鹿沼の川上澄生美術館を訪ねるまで、私の澄生に関する知識はあまりにも乏しかったのです。「天正少年使節」の絡みから、澄生の南蛮船やポルトガル人の風俗や文明開化を題材にした作品に惹かれていた程度でした。
今回、澄生の教え子で、コレクションした2000点の作品を鹿沼市に提供して美術館を誕生させた長谷川勝三郎氏のご子息のレクチュアーを直接、受けることが出来たのは実に幸運でした。大曲塾もヤルモンダ。
若い頃、生活体験があったというカナダやシアトルやアラスカの話から作品の底流にあるエキゾチックさが理解できましたしたし、青山学院の高等科で版画家合田清の子息と同級生だった話を興味深く聞きました。合田清といえば、明治20年代に「都の花」「国民之友」、「新小説」などの雑誌の木版墨刷りの挿絵を手がけていた生巧館の館主として印刷界でも知られた人のはずですから。
学校の帰りに、遊びに立ち寄って、合田清の作品や生巧館の手がけた版画挿絵をみせてもらったことが、澄生を版画制作によびこんだ?と、想像もできるのでは。
あと、ひとつ、びっくりしたのは、1944年、昭和19年という戦争末期に《いんへるの》という巻子版を銀箔や金箔に木版多色刷、手彩色で仕上げていたことでした。宇都宮中学の教師を退職して、北海道に疎開していた頃に重なりますが、あの時代を知っている私には不思議でした。
今回、澄生の教え子で、コレクションした2000点の作品を鹿沼市に提供して美術館を誕生させた長谷川勝三郎氏のご子息のレクチュアーを直接、受けることが出来たのは実に幸運でした。大曲塾もヤルモンダ。
若い頃、生活体験があったというカナダやシアトルやアラスカの話から作品の底流にあるエキゾチックさが理解できましたしたし、青山学院の高等科で版画家合田清の子息と同級生だった話を興味深く聞きました。合田清といえば、明治20年代に「都の花」「国民之友」、「新小説」などの雑誌の木版墨刷りの挿絵を手がけていた生巧館の館主として印刷界でも知られた人のはずですから。
学校の帰りに、遊びに立ち寄って、合田清の作品や生巧館の手がけた版画挿絵をみせてもらったことが、澄生を版画制作によびこんだ?と、想像もできるのでは。
あと、ひとつ、びっくりしたのは、1944年、昭和19年という戦争末期に《いんへるの》という巻子版を銀箔や金箔に木版多色刷、手彩色で仕上げていたことでした。宇都宮中学の教師を退職して、北海道に疎開していた頃に重なりますが、あの時代を知っている私には不思議でした。