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ケミンダ師のお別れ会、実行委員八坂和子さんのあいさつ

2012年03月04日 | 議事録
実行委員八坂和子さんのあいさつ

3月3日、門司の門司倶楽部でケミンダ師のお分かれ会が開かれ、参列させていただいた。





会は、駐日ミャンマー連邦共和国大使キン・マウン・ティン氏、日本の各宗派の僧侶、戦友会、遺族会関係など、ケミンダ師とゆかりの方々が集った。京都の壬生寺貫主で奈良・唐招提寺85世長老の松浦俊海師による「共結集縁」と題した記念講演も行われた。


壬生寺貫主・松浦俊海師(左)。ビルマ釈迦堂で有名な佛照寺(茨城県土浦市)の鴨崎仁彦師(右)とは同級生でともにミャンマーに行かれた仲。



ただただ泣きながら献花をされる方々の姿があり、ケミンダ師がいかに愛されていたのかが良く分かる会だった。



最後にあいさつをなさった実行委員の八坂和子さんの言葉がとても美しかったので、ここに記したい。


スピーチをする八坂和子さん。右はキン・マウンティン駐日ミャンマー連邦共和国大使

皆様、貴重なお時間をいただき、ウ・ケミンダ大僧正のお別れの会を実施できましたこと、感謝します。私はこのたび、ケミンダ師のことに関わらせていただくことになった時、師が日本各地に足を運んでおられたことを知り、驚きました。北は秋田県、南は鹿児島まで行脚されていた。遠方の方から「私の家に泊って、お食事も一緒にしました」とか「一緒に写した写真も大事に残していますよ」とか、思いがけない声をたくさんいただきました。
そして、本日、遠方から多くの方々がご参列されました。
これはケミンダ師の人徳、遺徳以外の何物でもないと思います。
そして私たちとミャンマーという国は大変に遠いのですが、でも、この場所で、ひとりの大僧正の存在によって一つになっていたのだと思います。
さきほど、ミャンマー大使が投地をして遺影に礼拝されました。はじめてご覧になった方も多いと思いますが、ミャンマーの方は、大僧正に対しては、膝をつき、丁寧に御挨拶をされる国です。そしてまた、お坊さんに対して敬意を持つ、大変に優しくて穏やかな人々の国です。

今日、この場に立たせていただいている私は、父・柳田桃太郎(元・自民党参議院議員、元・旧門司市長、2004年死去)がパゴダを建てなければ、皆さんとお目にかかる機会もなかった。パゴダを建てたというそれだけのことだったのですが、それが大きな波紋になって各地に広がっていきました。
日本とミャンマーのかけ橋になったということを、父の姿を通して、知ることができました。
何と申しますか、私は、実際のところ、今まで、「父のために」という想いで行動をしていたところがあります。ケミンダ師と私は年齢がかなり違うので、そうならざるを得なかった。でも、父とケミンダ師は最初から最後までずっと、つながっていた。
それがどういう御縁なのか分からないのですが、ケミンダ師の最期をみとったのは、私ただ一人でした。
異国の地にあって、病院のベッドに休まれ、しかも、酸素吸入のマスクをしておられる。
その傍らに立って、私はしみじみと思いました。なぜ、私はここにいるんだろう?と。
そしてまた、もし私がいなかったらこれは父がやっていたことなのだろうと思いながら、ケミンダ師のお顔を拝見していました。

ケミンダ師はミャンマーの方なので肌は浅黒かったのですが、晩年は真っ白になられました。最後の4、5年は足が悪く、腰が悪く、外に出られなかったので、肌が日本人よりも白くなっておられました。そして、とても辛抱強かった。
今日来られている関野さんも御存知でしょうが、本当に、お身体が悪いのに、絶対に人に頼らず、自分で歩行器を使って、自分でできることを自分でされていました。
救急車で運ばれるまでは本当に辛抱強く自立した生活を続けておられました。
そして病院のベッドに横たわり、本当に看護師さんにもよくしていただいた。身体も清拭していただきました。キレイになって横になられて背中が曲がっているので、横にと言っても仰向けにはならないのですが、横になって「はあ、安心した」と私におっしゃられました。
私は、「何かすることがあったら、おっしゃってください」と言いましたら、「私は僧侶ですから、皆さんの意のままに従います」と答えられました。
「僧侶は水と同じものです。水は、器によって形を変える。いろんな形になります。私は皆さんにお任せします」と続けられました。「本当に、そのようにして良いのですね」と尋ねると「その通りです」とおっしゃいました。
皆さんの中にも、誰かの最期を看取った方がおられると思いますが、「気管切開をしますか」「延命措置をしますか」というような、その人の命にかかわることについて、ギリギリのところで答えていかないといけません。そして、私は、眠ってらっしゃるのか分からないのですが、「延命措置を続けますか?」と尋ねましたら、静かに首を振りました。「じゃあ、しなくて良いのですか」と尋ねると「うん」とうなづかれました。

話せる時には話していましたので、ケミンダ師は「私の身体は、日本の遺族のために、役立ててほしい」とおっしゃいました。献体の申し込みをしているので、死後はここに電話してほしい。そして、葬儀、通夜、位牌も一切いらない。とおっしゃいました。

私もその様にさせていただくつもりでした。でも、各地のケミンダ師を知る方々から「何かして差し上げて下さい」「ケミンダ師のために何かしてあげてください」とたびたび、言われるようになりました。そして、その声が高まっていくものですから、今日の場も、ケミンダ師ご自身の気持ちとしては、「ええ、そんなこと、しなくて良かったのに」と思われるのかもしれませんが、あえて、実施させていただきました。

そしてこのことが、日本の国、ミャンマーの国が、今まであった僧院が無くなったことに対して、大変落胆しているということも気付きました。
ミャンマーの僧院を建てるために、ケミンダ師にはもうひと働きしていただきたいと思います。ぜひ、皆さんも、ケミンダ師の心を通して、パゴダ再建のための皆さんの力を貸してください。新しい僧院が完成したら、また、ここに集って、ミャンマーと日本のかけ橋に成っていただく僧侶にも来ていただきたいと思います。

ケミンダ師の最後の最後、そのお姿は、水が、大河ではなく、たった一粒の水滴が、涙。
一滴の涙が、大地にぽとっと落ちてあっという間に吸い込まれていった。何も物音がしない。「えっ?」と思う、まわりに医療の装置がなければ亡くなったことが分からないくらい静寂な旅立ちでした。
苦しむことなく、嘆くことなく、本当に静かな、美しいお顔でした。
そして、皆さんの心の中に生き続けるケミンダ師。
これからも尚、私たちに対していろんなお働きをなさることと信じ、この会を閉じたいと思います。
本当に、今日は有り難うございました。


当たり前のことだが、松浦師は人気者だ


ケミンダ師と20年来の友情を結び、支援し続けていた浄土真宗本願寺派布教使の松林浄蓉師と、鴨崎師。


ケミンダ師の身の周りのお世話をなさっておられた方と。私も知っている「ミカンの皮」の話題で盛り上がった。ケミンダ師がストーブの前でミカンの皮を乾かし、腸に良いからと言って食べておられたこと。お世話なさった方にしか分からない至福の時があった




松浦師が持参された50年前の写真。参列者の方々が食い入るように見つめ続ける。50年分の想いが、そこにあった




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1 コメント

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みゆき (miyuki28k@yahoo.co.jp)
2012-03-16 21:44:22
はじめまして!ハロッo(~∇~*o)(o*~∇~)oハローッ 初めてコメント残していきます、おもしろい内容だったのでコメント残していきますねー私もブログ書いてるのでよければ相互リンクしませんか?私のブログでもあなたのブログの紹介したいです、私のブログもよかったら見に来てくださいね!コメント残していってくれれば連絡もとれるので待ってますねーそいじゃ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★アドレス残していくのでメールしてね!そいじゃ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
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