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小室直樹を読む  天皇恐るべし を読む

2010-03-16 10:55:28 | 日記
第十章 天皇が秘める深淵

前節までのまとめ
幕府イデオロギーは湯武放伐である。
幕府政権の正統性はここにある。

つまり、天皇が自ら失徳・失政をすることにより、国は乱れ民は苦しむこととなった。
その乱れと苦しみを救うため、政権担当能力を失った天皇・朝廷にかわり徳川幕府が政治を担当することとなったのだ。
これを正統性にした。

ところが、山崎闇斎学派はこの湯武放伐絶対否定。

君臣の義は「拘幽操」にあり。
君は絶対である。
臣下は君を支えなければならない、絶対に従わなければならない。

この結果
罪ある失政天子は、罪なき臣下が罪を贖うことによって、絶対の高みに昇っていく こととなった・・・・・



この、
天皇イデオロギーが、思想形成過程において、自己展開すればどうなるか
キリスト教思想形成過程との対比において考えよう

キリスト教の伝道者パウロは「ローマ人への手紙」第三章9~18 で
私達にすぐれているところがあるのか。
まったくないではないか・・・
「義人はいない、一人もいない・・神を求めるものもいない・・・善を行う者はいない、一人もいない・・・・彼らは平和の道を知らず、その目の前には神への恐れがない」

人間とはこれほどまでに罪深く下劣な生き物であるとした。
人間とはどれほど悪事を働く動物か。

パウロは人間を無価値以下に落とし込む。
宗教改革で有名なカルヴァンも負けず劣らず人間罵倒のオンパレード。

しかし

このような人間を神は救う。
神は人間を愛するがゆえに、その一人子イエスを使わしたまう。

この愛、(ギリシャ語でいうアガペー)は無償の愛である。
何の価値もない者を愛する愛である。

パウロは断言する
「私達に何かまさったところがあるのか。絶対にない」

かかる人間を神は愛する。

となるとどうなる、
人間が罪深ければ罪深いほど、下劣下等であればあるほど、かかるものですら愛する神の愛は限りなく高く、限りなく大きくなる。

パウロやカルヴァンが人間を神に比べ、徹底的におとしめればおとしめるほど、人間に対する神の愛の至高さ、至大さを弁証してゆくことになる。

この論証過程を通じてこそ、神は人間に対し「絶対」化される。


「拘幽操」分析により山崎闇斎学派は天皇イデオロギーを復活させた。

そのイデオロギーは「イザヤ書」における予言と双対的であるといった。

繰り返すと、イザヤ書で
「罪なき子が、いとも罪深き人類の罪を贖って、罪のしもべとして処刑されてゆく」

「拘幽操」における臣下のとる態度は、このイザヤ書と双対
「いとも罪深き天子が、罪なき臣下に罪を贖わせ、聖明なる天子として赦免されてゆく」
のである。

このイデオロギーと天皇「予定説」が結びつくと結論はどうなる。
栗山潜鋒たちが、天皇の失徳・失政を攻撃すればするほど、失徳・失政の天皇を批難すればするほど、

「正統」的天皇は絶対の高みに高められる。

臣下の「正統」的天皇に対する忠義は至高なものとなる。



栗山潜鋒たちの舌鋒は鋭く、失徳・失政の天皇を批難する。

なぜ、建武の中興は失敗したのか
後醍醐天皇は北条を討ち、朝廷に政権を戻し、承久の乱で鎌倉幕府によって流された三上皇の恥をそそいだ。

そこまではよい、

しかし、足利尊氏らを重く用い忠臣を疎んじ、藤原兼子をかわいがり、その言を重く用いすぎた。

こんな有様なので再び戦乱となるのは当然である。忠臣義士が戦死してもほったらかしで何もしない。

これでは、天下を失って回復できなくなって当然ではないか。

後醍醐天皇は暗愚失政の天子であったから天下を失った。

と批難し、さらに辛らつに
後醍醐天皇は、天子として致命的欠陥だらけの天子であった。それが何より証拠には、彼の後裔「南朝」の天子はことごとく草莽に没し、いまやあとかたもない・・・・・

このように、水戸学、崎門の学の首領、中堅、俊英はことごとく、天皇の失徳・失政・不徳・欠陥を総攻撃。

それと同時に、
水戸学、崎門の学における、「忠臣楠木正成」に対する絶対的敬慕・・・・・

ながくなるので次回・・・