暑いときは難解な本に取り組むのに限るというわけでもないのですが、「経済学古典の将来とその受容」というタイトルの京都大学の松田 博先生の著作を書棚から取り出しました。サブタイトルに━スミス『国富論』初版、マルクス『資本論』初版の所蔵状況を中心に━とあります。
以前、私が千々石ミゲルの本を出すとき表紙のデザインにミゲルの画像がほしくて、京都大学の図書館所蔵の天正遣欧使節の図像の使用許可をいただく斡旋を松田先生にお願いしたのがお目にかかったさいしょでした。
松田先生は古典籍研究会でも活躍しておられ、その後もいろいろ教えていただきました。その中でとくに参考にさせていただいたのは、少年使節が滞欧中、あるいは帰国直後に彼らに関する書物はヴァリニャーノが書いて使節たちが帰国する途中でマカオで出版した「遣欧使節対話録」以外、日本で出されたものは一冊もありません。おそらく切支丹弾圧の影響もあったのでしょう。
それに対してヨーロッパではローマ、ヴェネチュア、ミラノをはじめ各地で、使節がローマ法王の謁見を受けた1585年から16世紀中に日本の使節もの約80冊は出版されているといい、それらの書物の表紙だけのコピーを先生から頂戴したときは本当に驚きました。いかに、日本の少年使節の到来が当時のヨーロッパではセンセーショナルな出来事であったかです。
ところで、この有名な少年使節の図版ですが、ドイツのアウグスブルグで印刷された木版画で、京都大学の第11代総長浜田耕作博士がオランダのナイホフ書店で購入、所蔵されていました。1952年にご子息が京大図書館に寄贈されたといいます。
かなり高額な買い物だったらしいのですが、━7月25日ミラノ到着、8月3日出発の日本王侯㈣青年の来往━という記述があるそうですが、この肖像画のひとり、ひとりの名前が入っていたわけではありませんから、確定にいたるまで、かなり悶着があったようです。
ちなみに、中央は使節の補導役のメスキータ司祭,上段右が伊東マンショ、左が中浦ジュリアン、下段右が千々石ミゲル、左が原マルチノです。少年使節はドイツに行っておりません。オランダとも縁はありません。なのに、アウグスブルグの新聞がどうしてこの肖像画入りで記事にしたのか知りたいし、オランダの書店が高値で売ったのかも知りたいものです。この木版画を印刷したのはアウグスブルグのミヒャエル・マンガーで1586年とのこと。