長兵衛「お若えの、お待ちなせぇやし」
権八「待てとお止めなされしは、拙者のことでござるかな」
長兵衛「さようさ、鎌倉方のお屋敷へ、多く出入りのわしが商売、それをかこつけありようは、遊山半分江ノ島から、片瀬をかけて思わぬひま取り、どうで泊まりは品川と、川端からの戻り駕籠、通りかかった鈴ヶ森、お若えお方の御手のうち、あまり見事と感心いたし、思わず見とれておりやした。お気遣いはござりません。まぁ、お刀をお納めなせぇやし」
権八「こぶしも鈍き生兵法(なまびょうほう)、お恥ずかしゅう存じまする」
長兵衛「お見受け申せば、お若えのにお一人旅でござりまするか。して、どれからどれへお通りでござりまする」
権八「ご親切なるそのお言葉、ご覧の通り拙者めは、勝手存ぜぬ東路(あずまじ)へ、中国筋からはるばると、暮れに及んで磯端(いそばた)に、一人旅とあなどって、無礼過言の雲助ども、きゃつらはまさしく追い落とし、命をとるも殺生と存じたなれどつけ上がり、手向かいいたす不敵な奴、刀の穢れと存ずれど、往来(ゆきき)の者のためにもと、よんどころなく、かくの仕合せ、雉子(きじ)も鳴かずば討たれまいに、益なき殺生いたしてござる」
長兵衛「はて、大丈夫、斬られた奴は六七人、あなた様はただお一人、ご若年の御手のうちには、感心致してござりまする。承れば中国からお下りと申すこと、ご生国はいずれにて、何の御用で江戸表へ」
権八「別して用事もござらねど、まましき母の謗り(そしり)により心に思わぬ不孝の汚名、故郷は即ち因州(いんしゅう)生まれ、父の勘気に力なく、お江戸は繁華と承り、武家奉公をいたさんと、仕官の望みに習わぬ旅、見受けますれば、そこ許には、江戸表のお方と見え、ご親切なるそのお言葉、ご覧の通り知るべきたよりもござらぬ拙者、お言葉に甘えお頼み申す。なにとぞお世話くだされば、忝う存じまする」
長兵衛「お身の上の一通り承りまして、ことによったら引き受けて、お世話いたすまいものでもござりませぬが、往来端に犬の餌食、口外はいたしませぬ。お気遣いなされますな」
権八「さすがは江戸気のお言葉、つまずく石も縁の端、力と頼むそこ許の、ご家名(けみょう)聞かぬその先に、名乗る拙者が姓名は因州の産にして、当時浪人白井権八と申す者」
長兵衛「すりゃ、お若いのには権八さまとな」
権八「して、その許のご家名は」
長兵衛「問われて何の某(なにがし)と名乗るような町人でもござりませぬ。しかし、生まれは東路に、身は住み慣れし隅田川、流れ渡りの気散じ(きさんじ)は、江戸で噂の花川戸、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)という、いやもう、けちな野郎でござります」
権八「すりゃそこ許が中国筋まで噂の長兵衛殿」
長兵衛「いや、その中国筋まで噂の高い正真正銘(しょうしんしょうめい)の長兵衛というのは、わしがためには爺さんに当たり、鼻の高い幡随院長兵衛、またその次は目玉の大きいわしが親父、その長兵衛だと思いなさると当てが違う。いや大違いだ、大違いだ。しかし、親の老舗とお得意さまを後ろ盾にした日には気が強い。弱い者なら避けて通し、強い奴なら向こう面、韋駄天(いだてん)が皮羽織(かわばおり)で鬼鹿毛(おにかげ)に乗って来ようとも、びくともするのじゃぁごぜやせん。及ばずながら侠客(たてし)のはしくれ。阿波座烏(あわざがらす)は浪速潟(なにわがた)、藪鶯(やぶうぐいす)は京育ち、吉原雀(よしわらすずめ)を羽がいにつけ、江戸で男と立てられた、男の中の男一匹、いつでも尋ねてごぜぇやす。陰膳(かぜん)すえて待っておりやす」
権八「ご親切なるそのお言葉、しからばお世話くだされ万事よしなに長兵衛殿」
長兵衛「よろしゅうごぜぇやす。こう請合った上からは親船に乗った気で落ち着いてお出でなせぃやし」
権八「何から何まで、御礼は言葉に」
長兵衛「なに、ちょっとやそっと、お世話したとて恩に着せるのじゃぁねぇ。そこは江戸っ子だ、さぁお出でなせぇ」
(解説)
四世南北が書き下ろした「浮世柄比翼稲妻」の一部がこんにち「鈴ヶ森」として残っている。歌舞伎の様式美を見るには格好の芝居である。
長兵衛は江戸っ子の総本山みたいな顔をして、とてもいい気なものですが、役者が照れたりしてはもうおしまいである。初代中村吉右衛門が台詞術が巧みな人だけに、彼の長兵衛にはうっとりさせられた。権八は音羽屋の家の芸である。亡くなった梅幸は近代では文句なしの権八だった。
私としては、今なら十二代目團十郎の長兵衛、菊之助の権八で観てみたい。
権八「待てとお止めなされしは、拙者のことでござるかな」
長兵衛「さようさ、鎌倉方のお屋敷へ、多く出入りのわしが商売、それをかこつけありようは、遊山半分江ノ島から、片瀬をかけて思わぬひま取り、どうで泊まりは品川と、川端からの戻り駕籠、通りかかった鈴ヶ森、お若えお方の御手のうち、あまり見事と感心いたし、思わず見とれておりやした。お気遣いはござりません。まぁ、お刀をお納めなせぇやし」
権八「こぶしも鈍き生兵法(なまびょうほう)、お恥ずかしゅう存じまする」
長兵衛「お見受け申せば、お若えのにお一人旅でござりまするか。して、どれからどれへお通りでござりまする」
権八「ご親切なるそのお言葉、ご覧の通り拙者めは、勝手存ぜぬ東路(あずまじ)へ、中国筋からはるばると、暮れに及んで磯端(いそばた)に、一人旅とあなどって、無礼過言の雲助ども、きゃつらはまさしく追い落とし、命をとるも殺生と存じたなれどつけ上がり、手向かいいたす不敵な奴、刀の穢れと存ずれど、往来(ゆきき)の者のためにもと、よんどころなく、かくの仕合せ、雉子(きじ)も鳴かずば討たれまいに、益なき殺生いたしてござる」
長兵衛「はて、大丈夫、斬られた奴は六七人、あなた様はただお一人、ご若年の御手のうちには、感心致してござりまする。承れば中国からお下りと申すこと、ご生国はいずれにて、何の御用で江戸表へ」
権八「別して用事もござらねど、まましき母の謗り(そしり)により心に思わぬ不孝の汚名、故郷は即ち因州(いんしゅう)生まれ、父の勘気に力なく、お江戸は繁華と承り、武家奉公をいたさんと、仕官の望みに習わぬ旅、見受けますれば、そこ許には、江戸表のお方と見え、ご親切なるそのお言葉、ご覧の通り知るべきたよりもござらぬ拙者、お言葉に甘えお頼み申す。なにとぞお世話くだされば、忝う存じまする」
長兵衛「お身の上の一通り承りまして、ことによったら引き受けて、お世話いたすまいものでもござりませぬが、往来端に犬の餌食、口外はいたしませぬ。お気遣いなされますな」
権八「さすがは江戸気のお言葉、つまずく石も縁の端、力と頼むそこ許の、ご家名(けみょう)聞かぬその先に、名乗る拙者が姓名は因州の産にして、当時浪人白井権八と申す者」
長兵衛「すりゃ、お若いのには権八さまとな」
権八「して、その許のご家名は」
長兵衛「問われて何の某(なにがし)と名乗るような町人でもござりませぬ。しかし、生まれは東路に、身は住み慣れし隅田川、流れ渡りの気散じ(きさんじ)は、江戸で噂の花川戸、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)という、いやもう、けちな野郎でござります」
権八「すりゃそこ許が中国筋まで噂の長兵衛殿」
長兵衛「いや、その中国筋まで噂の高い正真正銘(しょうしんしょうめい)の長兵衛というのは、わしがためには爺さんに当たり、鼻の高い幡随院長兵衛、またその次は目玉の大きいわしが親父、その長兵衛だと思いなさると当てが違う。いや大違いだ、大違いだ。しかし、親の老舗とお得意さまを後ろ盾にした日には気が強い。弱い者なら避けて通し、強い奴なら向こう面、韋駄天(いだてん)が皮羽織(かわばおり)で鬼鹿毛(おにかげ)に乗って来ようとも、びくともするのじゃぁごぜやせん。及ばずながら侠客(たてし)のはしくれ。阿波座烏(あわざがらす)は浪速潟(なにわがた)、藪鶯(やぶうぐいす)は京育ち、吉原雀(よしわらすずめ)を羽がいにつけ、江戸で男と立てられた、男の中の男一匹、いつでも尋ねてごぜぇやす。陰膳(かぜん)すえて待っておりやす」
権八「ご親切なるそのお言葉、しからばお世話くだされ万事よしなに長兵衛殿」
長兵衛「よろしゅうごぜぇやす。こう請合った上からは親船に乗った気で落ち着いてお出でなせぃやし」
権八「何から何まで、御礼は言葉に」
長兵衛「なに、ちょっとやそっと、お世話したとて恩に着せるのじゃぁねぇ。そこは江戸っ子だ、さぁお出でなせぇ」
(解説)
四世南北が書き下ろした「浮世柄比翼稲妻」の一部がこんにち「鈴ヶ森」として残っている。歌舞伎の様式美を見るには格好の芝居である。
長兵衛は江戸っ子の総本山みたいな顔をして、とてもいい気なものですが、役者が照れたりしてはもうおしまいである。初代中村吉右衛門が台詞術が巧みな人だけに、彼の長兵衛にはうっとりさせられた。権八は音羽屋の家の芸である。亡くなった梅幸は近代では文句なしの権八だった。
私としては、今なら十二代目團十郎の長兵衛、菊之助の権八で観てみたい。