在、その名残の建物はまったくなかった。見学する建物もなく、ひたすら時間を気にしながら速足で歩いた。「東木戸跡」の碑をカメラに収めた。
沼津宿に到着。日没直後、やや明るいうちにホテルに入れた。
見学すべき建物は何もなく、「跡」の碑ばかりであった。沼津城跡は公園になっていた。