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★ New!Kimmy's Diary ★

地域づくりから英語教育まで
さまざまな現場で
さまざまな人と関わることについて
書きます

仏像からの示唆

2011年09月16日 | 日本文化
今年立ち上げたNPO法人フィール・ザ・ワールドの活動では、これからの日本に生きる人たちに大切にしてほしいことを十分に伝える機会を作っていこうと考えています。英語を教えてきた私が機会を捉えては「日本文化の大切さ」を話させていただいていることに違和感を感じられることが多々あるようですが、英語を教えてきたからこそ気づくことはたくさんあります。

ことばはその人の思考であり、考え方であり、何を伝えるのか、何をわかってほしいのか、というコンテンツなくしては成立しません。自分の考え方や感じ方、知識、技術、思いがまず「存在する」ことが大前提にあります。それを「誰に」伝えるのか、「どう」伝えるのか、という部分で初めて言語力が必要になってきます。

海外に出て生活したことのある人はわかるでしょう。自分が「日本人であること」を一番知らなかったのは「自分自身」であったことを。自分がいかに日本のことを知らないか、ということを痛感させられるのは、自分自身を「外」からの眼差しで見てみる、という経験をしてはじめて理解できるのかもしれません。日本について尋ねられて満足に答えられない時、はじめて自分の無知と不勉強に気づかされます。それと同時に、日本人であることの誇りや歴史に対してあまりにも無関心だった自分を恥ずかしく思うのではないでしょうか。何を伝えたくて英語を学んでいるのでしょうか。ただ表面的なコミュニケーションで満足しているのではないでしょうか。

私の日本人再認識の原点は、在学していたアメリカの大学寮で、ルームメートだった友人が25年前私を頼って日本に来た時の出来事にあります。御多分に漏れず一緒に京都と奈良を旅行し、東大寺の法華堂を訪れた時のことです。彼女が聞くのです。

'What are the differences between these buddas?'
(これらの仏像の違いは何?)
'This is called Nyorai. This is called Amida. This is called Kannon.
How are they different?'
(これは如来というのね。これは阿弥陀。これは観音と呼ばれているんだ。どう違うの?)
'They look different. This looks scary. This one looks angry. Why?’
(これは怖そう。これは怒ってるみたい。どうして?)

この旅の間中、私は彼女の質問攻めに合い、あまりの自分の無知さに落胆しました。暗記の苦手な私にとって日本史は不得意科目でしたし、さほど興味もありませんでした。寺はどの寺も退屈なもので、仏像なんてどれも同じ、神社もどれも同じで、価値も分からず、意味も分からず…。そんな私に彼女の数々の質問は学校のテストより辛いものでした。

私が答えられなければ誰が一体教えてあげられるのだろう。日本人である私たちが伝えられないで誰が伝えられるのだろう。私たちがこの価値あるものを「価値がある」と認識しないで、日本の宝を守れるのだろうか。誇れる日本文化を次世代に伝えて行けられるのだろうか。そんなことを自問自答しながら、その旅を終えました。仏像の存在により私は自分が日本人であり、誇るべき歴史や伝統があることを再認識することができました。まさにアイデンティティの復活でした。

日本人であることを誇りに思って欲しい。日本にある価値あるものや潜在的に価値あることを顕在化させ、認知したい。そして、大切にしていきたい。フィール・ザ・ワールド(世界を感じること)はフィール・ジャパン(日本を感じること)も大切にしていきたいと考えています。

夜長の季節ですね




空海から最澄への手紙

2011年08月23日 | 日本文化
「国宝と重要文化財が98・9%」というキャッチコピーがその価値を物語る「空海と密教美術展」が現在、東京国立博物館で開催されています。その影響でしょうか、本屋さんの店頭には関連書籍が置かれていますが、この展覧会と同名の書籍があったので購入して読みました。

著者の武内孝善氏と川辺秀美氏はともに高野山大学大学院博士課程修了者なので、本家本元の解釈を知るためには意味のある一冊でした。

興味深く読んだ内容のひとつに「空海から最澄への手紙」があります。以前、この手紙の実物を見たことがあり、ガラス越しに目を皿のようにして見入ったことを思い出しました。自分で読み解くことはできませんが、横の簡単な解釈を読んで、「空海は最澄に意地悪したのだ」としか考えていませんでした。今回この本を読んで、一部の解釈を読んだだけの、私の誤解であることに気づきました。ゴメンサイ、空海様。

手紙の話をするために歴史を少し振り返ってみます。

二人は遣唐使として中国に渡り、同時期に日本に密教を伝えた平安時代の僧侶ですが、その後東密と台密に別れ、現在に至るまで脈々と受け継がれている京都二宗の宗祖です。同時期に優れた宗教家が出るというのはきっと時代のニーズがあったからなのでしょう。その歴史的背景等はここでは詳しく語りませんが、この時代も探ると、とても面白くて歴史ロマンを感じます。

話を戻しますが、同じ遣唐使といっても二人の立場は全然違っていました。最澄は空海より8歳年上で、すでに名を知られた僧侶であり、天皇の命を受けた短期留学生。空海は書物を著してはいましたが無名の僧侶。いろいろ修行をしてはみたものの納得できず、これだ、と感じた「大日経」を学ぶために唐へ渡ります。

空海の目的は、当初から密教を学ぶことでした。一方の最澄は天台教を学びに行ったついでに、日本への帰国までに1ヶ月くらい時間があったので、密教も学んだ、ということですから、この「目的意識」の違いが後に大きな違いをもたらします。

二人の帰国後、嵯峨天皇は空海の伝える密教に傾倒していきます。空海は桓武天皇崩御の後の混乱を解決すべく国家鎮護の修法を行います。密教は「時代をときめかせる宗教」になり、最澄は、密教の正式な伝承者と認められている年下の空海の元で、灌頂(正当な継承者となる儀式)を受けます。その後最澄は、空海が唐から持ち帰った書物を次々と借りて、懸命に写本をします。彼は非常に熱心な勉強家で、書物を借りて勉強をし、日本の宗教界のリーダー的存在を担っていこうと頑張っていました。空海が唐から持ち帰った宝物のリストは最澄が書いたという記録があるようですから、最澄は空海を尊敬していたのでしょうね。

決定的な決別のきっかけは「理趣経」を貸してほしい、と最澄が言ってきた時、空海が断ったことです。その理由は何だったのでしょうか。

以前に読んだ本には「理趣経」は誤解しやすい内容が含まれているため、正しく理解するのは講義を聞かないと難しいから断った、と書いてありましたが、最澄に正しい理解ができないから断った、というのはどうも違うようです。

密教の実践とは何でしょうか。どんなことをしないと修行できないといっているのでしょうか。

◎『文はこれ、糟粕。文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を受くれば、すなわち粋実至実を失う。学ぶも信修なくんば、益なし。』(密教の法は、師から弟子へ、心から心へと伝えるものなのです。書き記されたものは酒の搾りかす、瓦礫に等しいものなのです。そのようなものを求めるべきではありません。)

◎『三密行とは印契を結び(身密)真言を唱え(口蜜)仏の悟りの境界を観想する(意密)の動作を一度に行うことです。』 ~「空海と密教美術」(洋泉社)より抜粋~


教えとは「面授」、つまり実際に師の元で修行をすることで身につけるものであり、文書で伝える「筆授」では身につかないよ、ということのようです。これは私たちのあらゆる「習得」と呼ばれるものにも共通しているのではないでしょうか。

この展覧会では、彼が最澄宛に書いた国宝の手紙「風信帖」の肉筆を目にすることができます。1200年前の空海の墨跡をなぞることは、その内容を知るだけでなく、彼の信念を読み取ることにつながるでしょう。そこに彼の肉体はなくても、そこに彼の意図する真実が浮かび上がり、彼の強さや並外れた感性を感じることができるでしょう。空海の面授はかないませんが、現代の私たちに体験できる「精神面授」は可能かもしれません。歴史探訪がますます楽しくなりそうです。
http://kukai2011.jp/







山百合の咲く頃

2011年08月17日 | 日本文化

百合の中にカマキリの赤ちゃんが・・・。

大学のキャンパスの百合 見ごろを迎えています

私の実家は山奥にあります。現在住んでいる濃尾平野の大地を通りぬけ、山を超え、谷を超え、川を超え、片道1時間半はその季節のドライブを楽しめます。色めき立つ素敵な春の季節から、若芽の眩しい新緑、青々と茂る夏へ季節がすすみ、毎年盛夏には白い山百合がいろいろなところで咲き始めますが、今ちょうどその時期なのです。

白百合は私にとって特別な意味のある花です。初めて実家を離れ、寮生活を始めた中学校の校章の真ん中にあったのが白百合でした。中学校1年生から高校3年生までの女子が毎日修学旅行のように一緒に生活していました。集会室には、私の記憶する限り、いつも白百合の花が飾られていました。食堂には白百合の絵が掛けられていましたのでその頃のその場所の記憶が鮮明に蘇ってくるのです。厳しかった寮母さん、お世話係の住み込みのご夫婦、とっても大人に感じた先輩たち、食堂で食べたもの、お弁当に入っていたもの、そして交流のあったひとりひとりの友だちを思い出します。みんな自宅が遠方のために寮にしかたなく入ってるという感じでしたので、望郷の切ない気持ちは同じだったと思いますが、誰もそんなことを口にすることもなく毎日規則正しい生活をともに過ごしていました。白百合の花は、そのころの私の新しい生活の緊張感と、一人っ子の私が先輩女子高校生に囲まれて生活をする違和感と楽しさ、両親から離れて暮らす寂しさの記憶を呼び起こさせるのです。

毎回実家へ帰る時の道すがら見かける百合は、意外なほど高い崖の上や、丈の高い雑草とともに、この酷暑の真夏日に凛として咲いています。そして、我が家の庭にもそこここに、いつの間にか長い茎を伸ばしつつ、開花を待っている百合があります。

日本は百合の種類に恵まれています。日本原産の花も数種類あります。美しく、高潔で、強さを持ち、一本ずつ咲く、百合の花。洋の東西を問わず百合は女性の気品と強さと美しさの象徴のようです。



神や仏の在るところ

2011年08月14日 | 日本文化
いよいよお盆休みに入りました。
新仏のある我が家では初盆の特別行事がありました。
見慣れない、聞きなれない行事のひとつひとつに意味が込められていることに今更ながら感激します。
香・明かり・花・水・食べ物、を五供というそうですが、揃えるお膳が決まっているのですね。
きゅうりの馬に乗って帰宅した故人の魂は、ナスの牛に乗ってゆっくりとあの世へ帰るとのこと。
とてもロマンチックに感じます。

仏様のための三日間。先祖様のための三日間。それは血縁を再認識する時期でもあります。
「盆・暮れ・正月」は日本の典型的な年中行事ですが、それは家族や親族が一堂に集まる時でもあり、
自分自身の出生の縁を不思議に思う時でもあります。

仏はどこにいるのか。神はどこにいるのか。そんなことにも思いが及ぶ時期。

この時期、思い出すことがあります。祖父のことです。
祖父は普通に仕事をしていましたが、土日祝日などはパートタイム(?)の神職でした。
休日の早朝玉串を作るための「榊」を取りに山へ一緒に入ったり
「紙垂」(しで)を作る祖母の横でその作業を見たりしていました。
地鎮祭や結婚式などに休みの時には出かけて行っていました。

祖父の家には床の間のような奥行きのある神殿がありました。
そこは本当に昼間でも薄暗くて「上がってはいけない」と祖母にきつく言われていました。
しめ縄に紙垂が四垂下がっていましたので、神社の鳥居と同じ結界だったのでしょう。
「天照大御神」の掛け軸がぶら下がっていて、祖父が土で作った陶器の狛犬が並んでいました。

祝詞をあげる祖父の横で聞いていると、何度も何度も「オオカミ」「オオカミ」と言います。
なぜ「オオカミ」が何度も出てくるのか不思議に思ったものでしたが「オオカミ」はきっと
神様の使者だと勝手に解釈して納得していました。それが「大御神」だと知ったのは大人になってからです。

小学生だった頃、「オオカミ」のことは聞けませんでしたが
祖父に尋ねたことがひとつだけありました。
「おじいちゃん、神様ってどこにいるの?本当にいるの?天にいるの?」

その質問に祖父はとてもていねいにゆっくりと何度も繰り返して答えてくれました。
「天にはいらっしゃらないよ。ここだよ。」と言いながら自分の胸を大きな掌で撫でながら言いました。
「だからいつも一緒なんだよ。」

先日、同様の言葉を偶然移動中の車内のテレビの音声で聞きました。
「仏は今ここにいる自分の中にあるのです。」とても力強い流暢な、でも外国人独特の日本語でした。

祖父のことを思い出しました。共通点を見つけた気がしました。

後で調べてみると曹洞宗のドイツ人僧侶ネルケ無方さんのインタビュー番組でした。
ドイツ人青年が座禅と出会い、人生をかけて来日し、現在は兵庫県の日本海側にある新温泉町安泰寺で
堂頭をされることになった経緯と、座禅や悟りについて熱く語っていらっしゃいました。
何十年もかかって彼自身が見付け出した答えをうかがいながら、うなずけるところがたくさんありました。
再放送があったら、ぜひ、もう一度聞きたい話でした。

曹洞宗や臨済宗のいわゆる禅宗の考え方はとても好きです。
「生活そのものが修行であり、作務である。」という生き方ってステキだなと思います。
「今、ここにある、この一瞬を、生きる」
それを実感することそのものが人生の目的であり、意味なのか、と私なりに解釈してます。

後しばらくは帰ってきている魂と残り少ない時間をともに過ごしたいと思います。

皆様もよいお盆ウィークをお過ごしください。











半夏生の季節

2011年07月09日 | 日本文化
半夏生が日本各地で満開を迎えています。
ドクダミ科の植物で夏至の頃、葉の裏が白くなります。
日本の歳時記では半夏生は雑節のひとつで7月2日と決まっています。
福井県大野市では焼鯖、讃岐ではうどん、関西では蛸を食べる日となっているようです。

この日までには田植えを終わっていなければならない
というひとつの節目の日と考えられていた、つまり、
日本がまだ農耕民族だったころの風習の名残でしょうか。
重労働の体を労う意味も含まれていたのかもしれませんね。

京都の建仁寺の塔頭「両足院」では初夏の特別拝観で半夏生を見ることができます。
半夏生を知らなかった時は、ポスターが目に入ってもそれほど気にしてはいませんでした。


「半夏生が満開です。お立ち寄りになられましたか。」

何年か前、京都でおいしい懐石料理をいただいた後
料理長の丸山嘉桜氏にそう声をかけられました。

「いえ、まだです。」と私。

「ぜひお立ち寄りください。京都では半夏生の頃になると本格的な夏を感じるのです。
今から祇園丸山の店のほうに行きますので、もしよろしければその場所までご案内しましょうか。」

両足院の場所は知っていたので、ご多忙な彼のご親切を丁重にご辞退し、そちらへ向かいました。
(そんなにおっしゃるのなら・・・と、向かわざるを得なかったというのが本音ですが・・・。)

小さな塔頭の門をくぐったその瞬間からその美しさに見とれました。
さすが臨済宗の庭園だと感じさせる美がそこここにありました。
禅宗の意匠を整えたシンプリシティの中に自然を見せる美しい丸木枠の窓。
玄関までの短いアプローチに置かれた石の並べ方。
白壁と年月を物語る柱の色のバランス。

日本の歴史を見つめてきた古い寺院と
日本の四季のうつりかわり。
「同じ空間と異なる時間軸」のコントラストがとても刺激的でした。

決して華やかではない、そそとした半夏生の
表の緑と裏の白を、愛でる喜びを感じました。

人と人との出会い。
一言でいろんな広がりがあります。

そんな出会いの思い出のひとつです。