かまわぬ

成田屋贔屓が「思いつくまま」の落書き。

鸚鵡石 2

2005-01-30 16:30:20 | 伝統芸能
楼門五三桐(ろうもんごさんのきり)
石川五右衛門&真柴久吉

五右衛門
『絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金(あたいせんきん)たあ小せえ(ちいせえ)、小せえ。この五右衛門には値万両、最早(もはや)陽(ひ)も西に傾き、誠に春の夕暮れに花の盛りもまた一入(ひとしお)、はて、うららかな眺めじゃなぁ。ハテ心得ぬ(こころえぬ)、われを忘れずこのところに羽根(はね)を休むるとは‥。なになに、某(それがし)もとは大明十二代神宗皇帝の臣下宋蘇卿(そうそけい)と言いし者、本国に一子(いっし)を残し、この土(ど)に渡り謀叛(むほん)の企て(くわだて)今月ただいま露顕(ろけん)なし、たとえ空しく(むなしく)相果つるとも、かの地に残せし倅(せがれ)、われを慕うて日本へ渡りしとほぼ聞けど、いまだ対面は遂げず形見(かたみ)に与えし蘭麝待(らんじゃたい)という名香を証拠になにとぞ尋ね出し、わが無念を語り、力を合わせ、久吉を討ち取るべきものなり。すりゃ此村大炒之助(このむらおおいのすけ)と言いしは、わが父宋蘇卿にありつるか、父の無念、光秀公の恨み、たとえこの身は油で煮られ、肉はとろけ、骨は微塵(みじん)に砕くるとも、おのれ久吉、今にぞ思い知らせてくれん。』

久吉
『石川や浜の真砂はつくるとも。』

五右衛門
『ナナ、何と。』

久吉
『世に盗人(ぬすびと)の種はつきまじ。』

五右衛門
『エイッ。』

久吉
『巡礼に、ご報謝。』

この芝居は、元々「通し狂言」ではるが、こんにちでは、この「山門」だけを独立させて上演されている。五右衛門は、大百日という蔓で山門の上に座る座頭の貫禄を具えていなければならない。満開の桜のなかに極彩色の山門があり、大道具の「せり上げ」によって迫力満点の一幕が出来上がっている。先々代の実川延若の五右衛門は、顔といい、口跡といい、風格といい、絶品のものであった。大泥棒の五右衛門が派手な衣裳を着け、大煙管を持って、歯切れのいい台詞を言う。なんと長閑な芝居であろうか。

伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
荒獅子男之助

『アラ怪しやなぁ、今この荒獅子男之助照秀(あらじしおとこのすけ・てるひで)が、侫人(ねいじん)ばらの讒言(ざんげん)によって、君の御前を遠ざけられ、ご寝所(ごしんじょ)間近い(まじかい)床下(ゆかした)に、宿居(とのい)なすともいざ知らず、窺い(うかがい)寄った溝鼠(どぶねずみ)、汝(うぬ)もただの鼠じゃあんめえ。この鉄扇(てっせん)を喰らわぬうち、一巻渡し、キリキリ消えてなくなれえ。』

伊達騒動(だてそうどう)は、実録より講釈のほうが有名である。「伽羅先代萩」は、この騒動を人形浄瑠璃で演じたのは天明五年(1785)であった。江戸でできた浄瑠璃が後に歌舞伎芝居となったのは、珍しいことである。政岡の忠義があって、その御殿の舞台がセリ上がると、「床下」になる。荒獅子男之助は、「荒事」の拵えで、荒事の演出である。そこへ一匹の鼠が出てきて、身軽い演技を見せる。男之助の鉄扇を額に受けて、「すっぽん」の穴へ消える。床下の主役は花道七三の「すっぽん」から煙幕とともに出てくる仁木弾正(にっきだんじょう)であるが、一言の台詞もない役です。貫禄だけの役。仁木の手裏剣を男之助が見事に受ける。最後に『取り逃がしたか、残念な』と、きっぱりと言う。そこでチョーンと幕になる。

仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
早野勘平

『しばらく、しばらくご両所、しばらくお待ちくだされ。亡君尊霊(ぼうくんそんれい)のご恥辱(ごちじょく)とあれば、一通り申し開きつかまつらん。お下に(おしも)に御座って、お聞きくだされ。弥五郎(やごろう)殿、夜前(やぜん)、貴殿にお目にかかり、別れて帰る途(みち)すがら、金の工面(くめん)にとやかくと、心も暗き闇(やみ)まぎれ、山越す猪(しし)に出遭い、二つ玉の強薬(つよぐすり)、切って放てば、あやまたず確かに手応え立ち寄り見れば、猪にあらで旅人。南無三宝(なむさんぼう)薬はなきやと懐中(かいちゅう)を、さぐり見れば、手にあたった金財布(かねざいふ)、道ならぬこととは知りながら、天よりわれに与うる金と押しいただき、なににもせよ、貴殿に追いつきお手渡し仕り、徒党(ととう)の数に入ったりと、喜び勇み立ち帰り、様子をきけば情けなや、金は女房を売った金、打ちとめたるは舅(しゅうと)殿。いかなればこそ勘平は、三左衛門(さんざえもん)の嫡子(ちゃくし)と生まれ、十五の年よりご近習(ごきんじゅう)勤め、百五十石(ひゃくごじゅうこく)頂戴(ちょうだい)いたし、代々塩冶(えんや)のご扶持(ごふち)を受け、束の間(つかのま)ご恩を忘れぬに、色にふけったばっかりに、大事な場所に居合わさず、この天罰(てんばつ)で心を砕き(くだき)、御仇討ち(おんかたきうち)の連判(れんばん)に、加わりたさに調達(ちょうたつ)の、金もかえって石瓦(いしかわら)、交喙(いすか)の嘴(はし)と食い違い、言い訳なさに勘平が、切腹(せっぷく)なしたる身の成りゆき、ご両所方、ご推量(ごすいりょう)くださりませ。』

忠臣蔵の六段目。勘平切腹の場。数右衛門・弥五郎の二人の侍の前で、申し訳なさのため切腹する。この台詞は瀕死の重傷を負っての勘平の台詞である。笛の合方でしんみりとする場面である。 

三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)
お嬢吉三&お坊吉三&和尚吉三

お嬢
『月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)に篝(かがり)もかすむ春の空、冷てェ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏の只一羽(ただいちわ)、塒(ねぐら)に帰る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡れ手で粟(あわ)、思いがけなく手に入る百両‥(ここで、「御厄払いましょう、厄落とし」という声が聞こえる)ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹(よたか)は厄落とし、豆沢山に一文の、銭(ぜに)と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわえ。』
お坊
『もし、姐さん。ちょっと待っておくんなせェ。』
お嬢
『ハイ、何ぞ御用でござりますか。』
お坊
『用があるから呼んだのさ。』
お嬢
『何の御用か存じませぬが、わたしも急な‥。』
お坊
『用もあろうが手間はとらせぬ。待てと言ったら待ちなせェ。』
お嬢
『待てとあるゆえ待ちましたが、してわたしへの御用とは。』
お坊
『用というのは他(ほか)でもねェ。浪人ながら二腰(ふたこし)たばさむ武士が手を下げこなたへ無心、どうぞ貸してもらいたい。』
お嬢
『女子(おなご)をとらえお侍(さむらい)が、貸せとおっしゃるその品は。』
お坊
『濡れ手で粟の百両を。』
お嬢
『エエッ?』
お坊
『見かけて頼む、貸してくだせェ。』
お嬢
『そんなら今の様子をば。』
お坊
『駕籠(かご)にゆられてとろとろと、一杯機嫌の初夢に、金と聞いては見逃せねェ。心は同じ盗人根性(ぬすっとこんじょう)、去年の暮れから間が悪く、五十とまとまる仕事もなく、遊びの金にも困っていたが、なるほど世間はむずかしい。友禅(ゆうぜん)入りの振袖で人柄づくりのお嬢さんが、追い落としとは気がつかねェ。それから見ると俺なんざぁ、五分月代(ごぶさかやき)に着流しで、小長い刀の落とし差し、ちょっと見るから往来の、人も用心する拵え(こしらえ)、金にならねェも、もっともだ。』
お嬢
『それじゃぁ、お前の用というのは、これを貸してくれろとかえ。』
お坊
『取らねェ昔と諦めて、それを俺に貸してくりゃれ。』
お嬢(ここで、娘役の声から、男役の声に変る)
『そりゃぁ、大きな当て違い。犬おどしとも知らねェで、大小差していなさるゆえ、大方新身(あらみ)の胴試し(どうだめし)、命の無心と思いのほか、お安い御用の端た金(はしたがね)、お貸し申してあげたいが、凄味(すごみ)な台詞でおどかされては、お気の毒だが貸しにくい。まぁ、お断り申しやしょう。』
お坊
『貸されぬ金なら借りめェが、形相応(なりそうおう)に下から出て、許してくれと何故言わねェ。木咲(きさき)の梅より愛嬌(あいきょう)の、こぼれる娘の憎まれ口、犬おどしでも大小(でェしょう)を、伊達(だて)に差しちゃぁ歩かねェ。切り取りなすは武士の習い、きりきり金を置いて行け。』
お嬢
『いいや、置いては行かれねェ、欲しい金なら、こちらよりそっちのほうが下から出たがいい。素人衆には大枚(たいまい)の金もただ取る世渡りに、未練(みれん)に惜しみはしねェけれど、こう言いかかった上からは、空吹く風に逆らわぬ。柳に受けちゃぁいられねェ。切り取りなすが習いなら、命とともに取んなせェ。』
お坊
『そりゃぁ、取れと言わねェでも、命もいっしょに取る気だが、お主も定めて名のある盗人、無縁(むえん)にするも不憫(ふびん)ゆえ、今日を立日(たちび)に七七日(なななぬか)、一本花に線香は、殺した俺が手向け(たむけ)てやるから、その俗名(ぞくみょう)を名乗っておけ。』お嬢
『名乗れとあるなら名乗ろうが、まぁ俺よりはそっちから、七本塔婆(とうば)に書き記す、その俗名を名乗るがいい。』
お坊
『こりゃぁ、俺が悪かった。人に名を訊く(きく)そのときは、まぁこっちから名乗るが礼儀、そこが仇名(あだな)のお坊さん、こゆすり騙り(かたり)、ぶったくり、押しのきかねェ悪党(あくとう)も、一年増しに功を積み、お坊吉三と肩書きの、武家お構いのごろつきだ。』
お嬢
『そんならかねて話に聞いた、お坊吉三はお主がことか。』
お坊
『してその方の名は何と。』
お嬢
『問われて名乗るもおこがましいが、きかぬ芥子(からし)と悪党の、凄味のないのは馬鹿げたもの、そこで今度は新しく八百屋お七と名を借りて、振袖姿で稼ぐゆえ、お嬢吉三と名に呼ばれ、世間の狭い食い詰め者さ。』
お坊
『俺が名前に似寄りゆえ、とうから噂に聞いてはいたが、お嬢吉三とあるからは、相手がよけりゃぁ尚更(なおさら)に。』
お嬢
『この百両を取られては、お嬢吉三の名折れとなり。』
お坊
『取らなけりゃぁ、負けとなり、お坊吉三の名の廃り(すたり)。』
お嬢
『互いに名を売る身の上に、引くに引かれぬこの場の出会い。』
お坊
『いまだ彼岸(ひがん)にもならねェに、蛇が見込んだ青蛙。』
お嬢
『取る取らないは命づく。』
お坊
『腹が裂けても呑まにゃぁおかねェ。』
お嬢
『そんならこれをここへかけ。』
お坊
『虫拳(むしけん)ならぬ。』
お嬢
『この場の勝負。』
和尚
『二人ともに、待った待った。』
お嬢
『やぁ、見知らぬそっちがいらぬ留立て(とめだて)。』
お坊
『怪我せぬうちに。』
二人
『退いた(のいた)、退いた。』
和尚
『イイヤ退かれぬ二人の衆。初雷も早すぎる。氷も解けぬ川端に、水にきらめく刀の稲妻、不気味な中へ飛び込むも、まだ近づきにゃぁならねェが、顔は覚えの名うての吉三、いかに血の気が多いとて、大神楽(でえかぐら)じゃぁあるめェし、初春早々剣の舞、どちらに怪我があってもならねェ。丸く収めに仇名さえ、坊主上がりの和尚吉三、幸い今日は節分に、争う心の鬼は外、福は内輪(うちわ)の三人吉三。福茶の豆や梅干の、遺恨(いこん)の種を残さずに、小粒の山椒のこの俺に、厄払いめく台詞だが、さらりと預けておくんなせェ。』

大川端の場は、三人吉三の登場で見物は酔い痴れるのである。

鸚鵡石

2005-01-30 16:14:35 | 伝統芸能
「おうむ石」というのは、歌舞伎の名台詞を集めた小冊子のことである。黙阿弥作の七五調の軽快な名台詞は、通ならずとて、みなが競って覚える。「知らざあ言って聞かせやしょう‥」などは、弁天小僧を観たことがある人は、この台詞を真似ていると自分が弁天小僧になったかのような気分になってくる。一人お風呂のなかで「役者気取り」になるもよし、二次会のかくし芸で披露するも、またよし。

まず定番中の定番は「弁天小僧」であろう。『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうしはなのにしきえ)浜松屋の場より。
『知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂(まさご)の五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすっと)の、種は尽きねえ七里ガ浜、その白浪(しらなみ)の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児ヶ淵(ちごがふち)。百味講(ひゃくみ)で散らす蒔銭(まきせん)を、当てに小皿の一文子(いちもんこ)、百が二百と賽銭(さいせん)の、くすね銭(ぜに)せえだんだんに、悪事はのぼる上の宮(かみのみや)、岩本院の講中(こうじゅう)の、枕探しも度重なり、お手長講(おてながこう)と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆(わかしゅ)の美人局(つつもたせ)、ここやかしこの寺島(てらじま)で、小耳に聞いた音羽屋(おとわや)の似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすり騙り(かたり)、名せえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助たぁ、おれのことだ』
さすがに黙阿弥である。小気味よい痛快な台詞である。

続いて、歌舞伎十八番のうち、「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)の助六の啖呵である。
『いかさまなぁ、この五丁町に脛(すね)をふんごむ野郎めら、おれが名を聞いておけ、まず第一(でえいち)に瘧(おこり)が落ちる。まだいいことがある、大門をずっとくぐるとき、おれが名を手の平へ三遍書えて(さんべんけえて)なめろ。一生女郎(じょろう)にふられるということがねえ。見かけがケチな野郎だが、胆(きも)が大きい。遠くは八王子(はちおうじ)の炭焼き売炭(すみやきばいたん)の歯っかけ爺(じじい)、近くは山谷(さんや)の古遣手(ふるやりて)梅干し婆(ばばあ)にいたるまで、茶飲み話の喧嘩沙汰(けんかざた)、男伊達r(おとこだて)の無尽(むじん)の掛け捨て、ついに引けを取ったことのねえ男だ。江戸紫(えどむらさき)の鉢巻に、髪は生締め(なまじめ)、それぇ、刷毛先(はけさき)の間(ええだ)から覗いてみろ。安房上総(あわかずさ)が浮絵(うきえ)のように見えるわ。相手が増えれば竜(りゅう)に水、金竜山(きんりゅうざん)の客殿から、目黒不動の尊像(そんぞう)までご存知の、大江戸八百八町にかくれのねえ、業容牡丹(ぎょようぼたん)の紋付も、桜に匂う仲ノ町、花川戸の助六とも、まった揚巻の助六ともいう若い者、間近く寄って、面像(めんぞう)拝み奉れ(たてまるれ)、べええ。』
男前の上に、紫の鉢巻をし、胸のすくような啖呵をよどみなく切る助六は、武士に頭が上がらなかった江戸の庶民のヒーローである。

三つめは、河内山である。天衣紛上野発花(くもいにまごううえののはつはな)に登場する「大悪」の河内山宗俊である。
『大膳はこれを知っていたのか、あははは。いかにも俺ぁ河内山(こうちやま)だ、何だ何だ、エエ仰々しい(ぎょうぎょうしい)、静かにしろ。こんなひょうきん者に出られちゃぁ仕方がねえ。何もかも言って聞かせらぁ。まあ、こういう訳だ、聞いてくれ、よお。悪に強けりゃ善にもと、世の譬え(たとえ)にもいうとおり、親の嘆きが不憫(ふびん)さに、娘の命を助けるため、腹にたくみの魂胆(こんたん)を、練塀小路(ねりべこうじ)に隠れのねえ、お数寄屋坊主(おすきやぼうず)の宗俊(そうしゅん)が、頭の丸いを幸いに、衣(ころも)でしがを忍ヶ岡(しのぶがおか)、法衣《ころも》でしがを忍が岡。神の御末(みすえ)の一品親王(いっぽんしんのう)、宮の使えと偽って、神風よりゃァ御威光(ごいこう)の、風を吹かして大胆にも、出雲守(いずものかみ)の上屋敷へ仕掛けた仕事の曰く窓(いわくまど)。家中一統白壁と、思いのほかに帰りがけ、とんだところへ北村大膳。腐れ薬をつけたら知らず、抜きさしならねえ高頬(たかほ)のほくろ。星をさされて見出されちゃァ、そっちで帰れといおうとも、こっちはこのまま帰らねえ。この玄関の表向き、おれに騙り(かたり)の名をつけて、若年寄へ差し出すか、それとも無難におさめたけりゃ、お使え僧でこのまま帰すか、二つに一つの返事を聞かにゃァ、ただこのままにゃ帰られねえよ』
悪党・河内山の変身の面白さは観る者を堪能させる。「とんだところへ北(来た)村大膳‥」というシャレも面白い。最後にお殿様が現れる‥花道で河内山が「バカッ!」と一喝を食らわす。思わず、「成田屋!!」と言わずにいられない。

籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのよいざめ)
佐野次郎左衛門

『花魁(おいらん)、そりゃ、ちとそでなかろうぜ。‥夜毎(よごと)に変わる枕の数、浮き川竹(※花柳界のこと)の勤めの身では昨日にまさる今日の花と、心変わりはしたか知らねど、もう表向き今夜にも身請け(みうけ)のことを取り決めようと、昨夜(ゆうべ)も宿で寝もやらず、秋の夜長を待ちかねて、菊見がてらに廓(くるわ)の露、ぬれてみたさに来てみれば、案に相違の愛想づかし、そりゃぁもう田舎者のその上に、二目(ふため)と見られぬわしゆえに、断られても仕方がないが、なぜ初手(しょて)から言うてはくれぬ。江戸へ来るたび吉原で、佐野の誰とか噂(うわさ)もされ、二階へ来れば、朋輩(ほうばい)の花魁たちや禿(かむろ)にまで呼ばれるほどになってから、指をくわえて引き込まりょうか、ここの道理を考えて、察してくれてもいいではないか。』

作者は、三世阿竹新七である。黙阿弥の高弟である。この兵庫屋敷での八つ橋の愛想づかしに対する次郎左衛門の悲痛なまでの恨み言。七五調の見事な台詞である。先代吉右衛門の流れるような台詞術が勘三郎、白鸚から、現吉右衛門に受け継がれている。

梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)
髪結新三
『これよく聞けよ。普段は帳場を廻りの髪結、いわば得意のことだから、汝(うぬ)がような間抜けな野郎にも、やれ忠七さんだとか、番頭さんとか、上手(じょうず)を使って出入りをするも、一銭職(いっせんしょく)と昔から、下った(くだった)稼業の世渡りに、ニコニコ笑った大黒の、口をつぼめたからかさも、並んでさして来たからは、相合傘(あいあいがさ)の五分と五分。ろくろのような首をして、お熊が待っていようと思い、雨のゆかりにしっぽりと、濡るる心で帰るのを、そってが娘にふりつけられ、はじきにされた口惜しんぼ(くやしんぼ)に、柄(え)のねえところへ柄をすげて、油紙へ火のつくように、べらべら御託(ごたく)をぬかしゃがりゃぁ、こっちも男の意地づくに、破れかぶれとなるまでも、覚えがねえと白張り(しらはり)の、しらを切ったる番傘で、汝(うぬ)がか細いその体へ、べったり印(しるし)をつけてやらぁ。』

河竹黙阿弥の傑作中の傑作である、落語ネタ。世話狂言の真髄を見る狂言。この傘づくしの台詞は、序幕第三場、永代橋で新三が白子屋の忠七をだまして、お熊を連れ出しておきながら、わざととぼけるばかりか、忠七を叩きのめすという場面である。これまた、七五調の台詞で、気持ちがいい。

与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)
向う疵の与三郎

『しがねえ恋の情けが仇(あだ)、命の綱の切れたのを、どう取りとめてか木更津(きさらづ)から、めぐる月日も三年越し(みとせごし)、江戸の親にゃぁ勘当(かんどう)うけ、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても、面(つら)に受けたる看板(かんばん)の、疵(きず)がもっけの幸いに、切られ与三(よそう)と異名(いみょう)をとり、押借り(おしがり)強請(ゆすり)も習おうより、慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)、その白化け(しらばけ)か黒塀(くろべい)の、格子づくり(こうしづくり)の囲い者、死んだと思ったお富たぁ、お釈迦さぁでも気がつくめぇ。よくまあ、お主(ぬし)ぁ、達者でいたなぁ。安やい、これじゃぁ、一分(いちぶ)じゃぁ帰られねめぇ。』

蝙蝠安
『なるごど、こいつぁ一分じゃ、帰られねぇわな。』

与三郎
『まだ木更津にいたときは、こっちも亭主のある体、それと知りつつうっかりと、はまり込んだは、こっちも不覚(ふかく)。その代わりにゃぁ、この通り、源左衛門が(げんざえもん)が殺しもやらず切りさいなみ、総身にかけて三十四ヶ所、この疵は誰のために受けた疵だ、いやさどなたのために受けた疵だ。その時、手前(てめえ)も海松杭(みるくい)に追い詰められて木更津の海へざんぶり飛び込んだと、聞いた時の俺の心。今に忘れず思い出し、念仏のいっぺんも唱えていたんだ。それになんだ、今聞いていりゃぁ、立派な亭主がある。こうお富、それじゃぁ、手前(てめぇ)済むめえがなぁ。』

声色のナンバーワンといえば、この与三郎の「しがねぇ恋の‥」であろう。「死んだはずだよ、お富さん」と歌謡曲でも唄われたほどである。作者は瀬川如皐。与三郎役は、八代目團十郎(初演)から十五世市村羽左衛門を経て、十一世團十郎に受け継がれ、当代や菊五郎が演じ、おそらく新・海老蔵の持ち役になるであろう。お富は、亡くなった梅幸、歌右衛門が絶品であった。蝙蝠安は、もともと端役であったのを名人・松助が傑作を残し、亡くなった松緑、勘三郎などがいい味を出していた。

新皿屋敷月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)
魚屋宗五郎

『呑んで言うんじゃぁございませんが、妹が殿様のお目にとまり、支度金(したくきん)に二百両くだすった時の有り難さ、実はね、うちの雑物(ぞうもつ)を残らず質においてしまい、その日に困ったところゆえ、ほんのことだが親子四人、磯部様(いそべさま)のおかげだと、有難涙(ありがたなみだ)に暮れました。はははは。妹の支度をした残りで、質を出せば借りも返し、まず盤台(ばんだい)から天秤棒(てんびんぼう)まで、そっくり新規(しんき)にこしらえて、魚は芝の活もの(いけもの)を、安く売るので直(じき)に売れ、毎日銭(ぜに)が儲かるので、好きな酒を鱈腹(たらふく)呑み、なんだか面白くって、ははははは。親爺(おやじ)も笑やぁ、こいつも笑い、わっちも笑って暮らしやした。はははは。よろこびあれば悲しみありと、こちらの邸(やしき)の殿様が、何の咎(とが)もねえ妹を、なぶり殺ししたというから、腹が立って堪えられねぇ、その敵(かたき)をとりに来たんだ。ここでわっちに殿様を、どうぞ逢わしてくんなせえ。』

これまた黙阿弥作の音羽屋の家の芸。妹がなぶり殺しにされた恨みを酒の勢いをかりて、磯部主計之助邸に暴れこみ、玄関先でさんざん毒つく。禁酒を破って酒を呑み、だんだん酔っていく過程を演ずる宗五郎役の見せ所である。六代目菊五郎から、松緑、勘三郎へ受け継がれ、現菊五郎、富十郎が好演。

三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)
お嬢吉三

『月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の、篝(かがり)もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、塒(ねぐら)に帰(け)える川端(かわばた)で、棹(さお)の雫(しずく)か濡れ手で粟(あわ)、思いがけなく手に入る百両、(「御厄払いましょう、厄落とし」の声)ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹(よたか)は厄落とし、豆沢山(まめだくさん)に一文(いちもん)の、銭(ぜに)と違って金包み、こいつぁ春から縁起(えんぎ)がいいわえ。』

これも声色のベストテンに入る。このお嬢吉三とお坊、和尚の三人は白浪、いわば「泥棒」である。女装の泥棒、お嬢吉三。武家上がりのお坊、所化(しょけ)上がりの和尚、と揃えたのは、やはり黙阿弥ならではの筋である。梅幸、松緑、十一世の三人、昭和の三之助といわれた菊五郎、辰之助、十二代に続くのは、やはり菊之助、松緑、新・海老蔵か。

十一代目海老蔵に期待する

2005-01-24 15:51:59 | 伝統芸能
戦後60年になるが、昭和30年代の日本はまだ貧しかった。そんな時、梨園に光を差し込んだのは、市川海老蔵だった。容姿、風貌とも「光源氏」が現代に蘇ったかのような海老蔵は、「助六」「源氏物語」「若き日の信長」と、次から次へと歌舞伎の舞台に華を咲かせた。その口跡の爽やかさ、音量の豊かさ、どことなく翳のある美しい顔に満都の女性は魅入られた。そして「海老さまブーム」が沸き起こった。新橋の綺麗どころたちが「海老を食べない(海老蔵に手を出さない)」という噂まで広がった。

あれから、およそ半世紀が経った。いま平成の海老蔵が誕生したのである。昨年五月を皮切りに日本各地はもとより、遠く花の都パリでも、その襲名披露興行が行われた。新・海老蔵にとって、昭和の海老さまは祖父にあたる。むろん、彼はその海老さまを知らない。しかし、写真やら映像に残されている祖父(十一世團十郎)にぞっこんの新・海老蔵である。幸いにも、彼の演技のなかに祖父の面影を観ることができる。

祖父の当り芸だった「助六」をはじめ、まだまだこれからたくさんの宿題が残されている。これからの精進によって、父・十二代目團十郎、祖父・十一世團十郎に追いつき、追い越せる資質を磨いていくことを見守っていきたい。

團十郎代々 その二

2005-01-23 15:36:28 | 伝統芸能
《八代目團十郎》 
七代目の長男。文政6年(1823)生後1ヶ月余りで、新之助の名で市村座の顔見世に碓氷貞光一子荒童丸の役で舞台に出る。文政8年(1825)10月、生まれた弟に新之助の名を譲り、自身は六
代目海老蔵を襲名(3歳)。

天保3年(1832)3月、市村座で「助六由縁江戸桜」の助六で、八代目團十郎を襲名(10歳)。八代目はこのとき外郎売ととらや藤吉を演じた。天保9年、17歳「伊達」の男之助を演じ、初座頭となる。この時代、天保の改革の一環としての弾圧が始まり、江戸の興行界は危機的な時期を迎えた。
江戸三座は強制的に浅草の猿若町へ移転させられたのである。都心を離れた所へ移され、当初は客足も減ってしまったが、あまり時を経ずして以前にも増す賑わいを取り戻したが、その原動力には八代目の人気が大きかったといえよう。

八代目は面長で非常な美男子であった。代々の團十郎とは違った型の風姿を備えていた。粋で、上品で、色気があり、それでいていや味がなく、澄ましていても愛嬌があった。音声は甲走って高く、さわやかで朗々とした名調子だったという。

また、親孝行でも知られ、父の七代目が追放された時、毎朝精進茶断ちをして、蔵前の成田不動の旅所に日参し、父の無事と赦免を祈った。これを理由に町奉行から表彰され銭十貫文を貰ったという。

当時、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶の水で、白粉を溶かすと美貌になれるという噂があり、一徳利一分で飛ぶように売れたという。また、八代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と表書きして、御殿女中たちが錦の守り袋に入れ、肌守りにしていたとの伝説もあった。

嘉永7年6月、大坂にいた父海老蔵を訪ねようと江戸を発つ。途中の名古屋で興行中の父と合流し、舞台に出演。7月28日には、父と道頓堀中の芝居へ船乗り込みをした。そして、大坂での初日を迎えた8月6日の朝、島の内御前町の旅館植久の一室で自殺してしまった(32歳)。原因は不
明。美貌で生涯独身を通した八代目の人気は死後も衰えず、300種を超える膨大な死絵が出版された。当り役は切られ与三郎・田舎源氏・児雷也・和籐内・助六など。

《九代目團十郎》
七代目の五男。本名、堀越秀。生まれて7日目に河原崎座<かわらさきざ>の座元、河原崎権之助の養子となり、河原崎長十郎と名のった。養家では厳しい教育を受ける。嘉永5年(1852)9月、河原崎権十郎と改名。その前後は、河原崎座の若太夫として別格の処遇を受け、子役から立役に進んで役者としての修行を積んだ。嘉永7年(1854)8月、兄の八代目が自殺(19歳)。その翌年養家の河原崎座が焼失し、興行権を失ったため、安政4年(1857)養父とともに市村座へ出ることとなり、やがて大役を演ずるようになる(20歳)。

明治元年(1868)9月、養父権之助が強盗に殺害されるという悲惨な事件に遭ったため、養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年3月、七代目河原崎権之助を襲名。市村座の座頭の地位に座った(32歳)。明治6年(1873)9月、義弟の蝠次郎に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升<さんしょう>と改名(36歳)。

明治7年(1874)7月、芝新堀に河原崎座を建て、これを置き土産にして市川家に戻り、ただちに九代目團十郎を襲名(37歳)。河原崎座の座頭となった。明治9年(1876)9月より、守田座の座頭となる。明治11年(1878)6月には、移転、焼失などを経て近代的な大劇場として再建築された新富座(もとの守田座)で、九代目は従来の歌舞伎の演技・演出を大胆に変えたり、写実主義的な「活歴物<かつれきもの>」と呼ばれる新作の芝居を積極的に上演するなど、演劇改良運動に力を注ぎ始める(41歳)。しかし、長い間江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買う。

明治20年(1887)、井上馨邸における天覧劇に、五代目菊五郎らとともに、明治天皇の前で『勧進帳』『高時』を上演。役者の社会的身分の向上を実現した(50歳)。新歌舞伎十八番(その数は18種に限定せず、実際には32種とも、40種ともいう)を制定。明治27年(1894)ごろからは、再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになる(57歳)。

九代目が活歴時代に創造した「肚芸」と呼ばれる心理主義的な表現方法は、古典歌舞創造法に応用され、近代歌舞伎の体質に大きな影響を与えた。それ以外にも「九代目の型」「成田屋の型」として尊重される数々の狂言の演出を、現代歌舞伎に残した。風采、弁舌、所作に優れ、歴史に忠実な解釈をみせ、時代・。世話に長じ、立役・敵役・女形を兼ねたが、本領は時代物。高尚な能楽を取り入れた。当り役は、弁慶・高時・大森彦七・紅葉狩・娘道成寺・助六・暫・鏡獅子・熊谷・松王丸・重盛・春日局・政岡・地震加藤・伊勢三郎・仲光・酒井の太鼓・勝元など。

明治36年(1903)9月13日没(66歳)。

《十代目團十郎》
明治15年(1882)日本橋の豪商稲延利兵衛の次男として生まれる。慶応義塾を卒業後、九代目の長女実子の聟となった。九代目没後の明治43年(1910)、突然役者を志し、上方役者の初代中村鴈治郎を頼って巡業先を訪ね、ひそかに端役で舞台を踏んだ。同年10月大阪中座にて、本名の堀越福三郎を芸名として正式に役者として披露をする(29歳)。

大正6年(1917)11月、歌舞伎座で『矢の根』を演じ、五代目市川三升と改名(36歳)。素人が中年過ぎてから踏み込んだ役者修行だったから、所詮技芸に難があり、彼の努力にかかわらず役者としての評価はかんばしいものではなかった。しかし、つねに市川宗家としての権威を守り抜こうとする意欲と責任感を持ち、未曾有の團十郎空白期間、宗家としてなすべき役を勤める。

『解脱<げだつ>』『不破<ふわ>』『象引<ぞうひき>』『押戻<おしもどし>』『嫐<うわなり>』『七つ面<ななつめん>』『蛇柳<じゃやなぎ>』などの埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演して見せたことが、特筆すべき業績であろう。

昭和31年(1956)2月1日没(73歳)。告別式の当日、後継者の海老蔵(十一代目團十郎)が故人に十代目團十郎の名跡を追贈した。

《十一代目團十郎》
明治42年(1909)1月6日、七代目松本幸四郎の長男として生まれる。本名、堀越治雄。弟に八代目松本幸四郎(後の初代白鸚)と二代目尾上松緑。大正4年(1915)1月、帝国劇場で松本金太郎と名のって初舞台(6歳)。昭和4年(1929)4月、帝国劇場で九代目市川高麗蔵<こまぞう>と改名(21歳)。昭和14年(1939)に市川三升(十代目團十郎)の養子となる。

昭和15年(1940)5月、東京歌舞伎座で「外郎売」で九代目市川海老蔵を襲名(32歳)。昭和16年(1941)太平洋戦争始まる。慰問興行などに従う。

戦後の荒廃した歌舞伎界に、十五代目羽左衛門を偲ばせる美男役者として台頭する。昭和21年(1946)6月、東京劇場で助六を演じ、人気が出る(38歳)。昭和26年(1951)3月、歌舞伎座で舟橋聖一訳の『源氏物語』の光君を演じて大好評を得る。このころから「海老さま」の愛称で満都の子女を魅惑する。(43歳)。

昭和31年(1956)に養父三升が没し、周囲の十一代目襲名の期待が高まったが、大きすぎる名跡を継ぐことに本人の逡巡もあり、なかなか実現には至らなかった(48歳)。昭和37年(1962)4月、歌舞伎座で十一代目團十郎襲名(54歳)。九代目が没してから59年間にわたって空白だった市川團十郎が誕生した。

十一代目の魅力は、なんといっても並外れた美男ぶりであったが、風姿がよく、おのずから高い気品が備わっていた。また口跡のすばらしさ、音域の高低も他の追従を許さなかった。また、美男のうちに、どことなく翳のある役者だった。文字通り昭和歌舞伎の華を代表する役者であった。

しかし、「佳人薄命」を地でゆくように、わずか二年半で團十郎時代の幕を引き、昭和40年(1965)11月10日(56歳)で、没した。

芸風は不器用と言われながらも誠実な人格を芸に現し、気骨ある風采、華やかな容姿で一世を風靡した。当り役は、古典では助六、盛綱、富樫、与三郎、五郎蔵、清心など。新作では源氏物語、若き日の信長、魔界の道真、築山殿始末などが挙げられる。

團十郎代々 その一

2005-01-22 12:42:48 | 伝統芸能
《初代團十郎》
祖先は武田家の臣、下総に住み、堀越姓を名乗る。父は、顔役で人望厚く「面疵の重蔵」などとあだ名された侠客、唐犬十右衛門とも親交があったとか。十二歳で市川海老蔵として、中村座で初舞台。後に段十郎と称す。貞享2年(1685)市村座における『金平六条通』の坂田金平役が荒事の創始とする説が有力である(26歳)。当時江戸で人気を集めていた人形芝居の金平浄瑠璃からヒントを得たと伝えられる。金平浄瑠璃の内容は、坂田金時の子金平が超人的な怪力を発揮して、頼光四天王の子どもたちとともに鬼神・妖怪や悪人どもを退治する有様を描き、人形が岩を割る、首を引き抜くなどの荒っぽい演出だったという。

江戸歌舞伎の中では、團十郎以前から荒々しい武者が立ち回りをする「荒武者事」と呼ぶ演技類型(パターン)が形成されていて、敵役系統のものと奴系統のものがあったが、團十郎はそれらを統合し、敵役をやっつける正義の味方として演じる新しい荒武者事を創始した。それが「荒事」である。主人公が大切(一日の狂言の最後)に荒(現)人神の分身となって立ち現れる、いわゆる「神霊事」の演出を伴っていたことが、従来の単なる「荒いこと」と團十郎の「荒事」とを分ける決定的な違いだった。

上方の俳人、椎本才麿に入門、俳名を才牛とし、役者の雅号俳名の最初とされる。学問・文芸に才能があり、狂言作者としても活躍。「三升屋兵庫」というペンネームを使ったこともある。

元禄17年(1704)2月19日、四十五歳の時、市村座の『わたまし十二段』に佐藤忠信の役で出演中、役者の生島半六に舞台で刺し殺された。(45歳)。

《二代團十郎》
 初代が成田不動尊に祈願をこめて、授かった子であるという噂があり、「不動の申し子」ともいわれた。元禄10年(1697)5月、中村座で初代が演じた『兵根元曾我』での山伏通力坊の役を演じたのが初舞台(10歳)。元禄17年(1704)、父の突然の死に遭う。同年7月、山村座で二代目團十郎を襲名(17歳)。二代目は豪放な荒事芸ばかりでなく、和事、実事・濡れ・やつしなど幅広い芸域を持つことができた。二代目は曽根崎心中の徳兵衛など、近松門左衛門作の世話物の主人公も演じて成功した。

正徳3年(1713)4月、山村座の『花館愛護桜』の二番目に助六を初演(26歳)。36年後の寛延2年(1749)、二代目62歳で三度目に演じた舞台によって、ほぼ現行に近い扮装と演出の「助六」劇が完成された。正徳4年(1714)絵島生島事件に巻き込まれるが、軽い処分ですむ(27歳)。二代目は、初代から継承した芸を洗練させたほか、『助六』『矢の根』『毛抜』など、のちの歌舞伎十八番に含まれることになる新しい荒事芸も創始、いわゆる家の芸を確立した。それを可能にしたのは、二代目の演技が荒事の骨法を基本にしながら、和事風のやわらか味をも取り入れていく新しいタイプの表現法であったためである。やがて、それが当時の江戸文化の気風と合って、絶大な人気を集めるようになる。隈取りの様式性を完成させたのも彼の功績だった。

享保6年(1721)には、千両の給金を与えられる「千両役者」となる(34歳)。享保20年(1735)養子の升五郎に三代目團十郎を襲名させ、自らは二代目海老蔵となった(48歳)。寛保元年(1741)大坂に上る。『毛抜』の粂寺弾正を初演し、実事の芸が上方においても認められる。しかし、その大坂滞在中、三代目の訃報を聞く(54歳)。失意にひるまず大坂の舞台を勤め、翌年の9月に江戸に帰る(55歳)。

宝暦4年(1754)11月、二代目松本幸四郎(44歳)を養子に迎え、四代目團十郎を襲名させる(67歳)。初代同様、俳諧を能くする文化人でもあった。俳名は、三升・才牛・栢莚。江戸の町人社会において「市川團十郎」が別格の役者として尊敬されることになる基礎を固めた。宝暦8年(1758)9月24日没(71歳)。

《三代目團十郎》
享保6年(1721)、初代團十郎の高弟三升屋助十郎の子として生まれる。享保10年(1725)、4歳で二代目團十郎の養子となる。享保12年(1727)、中村座の顔見世に市川升五郎と名のって初舞台(7歳)。享保20年(1735)、市村座の顔見世で三代目市川團十郎を襲名(15歳)。寛保元年(1741)、養父の海老蔵(二代目團十郎)とともに大坂へ上ったが、すぐに発病して江戸へ戻る(21歳)。寛保2年
(1742)2月27日没(22歳)。艾(もぐさ)売りの台詞、役者苗字名所尽くしの台詞、養父
の白酒売りと掛け合いで演じた禿(かむろ)の台詞、「暫」の大文字和漢の台詞など、若さにものを言わせた長台詞を得意とし、また享保二十年正月に、「振分髪初買曽我」で虚無僧の五郎を演じたのが当たり役といわれている。

「甲子夜話」を著した松浦静山侯は團十郎贔屓で、当時三代目に尺八を贈ったりした。三代目は夭折したため、「多芸」と言われ、将来を期待されていたが、芸風の確立を見ることはできなかった。妻は八代目羽左衛門の女、その一女かめは五代目團十郎に嫁した。

その死を悼み海老蔵(二代目團十郎)は「梅散るや三年飼ふたきりぎりす」の句を手向けた。早過ぎる死により、以後十年余りの間、市川團十郎の名跡は空白期間を持つことになる。

《四代目團十郎》
江戸堺町の芝居茶屋、和泉屋勘十郎の次男であるが、実は二代目團十郎の妾腹の子とも言われていた。3歳の時、初代松本幸四郎の養子になり、9歳の時松本七蔵と名乗って、享保四年、森田座の「傾城紫手綱」で、菓子折りのなかから現われて鎌髭の荒事を演じたのが初舞台。24歳までは女形として舞台に立っていたが、享保の末から立役に転じ、享保20年(1735)11月、二代目が海老蔵、升五郎が三代目團十郎を襲名した興行で七蔵も二代目松本幸四郎を襲名(25歳)。

宝暦4年(1754)11月、12年間空白だった團十郎の名跡を切望し、海老蔵(二代目團十郎)の養子となり、四代目團十郎を襲名(44歳)。明和7年(1770)実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を襲名させ、自分はいったん旧名の幸四郎に戻る(60歳)。安永5年(1776)、市村座公演の千龝楽、にわかに剃髪し引退。随念と名乗り深川木場の自宅に引きこもり、侠客や俳諧仲間と交遊。皆から親しみを込めて「木場の親玉」と呼ばれた(66歳)。

五代目團十郎、四代目幸四郎、初代中村仲蔵らの門弟を集めて「修行講」と呼ぶ演技の研究会を開いた。俳名を海丸・五粒・三升・夜雨庵などと名乗った。身体が長大で芸風は実悪にすぐれ、声量も豊かで、荒事、実悪、道化、女形も兼ねていた。当たり役は、松王丸、景清、工藤、師直、熊谷、為朝、由比正雪など。安永7年(1778)2月25日没(68歳)。

《六代目團十郎》
五代目の子であるが、門弟の市川升蔵が引き取り、いったん五代目の従弟にあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子になるが、天明2年(1781)4歳の時、改めて五代目の養子になる。

天明3年(1782)正月、中村座の『七種粧曽我』の座頭徳都役で徳蔵の名で初舞台(5歳)。同年11月、中村座で四代目海老蔵を襲名。寛政3年(1791)11月、市村座顔見世で六代目團十郎を襲名
(14歳)。寛政8年(1796)に五代目が引退したため、19歳の青年、團十郎にかけられる期待はいよいよ大きく、責任も重かった。

若くて花のある美男役者だったらしく、楽屋口で出待ちをする娘たちがいたという。また、似顔絵からみると鼻筋の通った高い鼻と眉毛の形に特徴があり、父の五代目譲りの愛嬌のある風貌だったと想像される。当たり芸として力弥・伊豆の次郎・不破伴作・曽我の五郎・定九郎・雛鳥・頼光・加藤清正・渡海屋銀平・いがみの権太・荒獅子男之助・助六など。

寛政11年(1799)3月、初めて家の芸の助六を演じ大当たりをとったが、翌月風邪のために休演、「こはいかに折れし三升の菖蒲太刀」という句を残し、寛政11年(1799)5月13日没(22歳)。

《七代目團十郎》
五代目の孫にあたる。寛政6年(1794)8月、新之助と名のって初舞台。寛政8年(1796)11月河原崎座の顔見世に、わずか5歳で初めての『暫』を演じる。寛政11年(1799)5月に、六代目が急逝したため、翌12年(1800)11月、市村座の顔見世でにわかに七代目團十郎を襲名することに
なった(13歳)。

文化3年(1806)、祖父の五代目が没し、青年團十郎は激しい劇界の荒波に投げ出されることとなる(16歳)。文化・文政期には、並み居る名優に囲まれて、七代目も芸を磨き芸域を広げていった。四代目鶴屋南北の狂言の中で、強烈な個性を発揮。『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門に代表される、「色悪」という役どころを確立。

天保3年(1832)3月、市村座で息子の海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自分は五代目海老蔵になる(42歳)。同時に歌舞伎十八番を制定。

天保11年(1840)3月、初代團十郎の百九十年記念興行として『勧進帳』を初演、一世一代の弁慶を勤める。(松羽目物の始まり)。天保13年(1842)4月6日、奢侈を禁じる天保の改革により、七代目は南町奉行所に召喚され、手鎖のうえ、家主の預かりになる。さらに6月22日には江戸十里四方追放の刑に処せられる。

江戸を追放された七代目は、成田屋七左衛門と改名し、6月25日江戸を発ち成田山新勝寺延命院に寓居する。翌年2月には富士根方(静岡県)の眼医伊達本益を頼り、1、2ヶ月滞在。その後大坂へ上る。以後は大坂に住み、京、大津、桑名などの芝居にも出る。その際の名は、市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田七左衛門などを使った。

嘉永2年(1849)12月26日の特赦により、ようやく追放赦免の沙汰が出た。翌3年正月16日に江戸にすぐ帰るようにという書状が届き、慌ただしく出発。2月29日江戸に着く。しかし、気ままな暮らしが気に入っていたのか、その後も何度か旅興行に出る。

二人の妻と三人の愛妾を持ち、七男五女の子福者だったが、複雑な状態であったため家庭内の揉め事も多かった。嘉永7年(1854)8月、大坂・京都を中心とした旅興行の途中、江戸から呼び寄せた八代目の自殺という不幸に見舞われる。

安政5年(1858)5月、6年ぶりに江戸へ戻り、市村座に出演。安政6年(1859)中村座で『根元草摺引』の曾我五郎を演じたのを最後に、3月23日没(69歳)。俳名を、三升・白猿・夜雨庵・二九亭・寿海老人・子福長者。小柄で眼が大きく、弁舌優れ、荒事、和事、生世話、実悪、色悪、安敵、老け役、所作、女形を兼ね、三世尾上菊五郎との共演に名作が多い。当り役は、由良之助・松王・熊谷・実盛・長兵衛・和藤内・樋口・権八・光秀・伊右衛門・仁木・岩藤・山姥など。七男五女の子
福者であった。