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★ New!Kimmy's Diary ★

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「色重ね」の楽しみ

2012年03月11日 | 日本文化
今年の冬はとても長かったと感じるのは雪が多かったせいでしょうか。それとも気温が低い日が多かったせいなのでしょうか。河津桜はいつもより2週間も遅い開花を迎えているとのこと。花屋さんの店先にあった桃の花も、気のせいかどれも硬くて小さい蕾が多いように感じます。

梅、桃、桜、福寿草、菜の花、蝋梅、水仙、ノースポールなど今の時期に咲いている花々に加えて、これからは沈丁花やスイートピーなど開花を待ちわびた春の花々がたくさん加わり、春らしさをだんだんと増していくのでしょう。

平安時代の古より日本人は豊かな四季の自然から、季節の訪れを読み取り、感じ、それを生活の中に取り入れてきました。季節を彩る草花を利用して染色を施し、それらを身にまとうことで「自然」そのものを楽しみました。着物には表地と裏地があり、上から下にいくにつれて濃くしたり(裾濃:すそご)、また、ところどころ不規則に濃淡を入れたり(村濃:むらご)して、その楽しみ方にもさまざまな手法があり、繊細に、時には大胆に、色を取り入れてきました。また、日々の感情や思いを、色に託して手紙をしたためたり、歌に詠んだりして、色は教養の要素として大きな位置を占めていたように思います。

現代の日本を見てみると、街を歩く人たちの服装はモノトーンが多く、明るい色を身にまとう機会があまりないような気がします。黒、白、灰色、茶色、土色などを着ていれば、なんとなく安心感があるのは、明るい色を使う勇気がないからでしょうか。これらの無難な色の組み合わせで色のお洒落をあまり楽しんでいるように思えません。思い切った色使いはセンスの問われることで、難しいと感じている人も多いのではないでしょうか。春なら春の色を身にまとうことは当然のことながら、その時期に自然界にある色を組み合わせた「色重ね」の文化は、今の私たちにはほとんどなくなってしまっているようですが、昔の日本人は今よりもっと大胆に艶やかに装っていました。

春なら「梅重ね」、夏は「若苗」、秋は「萩重ね」、冬は「氷重ね」など、とっても詩的な素晴らしいセンスで「色重ね」を楽しんでいた平安時代の人々をお手本にして、今年の春はぜひ色重ねを楽しみたいと思っています。


光琳の紅白梅図屏風・新事実

2012年02月05日 | 日本文化
日本の冬の厳しさに春の兆しを届けてくれるのは梅の花ではないでしょうか。ロウバイの開花のニュースが聞かれるこの時期には、尾形光琳の「紅白梅図屏風」を思い出します。
この屏風を収める熱海のMOA美術館では、梅の開花の時期に合わせて毎年この国宝の展示をしています。熱海梅園で梅の花を十分に堪能し、MOA美術館で300年前の紅白梅を鑑賞するのがここ数年の私の2月の行事となっています。

日本を代表する美術品として最高傑作のひとつであるこの屏風は、クリムトなど西洋画家にも多大な影響を及ぼしていますが、その理由のひとつはなんといってもそのデザイン性の高さにあると感じています。

梅の花の紅と白、たらしこみ技法による老木の様子とそこから芽吹く枝の若々しさ、全容がほとんど見えないことによる大木を思わせる白梅と、ほぼ全体が描かれている紅梅など、左右に描き分けられた二本のコントラストにメッセージを感じます。

しかし、この屏風の絶対的な存在感は真ん中を流れる黒い川にあります。その流れの様子を表現するためのモダンな文様は、それまでの時代の美術品には見られないパターン化された意匠で、二本の梅が日本画的であるのと非常に対照的です。

本で見ていた時はそれほど気がつきませんでしたが、実物を始めて目にした時、「美術品は本物を見ないと理解できないものなのだ」ということを私に教えてくれたのがこの川の存在でした。川の黒と背景の金のコントラストの美しさ、そして、左双、右双に占めるそれぞれのバランスが実に見事で、片方だけでも十分に完成された作品です。白梅、紅梅の対比をこの黒い川がつないでいます。

「その川が実は銀箔だった」という新事実を最新の科学技術が明らかにしてくれました。Eテレの「新日曜美術館」という番組の中で、日本画家の森山知己氏が仮説に基づいてその手法を再現されたのです。

銀箔を貼った川の上に、礬水(どうさ)という膠と明礬を混ぜた液で水流のデザインを描き、上から硫黄の粉をその上にふりかけて3日間寝かせ、硫黄の粉を払うと…礬水が引いてないところは、硫黄に銀が反応して硫化銀となり黒色に、そして礬水が引いてあるところはそのままの銀色になってそれは見事な美しい水様文ができていたのです。
その美しさといったら!胸が高鳴り、思わずため息が出てしまいました。本当に感動しました。

日本の歴史の中には、こういった他に類を見ない文化や芸術がたくさんあります。そんなことをひとつひとつ知るたびに日本人である誇りを再認識しています。

アシンメトリーの美

2011年09月27日 | 日本文化
秋草を眺めながら思い出すのが酒井抱一の「夏秋草図屏風」です。今年は生誕250年を記念した展覧会が開催されているため、この時期見かけることがあるかと思います。俵屋宗達や尾形光琳の流れをくむ琳派の絵師で、江戸琳派を作った人と言われています。

私の一番好きな日本の建造物は厳島神社と平等院鳳凰堂ですが、その美しさは床面を境とした上部と下部のバランスと、左右対称の美しさにあります。横に伸びた平面の美しさと伸びやかさを支える柱の高さ、柱と柱の間隔のバランスが好きです。こういった美しい建築は決まってシンメトリーです。何よりも安定感を求められる建物ですから当然でしょう。世界一美しいと言われるタージマハールも完璧なシンメトリーです。

それに対し、日本の伝統文化のさまざまなシーンでは、アシンメトリーの美を見つけることができます。右と左の対象物のバランスを考えながら大部分を占める真ん中のスペースの使い方にも、それぞれのオリジナリティを見つけることができます。俵屋宗達の風神雷神図屏風、尾形光琳の紅白梅図屏風などは描かない部分をどう活かすかが綿密に計算されているようです。

アシンメトリーの美の理由ーそれは未完成であるということでしょう。未完成が完成に向かう時、そこには動きが生まれます。動かないはずの絵に動きを感じることができます。その完成形を想像するのは私たちです。ちょうど音楽のコードが「不安定」のセブンスから「安定」のⅠ度に移る時、その一瞬に劇的なドラマが生まれるのと同じような感覚です。そして、未完成とはまさに自然界の魅力であり、あるがままを「美」とみなす、その「姿勢」そのものを「美」とする理念にあるのではないでしょうか。

手を加え、洗練された美もあるけれど、自然のまま、あるがままも美しいーこんなメッセージを琳派の絵から感じます。そしてまた、そのあるがままの美を表現するための色彩感覚や描写技術は、鍛錬された絵師たちによって受け継がれ、空間もまた描かれたもの同様に意味を持つことを知ると絵を見るときの楽しみが増えます。

床の間に花をいける時、水盤の中の剣山を真ん中に置かずに横にずらしてみるー生活の中でアシンメトリーの美を見つけるのも面白いかもしれませんね。

国宝 秋草文壺

2011年09月24日 | 日本文化
秋風にたなびく野原の雑草を眺めていると、数年前に愛知県陶磁資料館で見た陶磁器部門での国宝第一号「秋草文壺」を思い出します。


平安時代後期に、すでにこのような美しい形の壺が作られていたということにまず感動します。開口部と胴体部分の一番丸みを帯びた部分と底の部分の三箇所の大きさのバランスと、壷全体の高さとのバランスが絶妙。さらに、表面に描かれたさまざまな秋草の模様の素晴らしさ。ススキ、ウリなどが大胆に、でも、描き過ぎもせず、素朴すぎることもなく、突起したヘラで引っ掻いて描いただけなのに、風情に溢れています。

デザインの配置は、日本文化独自の黄金比率でしょうか。琳派の画家達が好んで取り上げた草花文様の原点を感じます。全部を埋めつくさず、作為的に残された空間が美を演出しています。

それから感動するのは時空を超えた奇跡的な遺産であるということ。制作地は、以前は常滑説だったものが、現在では渥美説が有力、となっていますが、いずれにしても我が故郷愛知県で800年以上前に作られた骨壷が、1942年に神奈川県で発見され、それがほぼ完璧な姿で残っていることに歴史ロマンを感じます。

渥美は日本の六古窯のひとつで、鎌倉時代の東大寺再建の際には瓦を作っていたという史実あり、東大寺瓦窯跡が今でも残っています。秋のドライブに渥美半島の先端近くまでおでかけになる人はぜひお立ち寄りください。


あれ、いつのまにか、私、観光協会の人になってる・・・(笑)



象徴化された日本庭園

2011年09月21日 | 日本文化
京都にあるお寺の中でも特徴的な大寺院を「大徳寺の茶面、建仁寺の学問面、東福寺の伽藍面、南禅寺の武家面、相国寺の声明面」と言うのをご存知でしょうか。それぞれの大寺院の歴史がわかる素晴らしいキャッチコピーですよね。

北区にある大徳寺は、その中でも私のお気に入りの寺院です。著名な僧侶を数多く輩出し、茶の湯文化との縁が深い禅宗寺院で、22の塔頭があり、それぞれに趣の違った茶室や露地(茶室に面した庭)があります。庭を見ながらその歴史をたどるだけでも一日十分に楽しめます。

日本庭園は ①枯山水②池泉回遊式庭園③露地 に分類することができますが、京都ではそれぞれの代表的な庭を鑑賞することが簡単にできます。西洋にも昔から自然を取り込みながら日常生活をすごすという感覚はあります。ガーデニングが盛んなイギリスを始めとしてヨーロッパでは、古くから競って人工的で広大な庭園を城や荘園に配しています。

では、日本庭園をそれと決定づけるのはなんでしょうか。例えば枯山水は、小石や砂利で海や川を表現し、石を立てて滝や自然界に生息する鶴や亀のような動物を表現し、見る者の側にその具現化を委ねています。そして、それを見ている「自分」をも含めて、時間の経過や空間も抽象化して表現し、宇宙全体を表現しているとも受け取れます。ですから、日本庭園を本当に理解したければ、そこに石や砂や岩などが置かれている理由を考えることになります。「精神性の象徴化」といっていいでしょう。

これは「能」の表現方法にも通じているのではないでしょうか。何もない舞台の上で繰り広げられる謡と舞。役者の身に纏う面と衣装の模様などから、それぞれのキャラクターの置かれた立場、事件や心情を、観客がひとりひとりの脳内で解いていくのに似ているような気がします。

何を表現するためにそれはそこに配されているのか。あの石とその石との関係性は何なのか。周囲のものとの関連や、見る者へのメッセージを考えることは、日本文化の深さを感じさせてくれるでしょう。非常に哲学的ですがその「わかりにくさ」がきっと、人々を惹きつけて止まないのでしょう。

「象徴しているものは何か」日本庭園を見るときはそれをキーワードにして鑑賞するときっと今まで見えなかったものが見えてくるかもしれません。そして同時に大切にしたいことは逆説になりますが「哲学しすぎない」ことです。最優先したいことは「そこに作り出された空間を自分の五感を使って感じること」です。さあ、秋の庭に出かけてみませんか。