特攻隊の知覧です
こんな本が出ていた
二十歳前後で出撃していった特攻隊の方々の事を思うと・・・・・
もっともっと頑張ってもいい、自分のためでも世間のためでも・・・・
好きな日本のため、残していく家族のため、山や川のため、お世話になったみんなのため
ならばと出撃した。 先の日本のため「お国のため」!
そうなんだろうなと思う。
父は、予科練を出て二十歳のころ鹿児島の鹿屋(海軍の特攻基地)で覚悟をしていたそうです。
そろそろかなとおもっていたころ、突然霞ケ浦の土浦航空隊に転属になって終戦を迎えた、同期はほとんどいってしまったと言ってました。
癌で死ぬ少し前どうにか歩けたとき、どうしても鹿児島に行くといって母が付き添って鹿屋と知覧をまわってきました。
知覧峠の登りから見える鹿児島湾の上を指差して「あそこを飛んだんじゃ!」といい、知覧の記念館ではひとり遺書を読み長いこと写真を見てひざをついて泣いていたそうです。
「なにゅう聞いても泣くだけで聞けんかったんでぇ」と母が言ってた
帰って入院し、看病する母が「特攻にいかにゃいけんときまったときゃつらかったろうなぁ!怖かったろうなぁ!」と話したらボソッと「なぁんにも思わなんだぁ」と言ったそうです。
そうかもしれませんね!
覚悟決めたらなんにも思わんで・・・・残ったもんがなんじゃらかんじゃら・・・・言うとるだけ
覚悟決めたらやっちゃらなぁおえんでぇ・・・
自分も知覧にまた行こうと思う。
こんな本が出ていた
二十歳前後で出撃していった特攻隊の方々の事を思うと・・・・・
もっともっと頑張ってもいい、自分のためでも世間のためでも・・・・
好きな日本のため、残していく家族のため、山や川のため、お世話になったみんなのため
ならばと出撃した。 先の日本のため「お国のため」!
そうなんだろうなと思う。
父は、予科練を出て二十歳のころ鹿児島の鹿屋(海軍の特攻基地)で覚悟をしていたそうです。
そろそろかなとおもっていたころ、突然霞ケ浦の土浦航空隊に転属になって終戦を迎えた、同期はほとんどいってしまったと言ってました。
癌で死ぬ少し前どうにか歩けたとき、どうしても鹿児島に行くといって母が付き添って鹿屋と知覧をまわってきました。
知覧峠の登りから見える鹿児島湾の上を指差して「あそこを飛んだんじゃ!」といい、知覧の記念館ではひとり遺書を読み長いこと写真を見てひざをついて泣いていたそうです。
「なにゅう聞いても泣くだけで聞けんかったんでぇ」と母が言ってた
帰って入院し、看病する母が「特攻にいかにゃいけんときまったときゃつらかったろうなぁ!怖かったろうなぁ!」と話したらボソッと「なぁんにも思わなんだぁ」と言ったそうです。
そうかもしれませんね!
覚悟決めたらなんにも思わんで・・・・残ったもんがなんじゃらかんじゃら・・・・言うとるだけ
覚悟決めたらやっちゃらなぁおえんでぇ・・・
自分も知覧にまた行こうと思う。