えんどうえこばなし

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秋晴れの日

2012-11-08 09:33:43 | えこばなし
昨日は神楽坂まで行った。
来年5月のライブの打ち合わせである(ちなみに5月15日でした)。
打ち合わせと言っても3時間のうちの2時間50分は関係ない話をしていただけ。
たとえばこんなコイバナとか。
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ある踊り手さんがとびっきり若かりし頃、おじいちゃんの家でひとり留守番をしていた。
そこに彼女の母から電話がかかってくる。「どう?ひとりで大丈夫?」
彼女は答える「うん、今コイにお昼寝をさせていたの」
その30分後彼女の母が見たものは、おじいちゃんが大切にしていた鯉の稚魚たちが地面に横たわって死んでいる姿であった。
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まあ、それでも曲はきまったし、練習課題も出た。
12月から練習開始。
わたしも自分の曲の練習を開始しようと思い、今日はゴミ拾いに出かけた。

ゴミ拾いと自主練習。
脈略がないような行為だが、どうやら自分の中では繋がっているらしい。

実はライブをやめてからほぼ一年、ゴミ拾いをしていなかった。
意識してやめたわけではなくて「すっかり忘れていた」という感じだったのだが今日はスタジオについて自然に「天気もいいしゴミでも拾うか」と思った。

ひさしぶりに出る道はやはりたんまりとゴミが溜まっていた。
ははあ~なるほど溜まっておりますな、とじいさんのような優しい気持ちになって吸い殻を拾う。

別にいつでもピカピカしている道じゃなくたっていい。たまにこうやって掃除をしにくればいいし、気が向かなければ来なくたっていい。
ゴミをポイってする人もそれはそれでいい。友達にはならないけれど、そういう人はそういう人でいたっていい。
練習なんて全然しなくてぐうたらとパソコンゲームなんかやっていたこの1年も、それはそれでいい。
いつもいつも前向きでポジティブじゃなくってもいい。

なんとなく、そんな「赦し」の気持ちになる。
わたしの探しているものはこれなのだろうか。
自分も他人もまるごと受け入れることを欲しているのだろうか。
しかし、まるごと許す事と、だらしなくなることはどう違うんだろう。
自分を律していない状態を丸ごと受け入れることをしていいのだろうか。

こんなふうに通常は自分のことなんだか、子供のことなんだか、見知らぬ誰かのことなんだかわからないが、考えが進むと迷宮入りしていくのだが、ゴミを拾っている間はすっきりとそこに「赦し、赦される」が存在する。
こんな風に踊れるだろうかと思う。
どうかなあ。

屈んで起き上がった瞬間に柱に顔をぶつけて口の中を切った。
びっくりして、痛くて、なんだかどうでもよくなった。

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