Dream-Speaker

有縁の方々のインタビューを通じて、共感と共有の種を播き、育てたい。

ここにおるんじゃけえ。映像作家・下之坊修子さんインタビュー2

2010年11月08日 | インタビュー
どんな社会をつくるか


――作品冒頭で、広島は24時間介護になったとありますが、他の都市は?

下之坊さん ないそうですよ。広島のサービスは、障がい者が勝ち取ったもの。しかし、24時間介護を勝ち取ったのが本当の自立だったのかと言う問いかけもある。介護する側とされる側の人間性について、人間関係のきしみもあるという。24時間介護によって、本当の自立とは何かと突き付けられている。という話です。

――介護保険制度がはじまって1年後に介護施設を取材したことがありますが、当時は、入所者がありがとうを言わなくなった。という話をよく聞きました。してもらって当然という風潮が広まった時代でした。

下之坊さん バリアフリーも問題ですね。車いす利用者が階段を上りたかったら、階段があっても、皆で抱えればそれで済みますよ。抱える環境があれば、それで事足りる。スロープを付けたので、後は勝手にどうぞ。では困るし、介助した側に「助けてあげた」という自意識が強くても困る。程よい関係が必要ですね。

――なんとなく、生きにくい感じ。というのは感じますか。

下之坊さん 人の考え方に余裕がないと思います。グレーゾーンの幅がなく、そして許容量も少ない。白と黒しか選べないので、人を許すことができない。人を許すのはグレーゾーンにある世界だから、そこが狭い人は何も許せなくなる。深い息ができないと言い変えたほうが分かりやすいでしょうか。日本では、目の前で戦争が起きているのでもなく、目の前で餓死するのでもない。それなのに余裕がない。経済的に、追い詰められていることもあるのだろうが、それ以上に、人間としての余裕がない。皆、浅い息しかできていないように思う。これは自分も含めてのことですね。

相手の気持ちを知るために

――佐々木さんは何をするにも時間がかかります。ご飯を食べるだけで大仕事です。ビジネスマンが佐々木さんの隣で食事をする機会があったとしたら、佐々木さんが箸をつけるかつけないかのタイミングで、ビジネスマンは自分のご飯を食べ終えて出ていくでしょう。食事ひとつをとっても、それくらい、佐々木さんと普通の人では意味が違う。


下之坊さん だから彼女は物事を見据えているし、時間をかけて判断していますね。相手に伝えるときに、たくさんの言葉を浴びせることができない。ひとことで相手に的確に伝えないと自分は生き延びれないところにいるので、ものすごく大切に言葉を選び、話している。
 コミュニケーションの仕方はすごく考えている。私たちは逆に損しています。何でもできるから大切なことを放置して、どうでもよいことに時間を使う。彼女は本当にしなければならないことをやっている。
 私の知人に面白い人がいました。気管支切開をした女性で中国新聞の記者をやっていた70代後半の人です。彼女は「何もかもできなくなればなるほど、できるようになる」と言いました。「死ぬことは、生きることだ」ということ。当時は意味がわからなかったが、今は理解し始めています。何でもできる状態ではなくなることで、逆に、やらなければならないことをしっかりとやっていこうと気持ちに変わっていく。
 佐々木さんの場合、やりとりをしている時は断片的で何を言っているかわからなくても、編集段階で言葉を拾い直すと、初めから一貫して同じことを言っているのがわかる。
 一つのことを話すのに私たちは、あれやこれと引き合いに出してくる。彼女ははじめから「それだ」と、答えだけを指して言い続けていたのです。これに気づいたときはショックでした。

――それが、作品を観ながら面白いと感じていたことです。ナレーションの文章が佐々木さんの言葉にきれいに重なっている。間違わずに重なっているのが面白い。あれはどうやったのですか。文字を読みながら耳で佐々木さんの言葉を聞くと、まさにぴったりのタイミングで文章が当てられているのが分かるが、編集段階は音しかないわけです。さきほど話題に出したY電機でのやり取りでも良いですが、佐々木さんの言葉をきれいに文字にしている。耳だけで佐々木さんの言葉を確認したら、これほど適切には理解しないはずです。

下之坊さん 編集では、ビデオを何度も繰り返して聞いた。それでもわからないので、最終的に専門家に音調整してもらったら浮き出てきた言葉もありました。何度もやるうちに分かってきたことも多いですね。
障がいを持ったままでできること

――私は作品を観たのち、介護の専門家の先生とも話をしました。そして賛同を得たアイディアですが、Y電機ならY電機に、佐々木さんたちが講師としてそのまま登壇していくような道は探せないでしょうか。
 というのが、障がい者が社会に出ようとしたら、簿記でも何でも、何かの資格を得たりする。何か特技を得てそれをもとに突破口を開こうとする風潮が強い。私はこれはおかしいと思っています。特技があってもなくても、社会に出てきているべき。日常の生活が難しい、できないというままで出てきてくれることが、ありがたい。そういうのが本当の人間性。できないということに根差している人がそのままの身体で、ありのままの講演などをしてくれたら、よく伝わる。「今まで知らなかった人」は頭や心をガツンとやられる。

下之坊さん 車いすの補助などを、熟知した健常者がノウハウとして話すのと、車いすに乗っている当事者がそのまま「私はこうしてくれた方が良い」と言うのとでは、体温が違う。説得力もあるだろう。私も車いすに乗って体験をしたことがあるが、もう怖くて怖くて落ち着いて乗っていられない。電車に乗る時など想像以上に怖いはず。ああいった感覚はやはり体験者にしかわからない。

市民メディアは面白い

――障がい者団体との交流は。

下之坊さん 交流する団体は増えてきました。私は市民メディアを提唱しています。カフェ放送という小さな上映会を積み上げてきました。誰もが映像を使って発信できる環境を作りたかったのです。私の場合は、一般メディアなどでの女性の描写が、等身大の女性像とはかけ離れていることに違和感があって、自分たちで言わないとだめなのだと分かったので、当事者が発信しようと呼びかけています。車いすユーザーならば、車いすユーザーが発信するべき。セクシャルマイノリティの人々は、同じく自分たちが作品を作って発表してください。と言っている。そういう流れで、車いすユーザーが作品を出展してくれるようになってきた。そんなつながりが増えてきました。
 以前に、てれれに出品された作品の主人公に、全盲の人がいました。この人はパソコンの専門家で何でもできる。しかし、就職試験を受けても通らない。不採用通知が山のように積み上がったという話をしていました。これはもう、本人の技術・知識の有無ではなくて、全盲の人を採用する社内の体制がないなど、本人の仕事とは全く関係のない要素で不採用なのでしょうね。
 この人がてれれの上映会に参加された。他の人の作品を観ながら(聞きながら)、「●番目の作品は退屈だった」とか「●●のシーンはドリフターズのコントのようだった」など、実に的確に感想を述べられて、集まった方々と大いに会話が盛り上がりました。
 私は最初、「皆は観えるから楽しんでいても、この人だけ楽しめなかったら申し訳ない」と思って遠慮する気持ちがあった。しかしきちんと観てくださっていた。大いに場が盛り上がり、「目が見えない。耳が聞こえない。ではなくて、一緒に共有する場を持つことが重要なのだ。伝わるものは伝わるのだ」と言うことを教えられました。市民メディアという活動で、そんな垣根を越えて集まることが、私の人生を豊かにしてくれています。


――市民メディアとユーチューブなどはどう違いますか。

下之坊さん 正確な定義はないと思います。テレビの全国ネットのような大きなメディアに対しての小さなメディアという意味で考えています。私の場合は、「生活者の立場で出てきた映像を皆で見る」と言うのが基本。そこに住んでいる、その当事者が話をする。という表現が大事。本当の意味での社会を写すのは、こういう作品ですから。
 たとえば、出展作品の一つに、セミの孵化を撮っている作品がありました。セミが時間をかけて孵化しているので、画面としてはそれだけですが、「あんた何してんの」「セミ撮ってるねん」「ああ、子どもの頃によう観たわ」というようなたわいもない会話がどんどん展開されていく。入れ替わり立ち替わり人々がセミについて話をしている。という、非常に面白い作品があった。人ってこんなに面白い会話をするのか。と感動したものです。
自分で考える

――市民メディアという発想は、マスメディアに盲従することの危険性を認識することにもつながる。あるいは、自分で考える癖を取り戻すという可能性もあります。

下之坊さん マスメディアの功罪ですね。無自覚になるとこわい。今はメディアの流す情報に対して無自覚の人が多いでしょうね。
 市民メディアは、テレビ番組よりも面白い。表現は確かにマスメディアの方がこなれていますが、テレビ番組よりも面白いことがたくさんあります。たとえば、車いすユーザーがカヌーに乗って桜を見に行くという作品がありました。「わあ、こんなところに(ゴミとして)テレビが落ちている。こんなところにほったらあかんやん」などと言いながら進んでいく。でも途中で日が暮れて帰ってしまう。本人は写ってなくて、本人が写す風景、事象のみです。
 この作品を観た人たちからは「障がい者という存在は、メディアで報道された時点で頑張っている人のことになる。こんなたわいもない話をしながらビデオを撮る障がい者もいるんだ。私たちと何も変わらないんだということが分かった」といった声が寄せられました。障がいの有無に関係なく、楽しみを見つけて、楽しみながら生きるのが人間という当たり前のことに気づいてもらえた。それってすごいことなのです。障がい者と接したことのない人にとって、彼らは特別な存在。しかし、自分と何も変わらないことを知ってもらえる良いきっかけになりました。
 また、発達障害の子に映像の撮り方を教える機会がありました。お母さんたちは「うちの子は人と話すのが苦手です」と話していた。まず「1.2.3」という数を撮影しましょう。というお題をあげてみると、その子は食堂で働くおばさんに声をかけ、1人、2人、3人と撮影しました。その時は、ポーズなどについてもいろいろと注文をつけながら撮影を進めていました。私はそれを見て「この子のどこが、人とコミュニケーションをとれないのだ」と思いました。何の問題もない。うまくコミュニケーションできているのです。表現する楽しさを味わったことで、その人が本来持っている魅力が引き出されたのです。表現にはそんな面白さがある。そして、その表現を皆で共有できることが良い。
 人の表現を知ることで、その人の奥行きなどを理解して、より付き合いも深まる。だから、市民メディアは面白い。
 佐々木さんのおっしゃる通り、「人って面白い」のです。

 Fin.



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