江戸歌舞伎の作者、黙阿弥の名は永遠に不滅であると申しても過言ではあるまい。彼は江戸日本橋の生まれ。(1816~1893)本名は吉村芳三郎。五世南北の門に入り、河原崎座の立作者となり、二世河竹新七を襲名。嘉永4年(1851)「昇鯉滝白旗」(のぼりごいたきのしらはた)、安政元年(1854)に「都鳥廓白浪」(みやこどりながれのしらなみ)を書き、たちまち人気作者となる。
彼は次から次へとヒットを飛ばす。現在演じられることの多い作品を挙げてみると、「蔦紅葉宇都谷峠」「鼠小紋東君新形」(ねずみこもんはるのしんがた=鼠小僧)「網模様燈篭菊桐」(小猿七之助)「小袖曽我薊色縫」(十六夜清心)「三人吉三廓初買」(三人吉三)「曽我綉侠御所染」(御所五郎蔵)「八幡祭小望月賑」(縮屋新助)「勧善懲悪覗機関」(村井長庵)など、枚挙に暇がない。こうして並べてみると、泥棒・盗賊を主人公にしている作品が多いところから「白浪物」の作家としてもてはやされた。五世菊五郎のために「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ=弁天小僧)は、一世を風靡した。
明治になって、九世團十郎、五世菊五郎、初世左團次という、いわゆる「團菊左」のトリオのために、活歴(かつれき)物、散切(ざんぎり)物、松羽目(まつばめ)物などをふくめた各ジャンルのものを書いた。「桃山譚」(=地震加藤)「平安太平記」「天衣紛上野初花」(=河内山)「梅雨小袖昔八丈」「土蜘」などがそれである。晩年の作品として挙げられるのは、「島鵆月白浪」「新皿屋舗月雨暈」「四千両小判梅葉」「水天宮利生深川」「盲長屋梅加賀鳶」「船弁慶」「茨木」紅葉狩」である。
彼の本領は「世話物」であった。その作品をみると、生世話(きぜわ)でも、愁嘆場(しゅうたんば)に義太夫を使い、濡れ場や道行に清元浄瑠璃を使い、やり取りの会話は「唄う」がごとき七五調の台詞が用いられている。彼の七五調の台詞は、「鸚鵡石」として見巧者たちの間に流布され、声色屋のお得意先であった。
彼は次から次へとヒットを飛ばす。現在演じられることの多い作品を挙げてみると、「蔦紅葉宇都谷峠」「鼠小紋東君新形」(ねずみこもんはるのしんがた=鼠小僧)「網模様燈篭菊桐」(小猿七之助)「小袖曽我薊色縫」(十六夜清心)「三人吉三廓初買」(三人吉三)「曽我綉侠御所染」(御所五郎蔵)「八幡祭小望月賑」(縮屋新助)「勧善懲悪覗機関」(村井長庵)など、枚挙に暇がない。こうして並べてみると、泥棒・盗賊を主人公にしている作品が多いところから「白浪物」の作家としてもてはやされた。五世菊五郎のために「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ=弁天小僧)は、一世を風靡した。
明治になって、九世團十郎、五世菊五郎、初世左團次という、いわゆる「團菊左」のトリオのために、活歴(かつれき)物、散切(ざんぎり)物、松羽目(まつばめ)物などをふくめた各ジャンルのものを書いた。「桃山譚」(=地震加藤)「平安太平記」「天衣紛上野初花」(=河内山)「梅雨小袖昔八丈」「土蜘」などがそれである。晩年の作品として挙げられるのは、「島鵆月白浪」「新皿屋舗月雨暈」「四千両小判梅葉」「水天宮利生深川」「盲長屋梅加賀鳶」「船弁慶」「茨木」紅葉狩」である。
彼の本領は「世話物」であった。その作品をみると、生世話(きぜわ)でも、愁嘆場(しゅうたんば)に義太夫を使い、濡れ場や道行に清元浄瑠璃を使い、やり取りの会話は「唄う」がごとき七五調の台詞が用いられている。彼の七五調の台詞は、「鸚鵡石」として見巧者たちの間に流布され、声色屋のお得意先であった。