3月以降、気付きが気付きを生んで、
どんどん自分が変わっていって面白いです。
こういう時にブログで日記を書いてるって便利で
1年前のライブの感想とか読むと「ぜんぜん違うなあ」と感じる。
一番変わったのは「フラメンコの自分」と「普段の自分」を分けなくなったこと。
フラメンコでの気付きが普段の生活に応用出来るなんて考えたこともなかった。3月までは。
3月に世界は大きくて私は小さいという
フラメンコの舞台での世界観の気付きを、現実に持って来たときに
はじめて「ああ、同じなんだなあ」と思った。
一度そういう「同じだ」という感覚があると
フラメンコをすぐに「普段では使えないか」と応用しようとするようになって
そうすると普段の生活もなにやら実験の繰り返しみたいで面白くなってきた。
身体の回転数を上げておくことを意識していたら
自転車での坂道がラクラクになった。
そうすると何故か坂道自体が坂道に見えなくなって来た。
「あれ?この坂道ってこんなにゆるかったっけ?」。
あと余り眠らなくても結構平気だ。
リハビデオのチェックも子の保育園の仕事もバリバリできる。
踊ってるときの空洞で書いた
「中身と外側」の意識。
中身をぽかんと空けて人の話を聞くと、よく入ってくることを発見。
中身が詰まっている時は、はじいてしまう。
どちらにしても外側はかっちりしていないと入ってこない。
そう。外側はかっちりしてないといけないということも良くわかった。
外側がかっちりしてないと、回転もかからないし、空洞もできないし、うねりもおきない。
なので、外側をかっちりするようにしてる。
正座して、しゃんと腰入れて、ごはんを食べる。
電車の椅子でも背もたれにもたれないでしゃんとしてる(時々はさぼるけど)。
あまりゴロゴロしなくなった(全然しないってことじゃないよ)。
外側は丁寧にひとつひとつ踏んで、中身はすばやく回転させる。
外側はバシバシとキレて、中身をゆったりとうねらせる。
外側はこの上なく自分だけど、中身は限りなく相手でいっぱいになる。
そしてその中身をどんどんふくらましていけば
外側(自分)と中身(相手)の区別が出来なくなってくる。
どれもこれもフラメンコであり日常生活だ。
宇城憲治師範の新刊が出て、いま3巡目読んでる。
深くて優しい。ひたすら何度も読む。
そして何故か何度も「フラメンコだ」と思うところがあった。
コンチャやアンヘリータの顔を思い出した。
フアナの踊りを思い出した。
広くて大きくて暖かい素晴らしい踊り手達を。
世の中にはなんてすごい人達がいっぱいいるんだろう。
そんな簡単に同じようにはなれっこないけれど
「今からでも変わることは出来る」と気付いた。
だからきっと1年後の自分がこれを読んで
「ふーん、こんなこと考えとったのん」て思うくらい
きっと来年の私は変わってるはずだ。
たのしみだ!!
どんどん自分が変わっていって面白いです。
こういう時にブログで日記を書いてるって便利で
1年前のライブの感想とか読むと「ぜんぜん違うなあ」と感じる。
一番変わったのは「フラメンコの自分」と「普段の自分」を分けなくなったこと。
フラメンコでの気付きが普段の生活に応用出来るなんて考えたこともなかった。3月までは。
3月に世界は大きくて私は小さいという
フラメンコの舞台での世界観の気付きを、現実に持って来たときに
はじめて「ああ、同じなんだなあ」と思った。
一度そういう「同じだ」という感覚があると
フラメンコをすぐに「普段では使えないか」と応用しようとするようになって
そうすると普段の生活もなにやら実験の繰り返しみたいで面白くなってきた。
身体の回転数を上げておくことを意識していたら
自転車での坂道がラクラクになった。
そうすると何故か坂道自体が坂道に見えなくなって来た。
「あれ?この坂道ってこんなにゆるかったっけ?」。
あと余り眠らなくても結構平気だ。
リハビデオのチェックも子の保育園の仕事もバリバリできる。
踊ってるときの空洞で書いた
「中身と外側」の意識。
中身をぽかんと空けて人の話を聞くと、よく入ってくることを発見。
中身が詰まっている時は、はじいてしまう。
どちらにしても外側はかっちりしていないと入ってこない。
そう。外側はかっちりしてないといけないということも良くわかった。
外側がかっちりしてないと、回転もかからないし、空洞もできないし、うねりもおきない。
なので、外側をかっちりするようにしてる。
正座して、しゃんと腰入れて、ごはんを食べる。
電車の椅子でも背もたれにもたれないでしゃんとしてる(時々はさぼるけど)。
あまりゴロゴロしなくなった(全然しないってことじゃないよ)。
外側は丁寧にひとつひとつ踏んで、中身はすばやく回転させる。
外側はバシバシとキレて、中身をゆったりとうねらせる。
外側はこの上なく自分だけど、中身は限りなく相手でいっぱいになる。
そしてその中身をどんどんふくらましていけば
外側(自分)と中身(相手)の区別が出来なくなってくる。
どれもこれもフラメンコであり日常生活だ。
宇城憲治師範の新刊が出て、いま3巡目読んでる。
深くて優しい。ひたすら何度も読む。
そして何故か何度も「フラメンコだ」と思うところがあった。
コンチャやアンヘリータの顔を思い出した。
フアナの踊りを思い出した。
広くて大きくて暖かい素晴らしい踊り手達を。
世の中にはなんてすごい人達がいっぱいいるんだろう。
そんな簡単に同じようにはなれっこないけれど
「今からでも変わることは出来る」と気付いた。
だからきっと1年後の自分がこれを読んで
「ふーん、こんなこと考えとったのん」て思うくらい
きっと来年の私は変わってるはずだ。
たのしみだ!!
回転数の上げ加減をコントロールしたい。(←上げすぎて自滅する)
日常こそが舞台だ,という感じは、もう,何を見てもそう思う。全てが透けて見えるものね。ていねいに生きてなくちゃね。
ネットサーフィンしていたら、偶然、こちらを見つけました!
お元気そうで何よりです。
私も元気です。
今度、妻と旅行でスペインに行きます。主目的はガウディ建築見学ですが、フラメンコも見る機会があればいいなと思ってます。
では。
おひさしゅうございます!!!何年ぶりでしょうか!!
もう詩はうたってないのでしょうか。Cavulakeyさんからもすごく影響うけたなあ、と思ってます。再会うれしいです。
スペイン、楽しんで来て下さいね!!バルセロナはおっしゃれ~でいいところですよ!!