明治42年(1909)1月6日、七代目松本幸四郎の長男として生まれる。本名、堀越治雄。弟に八代目松本幸四郎(後の初代白鸚)と二代目尾上松緑。大正4年(1915)1月、帝国劇場で松本金太郎と名のって初舞台(6歳)。昭和4年(1929)4月、帝国劇場で九代目市川高麗蔵<こまぞう>と改名(21歳)。昭和14年(1939)に市川三升(十代目團十郎)の養子となる。
昭和15年(1940)5月、東京歌舞伎座で「外郎売」で九代目市川海老蔵を襲名(32歳)。昭和16年(1941)太平洋戦争始まる。慰問興行などに従う。
戦後の荒廃した歌舞伎界に、十五代目羽左衛門を偲ばせる美男役者として台頭する。昭和21年(1946)6月、東京劇場で助六を演じ、人気が出る(38歳)。昭和26年(1951)3月、歌舞伎座で舟橋聖一訳の『源氏物語』の光君を演じて大好評を得る。
このころから「海老さま」の愛称で満都の子女を魅惑する。(43歳)。仄聞したところでは、新橋の花柳界では芸妓たちが「海老を食べない」(海老蔵に手を出さないという意味)ことを約束したという話まで残っている。
昭和31年(1956)に養父・市川三升が没し、周囲の十代目襲名の期待が高まったが、大きすぎる名跡を継ぐことに本人の逡巡もあり、なかなか実現には至らなかった(48歳)。
昭和37年(1962)4月、歌舞伎座で十一代目團十郎襲名(54歳)。十代目は、亡き義父に追贈し、九代目が没してから59年間にわたって空白だった市川團十郎が誕生した。
十一代目の魅力は、なんといっても並外れた美男ぶりであったが、風姿がよく、おのずから高い気品が備わっていた。また口跡のすばらしさ、音域の高低も他の追従を許さなかった。また、美男のうちに、どことなく翳のある役者だった。文字通り昭和歌舞伎の華を代表する役者であった。
しかし、「佳人薄命」を地でゆくように、わずか二年半で團十郎時代の幕を引き、昭和40年(1965)11月10日(56歳)で、没した。
芸風は不器用と言われながらも誠実な人格を芸に現し、気骨ある風采、華やかな容姿で一世を風靡した。当り役は、古典では助六、盛綱、富樫、与三郎、五郎蔵、清心など。新作では源氏物語、若き日の信長、魔界の道真、築山殿始末などが挙げられる。
昭和15年(1940)5月、東京歌舞伎座で「外郎売」で九代目市川海老蔵を襲名(32歳)。昭和16年(1941)太平洋戦争始まる。慰問興行などに従う。
戦後の荒廃した歌舞伎界に、十五代目羽左衛門を偲ばせる美男役者として台頭する。昭和21年(1946)6月、東京劇場で助六を演じ、人気が出る(38歳)。昭和26年(1951)3月、歌舞伎座で舟橋聖一訳の『源氏物語』の光君を演じて大好評を得る。
このころから「海老さま」の愛称で満都の子女を魅惑する。(43歳)。仄聞したところでは、新橋の花柳界では芸妓たちが「海老を食べない」(海老蔵に手を出さないという意味)ことを約束したという話まで残っている。
昭和31年(1956)に養父・市川三升が没し、周囲の十代目襲名の期待が高まったが、大きすぎる名跡を継ぐことに本人の逡巡もあり、なかなか実現には至らなかった(48歳)。
昭和37年(1962)4月、歌舞伎座で十一代目團十郎襲名(54歳)。十代目は、亡き義父に追贈し、九代目が没してから59年間にわたって空白だった市川團十郎が誕生した。
十一代目の魅力は、なんといっても並外れた美男ぶりであったが、風姿がよく、おのずから高い気品が備わっていた。また口跡のすばらしさ、音域の高低も他の追従を許さなかった。また、美男のうちに、どことなく翳のある役者だった。文字通り昭和歌舞伎の華を代表する役者であった。
しかし、「佳人薄命」を地でゆくように、わずか二年半で團十郎時代の幕を引き、昭和40年(1965)11月10日(56歳)で、没した。
芸風は不器用と言われながらも誠実な人格を芸に現し、気骨ある風采、華やかな容姿で一世を風靡した。当り役は、古典では助六、盛綱、富樫、与三郎、五郎蔵、清心など。新作では源氏物語、若き日の信長、魔界の道真、築山殿始末などが挙げられる。