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小室直樹を読む  天皇恐るべし を読む

2010-03-12 11:04:30 | 日記
第十章 天皇が秘める深淵

幕末最大の勤王思想家、吉田松陰 は「講猛剳記」のなかで
湯武放伐を評していう

湯武放伐論は前賢が十分論じているが、試みに私も論じてみよう。

凡そ漢土の流儀は、天が人間をこの世に下したものの、その君となり師となる人物がなければ治まらぬので、天は必ず民衆の中からこれを指導する人物を選ぶ。

それゆえ、其の人物が職責にふさわしくなくなれば、天もまたこの人を其の地位から引きおろす。

天から民衆を指導せよと命ぜられたものが、職責にふさわしくないものを放伐するのであるから「放伐」になんの疑問も持たないのである。

わが国はこれと全く違う

天照大神の子孫が天壌無窮にましますのであって、この日本は天照大神が開かれ、その子孫すなわち天皇が、末永くこの日本を守るのである。

それゆえ我々は、天皇と喜憂を一つにして、他念を持つべきものではない。

征夷大将軍の地位の類は皇室が任命されたことであって、この職責にふさわしくないものは、直ちにこれを廃してかまわない。

これは、天命によって地位が任命される中国と似通っているが、考え方が全く違う。

中国は天命を受けて「放伐」をするが、

わが国は皇室、天皇が統御されている以上、
皇室の命を奉ぜず、勝手に征夷大将軍等の職責を責めることは、責めるもの同士の自己撞着である。

天子の命を奉ぜず、お互いに征伐しあうのは、どれほどの正義を掲げても義戦ではない。


維新回天の中心人物に、松蔭門下生がいたことは周知。
松蔭イデオロギーが明治維新の思想的基礎を与えた事も周知である。

この松蔭イデオロギーは湯武放伐を明確に否定する。
その思想は直接には水戸学、より根本的には崎門の学に淵源を発する。

崎門の学は、神代以来日本人の無意識の底に蟠踞しつつも、ついに意識に上ることなき「予定説」を、明晰に意識の中にひきだし、これを確固たるイデオロギーにした。

この予定説を意識化し理論化し、全日本にみなぎるイデオロギーとする過程は、
同時に、幕府イデオロギーを解体、廃絶する過程でもあった。


儒教が日本に伝来したのは応神天皇16年とされてきた。
それ以来わが国は儒教を尊重してきた。

しかし徳川幕府までの間、それは教養として捉え、一つの思想として捉える事はなかった。

日本における儒教的教養の担い手は仏教の僧侶である、という事実が日本儒教の畸形性を余すところなくあらわしている。

そのような歴史過程の中で
徳川家康により、その儒教が再輸入され、一見日本の国教的地位を占めるようになった。
家康の問題意識は、日本武士道に倫理性を与える事にあった。

その、問題意識とは、
戦国武士道に客観的な倫理はない。これだ

戦国武士は喜んで主君のために命は投げ出すが、主君をいつ殺すかわかったものではない。
下克上の時代なのである。

戦国時代の武士道は、客観的倫理ではなく主観的情緒と、普遍的一般規範ではなく、特殊的人間関係に基礎をおくから、どうしてもこうならざるを得ない。

戦国の世であれば、これでもよい。
しかし、天下泰平の全日本統一時代にこれでは困る。

そこで家康は
朝鮮から朱子学を輸入し、日本武士道に倫理を与えようとした。

幕府イデオロギーは朱子学による。

ところが、その朱子学から崎門の学(山崎闇斎学派)が生まれ、水戸学が派生する。
この学派が徹底的に「湯武放伐論」を否定した。

この朱子学が、天皇イデオロギーに変身したのもこの「湯武放伐論」の徹底的否定である。

「湯武放伐論」の徹底的否定によって幕府イデオロギーは、急速に天皇イデオロギーに吸収されていく。


幕末における尊王佐幕というが、イデオロギー上の対立があったわけではない。
幕府には幕府の尊王論があり、薩長には薩長の、会津には会津の尊王論があった。

尊王論を否定する主張などどこにもなかった。

天皇イデオロギーが完璧なまでに、理論的作業がなされていたからである。


次に
天皇イデオロギーが、思想形成過程において、自己展開すればどうなるか。
キリスト教思想形成過程との対比において、このことを考えてみたい・・・・・・