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小室直樹を読む 「天皇の原理」を読む

2010-02-14 13:05:49 | 日記
第八章 死と復活の原理

天皇神格イデオロギーを善政主義に転換させた承久の乱の原因とはなにか

鎌倉幕府三代将軍実朝は天皇尊崇の念篤く、大政奉還論者であった。
しかし、叔父である北条義時は既に鎌倉幕府の実権を握っていた。
義時は大政奉還などする気はさらさらない。

そこで実朝の甥公暁を炊きつけたかどうか、公暁が実朝暗殺。

義時は跡目将軍を後鳥羽上皇の皇子から迎える工作をするため、姉であり幕府創始者頼朝夫人、二位の尼政子に託し京都へ向かわせた。

幕府は新将軍として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出た。
後鳥羽上皇は、愛妾伊賀局亀菊の所領摂津国長江荘、倉橋荘の地頭の撤廃を条件とした。

この条件は幕府をジレンマに陥らせた。

命令に従えば新将軍は皇子から戴ける、しかし幕府権力の基礎地頭任免権を朝廷に召し上げられる事になる。
実質大政奉還。

拒否すれば
新将軍は迎えらない。さらに地頭罷免を求めた院宣違反となり朝敵。

義時の政治決断は・・・・
摂関家から将軍を迎えることとし、九条道家の子頼経を将軍として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制を敷くこととした。
実質鎌倉幕府独立体制。

後鳥羽上皇の政治決断は・・・
天皇カリスマ維持のため、鎌倉幕府討伐の院宣発布。

その結果はご存知の通り・・・・
朝廷大敗北。院宣撤回。

それだけで済めば天皇神格イデオロギーも打撃を受けなかった。
が、義時の処分三上皇(後鳥羽、順徳、土御門)全て配流。
これにより天皇カリスマ吹っ飛んだ。

臣下による君主の処罰!!!

「天皇」は死んだ

世は善政主義に転換した。

この善政主義により鎌倉の北条執権体制は成立したが、この善政主義により崩壊もした。

時は過ぎ、鎌倉幕府末世の執権高時
闘犬、田楽にふけり政治を顧みない。賄賂横行し反北条派の勢いは増すばかり。

善政主義の世であるから、これは革命がおきる条件。

事実起きた・・・建武中興である・・・・後醍醐天皇を中心とした鎌倉討伐である

これは、一旦成功した。が、足利尊氏が天皇にそむき新幕府設立。

後醍醐天皇は吉野へ去り、あくまで正統性を主張し朝廷を開いた。吉野朝である。
南朝である。

足利尊氏もその正統性を得るため京都に新天皇を立てた。
北朝である。

これは日本歴史空前絶後の出来事である。

二天皇併存!!二朝併立!!

この政治体制の分析は別に譲るとして、
後醍醐天皇派南朝と足利将軍派北朝は1392年、後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を譲る形で、南北統一。

統一はなったが、どちらが正統性を持つかの論争は残った。

この論争はえんえんと続き、江戸時代を通じ明治維新にいたる。

さらに重大な事は、
この論争を通じて「天皇」は死から復活を遂げ、明治維新の原動力となった。これである

「天皇」は一旦死んだ。
しかし復活し明治維新の原動力となった。

復活の過程やいかに・・・・