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2012年6月28日 DIAMOND online
池上正樹 [ジャーナリスト
“大人の緘黙(かんもく)症”のリアル
ある特定の場面では何も話せなくなる「場面緘黙(かんもく)症」という症状については、以前も当連載で取り上げた(第108回参照)。
「引きこもり」の背景にある状態の1つとされながら、原因が精神疾患や脳機能障害では説明のつかない「緘黙症」。なかには、特定の場面だけでなく、家族を含めて、すべての場面において話すことができない「全緘黙症」になる人もいる。
最近わかってきたのは、そんな状態が長く続くことによって、社会的制約を受け続ける「大人の緘黙症」の存在だ。
幼稚園の女性教諭に怒られ
自信喪失、緘黙症に
かつて大手メーカーに勤めていた30歳代のAさんは、幼稚園生のときから緘黙症に苦しんできたという。
Aさんの場合、幼稚園に入園するまでは「活発な子どもだった」らしい。
「担任の女性教諭に怒られた記憶があるんですね。いま思えば、ブチ切れたような怒り方。自分としてはショッキングで、それまでの自信とかプライドが、すべて粉々になった瞬間でした」
緘黙症になる人は、そのきっかけを覚えていることが少ない。気づくと、周囲の人間関係にうまくなじめなくて、不安が強くなっているのだ。
Aさんは、何かで教諭に怒られたことによって、自信が崩壊。その直後から、自己表現ができなくなって、自分を出すことがなくなったという。
合唱の時間のときは、いつもバレないように歌うふりをして、周りに気を遣った。
小学校に入学してからも、国語の音読ができなかった。国語の時間、先生に当てられて、どう切り抜けたのかは、よく思い出せないという。
ただ、運動は、マットも鉄棒も得意だった。そのことは、自信につながった。
「遠足のとき、1人ぼっちで、お弁当を食べていたら、担任の先生が一緒に食べてくれました。その先生と信頼関係ができたことで、少し症状が改善して、国語の時間もしゃべれるようになったんです」
2年生のとき、Aさんは転校して、新しい環境に変わった。通常、環境が一新されたのをきっかけに、話せるようになることも多い。
「ところが、自分の中でまだ、話せるような準備が整っていなかったんです。クラスメートも、しゃべらない自分が珍しかったらしくて、“しゃべって”って、追いかけられたりしました」
新しい学級の担任の女性教諭からは、「なんで、しゃべらないの?」と責められた。歌のテストのとき、歌えなくてじっとしていると、廊下に出るよう、命じられる。
運動によって自信が積み重なったり、こうして自信が崩れたりの繰り返しだった。
3年生のとき、再び引っ越しで、学年の途中からクラスに入った。
「しゃべってやろうという気持ちがあったので、最初のうちは、頑張ってしゃべれたんです。でも、3日後には元に戻って、しゃべれなくなりました。勉強の進み方もまったく違う。算数がわからなくて、担任の先生にマンツーマンで教えてもらい、次のテストで満点を取ったら、クラス内にうまく入っていくことができました。そういう運の要素が大きい気がします」
他人と関わらないよう
自分の力だけで解決する傾向も
中学に入る頃から、普通のサラリーマンにはなれないだろうなと、漠然と感じていた。
自宅ではよくしゃべっていた。そのギャップがあまりに大きくて、自分はおかしいことを自覚し始めた。
それだけに、何かを忘れるとか、ミスをしないように生きてきたという。
緘黙症に詳しい関西外国語大学・国際言語学部学生相談室の成瀬智仁講師(臨床心理士)は、こう説明する。
「緘黙の人は、ミスをしないように生きている。他人に頼めればいいけど、他人に聞かないで済ませられるようにと、一生懸命に考えているから、しんどいんですね」
他人の助けを借りず、自分の力だけで解決しようと頑張るあまり、疲れてしまう。これは、引きこもる人たちにもほぼ共通する特徴だ。
大学時代の研究が認められ自信に
大学4年で話ができるようになる
高校に入学すると、クラスメートがグループ化して、完全に周囲から孤立した。
「クラスに入って、最初に声をかけられたとき、うまく反応できなくて…。そのうち、声もかけてもらえなくなりました」
学校へ行って、ただ授業を受け、家に帰るだけの毎日。その頃から、表情も固まってしまって、笑えない。クラスの集合写真も無表情。そんなキャラを演じ続けなければいけなかった。
ただ、高校へ行かないという選択肢も、なぜか頭に浮かばなかった。
成績は良くて、傍から見れば、大人しい「模範生徒」。学校で、問題視されることはなかった。
大学受験も、とくに問題なく、大学に入ることができた。
知り合いが1人もいないため、大学デビューのチャンスだったが、やはり大学デビューにも失敗する。
大学は理系のため、実験の授業があった。学生が1つの班に5~6人ずつ分かれ、順に実験をしていく。実験中、間違っているところがあると、「それ違う」と、ポロッと一言、言葉が出るようになっていた。
ただ、無駄話や世間話は、できずにいた。
大学4年になると、研究室の自分の机で研究する。
毎月、当番で、自分の研究内容を発表。皆で議論する。
「自分の感情を込めるのではなく、客観的事実を発表する状態なので、それほど抵抗がなかった。授業中、国語の音読を当てられて、決まった場所を読むような感じ。それに対して、教授や大学院の先輩、同期が質問してきて答える環境でした。そんなコミュニケーションに慣れていった機会がかなり大きかったように思います」
こうしてAさんは、緘黙の症状が少し良くなったのではないかと振り返る。
どういう準備が必要なのかは、いまもわからない。ただ、Aさんは「自信が積み重なっていって、ある閾値を越えた状態で、いい環境にポンと入ると、改善されるのではないか」と指摘する。
「ある閾値を越えていない状態で、いい環境に入ったとしても、何も起きない。また、研究室の教授が、僕の研究内容にいい評価をしてくれたことが、自分の中では、かなりの自信の積み重ねにつながった。誰かから認めてもらうことで、自信の積み重ね度合いが上がって、エネルギーが閾値を越えていく。かつしゃべりやすい環境の中に置かれたことがそろって、大学4年生のとき、話ができるようになったんです」
仕事はできても会社になじめない
大手メーカーに就職も拒絶反応が…
その後、大学院に進んで、同じ研究室で2年間過ごした。
就職も、大手メーカーから求人がたくさん来ていて、推薦で大手メーカーへの入社も決まった。
ただ、初めて企業の社会に触れて、拒絶反応が起きたという。
新入社員約800人のうち、Aさんの配属された事業所にも、約100人の同期がいた。
「何かおかしい。このまま働いていて、いいのだろうかという不安がすごく大きくなって、軽いうつ状態になったんです。ここで、この仕事を、あと40年続けるのか…みたいな」
Aさんは、仕事能力には問題なかった。上司への報告、連絡、相談は、確実に、もれなく行うことができた。
会社からも、Aさんは高く評価されていたという。仕事をやれる自信もあった。
社会に対しては「なじめない。相容れないところがある」とAさんは言う。
「社会にうまく適応できない。幼稚園から大学4年のときまで、ずっと1人でやってきた。社会の中にいたけど、孤立して生活していたようなもの。急に社会の内部に組み込まれたときに、拒絶反応が起きる。組織の歯車化しちゃうんです」
自分の価値は何なのか。結局、考えてはいけない方向に、どんどん負のスパイラル化していくのだという。
病院へ行くと、「ストレス反応性抑うつ状態」と診断された。
最近、騒がれるようになった「新型うつ」とレッテル貼りされる人たちの出現と、その社会的背景は同じなのだろう。社会の仕組みそのものが時代に合わなくなっているいま、希望を持ち続けるほうが難しい。
「会社の組織になじめない」というのは、社会から離脱していく人たちが共有する思いだ。
「普通の人は、会社にポンと入っても慣れることができる。僕みたいに社会適応が育っていない状況の人だと、ポンと入れられても、拒絶反応が先に来て、心身を崩してしまうことがあるのではないか」
Aさんは数年前、ネットで「場面緘黙症」の記述を見て、自分が学生のときの症状と重なり、同じような人たちが数多くいることを知り、なるほどと納得。当事者や家族らが集まる「かんもくの会」に入会した。
緘黙の期間が長いと、それだけ社会との段差も高くなる。
「30歳を過ぎると、就職先がない。日本には、眠っている人たちが、たくさんいる」というAさん。いまも自分の働ける場所がどこにあるのか、探し続けている。
5月20日に長野県上田市の長野大学で開かれた緘黙症の集会には、全国から当事者や家族、支援者、教師ら50人余りが集まった。
次回集会は、7月14日(日)午後1時から、同じ長野大学で開かれる。