「暫」は、元禄10年、初代市川團十郎が初演。代々の團十郎が作り上げた「荒事」(あらごと)の代表作。むろん歌舞伎十八番の一つ。
舞台は鎌倉の鶴岡八幡宮の社頭である。今日は中納言清原武衡(たけひら)が関白の宣下(せんげ)を受けるおめでたい日。武衡の家来たちが祝儀を述べあっている。舞台中央には衣冠束帯(いかんそくたい)に笏(しゃく)を持つ公卿(くげ)姿の清原武衡(受け)。そこへ加茂次郎義綱、同三郎義郷、義綱の許嫁桂の前が武衡の家来たちに取り囲まれ、引っ立てられてくる。
義綱は額堂へ大福帳の額を奉納したが、後から来た武衡が雷丸(いかづちまる)の太刀を奉納しようとして、大福帳の額をおろしたことから争いとなり、義綱ら柔弱な男女は荒くれ武士に捕らえられてしまったのである。武衡の前で詮議となり、双方が言い争う。武衡は増長し、高位高官の冠装束(かんむり・しょうぞく)を着け、天下をわがものにしようと振舞っていることを義綱らに批難される。
腹を立てた武衡は、桂の前をなびかせ、義綱らを自分の家来になれと迫る。義綱らはこれに従わず、抵抗する。武衡の意をうけた成田五郎ら六人の武士(腹出し)、鯰坊主・鹿縞入道震斉(しんさい)、女鯰・那須九郎照葉(てるは)らも加わり、義綱らの首を打とうとする。六人の武士が一斉に刀を振り上げ、あわや危機一髪のそのとき、「しばらく」という大音声がする。武衡をはじめ、腹出しらは震え上がる。成田五郎は「どうやら聞いた初音の一声、暫くという声を聞き、首筋がぞくぞくいたす。流行り風邪でも引かにゃぁいいが」と。荏原八郎は「かく言う手前もありようは、足の裏がむずむずいたし、気味が悪うござるわえ」と。足柄左衛門は「なんにいたせ我々などは、まだ喰いつけぬことなれば」と。垣生五郎は「さようさよう、みどもなどもその通り、いま暫くとの声を聞き」と。武蔵九郎は「下っ腹がぴんと申した」と、口々に慄く。「いま、暫くと声かえたるは、なに奴だえぇ」との声に、一段と大きい声で「暫、暫、暫‥」との大音声がする。
そして、「かかる処へ鎌倉の権五郎景政(かまくらのごんごろうかげまさ)は‥」の大薩摩(おおざつま)で、揚幕から素袍(すおう)の両方を軽く動かしながら、鎌倉権五郎景政が出てくる。「素袍(すおう)の袖も時を得て、今日ぞ昔へ帰り花、名に大江戸の顔見世月、目覚しかりける次第なり」と唄う。権五郎景政は花道を三歩ほど花道を進んだところで、素袍を前に合わせた形でシュッシュッシュッと三度腰を屈めて観客に一礼し、「めざましかりける」で、大股で二つ、中股で二つ、小股で二つ、都合六歩進んで、「次第なり」で、ツケが入り、元禄見得を切る。一番の見所である。
景政は「淮南子(えなんじ)に曰く(いわく)、水余りあって足らざるときは、天地にとって万物に授け‥」と、難しい漢語交じりの「つらね」を花道七三のところで朗々と言う。
十八歳の景政に言い負かされた武衡は、業(ごう)をにやし、鯰坊主、女鯰らに命じて景政を捕らえ引っ立てようと行かせるが、みなまったく歯が立たず、威勢に恐れて逃げ回る。特に女鯰は後刻味方の冠者と分かるが、この時も花道まで来て「もし、成田屋のエビさま」などと呼びかけて観客を笑わせる一幕もあって、ご愛嬌である。危ういところを助けられた義綱らは喜ぶ。景政は武衡に向かい、大福帳の額をおろして奉納した太刀は重宝雷丸ではなく、実は君子(くんし)を呪詛(じゅそ)する邪剣だと決めつける。
そのとき、武衡の供の一人、渡辺小金丸が、ホンモノの雷丸を手に入れたと持参する。また義綱が父から勘気を受ける原因になった国守の印も、すでに照葉(女鯰)のもとに戻っていたことが知れる。これまで敵方と見えていた照葉は、実は景政の従弟女(いとこ)で、身許を偽って武衡の館に入りこみ、謀叛(むほん)の企て(くわだて)を逐一、景政のもとに知らせていたのである。さらに、武衡方の家来と見えた小金丸も、実は義家の家来で、武衡から雷丸を奪い返したのであることも明らかになる。
二種の重宝が戻り、義綱は無事に帰参(きさん)がかなう。口惜しがる武衡とその家来たちを尻目に、景政は義綱たちを帰らせる。なおも奴や仕丁が取り囲むと、景政は豪快に大太刀で一振りして、彼らの首が斬り落とされる。景政は、その大太刀を担いで意気揚揚と引き揚げていく。片しゃぎり(下座音楽)となり、幕外で大太刀をかつぎ、きっと見得。「さらし」という下座音楽(太鼓・大太鼓・大鼓・小鼓で荒事の立ち回りや幕切れに使う)で「やっとことっちゃうんとこな」を繰り返しながら、「跡しゃぎり」(テンポの早い下座音楽)で揚幕の方へ向かう。実に単純明快と言おうか、観ていて胸のすくような一幕である。
舞台は鎌倉の鶴岡八幡宮の社頭である。今日は中納言清原武衡(たけひら)が関白の宣下(せんげ)を受けるおめでたい日。武衡の家来たちが祝儀を述べあっている。舞台中央には衣冠束帯(いかんそくたい)に笏(しゃく)を持つ公卿(くげ)姿の清原武衡(受け)。そこへ加茂次郎義綱、同三郎義郷、義綱の許嫁桂の前が武衡の家来たちに取り囲まれ、引っ立てられてくる。
義綱は額堂へ大福帳の額を奉納したが、後から来た武衡が雷丸(いかづちまる)の太刀を奉納しようとして、大福帳の額をおろしたことから争いとなり、義綱ら柔弱な男女は荒くれ武士に捕らえられてしまったのである。武衡の前で詮議となり、双方が言い争う。武衡は増長し、高位高官の冠装束(かんむり・しょうぞく)を着け、天下をわがものにしようと振舞っていることを義綱らに批難される。
腹を立てた武衡は、桂の前をなびかせ、義綱らを自分の家来になれと迫る。義綱らはこれに従わず、抵抗する。武衡の意をうけた成田五郎ら六人の武士(腹出し)、鯰坊主・鹿縞入道震斉(しんさい)、女鯰・那須九郎照葉(てるは)らも加わり、義綱らの首を打とうとする。六人の武士が一斉に刀を振り上げ、あわや危機一髪のそのとき、「しばらく」という大音声がする。武衡をはじめ、腹出しらは震え上がる。成田五郎は「どうやら聞いた初音の一声、暫くという声を聞き、首筋がぞくぞくいたす。流行り風邪でも引かにゃぁいいが」と。荏原八郎は「かく言う手前もありようは、足の裏がむずむずいたし、気味が悪うござるわえ」と。足柄左衛門は「なんにいたせ我々などは、まだ喰いつけぬことなれば」と。垣生五郎は「さようさよう、みどもなどもその通り、いま暫くとの声を聞き」と。武蔵九郎は「下っ腹がぴんと申した」と、口々に慄く。「いま、暫くと声かえたるは、なに奴だえぇ」との声に、一段と大きい声で「暫、暫、暫‥」との大音声がする。
そして、「かかる処へ鎌倉の権五郎景政(かまくらのごんごろうかげまさ)は‥」の大薩摩(おおざつま)で、揚幕から素袍(すおう)の両方を軽く動かしながら、鎌倉権五郎景政が出てくる。「素袍(すおう)の袖も時を得て、今日ぞ昔へ帰り花、名に大江戸の顔見世月、目覚しかりける次第なり」と唄う。権五郎景政は花道を三歩ほど花道を進んだところで、素袍を前に合わせた形でシュッシュッシュッと三度腰を屈めて観客に一礼し、「めざましかりける」で、大股で二つ、中股で二つ、小股で二つ、都合六歩進んで、「次第なり」で、ツケが入り、元禄見得を切る。一番の見所である。
景政は「淮南子(えなんじ)に曰く(いわく)、水余りあって足らざるときは、天地にとって万物に授け‥」と、難しい漢語交じりの「つらね」を花道七三のところで朗々と言う。
十八歳の景政に言い負かされた武衡は、業(ごう)をにやし、鯰坊主、女鯰らに命じて景政を捕らえ引っ立てようと行かせるが、みなまったく歯が立たず、威勢に恐れて逃げ回る。特に女鯰は後刻味方の冠者と分かるが、この時も花道まで来て「もし、成田屋のエビさま」などと呼びかけて観客を笑わせる一幕もあって、ご愛嬌である。危ういところを助けられた義綱らは喜ぶ。景政は武衡に向かい、大福帳の額をおろして奉納した太刀は重宝雷丸ではなく、実は君子(くんし)を呪詛(じゅそ)する邪剣だと決めつける。
そのとき、武衡の供の一人、渡辺小金丸が、ホンモノの雷丸を手に入れたと持参する。また義綱が父から勘気を受ける原因になった国守の印も、すでに照葉(女鯰)のもとに戻っていたことが知れる。これまで敵方と見えていた照葉は、実は景政の従弟女(いとこ)で、身許を偽って武衡の館に入りこみ、謀叛(むほん)の企て(くわだて)を逐一、景政のもとに知らせていたのである。さらに、武衡方の家来と見えた小金丸も、実は義家の家来で、武衡から雷丸を奪い返したのであることも明らかになる。
二種の重宝が戻り、義綱は無事に帰参(きさん)がかなう。口惜しがる武衡とその家来たちを尻目に、景政は義綱たちを帰らせる。なおも奴や仕丁が取り囲むと、景政は豪快に大太刀で一振りして、彼らの首が斬り落とされる。景政は、その大太刀を担いで意気揚揚と引き揚げていく。片しゃぎり(下座音楽)となり、幕外で大太刀をかつぎ、きっと見得。「さらし」という下座音楽(太鼓・大太鼓・大鼓・小鼓で荒事の立ち回りや幕切れに使う)で「やっとことっちゃうんとこな」を繰り返しながら、「跡しゃぎり」(テンポの早い下座音楽)で揚幕の方へ向かう。実に単純明快と言おうか、観ていて胸のすくような一幕である。