「つばを飲みこむ間も、わたしたちを放っておかれない神」というところにも書いたのですが、わたしたちは「神さまがいるのなら何故」と嘆く一方、かといってもしいつも神さまが傍らにいて、「あ、おまえ、それはダメだぞよ」、「こうしなきゃいけないぞよ」なんて言おうものなら、「うっせえええっ!!このクソじじい。あっち行きやがれ。しっしっ!」みたいになるんじゃないでしょうか(^^;)
神さまっているのかいないのかわかんにゃい……でもこう考えていくと、いるのかいないのかわからないくらいのほうがちょうどいいのかな~なんて思ったりされる方もいるのではないでしょうか。
そして、イエスさまは、次のようにも言っておられます。
>>二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
(マタイによる福音書、第10章29~31節)
でも、わたしたちは思いますよね。
そうは言っても神さま、スズメだけじゃなく、鳥って結構交通事故とか色々なことで死んでるよみたいに。。。
=結局のところ、人だって似たようなものなんじゃないの~って、つい思ってしまうというか(^^;)
ある人は何かの不運なことで地に落ち、ラッキーな人は最初から色々な環境が整っていて比較的ラクに成功しているように思える……でも、スズメって人間の目から見ると何かこう「どこにでもいる」ってイメージで、そのうちの一匹二匹、あるいは十匹二十匹いなくなったからって、そんなに生態系に影響があるとも思えないな~とかってやっぱりつい思ってしまいますよね。
そして、人間も同じで、ある人は何かの珍しい綺麗な鳥として生まれ、「ま、俺たちなんかその他大勢のスズメみたいなもんだ……」と感じられる方って、結構多いのではないでしょうか。。。
>>もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら
私の生きるのは無駄ではない
もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ
一人の苦痛をさますことができるなら
気を失った駒鳥を
巣にもどすことができるなら
私の生きるのは無駄ではない
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊)
これはエミリー・ディキンスンの詩ですが、神さまは同じように、綺麗な珍しい鳥だけを大切にするというのではなく、「その他大勢」、「どこにでもいる珍しくもない鳥」である人々をも、御自身を知る方に対しては一羽一羽違う名前で呼んでくださるという、そういうことなんじゃなかな~と思ったりします(^^;)
それではまた~!!
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