2017/4/13
「東海道53次歩き旅(15回目・最終回)保土ヶ谷宿~江戸日本橋・ゴール地点(2泊3日)三日目・最終日」 東海道53次歩き旅
2017年4月3日、東海道53次歩き旅の最終日を迎えた。3年がかりの「京都三条大橋→お江戸日本橋・東海道53次歩き旅」。そのラストウォークの日になった。
スタートは「品川宿」。もう、次の宿場はない。お江戸日本橋・ゴールを目指して歩いていくのみである。
昨夜(4月2日)、関東にお住いの友人「柏獅子」さんに、午前10時ごろに日本橋(日本国道路元標のある地点)に到着できることをお知らせすることができた。
朝、歩き旅のスタートは7時30分だった。品川宿から日本橋までの距離は約2里(8km)ある。あまりにもゆっくりだと、10時に到着できないので、それなりに急ぎ足で歩きだした。
道(旧東海道)はわかりやすかった。「銀座・日本橋」への標示は大きな交差点では必ず目についた。
(そうか・・・銀座通りも旧東海道の一部だったのだ!)と、認識した。
東京のことを詳しく知らないので、興味津々だった。
まず興味深かったのは、「高輪大木戸跡」の石垣だった。立派な石垣が残されていた。人の背丈の倍以上の高さがあった木戸(宿場などの出入り口)。さすが、「江戸へ入る」または「江戸から出る」場所としての「木戸」=「大木戸」だ。
木戸は治安維持のため、夜は閉められた。
伊能忠敬はこの「大木戸」を全国測量の起点としたとのことである。起点は日本橋ではなかったのだ。この大木戸には「伊能忠敬地図の歴史」が関係していたのだ。
この大木戸跡に感動して、カメラに収めているのは私一人。道行く人はみなさん出勤で忙しい。サラリーマンたちは誰一人この石垣に関心を持つ者はいない。みんな、さっさ、さっさと、早足。
人が途切れるのを待って、カメラでパチリ。
しばらく行くと、またまた興味ある所に…。
住友不動産三田ツインビル西館の敷地奥に「元和キリシタン遺跡」があった。それは、小高い丘の中腹にあった。
住友不動産ビルの中にものすごい数の社員たちが列をなして入っていく。それに対して、私一人だけが、丘の中腹を目指して階段を昇っていく・・・。まるで、社長がゆっくりと会社の敷地を散歩するがごとく・・・。(皆さん、ご苦労さん!)
「元和キリシタン遺跡」について。
3代将軍、徳川家光は元和(げんな)9年=1623年、この丘の中腹で50名のキリスト教徒を処刑した。東海道から処刑場所がよく見えることになる。まさに「見せしめのための処刑地」だったのだ。
宣教師や日本人キリスト教徒たちが、元和の時代以後もここで処刑されている。
東京都には、旧東海道に面した処刑地として、「鈴ヶ森刑場跡」と「元和キリシタン遺跡」がある。あえて、東海道に面した場所を選んだのであろう。
さらに歩を進めると、歴史を感じさせる地があった。
三菱自動車のビルの前に「西郷・勝会見の碑」があった。江戸時代、薩摩藩蔵屋敷があった場所で、江戸無血開城の話し合いが行われている。歴史ある地である。
この碑の写真を撮るのに苦労した。人通りが多くて途切れる時間がほとんどなかったからだ。午前8時15分になんとか人が途切れた。そこで、パチリ。
「芝4丁目」の交差点を過ぎると浜松町」に入った。そして、JR新橋駅の下をくぐって進むと、銀座8丁目に至った。(銀座は8丁目まであるのだ)と、感心した。(さて、「金座」はどこだろう?)
銀座8丁目の信号機近くに、「銀座柳の碑」が設置されていた。一昔前まで、銀座には柳の木が植えられていた。それが、今ではほとんどなくなり、見つけるのに苦労した。「銀座柳の碑」の横にしっかりとした柳(二世)が育っていた。
銀座2丁目に「銀座発祥の地」という碑があるのだが、ほんとうに東京の銀座が「銀座発祥の地」だと言えるのだろうか?
堺市民である私から、「異議あり!」と声を上げる。
「金貨鋳造所=金座」・「銀貨鋳造所=銀座」・「銅貨鋳造所=銅座」 であるならば、「銀貨鋳造所」が日本で初めてできた場所は「堺」なのである。堺にある「銀座」こそ、まさに「銀座発祥の地」なのだ。
江戸時代以前から堺に銀貨鋳造所=銀座があった。その地は、現在「堺東銀座通り」として、にぎわっている。銀貨鋳造所は、その当時「灰吹銀(はいふきぎん)」を扱う技能集団たちによる【南鐐座=なんりょうざ】であった。この南鐐座のあった地こそ、「銀座発祥地」だという観点から、「異議あり」なのである。
江戸時代になり、堺の銀職人たちは強制的に江戸に移住させられ、銀貨鋳造所職人として働いた。職人たちは、堺が恋しくなったことであろう。堺に帰りたい思いもあったであろう。しかし、幕府は希望を叶えなかった。
その代わり、江戸時代に「堺銀座=南鐐座」あたりに植えられていた柳の木(現在、堺市の市木)を見れば心が和むことであろう、と江戸の銀座に「柳」を植えたのである。
東京の銀座の柳には、その歴史が絡んでいる。都民の多く方々は、おそらく歴史的背景をご存知ではないだろうが・・・。
「銀座の柳の木々」は堺から移住させられた「銀職人たちの心を慰める木々」として植えられたのであった。今回、そういう思いで、二世の柳をしげしげと見たのだった。
「銀座柳の碑」や「銀座発祥地碑」が、銀座通りに設置されている点について、(私にとって)いろいろ考えさせられるきっかけになった。
ちなみに江戸時代の「金座」があった場所は、現在(金座1丁目などと)町名にはならず、「日本銀行本店」設置場所になっている。(ということを、何かの本で読んだ。) たぶん、事実であろう。
「金座」(がつく場所)は全国にごくごくわずか。しかし、「銀座」がつくところは全国に約600あるそうだ。
東京の銀座の影響力のすごさであろう。そういう観点からすると、東京が「銀座発祥の地」かもしれない。堺の「銀座」は力不足である。
銀座を過ぎたところに「京橋」があり、京橋を過ぎた地点にゴールの日本橋が見えていた。
いよいよゴールであった。やったー! 到着だ!
以下、【4月4日のブログ】をコピーしてまとめとしました。
2017年4月3日午前10時、『東海道53次歩き旅』、ついに「お江戸日本橋」に到着できました。
ラストウォークは4月1日出発し、2泊3日で「保土ヶ谷宿~お江戸日本橋」の行程を歩きました。
日本橋においては、関東在住友人の「柏獅子」さんが迎えてくださいました。柏獅子さんは、日本を代表する商事会社・三菱商事に勤務されていた方で、日本の高度成長を支えて活躍された方です。私の高校時代(国立詫間電波高等学校=現・香川高専詫間キャンパス)からの友人で、現在千葉県柏市にお住まいです。
その柏獅子さんが、わざわざ日本橋まで迎えに来てくださり、感謝感激した次第です。
そして、認定証「東海道五十三次完歩」を授与していただきました。認定証の文脈を読ませていただき、目頭が熱くなりました。
私のことを「こんなふうに思っていてくださったのだなあ」と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。昼食をごちそうしていただき、さらに「完歩記念」にと、お祝いまでくださいました。
70歳以前に完歩できたことを、「人生の記念・区切り」の一つに加えました。
自分一人だけで達成できたのではなく、妻の応援や友人たちからの声援あってのおかげだと感謝しております。この場で、改めてお礼申し上げます。
「完歩できて、良かったね!」
と、帰宅したとき、妻が喜んでくれました。柏獅子さんからの認定証を見せると、大変喜んでくれました。ほんとうに、喜びは一人よりも二人、三人と・・・「ともに喜ぶこと」で、喜びは大きくなるものですね。
客観的には、ささやかな行動、もうすぐ69歳になる前期高齢者の「500㎞歩き旅完歩」達成ですが、うれしいものです。
皆さんに感謝。
完
高輪大木戸跡(石垣がしっかり残っていた。)
元和キリシタン遺跡
住友不動産三田ツインビル西館敷地内 丘陵地中腹への階段が見える。
東京の中心部に広い敷地があり、その中に遺跡も保存されていた。
「西郷南洲・勝海舟会見之地」碑
いよいよ銀座まで2km 日本橋まで4㎞地点になった
「銀座の柳」碑
二世の柳の幹が太くなっていた。
「銀座発祥の地」碑
ヤンヨーステン像
ヤンヨーステンとは、1600年、ウイリアム・アダムス(三浦按針)と共にリーフデ号で豊後に漂着、海賊の嫌疑をかけられたが、徳川家康に救われた。彼らは、徳川家康の外交顧問に抜擢され、江戸幕府のために働いた。ヤンヨーステンは、和名を「耶楊子(やようす)」と呼ばれ、住居も与えられた。その住居があった場所が、現在の東京駅「八重洲口」近辺である。八重洲という地名は、ヤンヨーステン(やようす)が語源。都民はどれぐらいこの歴史を知っておられるのだろうか? 江戸時代は地名にも息づいている…。
日本橋が見えたぞ!
日本橋のど真ん中、車道に「日本国道路元標」が埋め込まれていた。交通量の多い車道なので、カメラで撮ることしかできなかった。
日本国道路元標(複製)に手を置いている鬼井江
スタートは「品川宿」。もう、次の宿場はない。お江戸日本橋・ゴールを目指して歩いていくのみである。
昨夜(4月2日)、関東にお住いの友人「柏獅子」さんに、午前10時ごろに日本橋(日本国道路元標のある地点)に到着できることをお知らせすることができた。
朝、歩き旅のスタートは7時30分だった。品川宿から日本橋までの距離は約2里(8km)ある。あまりにもゆっくりだと、10時に到着できないので、それなりに急ぎ足で歩きだした。
道(旧東海道)はわかりやすかった。「銀座・日本橋」への標示は大きな交差点では必ず目についた。
(そうか・・・銀座通りも旧東海道の一部だったのだ!)と、認識した。
東京のことを詳しく知らないので、興味津々だった。
まず興味深かったのは、「高輪大木戸跡」の石垣だった。立派な石垣が残されていた。人の背丈の倍以上の高さがあった木戸(宿場などの出入り口)。さすが、「江戸へ入る」または「江戸から出る」場所としての「木戸」=「大木戸」だ。
木戸は治安維持のため、夜は閉められた。
伊能忠敬はこの「大木戸」を全国測量の起点としたとのことである。起点は日本橋ではなかったのだ。この大木戸には「伊能忠敬地図の歴史」が関係していたのだ。
この大木戸跡に感動して、カメラに収めているのは私一人。道行く人はみなさん出勤で忙しい。サラリーマンたちは誰一人この石垣に関心を持つ者はいない。みんな、さっさ、さっさと、早足。
人が途切れるのを待って、カメラでパチリ。
しばらく行くと、またまた興味ある所に…。
住友不動産三田ツインビル西館の敷地奥に「元和キリシタン遺跡」があった。それは、小高い丘の中腹にあった。
住友不動産ビルの中にものすごい数の社員たちが列をなして入っていく。それに対して、私一人だけが、丘の中腹を目指して階段を昇っていく・・・。まるで、社長がゆっくりと会社の敷地を散歩するがごとく・・・。(皆さん、ご苦労さん!)
「元和キリシタン遺跡」について。
3代将軍、徳川家光は元和(げんな)9年=1623年、この丘の中腹で50名のキリスト教徒を処刑した。東海道から処刑場所がよく見えることになる。まさに「見せしめのための処刑地」だったのだ。
宣教師や日本人キリスト教徒たちが、元和の時代以後もここで処刑されている。
東京都には、旧東海道に面した処刑地として、「鈴ヶ森刑場跡」と「元和キリシタン遺跡」がある。あえて、東海道に面した場所を選んだのであろう。
さらに歩を進めると、歴史を感じさせる地があった。
三菱自動車のビルの前に「西郷・勝会見の碑」があった。江戸時代、薩摩藩蔵屋敷があった場所で、江戸無血開城の話し合いが行われている。歴史ある地である。
この碑の写真を撮るのに苦労した。人通りが多くて途切れる時間がほとんどなかったからだ。午前8時15分になんとか人が途切れた。そこで、パチリ。
「芝4丁目」の交差点を過ぎると浜松町」に入った。そして、JR新橋駅の下をくぐって進むと、銀座8丁目に至った。(銀座は8丁目まであるのだ)と、感心した。(さて、「金座」はどこだろう?)
銀座8丁目の信号機近くに、「銀座柳の碑」が設置されていた。一昔前まで、銀座には柳の木が植えられていた。それが、今ではほとんどなくなり、見つけるのに苦労した。「銀座柳の碑」の横にしっかりとした柳(二世)が育っていた。
銀座2丁目に「銀座発祥の地」という碑があるのだが、ほんとうに東京の銀座が「銀座発祥の地」だと言えるのだろうか?
堺市民である私から、「異議あり!」と声を上げる。
「金貨鋳造所=金座」・「銀貨鋳造所=銀座」・「銅貨鋳造所=銅座」 であるならば、「銀貨鋳造所」が日本で初めてできた場所は「堺」なのである。堺にある「銀座」こそ、まさに「銀座発祥の地」なのだ。
江戸時代以前から堺に銀貨鋳造所=銀座があった。その地は、現在「堺東銀座通り」として、にぎわっている。銀貨鋳造所は、その当時「灰吹銀(はいふきぎん)」を扱う技能集団たちによる【南鐐座=なんりょうざ】であった。この南鐐座のあった地こそ、「銀座発祥地」だという観点から、「異議あり」なのである。
江戸時代になり、堺の銀職人たちは強制的に江戸に移住させられ、銀貨鋳造所職人として働いた。職人たちは、堺が恋しくなったことであろう。堺に帰りたい思いもあったであろう。しかし、幕府は希望を叶えなかった。
その代わり、江戸時代に「堺銀座=南鐐座」あたりに植えられていた柳の木(現在、堺市の市木)を見れば心が和むことであろう、と江戸の銀座に「柳」を植えたのである。
東京の銀座の柳には、その歴史が絡んでいる。都民の多く方々は、おそらく歴史的背景をご存知ではないだろうが・・・。
「銀座の柳の木々」は堺から移住させられた「銀職人たちの心を慰める木々」として植えられたのであった。今回、そういう思いで、二世の柳をしげしげと見たのだった。
「銀座柳の碑」や「銀座発祥地碑」が、銀座通りに設置されている点について、(私にとって)いろいろ考えさせられるきっかけになった。
ちなみに江戸時代の「金座」があった場所は、現在(金座1丁目などと)町名にはならず、「日本銀行本店」設置場所になっている。(ということを、何かの本で読んだ。) たぶん、事実であろう。
「金座」(がつく場所)は全国にごくごくわずか。しかし、「銀座」がつくところは全国に約600あるそうだ。
東京の銀座の影響力のすごさであろう。そういう観点からすると、東京が「銀座発祥の地」かもしれない。堺の「銀座」は力不足である。
銀座を過ぎたところに「京橋」があり、京橋を過ぎた地点にゴールの日本橋が見えていた。
いよいよゴールであった。やったー! 到着だ!
以下、【4月4日のブログ】をコピーしてまとめとしました。
2017年4月3日午前10時、『東海道53次歩き旅』、ついに「お江戸日本橋」に到着できました。
ラストウォークは4月1日出発し、2泊3日で「保土ヶ谷宿~お江戸日本橋」の行程を歩きました。
日本橋においては、関東在住友人の「柏獅子」さんが迎えてくださいました。柏獅子さんは、日本を代表する商事会社・三菱商事に勤務されていた方で、日本の高度成長を支えて活躍された方です。私の高校時代(国立詫間電波高等学校=現・香川高専詫間キャンパス)からの友人で、現在千葉県柏市にお住まいです。
その柏獅子さんが、わざわざ日本橋まで迎えに来てくださり、感謝感激した次第です。
そして、認定証「東海道五十三次完歩」を授与していただきました。認定証の文脈を読ませていただき、目頭が熱くなりました。
私のことを「こんなふうに思っていてくださったのだなあ」と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。昼食をごちそうしていただき、さらに「完歩記念」にと、お祝いまでくださいました。
70歳以前に完歩できたことを、「人生の記念・区切り」の一つに加えました。
自分一人だけで達成できたのではなく、妻の応援や友人たちからの声援あってのおかげだと感謝しております。この場で、改めてお礼申し上げます。
「完歩できて、良かったね!」
と、帰宅したとき、妻が喜んでくれました。柏獅子さんからの認定証を見せると、大変喜んでくれました。ほんとうに、喜びは一人よりも二人、三人と・・・「ともに喜ぶこと」で、喜びは大きくなるものですね。
客観的には、ささやかな行動、もうすぐ69歳になる前期高齢者の「500㎞歩き旅完歩」達成ですが、うれしいものです。
皆さんに感謝。
完
高輪大木戸跡(石垣がしっかり残っていた。)
元和キリシタン遺跡
住友不動産三田ツインビル西館敷地内 丘陵地中腹への階段が見える。
東京の中心部に広い敷地があり、その中に遺跡も保存されていた。
「西郷南洲・勝海舟会見之地」碑
いよいよ銀座まで2km 日本橋まで4㎞地点になった
「銀座の柳」碑
二世の柳の幹が太くなっていた。
「銀座発祥の地」碑
ヤンヨーステン像
ヤンヨーステンとは、1600年、ウイリアム・アダムス(三浦按針)と共にリーフデ号で豊後に漂着、海賊の嫌疑をかけられたが、徳川家康に救われた。彼らは、徳川家康の外交顧問に抜擢され、江戸幕府のために働いた。ヤンヨーステンは、和名を「耶楊子(やようす)」と呼ばれ、住居も与えられた。その住居があった場所が、現在の東京駅「八重洲口」近辺である。八重洲という地名は、ヤンヨーステン(やようす)が語源。都民はどれぐらいこの歴史を知っておられるのだろうか? 江戸時代は地名にも息づいている…。
日本橋が見えたぞ!
日本橋のど真ん中、車道に「日本国道路元標」が埋め込まれていた。交通量の多い車道なので、カメラで撮ることしかできなかった。
日本国道路元標(複製)に手を置いている鬼井江
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2017/4/8
「東海道53次歩き旅(15回目・最終回)保土ヶ谷宿~江戸日本橋・ゴール地点(2泊3日)二日目」 東海道53次歩き旅
4月2日、ホテルで朝食をゆっくり取った。そして、一日目歩き旅終了地点に午前8時に到着した。
二日目は、午前8時から歩けるので、気分はゆったりしていた。(今日は歩く距離を稼げそうだ。)
しばらく歩いていると、私鉄の電車がちらっと見えた。地図を見ると、京浜急行電鉄本線の列車であった。「京急子安駅」という表示が見えた。京急に沿うように旧東海道は続いていることが分かった。
「京急新子安駅」近くの道を歩いて行ったところに、「生麦事件」に関する表示があった。その地点は大規模工事が行われていたので、「工事により、『生麦事件碑』は移動しています。」という案内であった。移動先の地図が書かれていたので、その地図を頼りに探してみた。
(生麦事件って、どういう事件なんだろう? 麦に関する事件があったのだろうか?)
浅はかな私は「生麦事件」という事件について、まったく知識がなかった。歴史の時間に学習したのかもしれないが、覚えていなかった。
「生麦事件碑」が見つかり、その説明板をしっかり読んだ。
(えっ、そうなんだ! 生麦(なまむぎ)は地名だったのだ。今歩いている場所は「生麦」で、この地で起こった事件だったのだ。)
説明板によると、
文久2年(1862年)薩摩島津久光の行列を乱したとして、薩摩藩士が英国人リチャードソンら3名を死傷させた事件だった。
この事件が原因で、後に賠償問題のこじれから薩英戦争に発展している。薩摩は英国軍に完敗。その後、長州と同盟を結び、倒幕に突き進む起爆剤になった事件との説明であった。
幕末は江戸時代の終焉に伴って、その引き金になる事件がいろいろあっての「大政奉還」だったのだなあ、と思えた。有名な事件だったのに・・・歴史知識が未熟な私。一つ勉強になりました。
「堺事件」・「生麦事件」の共通点は、どちらも地名がついていること。そして、幕末に起こった「外国人がかかわった事件」である点。堺事件はフランス人で、生麦事件は英国人。
ちなみに、碑の位置は薩摩藩士、海江田武次がリチャードソンのとどめをさした所とのことである。
午前10時を過ぎたころ、京急八丁畷駅近くの踏切を渡ったところに、「芭蕉句碑」があった。
句は、「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」。元禄7年(1694年)、郷里伊賀に帰る途次、見送りの門人とこの地で別れたそうだ。 5か月後、大坂で死去。この別れの時、体力が弱っていたのだろう。なんとなく句の中に、死が近いことが暗示されているようだ。
【ここから、続きです】
川崎宿中心部に「東海道かわさき宿交流館」という4階建ての施設が建設されていた。新しい施設らしく、外観・内部共にきれいだった。こういう施設のある宿はまだ少ないが、川崎市は「東海道」に力を入れ始めたようだ。
4階建ての立派な建物なので、入ってみた。一階は主に休憩所で、2階3階は資料展示コーナー。4階は会議室など地域活動などにも利用できるようになっていた。たぶん、東海道の中では一番の施設だと思った。宿場の街並みの素晴らしさは、関宿だが・・・。
約1時間余り、交流館内におられたボランティアガイドの方の説明を聞いたり、いろいろ工夫された展示を見たりして、「川崎宿」の勉強をさせていただいた。映像などをうまく使って勉強できるので、1時間はあっという間に過ぎた。なかなかの施設だった。東海道に関心のある方には、お薦めの施設ですよ。もちろん、川崎市民の方で、まだ入館されていない方は、機会あれば一度入館してください。川崎市の歴史がよくわかりますよ。
川崎宿中心部(本陣のある所)は説明板のみで、何も残っていなかった。太平洋戦争によって、破壊された街には「歴史的な建物」はほとんど残っていないものですね。堺市もほとんど破壊されてしまいました。東京都や神奈川県も空爆で破壊された市が多いはず。戦争は人間の生活以外に、歴史的文化的遺産も破壊する。
きな臭い事件が多発し、世界中いろいろな国が不安定化している現代。さらに、日本の政治・世相も、おかしな方向へ向かい始めている。世論調査によると、自公政権を支持している人が多いらしい。信じられないデータがテレビや新聞で流される。(私は2000人以下のデータでもって、世論とすることは、危険だと思っているのだが・・・。自公政権の支持が高いということを洗脳するために、マスコミもグルになって行動している気がする。危険な動きだ。)
世論調査のデータとしては、せめて10000人以上のデータを(国民の多くがスマホなどを利用する時代だから)使うべきなのだ。
話が脱線しました。元に戻します。
川崎宿を過ぎたら多摩川(=六郷川)に至る。多摩川の下流を六郷川と言う。六郷川は東京都と神奈川県の境である。旧東海道、川を渡ると東京都大田区だった。(大田区ってここなのだ)と独り言。
東京23区については、ほとんどイメージがわかない。都民は区の特色をある程度イメージしているだろうが、私はさっぱり。
「東京に住みたい」と、一度も思ったことはない私。だから東京都23区に関心はない。
六郷川を渡ってみて、「大田区」をはっきり意識できた。六郷川の河川敷で「ゴルフの打ちっぱなし」を楽しんでいる人の多さに驚いた。(日曜日だったからでしょうか?)
多摩川(六郷川)河川敷は神奈川県民・東京都民らの楽しみの場所なのでしょう。
六郷橋を渡ると、東海道はほぼ単調な直線的道になっていた。京浜急行線が高架になっていた。東海道に沿うように京浜急行の列車が走っていた。道に迷うことはなかった。品川目指して、歩いていけば迷うことはなかった。
品川宿(ホテルを予約している本日の)目的地に到着したのは、午後3時であった。
途中、「梅屋敷跡」(現・梅屋敷公園)で休憩した。3月ごろには、梅の花が咲き誇っていたようだ。梅の木が約100本植えられている。
品川宿までの東海道で、印象に残った場所は「鈴ヶ森刑場跡」だった。慶安4年(1641年)、江戸幕府によって設けられた刑場(仕置場)。まさに、人通りの多い「東海道」に設置された刑場である。仕置きし、さらし、見世物にする。「八百屋お七」・「天一坊」その他・・・江戸時代世間を騒がせた罪人が処刑されている。
こういう場所が江戸の近づくにつれ、歴史をリアルに感じさせてくれる。この刑場で多くの人が処刑されているが、ひょっとしたら、冤罪もあったかもしれない。現在でも冤罪はあるのだから。
予約しているホテルに早く着いたのだが、時間がたっぷりあるので、訪れたことのない「泉岳寺」まで歩いていくことにした。かなり歩いたが、赤穂浪士たちが眠る寺のお墓もジーンときた。不思議に思ったのは、外国人の若い女性がポツンと一人で目をつぶって墓の前で座っていたことでした。何か理由があるのでしょうね…。そういう女性が美しく見えるのは、これまた不思議です。
泉岳寺から品川宿のホテルに戻って、歩き旅(二日目)を終えた。明日は、いよいよゴールの日本橋だ。
生麦事件発生地
生麦事件碑
生麦事件説明板
芭蕉句碑 麦が植えられていて、雰囲気がよかった。
八丁畷駅が近い。畷(なわて)ゆえに、昔は辺鄙なところだったようだ。八丁=約900メートル。人気のない麦畑が直線的に1キロ足らず続いていたところと想像できる。この地で、江戸の弟子たちと永遠の別れをしたのだろう。「麦の穂をたよりに弱弱しい歩み」で大坂方面へ歩いて行ったのだろう。「奥の細道」を歩いたころの体力はもうなかったようだ。
松尾芭蕉忍者説を信じている私。この時の芭蕉は脚力が衰えていて、忍者としての役目はすでに終わっていたのだろう。
梅屋敷跡(現在・公園として都民の憩いの場)
鈴ヶ森刑場跡 後ろにお寺がある。横の道は東海道そのもの
品川宿本陣跡 現在、商店が多く人通りも多い。
泉岳寺
二日目は、午前8時から歩けるので、気分はゆったりしていた。(今日は歩く距離を稼げそうだ。)
しばらく歩いていると、私鉄の電車がちらっと見えた。地図を見ると、京浜急行電鉄本線の列車であった。「京急子安駅」という表示が見えた。京急に沿うように旧東海道は続いていることが分かった。
「京急新子安駅」近くの道を歩いて行ったところに、「生麦事件」に関する表示があった。その地点は大規模工事が行われていたので、「工事により、『生麦事件碑』は移動しています。」という案内であった。移動先の地図が書かれていたので、その地図を頼りに探してみた。
(生麦事件って、どういう事件なんだろう? 麦に関する事件があったのだろうか?)
浅はかな私は「生麦事件」という事件について、まったく知識がなかった。歴史の時間に学習したのかもしれないが、覚えていなかった。
「生麦事件碑」が見つかり、その説明板をしっかり読んだ。
(えっ、そうなんだ! 生麦(なまむぎ)は地名だったのだ。今歩いている場所は「生麦」で、この地で起こった事件だったのだ。)
説明板によると、
文久2年(1862年)薩摩島津久光の行列を乱したとして、薩摩藩士が英国人リチャードソンら3名を死傷させた事件だった。
この事件が原因で、後に賠償問題のこじれから薩英戦争に発展している。薩摩は英国軍に完敗。その後、長州と同盟を結び、倒幕に突き進む起爆剤になった事件との説明であった。
幕末は江戸時代の終焉に伴って、その引き金になる事件がいろいろあっての「大政奉還」だったのだなあ、と思えた。有名な事件だったのに・・・歴史知識が未熟な私。一つ勉強になりました。
「堺事件」・「生麦事件」の共通点は、どちらも地名がついていること。そして、幕末に起こった「外国人がかかわった事件」である点。堺事件はフランス人で、生麦事件は英国人。
ちなみに、碑の位置は薩摩藩士、海江田武次がリチャードソンのとどめをさした所とのことである。
午前10時を過ぎたころ、京急八丁畷駅近くの踏切を渡ったところに、「芭蕉句碑」があった。
句は、「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」。元禄7年(1694年)、郷里伊賀に帰る途次、見送りの門人とこの地で別れたそうだ。 5か月後、大坂で死去。この別れの時、体力が弱っていたのだろう。なんとなく句の中に、死が近いことが暗示されているようだ。
【ここから、続きです】
川崎宿中心部に「東海道かわさき宿交流館」という4階建ての施設が建設されていた。新しい施設らしく、外観・内部共にきれいだった。こういう施設のある宿はまだ少ないが、川崎市は「東海道」に力を入れ始めたようだ。
4階建ての立派な建物なので、入ってみた。一階は主に休憩所で、2階3階は資料展示コーナー。4階は会議室など地域活動などにも利用できるようになっていた。たぶん、東海道の中では一番の施設だと思った。宿場の街並みの素晴らしさは、関宿だが・・・。
約1時間余り、交流館内におられたボランティアガイドの方の説明を聞いたり、いろいろ工夫された展示を見たりして、「川崎宿」の勉強をさせていただいた。映像などをうまく使って勉強できるので、1時間はあっという間に過ぎた。なかなかの施設だった。東海道に関心のある方には、お薦めの施設ですよ。もちろん、川崎市民の方で、まだ入館されていない方は、機会あれば一度入館してください。川崎市の歴史がよくわかりますよ。
川崎宿中心部(本陣のある所)は説明板のみで、何も残っていなかった。太平洋戦争によって、破壊された街には「歴史的な建物」はほとんど残っていないものですね。堺市もほとんど破壊されてしまいました。東京都や神奈川県も空爆で破壊された市が多いはず。戦争は人間の生活以外に、歴史的文化的遺産も破壊する。
きな臭い事件が多発し、世界中いろいろな国が不安定化している現代。さらに、日本の政治・世相も、おかしな方向へ向かい始めている。世論調査によると、自公政権を支持している人が多いらしい。信じられないデータがテレビや新聞で流される。(私は2000人以下のデータでもって、世論とすることは、危険だと思っているのだが・・・。自公政権の支持が高いということを洗脳するために、マスコミもグルになって行動している気がする。危険な動きだ。)
世論調査のデータとしては、せめて10000人以上のデータを(国民の多くがスマホなどを利用する時代だから)使うべきなのだ。
話が脱線しました。元に戻します。
川崎宿を過ぎたら多摩川(=六郷川)に至る。多摩川の下流を六郷川と言う。六郷川は東京都と神奈川県の境である。旧東海道、川を渡ると東京都大田区だった。(大田区ってここなのだ)と独り言。
東京23区については、ほとんどイメージがわかない。都民は区の特色をある程度イメージしているだろうが、私はさっぱり。
「東京に住みたい」と、一度も思ったことはない私。だから東京都23区に関心はない。
六郷川を渡ってみて、「大田区」をはっきり意識できた。六郷川の河川敷で「ゴルフの打ちっぱなし」を楽しんでいる人の多さに驚いた。(日曜日だったからでしょうか?)
多摩川(六郷川)河川敷は神奈川県民・東京都民らの楽しみの場所なのでしょう。
六郷橋を渡ると、東海道はほぼ単調な直線的道になっていた。京浜急行線が高架になっていた。東海道に沿うように京浜急行の列車が走っていた。道に迷うことはなかった。品川目指して、歩いていけば迷うことはなかった。
品川宿(ホテルを予約している本日の)目的地に到着したのは、午後3時であった。
途中、「梅屋敷跡」(現・梅屋敷公園)で休憩した。3月ごろには、梅の花が咲き誇っていたようだ。梅の木が約100本植えられている。
品川宿までの東海道で、印象に残った場所は「鈴ヶ森刑場跡」だった。慶安4年(1641年)、江戸幕府によって設けられた刑場(仕置場)。まさに、人通りの多い「東海道」に設置された刑場である。仕置きし、さらし、見世物にする。「八百屋お七」・「天一坊」その他・・・江戸時代世間を騒がせた罪人が処刑されている。
こういう場所が江戸の近づくにつれ、歴史をリアルに感じさせてくれる。この刑場で多くの人が処刑されているが、ひょっとしたら、冤罪もあったかもしれない。現在でも冤罪はあるのだから。
予約しているホテルに早く着いたのだが、時間がたっぷりあるので、訪れたことのない「泉岳寺」まで歩いていくことにした。かなり歩いたが、赤穂浪士たちが眠る寺のお墓もジーンときた。不思議に思ったのは、外国人の若い女性がポツンと一人で目をつぶって墓の前で座っていたことでした。何か理由があるのでしょうね…。そういう女性が美しく見えるのは、これまた不思議です。
泉岳寺から品川宿のホテルに戻って、歩き旅(二日目)を終えた。明日は、いよいよゴールの日本橋だ。
生麦事件発生地
生麦事件碑
生麦事件説明板
芭蕉句碑 麦が植えられていて、雰囲気がよかった。
八丁畷駅が近い。畷(なわて)ゆえに、昔は辺鄙なところだったようだ。八丁=約900メートル。人気のない麦畑が直線的に1キロ足らず続いていたところと想像できる。この地で、江戸の弟子たちと永遠の別れをしたのだろう。「麦の穂をたよりに弱弱しい歩み」で大坂方面へ歩いて行ったのだろう。「奥の細道」を歩いたころの体力はもうなかったようだ。
松尾芭蕉忍者説を信じている私。この時の芭蕉は脚力が衰えていて、忍者としての役目はすでに終わっていたのだろう。
梅屋敷跡(現在・公園として都民の憩いの場)
鈴ヶ森刑場跡 後ろにお寺がある。横の道は東海道そのもの
品川宿本陣跡 現在、商店が多く人通りも多い。
泉岳寺
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2017/4/6
「東海道53次歩き旅(15回目・最終回)保土ヶ谷宿~江戸日本橋・ゴール地点(2泊3日)一日目」 東海道53次歩き旅
2017年4月1日(土)朝4時半に起床。身支度をととのえ、午前5時半ごろにJR堺市駅へ。駅前のコンビニで朝食用のパンなどを購入し、午前5時51分発の快速に乗った。大阪駅へは行かない、新大阪駅行き直通の快速である。
いつも大阪駅で新快速に乗るために、西九条駅で乗り換えて大阪駅へ向かう。何度もこのパターンで「大阪駅から新快速に乗り」、東海道53次歩き旅・前回の中断地点駅へ向かっていた。この方法が一番早く目的の駅(今回は神奈川県・保土ヶ谷駅)に到着できるはずだった。
午後4時前には到着できるはずだった。しかし・・・今回は、うまくいかなかった。
大阪駅ホームで、いつも乗車している「新快速」がなかなか来ない…。
「あれっ、おかしいなあ。どうなってんだろう?」
米原までは次の「快速」が先着となります、という内容のアナウンスが流れた。
(えっ? いつもの(快速よりも速い)新快速は、なぜ来ないのか・・・???)
とにかく、いつもの「新快速」が来ない理由がよくわからないままに、しぶしぶ「快速」に乗車した。そして、しばらく乗っていたら・・・、やっと気が付いた。
(今日は土曜日だったのだ!)と。
東海道53次歩き旅4回目以降は一人で計画し、一人で歩いてきた。その計画において、土日スタートはしてこなかった。平日を選んで計画し、実施してきた。だから、「土日ダイヤ」を意識することはなかった。
4月1日は、土曜日だったのだ。いつもの「新快速」は時間が変わっていたようだった。
ちょっとした判断ミス(今回に関しては、西九条駅で乗り換えないで、新大阪駅まで乗ることが正しい判断。)で米原駅到着が遅くなってしまった。乗り換えるたびに(目的地到着が遅くなり)、保土ヶ谷駅到着時刻が予定よりも約40分も遅れてしまった。
前回の中断地点(=保土ヶ谷宿)に到着できたのは、午後4時40分だった。あと一時間ほどすれば、日が暮れるかも・・・と、少し焦った。
(次の神奈川宿目指して、がんばって歩くぞ!)
【ここから続きです】
保土ヶ谷宿から神奈川宿への道路には、ところどころに「旧東海道」の道標が埋設されていた。下を見ながら歩いていて標識が見つかる時、「この道に間違いはない」と安心できた。
横浜市による「旧東海道歩きをする人」への配慮であろう。歩きやすかった。
保土ヶ谷宿の「江戸方見付跡」(見付=宿の出入り口)を急ぎ足で通過した。旧東海道は全体的には人通りが少ない道になっているのだが、現在もにぎわっている道もある。人通りが多い商店街として、活気あふれる道もある。(少ないが・・・)
街の商店街は、堺市をはじめ全国的にどこも「シャッター通り」になりつつある。しかし、横浜市内の「旧東海道の商店街」はそんな気配はなかった。
(ここは、まだまだ大丈夫だ)と思えた。
しばらく行くと、横浜ランドマークタワーのビルが近くに見えた。(いよいよ横浜中心部だ! 近くから見ると、迫力があった。)
目指すは神奈川宿。もうすぐだろう。
旧東海道に面したところに「神奈川台関門跡」碑があった。関門とは・・・? 幕末になり、横浜港開港後、外国人が多数殺傷される事件が起こった。幕末頃の堺でも「堺事件」なる、フランス兵殺傷事件が起こっている。幕末は、そういう不穏な事件が多発していた。そこで、幕府は安政6年(1859年)、横浜周辺の主要地点に「関門」や「番所」を設け、警備体制を強化した。その「関門」の一箇所が「神奈川台関門」だった。その跡に碑が建てられていたのだ。
堺においても、「堺事件」に関する碑が建てられている。江戸時代における「堺と横浜の共通点」は、重要な港という点であろう。堺は当時、天領であり、「土佐藩士」が警護に当たっていた。横浜においても、外国人とのトラブルは多発していたらしい。
そういう比較の思いをもって、碑を眺めた。(ちなみに「堺事件」に関しては、森鴎外その他の方々が小説・評論で書いている。)
関門跡の近くに「田中屋」なる料亭があった。なんと、現在も営業中とのこと。文久3年(1863年)創業の料亭で、この料亭で働いていたのが坂本龍馬の妻・「おりょう」との説明あり。勝海舟の紹介で、働くことになったようである。坂本龍馬が暗殺された後、「おりょう」はどういう生き方をしたか…? たぶん英語を話せたであろう「おりょう」は、この料亭で(通訳としても)活躍したことであろう。明治時代になり、外国人がどんどん日本に来る時代ゆえに、「おりょう」の評判は良かったようである。外国語を話せる能力は、いつも重要ですね。(私は、いつまでたっても、未熟なまま。トホホ・・・悲。)
神奈川宿中心部(本陣跡)に到着したが、何も残っていなかった。幕末期創業の「田中屋」や「神奈川台関門跡碑」を見ることができ、「江戸時代の歴史」に触れた気がした。急ぎ歩きの1時間半ほどの行程だったが、一日目は無事終了。(明日は、朝から歩くぞ!)
すでにチェックイン予定時刻の午後6時を過ぎていた。予約しているホテルへ急いだ。
旧東海道とはいえ、この賑わい。(こういうところは少ない)
道路に埋め込みの標識 工夫していますね。
横浜ランドマークタワー 迫力あるビルですね。
神奈川台関門跡(袖ヶ浦見晴所)
この地点から、昔は海がよく見えたのであろう。
料亭「田中屋」全景 道路に神奈川宿の説明板あり
神奈川宿 説明板一部
神奈川宿本陣跡にはこの説明板のみで、何もなかった。
いつも大阪駅で新快速に乗るために、西九条駅で乗り換えて大阪駅へ向かう。何度もこのパターンで「大阪駅から新快速に乗り」、東海道53次歩き旅・前回の中断地点駅へ向かっていた。この方法が一番早く目的の駅(今回は神奈川県・保土ヶ谷駅)に到着できるはずだった。
午後4時前には到着できるはずだった。しかし・・・今回は、うまくいかなかった。
大阪駅ホームで、いつも乗車している「新快速」がなかなか来ない…。
「あれっ、おかしいなあ。どうなってんだろう?」
米原までは次の「快速」が先着となります、という内容のアナウンスが流れた。
(えっ? いつもの(快速よりも速い)新快速は、なぜ来ないのか・・・???)
とにかく、いつもの「新快速」が来ない理由がよくわからないままに、しぶしぶ「快速」に乗車した。そして、しばらく乗っていたら・・・、やっと気が付いた。
(今日は土曜日だったのだ!)と。
東海道53次歩き旅4回目以降は一人で計画し、一人で歩いてきた。その計画において、土日スタートはしてこなかった。平日を選んで計画し、実施してきた。だから、「土日ダイヤ」を意識することはなかった。
4月1日は、土曜日だったのだ。いつもの「新快速」は時間が変わっていたようだった。
ちょっとした判断ミス(今回に関しては、西九条駅で乗り換えないで、新大阪駅まで乗ることが正しい判断。)で米原駅到着が遅くなってしまった。乗り換えるたびに(目的地到着が遅くなり)、保土ヶ谷駅到着時刻が予定よりも約40分も遅れてしまった。
前回の中断地点(=保土ヶ谷宿)に到着できたのは、午後4時40分だった。あと一時間ほどすれば、日が暮れるかも・・・と、少し焦った。
(次の神奈川宿目指して、がんばって歩くぞ!)
【ここから続きです】
保土ヶ谷宿から神奈川宿への道路には、ところどころに「旧東海道」の道標が埋設されていた。下を見ながら歩いていて標識が見つかる時、「この道に間違いはない」と安心できた。
横浜市による「旧東海道歩きをする人」への配慮であろう。歩きやすかった。
保土ヶ谷宿の「江戸方見付跡」(見付=宿の出入り口)を急ぎ足で通過した。旧東海道は全体的には人通りが少ない道になっているのだが、現在もにぎわっている道もある。人通りが多い商店街として、活気あふれる道もある。(少ないが・・・)
街の商店街は、堺市をはじめ全国的にどこも「シャッター通り」になりつつある。しかし、横浜市内の「旧東海道の商店街」はそんな気配はなかった。
(ここは、まだまだ大丈夫だ)と思えた。
しばらく行くと、横浜ランドマークタワーのビルが近くに見えた。(いよいよ横浜中心部だ! 近くから見ると、迫力があった。)
目指すは神奈川宿。もうすぐだろう。
旧東海道に面したところに「神奈川台関門跡」碑があった。関門とは・・・? 幕末になり、横浜港開港後、外国人が多数殺傷される事件が起こった。幕末頃の堺でも「堺事件」なる、フランス兵殺傷事件が起こっている。幕末は、そういう不穏な事件が多発していた。そこで、幕府は安政6年(1859年)、横浜周辺の主要地点に「関門」や「番所」を設け、警備体制を強化した。その「関門」の一箇所が「神奈川台関門」だった。その跡に碑が建てられていたのだ。
堺においても、「堺事件」に関する碑が建てられている。江戸時代における「堺と横浜の共通点」は、重要な港という点であろう。堺は当時、天領であり、「土佐藩士」が警護に当たっていた。横浜においても、外国人とのトラブルは多発していたらしい。
そういう比較の思いをもって、碑を眺めた。(ちなみに「堺事件」に関しては、森鴎外その他の方々が小説・評論で書いている。)
関門跡の近くに「田中屋」なる料亭があった。なんと、現在も営業中とのこと。文久3年(1863年)創業の料亭で、この料亭で働いていたのが坂本龍馬の妻・「おりょう」との説明あり。勝海舟の紹介で、働くことになったようである。坂本龍馬が暗殺された後、「おりょう」はどういう生き方をしたか…? たぶん英語を話せたであろう「おりょう」は、この料亭で(通訳としても)活躍したことであろう。明治時代になり、外国人がどんどん日本に来る時代ゆえに、「おりょう」の評判は良かったようである。外国語を話せる能力は、いつも重要ですね。(私は、いつまでたっても、未熟なまま。トホホ・・・悲。)
神奈川宿中心部(本陣跡)に到着したが、何も残っていなかった。幕末期創業の「田中屋」や「神奈川台関門跡碑」を見ることができ、「江戸時代の歴史」に触れた気がした。急ぎ歩きの1時間半ほどの行程だったが、一日目は無事終了。(明日は、朝から歩くぞ!)
すでにチェックイン予定時刻の午後6時を過ぎていた。予約しているホテルへ急いだ。
旧東海道とはいえ、この賑わい。(こういうところは少ない)
道路に埋め込みの標識 工夫していますね。
横浜ランドマークタワー 迫力あるビルですね。
神奈川台関門跡(袖ヶ浦見晴所)
この地点から、昔は海がよく見えたのであろう。
料亭「田中屋」全景 道路に神奈川宿の説明板あり
神奈川宿 説明板一部
神奈川宿本陣跡にはこの説明板のみで、何もなかった。
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2017/3/24
「東海道53次歩き旅(14回目)小田原宿~保土ヶ谷宿(2泊3日)三日目最終日」 東海道53次歩き旅
3月16日午前7時15分にホテルを出発。今回の最終目的宿「保土ヶ谷宿」を目指して歩きだした。東海道に沿う形で歩道があったのだが、戸塚駅周辺の「東海道(国道1号線)」は突然「地下に潜り込む箇所」があり、人が通れなくなっていた。
(あれっ、東海道歩き旅をしている者は、どこを歩けばいいのか? こまったぞ?)
(とにかく車専用地下道(国道1号線)の出口付近を探そう!)
歩行者は、遠回りするしか仕方がなかった。遠回りしているうちに、(この道で合っているのだろうか?)と不安だった。とにかく初めて訪れた街の道が曲がりくねっていると不安になるものだ。旧東海道だと思っている道が違っている場合があるから。
あれこれ不安になりながらも、歩き旅用の地図に書いてある「東海道」の目標物が見つかった。間違いではなかった。20分ほどうろうろしたが、「東海道」だと確認でき、ほっとした。
(戸塚付近の東海道はややこしかった!)
戸塚宿で「旧東海道歩き道」を(少しだけ)失ってしまって不安になったが、道を見つけた後は、保土ヶ谷宿に向けて順調に歩くことができた。国道1号線そのものが旧東海道であったり、1号線に沿う道が旧東海道であったり・・・。
「東戸塚駅入口」交差点から、国道1号線から離れた道(旧東海道)を行くことになった。カーブしていたり、S字になって蛇行する道が続いていた。
(おっ、東海道らしい道だ!)
坂道が多くなり、横浜周辺でも坂が結構あるものだと感じた。坂の上から横浜のランドタワービル(294メートルだったかな?)が見えていた。横浜のランドタワービルの高さは、300メートルに少し足りないはず。300メートルの(大阪市阿倍野区の)「あべのハルカス」が日本一高いビルになったから。
横浜ランドタワービルは日本で2番目に高いビル。かなり遠くからでも見えるビルである。
「横浜市戸塚区」の旧東海道の坂から見ることができた。
「環状2号線」なる高速道路をまたぐ歩道橋があった。「品濃坂歩道橋」=旧東海道であった。歩道橋を渡ってしばらく行くと、「品濃一里塚」が残されていた。旧東海道のサイドに両塚が現存していた。日本橋から9里に設置された一里塚が破壊されずに残っていたのだ。感動しましたね。 坂道ゆえに残ったのでしょう。旧東海道は車一台が通れる幅の道として、住民は利用している。生活道路として、現役の道である。
品濃一里塚は東海道の「宝」ですよ。今後とも破壊しないで保存していってほしい。
品濃一里塚でゆっくり休憩した後、保土ヶ谷宿に向かった。午前9時過ぎになっていた。
焼餅坂という坂を登った場所に、一本の大木があった。その木は欅(けやき)だった。
この巨木が国境になったとのことである。「相模」と「武蔵」の国境が欅一本の巨木だったということだ。
堺の町の中心部に「大小路」という道がある。この道が「摂津」と「和泉」の国境だったのだが、巨木1本が国境になっていたとは! 驚きでした。道路一本が国境であったことを(堺の)誇りだと思っていた私だが・・・。(上には上があるものだ! 負けた!)
東海道歩き旅での「発見」でした。
午前10時30分、保土ヶ谷宿(中心地)の刈部本陣跡に到着できた。この宿も「脇本陣」「問屋場」「旅籠屋」など、すべて「跡」だった。比較的丁寧に「説明板」を設置している宿であった。
今回の「東海道53次歩き旅」目的地に到達できた。3日目は歩行距離は約12㎞であった。
保土ヶ谷駅から横浜駅まで乗り、そこで快速に乗り換え、大阪へ向かった。乗り換えは約10回ほど。帰宅は午後11時ごろになった。
あと一回で「東海道53次歩き旅」が完了となる。楽しみです。
品濃坂周辺から富士山を見ることができた。(横浜からでも富士山が見えるんだ、と感激しました。)
品濃一里塚の道標 ここでゆっくり休憩
一里塚は道から見上げる位置に設置されており、両塚が現存していた。
「武相国境之木」という標柱
武蔵国と相模国の「国境」となっている木があるところ
この標柱のすぐ近くに欅の巨木があった。(次の写真の巨木)
大きすぎて写らないので、巨木の下の部分だけカメラに収めた。
この木は江戸時代から「巨木」だったのだろう。高さもすごいが、幹が太かったですね。
「保土ヶ谷宿本陣跡」 どっしりとした石碑だった
丁寧な説明板がある宿であった。
(あれっ、東海道歩き旅をしている者は、どこを歩けばいいのか? こまったぞ?)
(とにかく車専用地下道(国道1号線)の出口付近を探そう!)
歩行者は、遠回りするしか仕方がなかった。遠回りしているうちに、(この道で合っているのだろうか?)と不安だった。とにかく初めて訪れた街の道が曲がりくねっていると不安になるものだ。旧東海道だと思っている道が違っている場合があるから。
あれこれ不安になりながらも、歩き旅用の地図に書いてある「東海道」の目標物が見つかった。間違いではなかった。20分ほどうろうろしたが、「東海道」だと確認でき、ほっとした。
(戸塚付近の東海道はややこしかった!)
戸塚宿で「旧東海道歩き道」を(少しだけ)失ってしまって不安になったが、道を見つけた後は、保土ヶ谷宿に向けて順調に歩くことができた。国道1号線そのものが旧東海道であったり、1号線に沿う道が旧東海道であったり・・・。
「東戸塚駅入口」交差点から、国道1号線から離れた道(旧東海道)を行くことになった。カーブしていたり、S字になって蛇行する道が続いていた。
(おっ、東海道らしい道だ!)
坂道が多くなり、横浜周辺でも坂が結構あるものだと感じた。坂の上から横浜のランドタワービル(294メートルだったかな?)が見えていた。横浜のランドタワービルの高さは、300メートルに少し足りないはず。300メートルの(大阪市阿倍野区の)「あべのハルカス」が日本一高いビルになったから。
横浜ランドタワービルは日本で2番目に高いビル。かなり遠くからでも見えるビルである。
「横浜市戸塚区」の旧東海道の坂から見ることができた。
「環状2号線」なる高速道路をまたぐ歩道橋があった。「品濃坂歩道橋」=旧東海道であった。歩道橋を渡ってしばらく行くと、「品濃一里塚」が残されていた。旧東海道のサイドに両塚が現存していた。日本橋から9里に設置された一里塚が破壊されずに残っていたのだ。感動しましたね。 坂道ゆえに残ったのでしょう。旧東海道は車一台が通れる幅の道として、住民は利用している。生活道路として、現役の道である。
品濃一里塚は東海道の「宝」ですよ。今後とも破壊しないで保存していってほしい。
品濃一里塚でゆっくり休憩した後、保土ヶ谷宿に向かった。午前9時過ぎになっていた。
焼餅坂という坂を登った場所に、一本の大木があった。その木は欅(けやき)だった。
この巨木が国境になったとのことである。「相模」と「武蔵」の国境が欅一本の巨木だったということだ。
堺の町の中心部に「大小路」という道がある。この道が「摂津」と「和泉」の国境だったのだが、巨木1本が国境になっていたとは! 驚きでした。道路一本が国境であったことを(堺の)誇りだと思っていた私だが・・・。(上には上があるものだ! 負けた!)
東海道歩き旅での「発見」でした。
午前10時30分、保土ヶ谷宿(中心地)の刈部本陣跡に到着できた。この宿も「脇本陣」「問屋場」「旅籠屋」など、すべて「跡」だった。比較的丁寧に「説明板」を設置している宿であった。
今回の「東海道53次歩き旅」目的地に到達できた。3日目は歩行距離は約12㎞であった。
保土ヶ谷駅から横浜駅まで乗り、そこで快速に乗り換え、大阪へ向かった。乗り換えは約10回ほど。帰宅は午後11時ごろになった。
あと一回で「東海道53次歩き旅」が完了となる。楽しみです。
品濃坂周辺から富士山を見ることができた。(横浜からでも富士山が見えるんだ、と感激しました。)
品濃一里塚の道標 ここでゆっくり休憩
一里塚は道から見上げる位置に設置されており、両塚が現存していた。
「武相国境之木」という標柱
武蔵国と相模国の「国境」となっている木があるところ
この標柱のすぐ近くに欅の巨木があった。(次の写真の巨木)
大きすぎて写らないので、巨木の下の部分だけカメラに収めた。
この木は江戸時代から「巨木」だったのだろう。高さもすごいが、幹が太かったですね。
「保土ヶ谷宿本陣跡」 どっしりとした石碑だった
丁寧な説明板がある宿であった。
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タグ: 歩き旅
2017/3/22
「東海道53次歩き旅(14回目)小田原宿~保土ヶ谷宿(2泊3日)二日目」その2 」 東海道53次歩き旅
(「二日目・その1」の続きです)
平塚宿から13㎞余り、藤沢宿に到着した。午後3時過ぎになっていた。
藤沢宿の中心部には、本陣跡や高札場跡があった。高札場は再建され、東海道の雰囲気を再現していた。再建された高札場には、観光施設が作られていた。映像や再現模型によって、江戸時代の「藤沢宿」を紹介していた。映像はゲーム機を操作するようにすると、(江戸時代の)藤沢宿の隅々まで見てまわることができた。なかなか面白いコンピューターグラフィック映像だった。
時間に余裕がなかったので、映像は短時間しか見ていないが、印象に残った。
藤沢宿の中心地には、「遊行寺(ゆぎょうじ)」があった。時宗の総本山とのことである。時宗については、一遍上人が開祖という知識しか持ち合わせていない。あまり関心がなかったので、境内にも立ち入らなかった。しかし、規模の大きい寺であった。寺の敷地に沿って旧東海道がつけられていた。遊行寺沿い旧東海道は、国道1号線ではなく、県道30号線になっていた。
「遊行寺の一里塚」なるものは、痕跡はなく標柱だけであった。東海道歩きも、いよいよ首都東京・日本橋が近くなり、標柱だけの「一里塚」が多くなってきた。
(まあ、江戸時代が終わり150年ほど経過したのだから、しかたないだろう。)
午後5時20分。戸塚宿中心地に到着。
JR戸塚駅近くの予約しておいたホテルに向かった。
(やはり都心への通勤圏なのだろう)駅構内はものすごい人の流れだった。(戸塚って、乗降客が多いんだなあ!)と認識できた。
午後6時、予約していたホテルにチェックイン。足腰が痛くて痛くて、階段の下りがきつかった!
万歩計を見たら、この日は52808歩だった。約32㎞歩いたらしい。(地図でも32㎞だった) 足腰が痛いはずだ。
明日歩けるかな?
風呂に入って、しっかり足腰のメンテナンス。もんで、もんで、さすって、さすって・・・。
(それにしても、今日はよく歩いたなあ!!!)
「見付」とは、宿の出入り口。京都に近い見付が「京見付=上方見付」で、江戸に近い見付が「江戸見付」。見付から見付までが、「宿場」。
写真の位置は「京見付」。京から江戸に向かっている私はここから「藤沢宿」へ入っていくことになる。江戸時代はここで「番人」がいて「不審者」をチェックしていたのであろう。見付(またはそれに代わるもの)は、すべての宿場に設けられていた。関所ではないが、「交番」みたいなところだったらしい。
再建された高札場(背後の建物は観光施設)
この辺りは原宿村。それゆえに「原宿の一里塚」があったのだが、ここも標柱のみ。
日本橋から11里目の一里塚。この地点から約43㎞歩くと日本橋だ。
関東平野は意外に坂が多かった。「大きな坂」ゆえに、この名がついたのであろう。
戸塚が近づいてきた。
戸塚宿中心地 澤邊本陣跡(敷地のほんの一部が残されていた)
平塚宿から13㎞余り、藤沢宿に到着した。午後3時過ぎになっていた。
藤沢宿の中心部には、本陣跡や高札場跡があった。高札場は再建され、東海道の雰囲気を再現していた。再建された高札場には、観光施設が作られていた。映像や再現模型によって、江戸時代の「藤沢宿」を紹介していた。映像はゲーム機を操作するようにすると、(江戸時代の)藤沢宿の隅々まで見てまわることができた。なかなか面白いコンピューターグラフィック映像だった。
時間に余裕がなかったので、映像は短時間しか見ていないが、印象に残った。
藤沢宿の中心地には、「遊行寺(ゆぎょうじ)」があった。時宗の総本山とのことである。時宗については、一遍上人が開祖という知識しか持ち合わせていない。あまり関心がなかったので、境内にも立ち入らなかった。しかし、規模の大きい寺であった。寺の敷地に沿って旧東海道がつけられていた。遊行寺沿い旧東海道は、国道1号線ではなく、県道30号線になっていた。
「遊行寺の一里塚」なるものは、痕跡はなく標柱だけであった。東海道歩きも、いよいよ首都東京・日本橋が近くなり、標柱だけの「一里塚」が多くなってきた。
(まあ、江戸時代が終わり150年ほど経過したのだから、しかたないだろう。)
午後5時20分。戸塚宿中心地に到着。
JR戸塚駅近くの予約しておいたホテルに向かった。
(やはり都心への通勤圏なのだろう)駅構内はものすごい人の流れだった。(戸塚って、乗降客が多いんだなあ!)と認識できた。
午後6時、予約していたホテルにチェックイン。足腰が痛くて痛くて、階段の下りがきつかった!
万歩計を見たら、この日は52808歩だった。約32㎞歩いたらしい。(地図でも32㎞だった) 足腰が痛いはずだ。
明日歩けるかな?
風呂に入って、しっかり足腰のメンテナンス。もんで、もんで、さすって、さすって・・・。
(それにしても、今日はよく歩いたなあ!!!)
「見付」とは、宿の出入り口。京都に近い見付が「京見付=上方見付」で、江戸に近い見付が「江戸見付」。見付から見付までが、「宿場」。
写真の位置は「京見付」。京から江戸に向かっている私はここから「藤沢宿」へ入っていくことになる。江戸時代はここで「番人」がいて「不審者」をチェックしていたのであろう。見付(またはそれに代わるもの)は、すべての宿場に設けられていた。関所ではないが、「交番」みたいなところだったらしい。
再建された高札場(背後の建物は観光施設)
この辺りは原宿村。それゆえに「原宿の一里塚」があったのだが、ここも標柱のみ。
日本橋から11里目の一里塚。この地点から約43㎞歩くと日本橋だ。
関東平野は意外に坂が多かった。「大きな坂」ゆえに、この名がついたのであろう。
戸塚が近づいてきた。
戸塚宿中心地 澤邊本陣跡(敷地のほんの一部が残されていた)
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