コンスタンチノ・ドラードを追い求めて来た私としては、一にも、二にもドラードだけを持ち上げたいところですが、実際にキリシタン版を印刷したスタッフは?と考えますととても彼一人の力では出来ません。
ゴアやマカオでドラードたちに印刷技術を教えたのは、バプティスタ・ペスティエというイタリア人修道士であったことはわかっております。あと、ゴアで印刷に明るいブスタマンテ神父の指導も受けた(松久 卓氏)という説もあります。
いま、名前の残っている印刷従事者としては、ドラードやアグスティニョ、ミゲル市来たち、せいぜい5,6人ですが、恐らく最盛期には印刷所で、70人から80人は働いていたと思われます。
印刷機も3台はあったと思われます。これは、工業学校系、当時画学舎とよばれていた有家や八良尾、あるいは天草の志岐にあったセミナリヨで製造されたと考えるのが妥当です。
関ヶ原の戦いの頃、日本のキリシタン人口は30万人を超えています。その人たちが必要とする教義書の需要からいっても、キリシタン版の印刷態勢がどのようなものであったかもっと知りたいものです。それと、不思議なことに、印刷物の中に「聖書」は見つかっておりません。なぜでしょうか。
ゴアやマカオでドラードたちに印刷技術を教えたのは、バプティスタ・ペスティエというイタリア人修道士であったことはわかっております。あと、ゴアで印刷に明るいブスタマンテ神父の指導も受けた(松久 卓氏)という説もあります。
いま、名前の残っている印刷従事者としては、ドラードやアグスティニョ、ミゲル市来たち、せいぜい5,6人ですが、恐らく最盛期には印刷所で、70人から80人は働いていたと思われます。
印刷機も3台はあったと思われます。これは、工業学校系、当時画学舎とよばれていた有家や八良尾、あるいは天草の志岐にあったセミナリヨで製造されたと考えるのが妥当です。
関ヶ原の戦いの頃、日本のキリシタン人口は30万人を超えています。その人たちが必要とする教義書の需要からいっても、キリシタン版の印刷態勢がどのようなものであったかもっと知りたいものです。それと、不思議なことに、印刷物の中に「聖書」は見つかっておりません。なぜでしょうか。