北海道から一時帰京してた子(上)が、今日帰る。
子は、所属する場所がゆっくりゆっくりと変化しつつも、昭和生まれの私の目からは「フラフラしている」と見える状態にある。
「フラフラしていることが悪いのか?」とか、
「フラフラしてなければ即ち幸せなのか?」と問われると、
答えは「否」であるし、
典型的とも言える令和の若者ながらも、ゆっくりゆっくり何某の変化をし、ゆっくりゆっくりだが何某の行動をしているのだと思い、本人が最終的に幸せになる道を歩めばいいのだとは思っているわけなのだが、そのゆっくりゆっくりっぷりを目前で見せつけられると「なんだか不安になってくる」というのも事実である。
気力とガッツが溢れていた昭和の時代とは、現在はあきらかに違う。
「フラフラ」の中身も昭和のソレとは随分と違う。
違うとわかっていても、過去の自分の価値観からはなかなか自由にはなれない。
自由になりたいなあ。
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そんな「人生迷子中」の上の子を見ているせいかどうかは不明だが、子(下)は、「大学に行く」と言って予備校に通い始めた。
いままで一度も塾のようなところに行ったことがなかったせいもあり、システムがいまいち飲み込めなかったが、最近は親との三者面談というのも用意されていて、いろいろ聞いてようやくわかった。
向こうは教育システムを一生懸命説明しようとしてくれているが、私は学費がいくらかかるのかと、お弁当をどこで食べればいいのか(コロナで館内飲食禁止になっている)を真っ先に知りたくて、ちょっと話が噛み合わなくてなんだかおかしかった。
結局大金を投入することになる。
大金はかかるが、模試から共通テスト対策から2時試験対策、果てはモチベーション維持まで、大人の本気で練りに練れてるプログラムが用意されている。
これが教育格差か、と思う。
そして「なんだか嫌だなあ」と思う。
やはり価値観から自由になれていない証拠だ。
ただこの不自由さが、このモヤモヤこそが、世界を変える原動力のかもしれないとも思う。
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今年の春が終わってから家に居着いた形となった野良猫の「ドアラ」。
2年前くらいから家に出入りはしているのだが、オスなので、春先になると遠くへ行ってしまって何ヶ月もやってこないし、そうじゃなくてもフラッと1週間くらい平気でいなかったりしていたのだが、この夏はずーっと家にいる。
家にいるだけではなく、布団に入ってきて一緒に寝たり、ニャーニャー甘えたりするようになって、不思議だなあ、アンタ本当にドアラなの?そっくりさんなんじゃないの?とか言っていたのだが、先日ふとした時に「去勢されている」という事実に気がついた。
この春、遠出から帰宅してきて不規則ながらも家に出入りしてたころ、ふと何日か来ないなと思っていたら、弱って帰ってきたことがあったのだ。
私たちはてっきり喧嘩をしてきたのだと思い込み、耳が切れているのも、お腹のあたりを気にしているのも、「負けちゃったんだね〜」と思っていたのだが、耳は「桜耳」といって、地域猫などが避妊手術や去勢手術をしたことがすぐにわかるようにつける印なのだそう。
よくよく観察してみると、かつてフカフカで触り心地の良さそうなハリのあるタマタマが、しょんぼりしたものになっている。
そうだったの。
半年も気づかなくってごめんよ〜。
と、家族全員からタマをガン見され、やれ昔はこのくらいの大きさだった、やれこんな具合であったと評価されるハメになる。
人間だったら「気の毒の上塗り」といった体だが、猫はあまり気にしていないようにも見える。
猫は自由だ。
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最近ローマの哲人皇帝、マルクス・アウレリウスの「自省録」を読んでいる。
1800年も前から、人は「自分をどう保つのか」ということを考えていて、結局のところ未だに同じことを考えているように思う。
猫のように自由になれないのが人間。
不自由さを原動力にして世界を変えるのが人間。
自分を変えることで、ほんの少し自由になるのも人間。
私は?
とりあえず、自分のことをしよう。
ということで、今日も練習に行くよ。
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