母の死1

2024年04月28日 19時35分00秒 | 巻二 起居注
どうやらまったく。
暑い日々が続く4月下旬。

世の人はよく口にする。四季から春と秋がなくなったかのようだと。
何となくそれは分かる気がするけれども。


私が生家から離れて暮らすこと30有余年。
少なくともこの10年くらいは、帰省する機会が年に3回程度だったと思う。

年末、5月の連休、盂蘭盆会。


こんなことを考えたことがある。
あとどのくらい、年老いた(後期高齢者に突入した)両親に会うことが出来るのかと。
一回の帰省で生家滞在は概ね3日から4日。
つまり、年にだいたい10日ほど。

10日かあ、、少ないな、と思った記憶がある。

残りの人生で何回桜の花を見ることが出来るだろうかという言い方もされるように思う。

そんなカウントダウン、齢50を超えるとわかる気がするんだよね。なんとなく。

この列島から春という季節が消えたとしても、恐らく桜の花は毎年咲くのだ。

誰かがそれをカウントしているなどと知る由もない桜の木々が。


母が亡くなった。
19日の金曜日、午後3時16分。
しかしそれは医師が死亡確認を行った時刻であり、付き添っていた私が見る限り母の身体に接続された機器の反応が明らかに途絶えたのは、午後3時10分だった。


母がこの世を去った。
それは突然の出来事だった。

私がこのゴールデンウィークもいつものように帰省しようと目論んでいた事からも、それは予想外の出来事であったことが分かる。

昨年大病を患ったが見事に完治し、年齢の割に元気すぎるくらい元気であった。

後で知ったのだが、亡くなることになる日の翌日、その週末に、私の両親は弟の妻の両親とともに4人で青森へ桜見物に出かける予定だったというのだ。

翌日からの旅行に備え、浮かれ気分の母は着ていく服を選んではハンガーに吊るしていたという。
そのハンガーの部屋、そこにある仏壇に、今は母の遺影が置いてある。



取り急ぎ親しい人たちを呼んでくださいと、医師が父に非情な通告を行ったのは19日の朝。

まもなく職場にいた私のもとにもその報が届き、訳が分からぬまま(そしてある種の覚悟をしつつ)新幹線に乗ったのだった。

これから何が起こるのか、薄っすらとは理解しつつも、その結末をはっきりと意識しようとはしなかったように思う。

怖かったのかも知れない。
分からない。
既に桜の花はほとんど散り去っていた。
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